2024年8月30日金曜日

2024年8月30日の聖句

主の計らいは代々に立つ。(詩編33:11)
キリストにあって私たちは、御心のままにすべてのことをなさる方のご計画に従って、前もって定められ、選び出されました。(エフェソ1:11)

今日の新約には「御心のままに」という言葉があります。もっと精確に言えば「神の御心」ということになります。神さまのご意志。この手紙で使徒パウロはこのことをとても大切にしているようです。手紙の冒頭でも既に「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」と、自分が使徒とされたのは神の御心によると証言しています。
あるいは、4節のところでも「天地創造の前に、キリストにあって私たちをお選びになりました」と言っています。これも「御心」と言うべき事柄です。神がその御心によって、天地創造の前に既に私たちを選び出してくださっていた。神の御心、神の計画によって、私たちは今このように生かされている。
聖書は本当にスケールの大きな事柄を伝えます。ある人がいることを考慮に入れた計画を、その人が生まれる前に立てることなどできません。この世に存在しない人に対する計画は、ただの空想に過ぎません。私たちには人の生・未生や生き死にを計算に入れることはできませんし、もしかしたらそれは許されないことなのかもしれません。ところが神さまはそうではない。私たちの命の造り主であり、それを保っておられる方は、私たちが生まれる前どころかこの世界を創造する前に既に私たちの命に対する計画を持っておられた。しかも、そのご計画は私たちをキリストにあって選び、救ってくださる計画です。
だからキリストにある神の計画は、私たちの思いを遙かに超えて大きく、広く、素晴らしい計画に違いありません。すべての人を神の愛に招く命と希望の計画を、神は備えてくださっていると私は信じています。

2024年8月29日木曜日

2024年8月29日の聖句

烏の子らが神に叫び求め、食べ物がなくてさまようときに烏に餌を備えるのは誰か。(ヨブ38:41)
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。(1コリント3:7)

誰も見向きもせず、気にも留めない烏の子。そのたった一羽の鳴き声に耳を傾け、小さな烏の子を養ってくださるお方がいる。神さまの御手は本当に大きく、慈しみに満ちています。私たちはその手の長さも力強さも、そしてそこにある大いなる慈しみも、究めることができません。私たちはただただ神様の御前に畏れをもってへりくだり、神の御業を仰ぎ、神をたたえるだけです。
「ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神なのです。」
これはパウロの手紙の中に出て来る言葉です。パウロがこの教会の最初の伝道に関わった。その後、アポロという別の伝道者がやって来てその働きを引き継いだ。パウロは植え、アポロは水を注いだ。二人とも、あるいはここに名前が記されていないたくさんの人たちも、自分に与えられた役目を果たし、神と教会のために仕えた。しかし、成長させてくださったのは神です。だから大切なのは成長させてくださる神さまに他ならない。
私たちには神さまの手の業を計り知ることができません。私たちの思いも、力も、計画も、遙かに超える神さまの御業。その果てを見極めることはできない。だから、私たちは神の御業を待ち望み、神を信頼して、自分に与えられた役目を忠実に果たします。どのようなときにも、何が起こっているときにも、神のご計画を信じて。

2024年8月28日水曜日

2024年8月28日の聖句

今こそ、心を尽くし、魂を尽くして、あなたがたの神、主を尋ね求めなさい。(歴代誌上22:19)
フィリポはナタナエルに出会って言った。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」(ヨハネ1:45)

私たちは今一体何を尋ね求めて生きているのでしょうか?私たちにとって、いちばん大切なもの、欠かせないものは一体何でしょうか?
フィリポは、主イエスとの出会いを喜んで、ナタナエルに伝えました。「私たちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」この方こそ私たちが尋ね求めてきたお方、この方こそ私たちの慕うべきお方!本当に喜んでそのことをナタナエルに伝えたに違いありません。このお方こそ、私たちの渇きを癒やしてくださるまことの神です。まことの神に出会った。その喜びがほとばしるような言葉です。
私たちもフィリポと一緒に信じましょう。主イエス・キリスト、この方こそモーセも預言者たちも求めてきた救い主!この方こそ私たちの魂の渇きを癒やしてくださる救い主!ここに救いがあるのです。私たちはもう決して他の所に救いを求める必要はないし、このお方の下さる命の水をしっかりと飲みたいのです。日ごとに!
この救いを求めている人が私たちの周囲にもたくさんいます。まだそのことを、その人は気付いていないかもしれません。主イエス・キリストに示された神の愛が必要ない人はいないと私は信じています。キリスト。このお方を、今こそ尋ね求めましょう。

2024年8月27日火曜日

2024年8月27日の聖句

主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせる。(詩編19:9)
イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(ルカ11:28)

首や腰が痛くて整骨院に行って治療して頂くと、自分がどんなに姿勢が悪かったのかということに気付かされます。意識しないと良い姿勢を保つのはなかなか難しい。悪い姿勢の方が楽な気がしてしまいます。ところが本来は、体にとっては良い姿勢でいることの方が自然だし、体そのものにとっては楽なはずです。悪い姿勢が癖になってしまうと、体がおかしくなってしまいます。
「主の諭しはまっすぐで、心を喜ばせる。」私たちの心の姿勢を整えるのは、主の諭しです。神さまの言葉、神のご命令に従って生きるとき、私たちは本当の自分らしさを取り戻す。本当に私らしく生きることができる。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」
体の姿勢も同じですが、自分の心がけや根性でそれを正そうと思っても、すぐに疲れて厭になってしまいます。長年かけて身についた癖はなかなか直らないし、体や心の構造が歪んでいたとしたら、心がけではなく治療が必要です。私たちの「心の歪み」を治すのは、キリストの愛だけです。主イエス・キリストのご慈愛が私たちをまっすぐにする。「主の諭し」、それをキリストは愛の律法として教えてくださいました。私たちに愛することを求めるお方は、私たちに先んじて私たちを愛してくださったお方です。私たちに神の愛を告げる神の言葉が、私たちの心をまっすぐにする。私たちの心を柔らかくします。
主イエス・キリストの十字架の言葉によって、私たちの心をまっすぐにして頂きましょう。私たちの歪み、固まった心を、主イエスさまの限りない愛によって柔らかくして頂きましょう。

2024年8月26日月曜日

2024年8月26日の聖句

あなたは死から私の魂を、躓きから私の歩みを救いだしてくださいました。神の前、命の光の中を進み行くために。(詩編56:14)
(イエスは)子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。(マルコ5:41~42)

私たちはやがて眠りに就きます。私も、あなたも。そして愛する人も。長い眠りです。しかしその眠りは永遠の眠りではありません。私たちは「永眠」という言葉を使いません。必ず、主イエス・キリストが私たちの手を取って起こしてくださいます。「タリタ、クム」と言って。「少女よ、起きなさい!」私たちの耳にもキリストの言葉が響き、私たちが死の床から起こされる復活の朝が必ず来ます。
「あなたは死から私の魂を、躓きから私の歩みを救いだしてくださいました。神の前、命の光の中を進み行くために。」
キリストは私たちの魂を死から救いだしてくださいました。それは私たちが神の御前に生きるためです。私たちが命の光の中を進んでいくためです。神の光の中に生かすために、キリストは私たちを起こしてくださいます。
今日も、私たちは命をいただいて新しい一日に出発します。キリストの下さった命を、私たちは今日も生き始めています。キリストの光の中に私たちの一日も置かれています。ですから歩きましょう、共に。神の光の中を!

2024年8月25日日曜日

2024年8月25日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。(マタイ25:40b)

今日の聖句:
(主よ、)あなたに感謝します。あなたは私に答え、私の救いとなってくださいました。(詩編118:21)
これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。(1テモテ2:3~4)

神は、すべての人が救われることを望んでいてくださいます。私のことも、あなたのことも、神は救い出すことを望んでおられる。聖書はそう言います。いやそれどころか「すべての人の救い」です。私たちの思いを遙かに超えて、すべての人が神に救われ、真理を認識するようになることを望んでおられるのです。
私たちは、自分の理解できるところや自分の手の及ぶところだけに、神さまの御業を小さく、狭く留めてしまいがちです。しかし神さまの御業はもっと大きく、もっと広く、果てしない。すべての人の救いをお喜びになる方は、そのためにご自分の御子をも私たちに与えてくださるお方です。
私たちは喜んでこのお方を礼拝します。このお方の救いをほめたたえて、私たちは喜んで賛美します。私の救い、私の望みでいてくださる神の御前に、私たちは今祈りを捧げているのです。

2024年8月24日土曜日

2024年8月24日の聖句

見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。(ゼカリヤ3:4)
父親は僕たちに言った。「急いで、いちばん良い衣を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足には履物を履かせなさい。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」(ルカ15:22,24)

私たちの父でいてくださる神さまは、私たちをご覧になって言ってくださいます。「この息子は、この娘は、死んでいたのに生き返った!」私たちは神に対して死んでいました。この息子と同じように神を捨て、神の御前から姿を消していたからです。しかし、惨めに帰って来たこの息子を喜んで迎え入れ抱きしめてくださった方は、私たちをも同じようにしてくださいます。「わたしの子よ、お前は死んでいたのに生き返った!いなくなっていたのに見つかった!」
死んでいたのに生き返った者に、神は、「いちばん良い衣」を着せてくださいます。「見よ、私はあなたの過ちを取り除いた。あなたに晴れ着を着せよう。」神さまは、ご自分の前にふさわしい装いを私たちのために準備してくださって、私たちに晴れ着をまとわせてくださいます。
私たちのために神が準備してくださった最高の晴れ着、それは主イエス・キリストご自身ではないでしょうか。「主イエス・キリストを着なさい(ローマ13:14)」と聖書は私たちに命じます。これまでとは異なる新しい服をまとって、新しい存在として生きる道が私たちのために準備されている。別の箇所でもパウロはキリストを着た者についてこのように言っています。「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。・・・さらに、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯です。(コロサイ3:12,14)」主が私たちに装わせてくださった晴れ着を着て、今日生きていきましょう。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...