2024年9月30日月曜日

2024年9月30日の聖句

アブネルはヨアブに呼びかけて言った。「いつまで剣で決着をつけようとするのか。悲惨な結果になることが分からないのか。」(サムエル下2:26)
イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)

「いつまで剣で決着をつけようとするのか。悲惨な結果になることが分からないのか。」本当にその通りです。しかし、私たちは剣を取ったら剣で決着をつけねばと思うようになるし、相手が剣を取っていれば剣で対抗せねばと思ってしまいます。しかし、それは悲惨な結果にしか至りません。歴史をひもといても、現に今世界で起こっていることを見てみても、それは明らかです。何よりも主イエスさまが断乎としておっしゃいます。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」私たちが手に握る剣は、やがて私たち自身を滅ぼしてしまう。
もちろん、21世紀の日本で生きる私たちが実際に「剣」を手にすることはないでしょう。ピストルを持つことだって私たちにはないし、拳で人を殴ることだって一生経験しない人がほとんどでしょう。しかし、例えば言葉で相手を殴りつけてしまうことはあるかもしれません。態度で相手を攻撃することも起こっているかもしれません。私たちも私たちなりの「剣」を握りしめているのかもしれない。しかし、剣を取る者は剣で滅びるのです。
主イエスさまは私たちに和解の福音を託してくださいました。和解は、相手への関心とへりくだりの愛に始まるのではないかと思います。相手を知る努力をし、相手の心に寄り添う道を探る。主イエスさまが私たちにしてくださったことです。キリストをまねたいと切に願います。

2024年9月29日の聖句

今週の聖句:
神を愛する者は自分のきょうだいも愛すべきです。これが私たちが神から受けた戒めです。(1ヨハネ4:21)

今日の聖句:
あなたがたは見知らぬ者を自分のように愛しなさい。(レビ19:34)
そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。(コロサイ3:11)

今週の聖句で「自分のきょうだいも愛すべき」と言われている「きょうだい」は、私たちの思いを超えて大きく広がります。主イエスのなさった「憐れみ深いサマリア人」の話がまさにそうです。主は、私たちが誰かの隣人になるという話をなさいました。どこまでが隣人なのかという境界を定めようとする私たちにその境界を飛び越えさせて、隣人になることを教えてくださった。この「自分のきょうだい」も、ここまで愛せば自分の愛は十分と言えるという範囲を作るための言葉ではないでしょう。
「あなたがたは見知らぬ者を自分のように愛しなさい。」この言葉が既に旧約聖書に登場していることに驚きを覚えます。しかしはっきりとそのように言っている。私たちはキリストにあって愛の境界を乗り越える恵みにあずかっています。「そこには、もはやギリシア人とユダヤ人、割礼のある者とない者、未開の人、スキタイ人、奴隷、自由人の違いはありません。キリストがすべてであり、すべてのものの内におられるのです。」

2024年9月28日土曜日

2024年9月28日の聖句

私の口が語ることと心の思いとが御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。(詩編19:15)
マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。(ルカ2:19)

マリアの胎に宿った赤ちゃんが生まれました。その夜の内に野原で野宿をしていた羊飼いたちがやって来ました。彼らは口々に言ったのです。天使が現れて自分たちに言ったのだ、今日メシアがお生まれになった、と。私たちのための救い主が飼い葉桶に寝ている!すると、突然天の大軍が現れて神を賛美した。それで、私たちはお生まれになった救い主にお目にかかるためにここまでやって来たのだ、と。
マリアはこの不思議な出来事をすべて心に留め、思い巡らしました。マリア自身、数ヶ月前に天使の来訪を受けました。身ごもって男の子を産む、神はその子に父ダビデの王座をくださる、と言ったのです。天使の言葉を再び心に深く刻んだに違いありません。そして、羊飼いが口にする言葉を誰よりも喜んだに違いありません。マリアはこうして始まっている主なる神さまの御業を心に留め、思い巡らしていました。
私たちの心には一体何が詰まっているでしょうか?私たちの思いは何で満たされているでしょうか?私たちの口をついて出て来るのはどのような思いで、どのような言葉でしょうか?願わくば、それがマリアのように主の御業を思い巡らすものであり、私たちの口が語る言葉や心の思いが神に喜ばれるものとなりますように。主の憐れみに満ちた導きを請い求めます。
「私の口が語ることと心の思いとが御前で喜ばれますように。主よ、わが大岩、わが贖い主よ。」

2024年9月27日金曜日

2024年9月27日の聖句

私が創造するものを、代々とこしえに楽しみ、喜べ。(イザヤ65:18)
神が造られたものはすべて良いものであり、感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません。神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされているからです。(1テモテ4:4~5)

今日私たちに与えられているのは、素晴らしい解放の言葉です。この世界にあるもの、私たちの命をつなぐために必要な物。それらはすべて良いものなのであって、感謝して受けるなら捨てるべきものは何もない、と言います。私たちの肉体、食うこと飲むこと、そういったものは現実的だけど少しレベルの低い、必要悪とまでは言わなくとも信仰とは関係のない事柄、と何の気なしに思ってしまうことはないでしょうか。あるいは逆に、信仰の事柄は娑婆のこととは違う、非現実的で抽象的なことだ、と考えてしまうことはないでしょうか。今日の御言葉はそのような勘違いに「否」とはっきりと言っています。
聖書の舞台になったユダヤの側にギリシアという国がありました。素晴らしい哲学や文化が発展した国です。その哲学の営みは、日常の労働をさせる奴隷たちの働きの上に成り立っていました。労働は卑しいものであって奴隷がすること。労働から解放された自由人が哲学の営みをする。しかし聖書はそのようには考えていません。この世界にあるすべてのものは神がお造りになったのだし、働くということは神に与えられた使命です。「私が創造するものを、代々とこしえに楽しみ、喜べ。」神はそう言ってくださいます。
この世界にあるものはすべて神の慈しみの中にあります。私たちの営み、人間の手が作り出したものも、「神の言葉と執り成しの祈りとによって聖なるものとされている」のです。私たちは毎日の営みを神に献げます。私の命、私の生きるために必要な物。そのような物に関心を持ち、慈しみをもって養ってくださる方に信頼して、私たちは今日を生きていきます。

2024年9月26日木曜日

2024年9月26日の聖句


わが神よ、私は御旨を行うことを喜びとしてきました。あなたの律法は私の胸の内にあります。(詩編40:9)
イエスは(律法学者に)言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37~39)

律法によって伝えられた神の御旨。主イエスはそれを二つの戒めに要約して教えくださいました。
「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」
主イエスさまは、私たちがこの戒め、律法に従って生きることを望んでおられます。もしかしたら私たちは神様の優しさに甘えて、却って神の言葉に従って生きるということをなおざりにしてしまっているところがあるのかもしれません。しかし主イエスは私たちが律法に記された神の御旨に従うことをお求めになっています。
「あなたの律法は私の胸の内にあります」と言っています。私たちの神である主を愛する、ひたすらな愛。隣人を自分自身のように愛する愛。この愛の掟を神は私たちの胸の内に与えてくださいました。だからこそ私たちは、心の内では「愛したい」と願っている。しかし私たちは何度も繰り返し愛に破綻する罪人です。愛にもとる人間です。主イエスさまの憐れみにすがるより他ない。キリストは神言葉に従って愛をもって生きたいと願う者をお見捨てにはならないでしょう。神を愛したいと願い、隣人を愛したいと願う者を、キリストが知らんぷりなさるというのはありえないことです。主イエス・キリストに向かって、愛の人にならせてくださいと祈り、今日の日を生きていきたいと願います。

2024年9月25日水曜日

2024年9月25日の聖句

(見よ、)私は主、すべての肉なるものの神である。私にできないことが一つでもあるだろうか。(エレミヤ32:27)
そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」(マタイ28:17~18)

主は、この世界の神として、私たちに命をお与えくださったただひとりの神として、私たちの前で力強く宣言なさいます。「私にできないことが一つでもあるだろうか。」答は明らかです。「いや、ない。」神はすべてを支配する力を持っておられる。すべてのものの神、全能のお方です。
神はご自分の全能の力を主イエス・キリストにお授けになりました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」キリストは神に与えられたこの全権を、一体どのように発揮なさったのか。ご自分を十字架にかけた者たちを前にして、十字架から降りてみせるという仕方ではその力を行使なさいませんでした。ご自分の敵をすべて討ち滅ぼすという形で神に与えられた権能を発揮する、とはなさいませんでした。
主イエス・キリストは、神に授けられた天と地の一切の権能を、私たちを救うために発揮なさいました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。」これに続く言葉は「だからあなたがたは行ってすべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」です。私たちをご自分の弟子とし、神のものとしてのしるしである洗礼を授け、私たちがこの後はキリストに従って生きるように教える。そうやって私たちを神のものとするために、ご自分の力を発揮ししてくださるのです。
つまり、神が全能のお方というのは、何か抽象的な議論であったり、学者が机上で考え出した論理ではありません。私たちを救うための神の力です。十字架にかけられたキリストの権威です。この神の力は今日もあなたに向けられている。聖書はそのように語りかけてきます。

2024年9月24日の聖句

地が芽を生えさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての国々の前で、正義と賛美を芽生えさせてくださる。(イザヤ61:11)
神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。(ルカ13:18~19)

神の国はからし種に似ている、と主イエスはおっしゃいます。ゴマよりも小さな、埃のような小さな種です。しかしそれが地に蒔かれると、成長して大きな木になり、枝には空の鳥が巣を作るほどになる。種は不思議です。最初の小さな種粒からは想像も付かないような大きな枝を張る木に成長する。神の国はその小さなからし種のようだ、と主イエスはおっしゃいます。
この譬えは、最初は小さなものでしかないという不思議を語りかけているように思います。思えば、主イエスさまの歩みの始めも小さなものです。飼い葉桶から始まりました。「神の国が来た」と主イエスが宣言なさったとき、最初になさったのはたった四人の漁師をご自分の弟子にするということに過ぎません。主イエスは誰もが目を見張るようなことを見せつけたり、皆が驚いて有無を言う間もなく信じないわけにはいかないような奇跡をやって見せたり、ということはなさいません。ごく小さなところで、しかしそこに確かに到来する神の国を力強く宣言なさいました。主イエスが蒔いた小さな種は、確かに神の国という実りを結びます。
「地が芽を生えさせ園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての国々の前で、正義と賛美を芽生えさせてくださる。」主イエスの蒔いた神の国は確かに実を結びます。正義と賛美が芽生えます。キリストの御業を信じましょう。キリストを信じて、この世の目からは小さなものに過ぎない福音宣教という愚かな業に、私たちもそれぞれのあり方をもって仕えていきましょう。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...