今日からコリントの信徒への手紙一第13章に入ります。このたった一つの章を巡って、何冊もの本が世に出されています。それだけ豊かな内容であり、多くの人の心を捕らえてきた言葉であるのだと思います。私たちも、ここはとても内容が豊かなのでこれから何回かの日曜日にわたって繰り返しこの言葉に聞き続けていきたいと思います。
新共同訳聖書では第13章の直前の第12章31節後半から、同じ段落に入れて区分しています。その通りであると思います。しかし、31節後半は当然ながら31節前半と分かちがたく結びついています。第13章は第12章からの続きとして読まなければならないのだと思います。31節では「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言っています。「賜物」と言っていますが、第12章はその話をしていました。教会にはいろいろな賜物を持つ人がいる。教師がおり、預言者がおり、教師がおり、…。しかしその多様な人びとは一つのキリストの体を形づくっている。違う個性を持つ者たちが一つの体になっている。その秘訣は何か。それは最も大いなる賜物、愛に他ならない。そうして、第13章に進んでいきます。
この章を読むにあたって、何よりもまず聖書から聞き取りたいことは、愛は神が与えてくださる賜物である、ということです。
この第13章はよく「愛の賛歌」などと言われたりします。甘くロマンチックな言葉であるような気がしてしまいます。しかし、愛は単にロマンチックな歌にしてみたり、その素晴らしさを礼賛して見せたりしても、意味がありません。愛について説明をしても、しかたがありません。実際に愛するのでなければ。そう思って改めてこの章の言葉を読んでみると、とても厳しい思いになります。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。…。」このすばらしい言葉を読んで、逆に心が痛くなってしまう。この御言葉を読めば読むほど、自分に愛が欠如していると思い知らされるからです。そう思うとき、気づきます。自分は愛について説明することさえできないのだ、と。自分はあまりに愛からかけ離れているから、愛を説明する言葉さえ持ち合わせていないのだ、と。
だから、聖書は神が下さる賜物に他ならないと言います。私たちの中には、まったく愛が欠けている。そこに私たちの罪の現実の根があるのでしょう。しかし、神は私たちに賜物として、贈り物として、愛を下さいます。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」
マタイによる福音書第18章に仲間を赦せない僕の話が出てきます。彼は国家予算にも匹敵するような天文学的な借金を王様に赦してもらいました。ところが、自分に100万円くらいの借りがある別の男を赦せなかったのです。王は彼に対して激しく怒ります。お前も憐れまれたのではなかったか、と言うのです。この僕は、神の愛を忘れた私の姿そのものです。神様は、私たちが愛に生きることを望んでおられる。絶望的に愛に貧困な私がどうやって愛しうるのか?私自身が神に愛され、憐れまれ、赦された者であること、その途方もなさに驚くことから始まるのです。この愛こそ、教会を一つの体とする秘訣だとパウロは訴える。私たちの教会の結び目は、ただ神の一方的な愛だけです。