2020年10月12日月曜日

2020年10月12日(ペトロの手紙一3)

ペトロの手紙一3
「キリストは、肉では殺されましたが、霊では生かされたのです。こうしてキリストは、捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました。これらの霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者たちのことです。」

ある牧師がこのような話をしてくれたことがあります。あるとき、教会の青年たちがまだ幼い自分の息子をからかっているのに出くわしてしまった。彼らを咎めたが、心のモヤモヤが晴れなかった。自室に引き上げた後、晴れない気分のままで神学雑誌を開いた。そこに、主イエスを裏切って自殺をしたイスカリオテのユダの話が書かれていた。ユダはイエスを銀貨30枚で売り、すぐに後悔して自殺した。ユダは、そのまま滅びるのか?ユダが死んだほんの数時間後、主イエスは十字架にかけられて殺された。その死を、使徒信条は「陰府に降り」と言い表している。主イエスは陰府へ降って行かれた。それはまるでユダを追いかけているようではないか。主イエスはユダがいるところに行かれたのだ。この話を雑誌で見つけて読んで、牧師は、息子をからかっていた青年たちに向ける目が変えられたのだそうです。
主イエス・キリストは十字架で死に、陰府に降って行かれた。そこで何をしたのか?ペトロは「捕らわれの霊たちのところへ行って宣教されました」と言い表します。主イエス・キリストの手は、神に逆らって死んでいった者たちのところにも及ぶのです。キリストは陰府に降られた。だから、キリストがいない場所はどこにもありません。
箱舟は水を通って救われました。ペトロは、この水は洗礼を象徴していると言います。洗礼。それは、私たちの死を意味します。私たたちが水に沈められて死に、キリストにある新しい命に甦る。それが洗礼です。私たちも、洗礼を受けたときにもう降ったのです。キリストが行かれた陰府へと。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に今生きています。
だから、私たちはもう既に死んだ者たちのことはキリストに任せましょう。キリストの手が届かない場所、キリストが行くことのできない場所はどこにもないのですから。ユダにもまたキリストの福音は向けられている。私たちにさえも。
今日一日も、主イエス・キリストの恵みがあなたと共にありますように。心から祈っています。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...