主は私の力、ほめ歌、また私の救い。主は私の救いとなられた。(詩編118:14)
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)
「どうか、希望の神が」と書き始めて、祈願の言葉を記しています。使徒パウロは神さまを希望の神とお呼びしています。神さまは希望の神。これこそ信仰の言葉です。神を信じるとは、神に望みを置くということです。神様にあって希望を抱くということです。
使徒パウロは別の手紙でこのように書いています。「私たちは・・・死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」(2コリント6:9~10)。
神さまに望みをかけているからこそ生まれる言葉です。死にかけているようでいてとか、悲しんでいるようでいてとか、そういう言葉はすべてパウロ自身のこの時の実際の外面的状況なのでしょう。普通に考えたら希望する要素なんて一つもないような苦しみの中にいる。しかし、パウロは希望を持っています。どのような外見的な状況にもかかわらず私は希望には希望があり、喜んでいて、豊かです。神さまが希望だからです。
そういう喜びから、賛美が生まれます。「主は私の力、ほめ歌、また私の救い。主は私の救いとなられた。」この賛美は平安を生じさせます。聖霊が私たちの内にはたいてくださっています。私たちは神をほめたたえ、神からいただいた希望を喜び、神さまへの祈りと感謝と賛美をもって今日の一日を歩んでいく。そのように、主イエス・キリストにある神の恵みが私たちを今日も立たせてくださいます。我が事として、その事実を信じましょう!
どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。(ローマ15:13)
「どうか、希望の神が」と書き始めて、祈願の言葉を記しています。使徒パウロは神さまを希望の神とお呼びしています。神さまは希望の神。これこそ信仰の言葉です。神を信じるとは、神に望みを置くということです。神様にあって希望を抱くということです。
使徒パウロは別の手紙でこのように書いています。「私たちは・・・死にかけているようでいて、こうして生きており、懲らしめを受けているようでいて、殺されず、悲しんでいるようでいて、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」(2コリント6:9~10)。
神さまに望みをかけているからこそ生まれる言葉です。死にかけているようでいてとか、悲しんでいるようでいてとか、そういう言葉はすべてパウロ自身のこの時の実際の外面的状況なのでしょう。普通に考えたら希望する要素なんて一つもないような苦しみの中にいる。しかし、パウロは希望を持っています。どのような外見的な状況にもかかわらず私は希望には希望があり、喜んでいて、豊かです。神さまが希望だからです。
そういう喜びから、賛美が生まれます。「主は私の力、ほめ歌、また私の救い。主は私の救いとなられた。」この賛美は平安を生じさせます。聖霊が私たちの内にはたいてくださっています。私たちは神をほめたたえ、神からいただいた希望を喜び、神さまへの祈りと感謝と賛美をもって今日の一日を歩んでいく。そのように、主イエス・キリストにある神の恵みが私たちを今日も立たせてくださいます。我が事として、その事実を信じましょう!