弱い者に偏ってかばってはならない。強い者におもねってはならない。(レビ記19:15)
あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい。(ヤコブ2:1)
今日の旧約の御言葉に続いて、「同胞を正しく裁きなさい」と書かれています。聖書の知恵は本当にすごいと思います。このような言葉がすでに紀元前にあったのです。弱いからということで偏ってかばったり、強いからということでおもねってはならない。正しさを基準として判断しなければならない、というのです。
強い人におもねるというのはある意味分かりやすいですが、それだけではなく、弱い人を偏ってかばうという別の過ちがある、とも指摘しています。もしかしたら、今私たちの社会で起きているいろいろな混乱の根は、こういうところにあるのかもしれないとも思います。私たちはとかく人をカテゴリーに入れて判断しがちです。性別や年齢、生活水準、教育、人種、国籍、その他何でもそうです。「この人は女だから感情的だ」とか、「この人は男だから思いやりがかけている」とか、「最近の若い人は常識がない」とか「年寄りだから偉そうだ」とか、何でもです。しかしカテゴリーにしたがって人を判断し、ましてや優劣を付けることを「差別」と言います。意識的にも無意識的にも、そういう判断をしがちです。結局のところ私たちは人の外見に惑わされやすいし、それは私たちにとって宿痾のように避けがたいところがあるのだと思います。
ヤコブは「あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい」と言います。私たちが人をこのように判断し、裁き、分類し、優劣を付けてしまうような愚かなことから解放される道は一体どこにあるのか。それはイエス・キリストへの信仰だ、と言うのです。キリストの栄光の前に身を低くし、主の前にへりくだることによってでしか、私たちは偏見や差別から解放されないのではないでしょうか。人間の判断や価値観は相対的で過ちの多いものです。どこまでも私たちは差別的であることから逃れられない。だからこそ、キリストの前にへりくだり、憐れみを求めて、隣人と出会う道に開かれていきたい、と願います。
あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい。(ヤコブ2:1)
今日の旧約の御言葉に続いて、「同胞を正しく裁きなさい」と書かれています。聖書の知恵は本当にすごいと思います。このような言葉がすでに紀元前にあったのです。弱いからということで偏ってかばったり、強いからということでおもねってはならない。正しさを基準として判断しなければならない、というのです。
強い人におもねるというのはある意味分かりやすいですが、それだけではなく、弱い人を偏ってかばうという別の過ちがある、とも指摘しています。もしかしたら、今私たちの社会で起きているいろいろな混乱の根は、こういうところにあるのかもしれないとも思います。私たちはとかく人をカテゴリーに入れて判断しがちです。性別や年齢、生活水準、教育、人種、国籍、その他何でもそうです。「この人は女だから感情的だ」とか、「この人は男だから思いやりがかけている」とか、「最近の若い人は常識がない」とか「年寄りだから偉そうだ」とか、何でもです。しかしカテゴリーにしたがって人を判断し、ましてや優劣を付けることを「差別」と言います。意識的にも無意識的にも、そういう判断をしがちです。結局のところ私たちは人の外見に惑わされやすいし、それは私たちにとって宿痾のように避けがたいところがあるのだと思います。
ヤコブは「あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい」と言います。私たちが人をこのように判断し、裁き、分類し、優劣を付けてしまうような愚かなことから解放される道は一体どこにあるのか。それはイエス・キリストへの信仰だ、と言うのです。キリストの栄光の前に身を低くし、主の前にへりくだることによってでしか、私たちは偏見や差別から解放されないのではないでしょうか。人間の判断や価値観は相対的で過ちの多いものです。どこまでも私たちは差別的であることから逃れられない。だからこそ、キリストの前にへりくだり、憐れみを求めて、隣人と出会う道に開かれていきたい、と願います。