主よ、立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。(詩編9:20)
(イエスが弟子たちに語った言葉)「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」(マルコ9:31)
「人の子は人々の手に渡され、殺される。」
これが、今私たちの目に映っている状況ではないでしょうか。ある一人の男が十字架刑に処せられた。それは「歴史的に」確かめることができる事実ですし、世界史の中ではどこにでもあるような出来事と言えそうです。私たちの目に映って、確かだと思わせる出来事です。
問題は「科学的」に確かと言えるかどうかということだけではありません。私たちの目に飛び込んでくる現代にまで至る人間の生み出す歴史の出来事の一つひとつが、暴力の支配であり、豊かさの独占であり、貧しい人や弱い人、病気の人や障害を持っている人への抑圧と蹂躙です。自分に都合の好い神をこしらえてシステムを正当化し、自分たちの支配が正しいというお墨付きを得ようとする。現代の大国やその支配者も、同じように神の名を騙っているようです。
「人の子は人々の手に渡され、殺される。」主イエスがそうおっしゃった状況と現代私たちを取り巻いている状況はそっくりです。人間の罪が生み出す状況です。そういう意味では人の子イエスが十字架に掛けられたという事実は後から証明するまでもなく、私たちの世界のどこにでもある悲惨な出来事の一つです。そして私たちはそういうところで生まれる不都合な事実を直視しようとはせず、たいていの場合は放っておくのです。
ところが主イエスの御言葉はそこでは終わりません。「殺されて三日の後に復活する」と主イエスは言われます。これは、主イエスの側の、つまり神の側のアクションです。私たちがイエスを十字架に磔にした、私たちが神の子を殺したということに対して、神の側でなさったことが三日目の復活です。私たちの暴力や支配や抑圧の歴史に神は「否」を突きつけ、それを終わらせてしまわれた。それが主イエス・キリストの復活という出来事です。
これは私たち人間の歴史の中、これまでには全くない、新しい出来事です。ただ一度かぎりの出来事です。その意味では「歴史的」「科学的」に証明することはできません。そもそも神のただ一度の出来事を人間が証明するというのはおこがましいのではないでしょうか。それはエルサレムの郊外で、ある女性を証人として起こりました。あまりに小さな出来事なので私たちは見過ごします。そして、イエスを十字架に掛けた歴史だけが正当でリアリティがあり、説得力のあるものだと思い込んだままでいます。しかし、イエスは復活しました。この出来事はもう始まっています。私たちが知っていようといなかろうと。私たちが信じていようといなかろうと、キリストは復活し、神の国はもう来ているのです。あなたは神の告げるこの新しい出来事を、信じますか?
(イエスが弟子たちに語った言葉)「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」(マルコ9:31)
「人の子は人々の手に渡され、殺される。」
これが、今私たちの目に映っている状況ではないでしょうか。ある一人の男が十字架刑に処せられた。それは「歴史的に」確かめることができる事実ですし、世界史の中ではどこにでもあるような出来事と言えそうです。私たちの目に映って、確かだと思わせる出来事です。
問題は「科学的」に確かと言えるかどうかということだけではありません。私たちの目に飛び込んでくる現代にまで至る人間の生み出す歴史の出来事の一つひとつが、暴力の支配であり、豊かさの独占であり、貧しい人や弱い人、病気の人や障害を持っている人への抑圧と蹂躙です。自分に都合の好い神をこしらえてシステムを正当化し、自分たちの支配が正しいというお墨付きを得ようとする。現代の大国やその支配者も、同じように神の名を騙っているようです。
「人の子は人々の手に渡され、殺される。」主イエスがそうおっしゃった状況と現代私たちを取り巻いている状況はそっくりです。人間の罪が生み出す状況です。そういう意味では人の子イエスが十字架に掛けられたという事実は後から証明するまでもなく、私たちの世界のどこにでもある悲惨な出来事の一つです。そして私たちはそういうところで生まれる不都合な事実を直視しようとはせず、たいていの場合は放っておくのです。
ところが主イエスの御言葉はそこでは終わりません。「殺されて三日の後に復活する」と主イエスは言われます。これは、主イエスの側の、つまり神の側のアクションです。私たちがイエスを十字架に磔にした、私たちが神の子を殺したということに対して、神の側でなさったことが三日目の復活です。私たちの暴力や支配や抑圧の歴史に神は「否」を突きつけ、それを終わらせてしまわれた。それが主イエス・キリストの復活という出来事です。
これは私たち人間の歴史の中、これまでには全くない、新しい出来事です。ただ一度かぎりの出来事です。その意味では「歴史的」「科学的」に証明することはできません。そもそも神のただ一度の出来事を人間が証明するというのはおこがましいのではないでしょうか。それはエルサレムの郊外で、ある女性を証人として起こりました。あまりに小さな出来事なので私たちは見過ごします。そして、イエスを十字架に掛けた歴史だけが正当でリアリティがあり、説得力のあるものだと思い込んだままでいます。しかし、イエスは復活しました。この出来事はもう始まっています。私たちが知っていようといなかろうと。私たちが信じていようといなかろうと、キリストは復活し、神の国はもう来ているのです。あなたは神の告げるこの新しい出来事を、信じますか?