2026年6月4日木曜日

2026年6月4日の聖句

あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。(申命記30:9)
このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。(1テサロニケ4:6)

先日、ある方の講演を聴きました。その先生は仕事の異動でそれまで従事していた職場を離れてしばらく経過した、という時期でした。以前の職場はたいへん忙しく、困難な仕事も多く、しかし大いにやりがいを感じていました。今はその頃とは違う働き方をしている。そこで一種のアイデンティティ・クライシスを覚えたそうです。そして気付いた。自分は「役割」をまとい、周囲の期待に応えることで「自分」を確かめようとしてきたけれど、それは間違っていたのではないか。「していること」がそのまま「自分」になるのは危険なことではないか、と。
私はそのお話を伺って、一方では「なるほど」と思いながらも、他方では「そうかな」と思います。確かに忙しさに身を委ねているだけでは大切なことがおろそかになります。祈ることや神さまの前に静まることをする暇もない、という気になってしまうのはこれ以上なく危険なことです。しかし、自分がしていること、自分の働きと「自分」とはそう簡単に切り離せないのではないか。自分の役割と自分自身を切り分けるのは、一種の抽象化ではないか、とも思います。
「あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。」ここでは、「あなたのすべての手の業」について、主がそれを喜びとされると言われています。この「あなたのすべての手の業」は時によって変わってきます。年齢の変化や自身の状況や家族の環境の変化、仕事の異動や転職、あるいは病気や老いなど、いろいろな要素があります。しかし、私たちはどこにあっても神に従い、キリストが宣言した神の国に仕えるという根本的な役割があります。やがて私たちがかつてのように元気に働き、やりたいことをすることができなくなる日が来るでしょう。それは私たちにとってはたいへんな危機です。アイデンティティが揺れます。当然です。生き方の変更を強いられているのです。しかし私たちは最後まで「御名が崇められますように」と祈り、あるいは元気に働いている元気な人のために祈ることができる。そのために合掌することはできるでしょう。「あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。」
神は私たちをご自分の子としてくださいました。私たちのすべての手の業を喜んでくださいます。だからこの手を神の愛を現すために献げたく願います。どのようなときにも、です。

2026年6月4日の聖句

あなたの神、主は、あなたのすべての手の業を喜びとされる。(申命記30:9) このようなことで、きょうだいを踏みつけたり、欺いたりしてはなりません。主はこれらすべてのことについて正しく裁かれるからです。(1テサロニケ4:6) 先日、ある方の講演を聴きました。その先生は仕...