2026年7月31日金曜日

2026年7月31日の聖句

見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。(エレミヤ9:6)
祈りなさい、誘惑に陥らないために。(ルカ22:40)

聖書が書かれた言語では、日本語で「試練」と翻訳される言葉と「誘惑」と翻訳される言葉とは同じ単語で言い表されます。同じ出来事が、場合によっては試練にもなるし、他の場合には誘惑にもなる、ということであると思います。
「祈りなさい、誘惑に陥らないために」と主は言われます。苦しい出来事が私たちを罪に誘い込む誘惑になるのか、それとも信仰を試し、あるいは精錬する試練になるのか。その鍵は祈りだ、と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。苦しいときは信仰の危機です。右に行くか左に行くかが問われる。分かれ道です。神に従うのか、自分や周囲の声に従うのか。今の自分の置かれている状況や取るべき道はどこなのかを識別し、そこで神に従う道を選び取るためには祈りが欠かせません。神が聖霊によって私たちを導いてくださるのであれば、それを受け止める私たちのあるべき姿は祈ることをおいて他にないからです。
「見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える」と主は言われます。あまりありがたくない言葉のように思います。できれば試練になんて遭いたくありません。しかし、それとは逆の反応もあると思います。今起きているこの出来事は、神の手の中にある。神がお与えになった試練に他ならない。そのことを信じるならば、その出来事が苦しくとも、それは誘惑ではなく試練です。神の手の中にあるという信仰こそ、私たちにとっては「試練からの逃れる道」なのではないでしょうか。

2026年7月30日木曜日

2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32)
聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10)

今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍耐してキリストに従い続けることがいかに大事か。聖書はそのことを私たちに語りかけます。
ナチが支配するドイツで、忍耐をもってキリストに従ったキリスト者の一人にディートリッヒ・ボンヘッファーという人物がいます。私たちキリスト者は、屁理屈で逃げることなく単純にキリストに従うことこそが大事だと考え、それを実践した人物です。(この人が書いた『キリストに従う』という本は本当に名著です。山上の説教の講解が主な内容です。今のマタイによる福音書の説教準備のための私の必読書の一つです。)
ボンヘッファーはヒットラー率いるナチがたくさんのユダヤ人やロマの人々を虐殺し、戦争の災禍を繰り返していることに心を痛め、ヒットラー暗殺計画の一員となり、ナチに捕らえられ、獄中で処刑されて最期の時を迎えました。そのときにこのような詩を残しています。

われらに苦き杯を
溢れるばかりに満たされた苦しみの苦き杯を、あなたが与え給うなら
われらはそれを恐れずに感謝して
あなたのいつくしみ深き愛する御手から受け取ろう。

しかしあなたがなおもこの世に対する喜びと
その太陽の輝きをわれらに贈り給うなら
われらは過ぎ去ったことを思い出そう。
その時われらの生は全くあなたのものとなるのだ。

ここにすでにボンヘッファーの忍耐の秘密があるように思います。神がその御手からくださるものは、どのようなものであろうと受け取ります、と彼は告白します。それは、どのようなときにも神の手は慈しみ深いからです。自分たちの生がすべて慈しみに満ちた神のものだと信じているからです。その神に私は従う。その杯が苦くても。苦い杯を飲んで十字架に向かわれたキリストの後についていく。キリストが愛した多くの人、弱い人、蹂躙されている人々を私も愛する。
この信仰は、私たち自身の信仰でもあります。私たちもキリストへの服従に招かれています。

2026年7月29日水曜日

2026年7月29日の聖句

昼も夜も、わたしは涙を食物とする。
人は日夜私に言う
「あなたの神はどこにいるのか」と。(詩編42:4)
(パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです。(フィリピ1:13~14)

今朝の新約の御言葉であるフィリピの信徒への手紙ですが、「私が投獄されているのは」と著者パウロが書いているとおり、彼が牢獄に捕らえられているときに書かれた手紙です。キリストのために、福音宣教のために投獄されていました。
パウロはとても不思議なことを言っています。「主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになった」。パウロが投獄されたのを見て、多くの兄弟姉妹たちが却って力を得た。ますます確信が深まった。私が投獄され、そのことが知れ渡ったからこそ、彼ら彼女らは大胆に御言葉を語るようになった、と言うのです。普通は、逆ではないかと思います。パウロ先生がキリストの福音を語ったために牢屋に入れられてしまった。そんなことを聞かされ、意気阻喪して諦めたくなってしまわなかったのでしょうか。
ところで今日の旧約に「あなたの神はどこにいるのか」と書いてあります。これは、信仰者である詩編作者を周りの神を信じない者たちが揶揄している言葉です。「お前の神はどこにいるのか。そんな者いやしない。信じたって無駄だ」という意味です。言うなれば、パウロや他の仲間たちは「お前の神はどこにいるのか」という問いへの答をもっていた、ということであると思います。「お前の神はどこにいるのか。」「私の神であるキリストは、神の右に座しておられる。この世界を支配する真の王はこの方だ」と。
この世は、別の物語に取り込まれて生きています。この世の王は、パウロの時代であればローマの皇帝でしょう。今は誰でしょうか?総理大臣ですか?天皇ですか?時流や空気ですか?社会システムですか?私たちは、知っています。私たちの神は天におられる。その方の右に座しておられるイエスこそ真の王でいらっしゃる、と。私たちはこの世界が提供する物語には生きません。お金がすべての価値の尺度であり、自己責任が問われ、弱者は必要ないとする悪しき物語には生きない。私たちはキリストの愛の支配、小さく弱く乏しいものを愛する神の愛の物語に生かされている。パウロはそのために牢獄に捕らわれました。この世と違う物語に生き始めたからです。私たちも、同じ道を進もうとしているのです。

2026年7月28日火曜日

2026年7月28日の聖句

私たちは日夜、神を誇り
あなたの名にとこしえの感謝を献げます。(詩編44:9)
主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。(エフェソ5:19)

今日の朝をどのような思いでお迎えでしょうか。平和のうちに、喜んで朝を迎えた方もおられるでしょう。昨日の疲れが抜けず、憂をまとっておられる方もおられると思います。悲嘆と呻きの中、今日の朝が来てほしくなかったという方もおられるかもしれません。私たちはいろいろな思いを抱えながら毎日を生きています。しかし私たちが共通して、この朝耳を傾けている御言葉は、賛美の言葉です。神をほめたたえる言葉が今日私たちに与えられました。
「私たちは日夜、神を誇り、あなたの名にとこしえの感謝を献げます。」「主に向かって心から歌い、また賛美しなさい。」
私たちは喜びの日にも悲しみの日にも、神を賛美します。昼も夜も、どのようなときにも私たちの誇りは神さまです。神が私たちを一方的に愛してくださったこと。この世界が重視する「能力」とか「成果」とかを問うことなく、主は私たちを愛してくださいました。この世界が要求する「自己責任」とは関わりなく、主は私たちをご自身の目の瞳のように守ってくださいました。私たちはこの神をほめたたえる民です。私たちは主に向かって心から歌い、賛美する礼拝者の一員です。
私たちは喜ぶ日に高慢になることなく、悲しみの日に自分の中に沈み込むこともなく、神を見上げ、神をたたえます。そのために私たちは造られました。主を賛美することで、今日の私たちの一日が始まります。

2026年7月27日月曜日

2026年7月27日の聖句

主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。(詩編34:16)
ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」(マタイ27:19)

ピラトの妻の言葉が報告されています。「あの正しい人に関わらないでください。」もちろん、主イエスさまのことです。主イエスを裁く者である総督ピラト。ピラトの妻は、この人が正しい人であると知っていたようです。ピラトもそのことには気付いていました。イエスに罪を見いだすことはできなかった。ピラトの妻は、この人とこれ以上関わるのは危険だ、と気付きました。イエスが正しい人だからではないでしょうか。主イエスの正しさから目をそらしたかったのではないでしょうか。
主イエスの正しさが私にとって苦しいというのは、言葉を換えると、自分の罪を目の当たりにする痛みだと思います。主イエスのお姿を通してこそ、私たちは本当に自分の罪を知ることになります。主イエスが生きた愛に、信仰に、自分の姿が照らされるとき、私たちは自分の罪を知らされる。その意味では、ピラトの妻は主イエスの放つ光の強さを察知していたのではないか、と思います。
しかし神さまがご覧になるのは正しき人であり、主が耳をお傾けになるのは正しき人の叫びです。神の御目は主イエスにこそ注がれている。私たちの目はどこに向いているでしょうか?私たちは「あの正しい人」を見つめているでしょうか?このお方は、神が私たちにもたらしてくださった福音そのものです。このお方の正しさによって私たちは救われたのです。

2026年7月26日の聖句

今週の聖句:
光の子として歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。(エフェソ5:8~9)

今日の聖句:
ヨセフは(兄弟たちに)言った。「途中で争ったりしないでください。」(創世記45:24)
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

主イエスは「平和を造る人々」と言われます。すごい言葉です。「平和に過ごす人々」とか「争わない人々」というのであれば、私たちにも言えるかもしれません。しかし主イエスはもっと積極的でです。「平和を造る人々」です。積極的に平和を造る、と主は言われます。
今日の旧約に登場するヨセフという人は、ヘブライ人にしてエジプトの大臣になった人物です。ファラオの次の権力者です。彼はかつて自分を捨てた10人の兄たちに再会し、和解し、故郷に待つ父のもとへと送り出しました。そのときに兄たちに語りかけたのがこの言葉です。「途中で争ったりしないでください。」兄たちにしてみれば、ヨセフとの再会はかつての自分たちがしでかしたことが明るみに出た出来事でしたし、互いに責任をなすりつけ合って争いに発展してしまいかねない状況であったと思います。ヨセフはそれを見越して、故国への帰り道の途上で互いに争い合わないでください、と言いました。
神さまは私たちに、お互い同士が平和の関係で結ばれることを望んでおられる。平和、それは神さまが願っておられる関係です。私たちは争い合うのではなく平和に過ごし、憎しみ合うのではなく愛し合うように、神さまに造られました。平和を造る人。それは、誰よりも主イエスさま御自身です。キリストに倣うものとしていきたい。それが私たちの願いです。

2026年7月25日土曜日

2026年7月25日の聖句

みなしごの父となり
やもめの裁き手となるのは
聖なる住まいにいます神。
神は孤独な人を家に住ませ
捕らわれ人を幸福へと導き出される。(詩編68:6~7)
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。(2コリント1:3)

私たちの神は慈しみ深いお方。
これが、今日私たちが耳にしている福音、良き知らせです。神は慈しみ深く、慰めに満ちておられる。私たちはこのお方を信じ、依り頼んで生きることができる。だから、この神をほめたたえます。神を賛美します。慈しみと慰めに満ちたお方を。
今日の旧約聖書の詩編はとても印象深い言葉で神の慈しみを言い表しています。「みなしごの父となり、やもめの裁き手となる」。私たちの中で一番悲しんでいる人、生きるに困っている人、慈しみや慰めを必要としている人のための父になってくださる。正義を必要とし、不当にも苦しめられ、弱いために蔑ろにされている人のための裁き手になってくださる。
そのお方は「聖なる住まいにいます神」です。この聖なる住まいは、私たちから遠く離れた場所にあるのではない。御簾の向こうで私たちと関わりを持とうとしない、ということではない。「神は孤独な人を家に住まわせ、捕らわれ人を幸福へと導き出される」のです。聖なる住まいに住む神は私たちに関わってくださいます。私たちの間に住んでいてくださるのです。
私たちの今日生きているその現場に神はおられます。私たちの悲しみと共におられ、私たちの蒙る不正義を神ご自身が目の当たりにし、私たちのための裁き手として立ってくださるお方。慈しみに満ちた神はあなたの今日一日の生活の中、共にいてくださるのです。

2026年7月24日金曜日

2026年7月24日の聖句

神は偉大なことをなさり、究め難く
その驚くべき業は数えきれない。(ヨブ9:10)
主イエスを復活させた方が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に御前に立たせてくださると、私たちは知っています。(2コリント4:14)

今日の新約の御言葉ですが、少し細かく見ていくとこのようなことになるのではないか、と思います。
「主イエスを復活させた方」、つまり父なる神が「イエスと共に私たちをも復活させ」てくださった。この神が「あなたがたと共に」、私たちを「御前に立たせてくださる」。私はそのことを知っているし、信じている。つまり、後半の文章には「私たちを」という目的語が省略されていると考えるのが自然であると思うのです。
私がこの御言葉を読んで感じたのは、こういうことです。即ち、復活というと、一見すると極めて個人的な事柄に思えます。「私の肉体が復活する」というのは他人ではなく「この私」の話ですし、この体は他の人のものではなく私のものです。しかし、ここを読むと、あまり個人主義的な響きがないように思うのです。神は私たちを主イエスと共に復活させ、私たちをあなたがたと共に御前に立たせてくださる。復活は、主イエスと共にあることであり、他の信仰の仲間と共にあることでもあります。個人的に神の前に立つのではない。復活した者たちの共同体がある。その先頭にはイエスがおられ、私たちは神の前に共に立ちます。
今日の旧約では「神は偉大なことをなさり、究め難く、その驚くべき業は数えきれない」と言っています。このような賛美はキリスト者の共同体が献げる賛美です。私たちは独りぼっちで神を礼拝するのではない。共に神をたたえる共同体の一員として神の前にいるのです。新しい共同体の建設。そこに神の偉大な御業があるのではないでしょうか。

2026年7月23日木曜日

2026年7月23日の聖句

私は閉じ込められて、逃れることができません。
目は苦しみのあまり衰えました。
主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。(詩編88:9~10)
すると、生まれつき足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」と呼ばれる神殿の門のところに置いてもらっていたのである。(使徒3:2)

生まれつき足の不自由な男が神殿の「美しい門」におかれていました。神殿に来る人に物乞いをするためです。「置かれていた」という聖書の表現が、この人の悲しさを訴えかけているようです。まるで物のようにそこに置かれていた。彼には何らかの仕事をすることもできなかったのでしょう。彼に家族はいたのでしょうか。彼をこの場所まで運んできた人が家族であったのであれ、あるいは他の人であれ、恐らくその存在を厄介に思っていたのではないでしょうか。そんな彼の境遇が「置いてもらった」という表現に表れているように思います。彼の最後の生きるすべ、それが「美しい門」に置かれて物乞いをすることだったのではないかと思うのです。
まさに今日の旧約の祈りのとおりです。「私は閉じ込められて、逃れることができません。目は苦しみのあまり衰えました。主よ、私はあなたを日ごとに呼び求めます。」
そんな彼のところにペトロとヨハネがやって来ました。そこから新しいドラマが始まります。福音を携えてやって来た人たちがイエス・キリストの名による福音を宣言するとき、新しい出来事が始まります。閉じ込められ、逃れることができず、苦しみのあまりに目も衰えた一人の人を救う神の言葉が響いたのです。
今日私たちが耳にする福音も、彼を生かしたのと同じ福音です。同じイエス・キリストの名による福音があなたを生かしています。あなたも、イエス・キリストの名によって立つように命じられている。あなたも立てる。あなたもキリストの僕として生きることができるのです。

2026年7月22日水曜日

2026年7月22日の聖句

すると主は(モーセに)言われた。「あなたと共にいる民は皆、主の業を見るであろう。」(出エジプト記34:10)
群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。(マタイ15:31)

主の業を見るであろう、と言われています。私たちは、目を開いてそれをしっかりと見ているでしょうか?今日の新約の御言葉にはこのように書かれています。「群衆は、口の利けない人がものを言い、手の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を崇めた。」主イエスの御業を目撃した人たちは驚きました。そして神を崇めました。こういうところを読むと、私たちは思ってしまいます。「私たちの間では、口の利けない人がものを言うようになったり、手の不自由な人が治ったり、足の不自由な人が歩いたり、目の見えない人が見えるようになったりしていない」と。私には神さまの業なんて見えない。
自分を満足させる証拠を見せてほしいという次元で考えていると、神さまの御業は見えなくなってしまうのだと思います。神さまは今何をしておられるのか。主はこの地にどのような御業をしておられるのか。そのことを祈りをもって、そしてへりくだって静かに見極め、受け止める。そういう信仰のまなざしが必要なのではないでしょうか。主は今何をしておられるのか。そのことを今日問うていきましょう。

2026年7月21日火曜日

2026年7月21日の聖句

エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。(イザヤ66:10)
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。(ルカ19:37)

エルサレム。かつてダビデが都を築き、ソロモンが神を礼拝するための神殿を献げ、イスラエルの信仰の中心であった場所です。しかし同時に、傲慢な王政の中心地でもあり、豊かさや軍事力で国作りをしようという人間の思惑がうごめいていた場所でもあります。そして、やがて裁かれ、すべてが失われた都でもあります。
そのエルサレムについて、預言者は言います。「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のことで喜び踊れ、彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に大いに喜べ、彼女のために嘆いていたすべての人よ。」神さまは人間の歴史の中で働いてくださいます。エルサレムという一つの都も、そういう神さまのお取り扱いを受けてきました。
私たちも同じです。今、この世界で起きていることも神さまの御支配の中にあります。神さまの前に私たちの振る舞いはいかなる意味を持っているのか?私たちの富や力に頼る傲慢な社会を神はどのようにご覧になっているのか?私たち人間はそのことを畏れ、へりくだってそのことを考え直すべきであろうと思います。
今日の新約の御言葉で、主イエスはエルサレムの都の郊外のオリーブ山に来られました。これからいよいよエルサレムにお入りになる。神の民の様々な歴史が積み重ねられてきたエルサレムに主が来られます。私たちの生きるその「現場」に主イエスは来ておられるのです。

2026年7月20日月曜日

2026年7月20日の聖句

主の仰せこそ清い仰せ。
土の炉で精錬され、七度純化された銀。(詩編12:7)
(イエスの言葉)私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。(ヨハネ18:37)

私は銀を炉で純化したことはありませんが、どんなにたいへんな作業なのだろうか、と思います。熱くて危険ですし、たいへん過酷な仕事でしょう。しかもそれを七度も繰り返す。どんなにきれいに純化されるのでしょうか。
「主の仰せこそ清い仰せ。土の炉で精錬され、七度純化された銀。」
主の仰せこそ、七度精錬して純化した銀のように、あるいはそれ以上に清い。神さまの言葉こそが私たちの尊い宝。主イエスはその言葉を「真理についての証し」と言われます。主は私たちに真理を教えてくださる。真理を証しするために主イエスは私たちのところへ来てくださった。
真理、それは神さまの御心でしょう。キリストが私たちに教えてくださった神の愛でしょう。イエス・キリストという道を通って、私たちが神の御許に行くことができる。これこそ主イエスが私たちに示してくださった真理です。ですから私たちは他の何でもなく神さまの御言葉に耳を傾けるのです。

2026年7月19日日曜日

2026年7月19日の聖句

今週の聖句:
あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の聖句:
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。(詩編6:2)
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。(2コリント5:21)

あまりにもすごい御言葉です。「私たちが、その方に会って神の義となるためです。」神さまは言ってくださるのです。「お前たちが私の義だ」と。他の誰でもなく私たちを「私の義」と神が言ってくださる。驚くべき御言葉です。
そのために、神はさらに驚くべきことをなさった。「神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。」罪を知らないイエスを神は罪となさった。主イエスは罪になり、私たちは義になった。イエスが持っておられたすべての尊さと聖さ、神の子としての身分が私たちのものとなり、私たちの罪や汚れ、裁かれるべき悪がすべてイエスのものとなった。聖書はそのように言います。
このようなことがあっていいのでしょうか。私たちは、ただ「主よ、怒りに燃えて私を責めず、憤りに任せて懲らしめないでください」と祈るより他ない者です。神は私たちの願い以上のことをしてくださいました。この神を畏れましょう。この神を崇めましょう。あなたの人生をまったく新しいものに一変させたのは、イエス・キリストの父である神です。

2026年7月18日土曜日

2026年7月18日の聖句

神は彼らを男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。(創世記5:2)
相手に敬意をもって丁寧に接しなさい。(ローマ12:10)

とても面白い御言葉の組み合わせだと思います。神が男と女とを創造された日に、彼らを人と名付けられた。これこそ神が人に敬意をもって接してくださったということに他ならない。そういうことでしょう。
人を人と名付けたのは、人をお造りになった神ご自身です。私たちは神に造られ、命を与えられ、神に名前を付けられて生きています。私たちに命を与えてくださったときから神はご自身との関係の内に置き、私たちを人と呼ぶことでご自分との関係を確かなものとしてくださいます。神は私たちをご自身との関係の中で生かしてくださいます。
今日の私たちも、神さまとの関わりの中で新しい一日が始まっています。聖書を通して語りかける神さまの御言葉を聞き、神さまにお祈りをしています。神さまの呼びかけを聞くことこそが私たちを本当に自分らしく生かすよすがです。
明日は主の日です。礼拝で、そして礼拝で語られる神の言葉によって私たちは神様と出会います。朝毎、週ごとに神さまは私たちに新しい御言葉をもって語りかけてくださいます。福音が証しされることで私たちは神と出会う。そういう出会いの言葉を求めて私たちは神様の御前に進み出ます。私たちは自分の神と出会う備えをし、今日この備えの一日を祈りの内に歩みたい。神は、もったいなきことに敬意をもって私たちを呼んでくださっています。私たちも最大限の敬意をもって神の前に進み出たい。そのように願います。

2026年7月17日金曜日

2026年7月17日の聖句

天から見下ろし
聖なる美しいお住まいからご覧ください。
あなたの情熱と力強い御業はどこにあるのですか。(イザヤ63:15)
(イエスの言葉)私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。(ヨハネ14:18)

天から私たちを見下ろされる神さまは、天にどっかりと構えたままではおられません。天でゆっくり眺めているのではなく、私たちのところにまで降りて来てくださいます。「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」そうおっしゃるとおり、主は天で落ち着いていることなく私たちがいるところに降りて来てくださるお方です。神は、落ち着かない神でいらっしゃいます。
私たちのところに来てくださる神は、私たちをみなしごにはしておかれません。私たちのところに来て、私たちをご自分のものにしてくださいます。それはまさに「あなたの情熱と力強い御業はどこにあるのですか」という祈りに応える情熱と力強さです。
今日私たちが聞いている福音は、神が情熱的なお方でいらっしゃる、ということです。神さまは冷めた心をお持ちの方ではない。情熱的で、熱く、私たちのことを放っておかないでいてくださるお方だ、ということです。
今日も神さまは情熱的な愛をもってあなたのところへ来ておられます。神はあなたに何をしておられるか、神は今どのような御業をなさっているか。私たちが問うべきは、そのことではないでしょうか。

2026年7月16日木曜日

2026年7月16日の聖句

神は我らの逃れ場、我らの力。
苦難の時の傍らの助け。
それゆえ私たちは恐れない。(詩編46:2~3)
イエスは、母とその側にいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネによる福音書19:26~27)

主イエスの母マリアが登場しています。主イエスが十字架にかけられている、その場所です。母は息子イエスが十字架にかけられている姿を目の当たりにしていました。母にとって、どんな地獄よりももっともっと辛く、筆舌に尽くしがたい悲痛のどん底ではないでしょうか。
そのどん底で、主イエスは側にいる人の弟子を示して母におっしゃいました。「女よ、見なさい。あなたの子です。」その弟子にも同じように言われます。「見なさい。あなたの母です。」主イエスが生み出す新しい家族は、十字架の下で、悲しみの淵にたたき込まれたときに与えられました。悲嘆を共にする家族です。
「神は我らの逃れ場、我らの力。苦難の時の傍らの助け。それゆえ私たちは恐れない。」詩編はそう祈ります。これは、キリストに生み出された新しい家族である私たちキリスト教会の祈りです。共に祈り、共に生き、共にキリストを仰ぎます。私たちは、自分たちの気が合うからということではなく、キリストに結ばれた家族であるからです。神が逃れ場でいてくださること、それだけが私たちの救い。神が私たちの力でいてくださること、それだけが私たちの勇気。神が私たちの苦難の中に傍らで助けとなってくださるから、私たちは恐れない。私たちは、私たちの前で十字架にかけられているキリストを仰いで、共に生きていきます。

2026年7月15日水曜日

2026年7月15日の聖句

私の心は激しく揺さぶられ
憐れみで胸が熱くなる。
私は神であって、人ではない。
あなたのただ中にあって聖なる者。
怒りをもって臨むことはない。(ホセア11:8~9)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

神さまの激しいお心の内が明かされる御言葉です。「私の心は激しく揺さぶられ、憐れみで胸が熱くなる。」神さまがご自分の心をかきむしるほどに私たちのことを思い、ご自身の胸を焦がすほどに私たちを激しく憐れみ、痛みを覚えておられることを、私たちは知っているでしょうか?私たちは、神さまのこの熱いお心の内を少しでも考えたことがあるでしょうか。
神さまは私たちを憐れみ続けてくださいます。それは、この方が人ではなく神でいらっしゃるから。神として、その思いを貫いてくださいます。聖なるお方が私たちに対して怒りではなく、憐れみを抱いて臨んでくださいます。驚くべきお言葉です。
神の憐れみは、イエス・キリストにおいてこの上なくはっきりと示されました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちの間にあって憐れみを貫く神ご自身、それがイエス・キリストです。この方が今日も私たちの間にいてくださいます。私たちと共にいてくださいます。畏れをもって、その事実を信じ、受け止めたいと願います。

2026年7月14日火曜日

2026年7月14日の聖句

見よ、主なる神は力を帯びて来られ
御腕によって統治される。(イザヤ40:10)
そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。」(黙示録21:3)

「神自ら人と共にいて、その神となる」と書いてあります。「神が人の神となる」と言っていますが、改めて考えてみると不思議な言葉です。とても卑近に考えてみると、「母は娘と共にいて、その母になる」と置き換えて考えてみる。母であればわざわざ「母になる」ということではなくそもそも母です。まして神さまです。神さまのことを私たちがどう思っていようが、あるいは私たちが信じていようがいなかろうが、そもそも神は神です。「神自ら人と共にいて、その神となる」というのは、改めて考えるととても不思議な言葉です。
これは、神さまのへりくだりの言葉です。神は私たちの神になられることを望んでくださいました。私たちが、一般的に言って神なる存在があるらしいと思ったり思わなかったりするのではなく、ほかの誰でもなくこのお方こそ私の神と信じることを望んでおられる。神は、私たちにとって「私の神、私たちの神」となることを望んでくださいました。私たちと関係を結び、私たちが神を神らしく敬うことを願っておられるのです。
「見よ、主なる神は力を帯びて来られ、御腕によって統治される。」今日の旧約の御言葉はそのように言います。主なる神さまの支配、統治。新約の言葉で言い直せば「神の国」です。私たちは神の国に生きる神の民。その事実を自分事として受け入れる神の民として生きる。神は私たちの神として、そのことを私たちに望んでおられます。
今日、神の民として生きるというのは、あなたに何を意味しますか?あなたはどうやって神を崇めて今日の日を生きますか?この世界の支配者があなたと共におられます。あなたの神として。その事実はあなたをどのように新しくしますか?

2026年7月12日日曜日

2026年7月12日の聖句

今週の聖句:
あなたを造られた主は言われる。
恐れるな。私があなたを贖った。
私はあなたの名を呼んだ。
あなたは私のもの。(イザヤ書43:1)

今日の聖句:
主よ、あなたは弱い者の砦
苦難の中にある貧しい者の砦
豪雨を避ける逃れ場
暑さを避ける日陰となられる。
横暴な者たちの勢いは壁を叩く豪雨。(イザヤ25:4)
ヘロデが死ぬと、主の天使が、エジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、幼子とその母を連れ、イスラエルの地へ行きなさい。幼子の命を狙っていた人たちは、死んでしまった。」(マタイ2:19~20)

主は、弱い者のための砦になってくださいます。主が、御自ら弱い者を守ってくださいます。何という慰めでしょう。主は苦難の中にある貧しい者の砦です。何と確かな救いでしょう。主は、私たちが熱い日差しで弱り果ててしまわないように、御自ら日陰になってくださいます。主が私たちのための盾となり、壁となり、葉の生い茂る木になって守ってくださるのです。例え誰が私たちに襲いかかり、苦しめるとしても、私たちは大丈夫。主が私たちの砦でいてくださるから。
主ご自身がヘロデの魔の手の迫るときに幼子として私たちの間に宿ってくださいました。主の守りは、苦しむ私たちのところに、確実に伸ばされています。主は必ず私たちと共にいてくださいます。このお方の支えは確実なのです。

2026年7月11日土曜日

2026年7月11日の聖句

静まれ、私こそが神であると知れ。(詩編46:11)
舟の中にいた人たちは、「まことに、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。(マタイ14:33)

私たちの毎日の暮らしは、舟に乗って湖に漕ぎ出した弟子たちと同じです。彼らは岸から漕ぎ出し、陸からずいぶん離れたところで逆風に遭って悩まされていました。そこに主イエスが水の上を歩いてこられた。ところが彼らはそのお姿を見て「幽霊だ」と言って怯えたのです。恐怖のあまり叫び声を上げたのです。
私たちもこの弟子たちの一人です。小さな舟に吹き付ける逆風。自分たちではその風を押しとどめることはできないし、安全な岸に帰ることもできない。主イエスはそんな私たちとも共にいてくださるのに、そのお姿を見ているはずなのに、結局は自分の小さな理解の枠に押し込めようとして、結局は「幽霊だ」と言って分かって気になって怖がっている。要するに信じていないのです、主イエスを。イエスこそ私を救う神だと信じていない。それが私たちの姿ではないでしょうか。
主イエスはそんな私たちに向かって、しかし「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言ってくださいます。恐れずに信じろ、と主は言われます。
私たちの内も外も、逆風ばかりです。子育ても介護も、自分の健康の変化も、加齢も、そうではないでしょうか。いろいろな逆風が襲ってくる。それだけではなく、キリストを信じるがゆえの逆風もある。しかしそういうどんな嵐の中でもキリストは私たちのところへ来てくださっているのです。御言葉を語ってくださっています。だから、静まって、この方こそ神であることを知る。それが私たちにとって一番大事なことです。「静まれ、私こそが神であると知れ。」主は私たちにそう語りかけておられます。

2026年7月10日金曜日

2026年7月10日の聖句

手の及ぶことはどのようなことでも
力を尽くして行うがよい。(コヘレト9:10)
そして、言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

私たちが今日口に上らせる言葉も、私たちの手や足がすることも、どのようなことであっても「主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい」と聖書は私たちに命じています。
主イエスの名によって語り、行動するというのはどういうことでしょうか?イエスによって父なる神に感謝するとは?少し細かい話になりますが、コロサイの信徒への手紙を原文ギリシア語で読んでみると、このように書かれています。「すべてを主イエスの名の内で行い」「彼を通して父なる神に感謝しなさい」。
主イエスのお名前の内で、その中で、と言っています。日本語には無い表現の仕方ですが、とても面白い言い回しだと思います。主イエスさまのお名前にすっぽり包まれるようにして、その中で生き、語り、行動する。そうすると、私たちの話す言葉やするべきことを決める基準は、私を包み込んでいるイエスのお名前ということになるはずです。イエスのお名前を蔑ろにしてはイエスの御名の内にいることになりませんから。私の今日一日の生き方は、イエスのお名前の中にあるものとしてふさわしいのか?
また「イエスを通して父なる神に感謝しなさい」と言います。今度は、イエスを通って、イエスを通過して父なる神に感謝を献げる、というイメージだと思います。他のどこかを通るのではなく、ただイエスを通って行く。登山にたとえて考えてもいいかもしれません。近道っぽく見えるところを通ると、却って遭難のリスクが増えます。ちゃんと山道を通らないといけない。それらしいものではなく、正規の道を通ることが大切です。私たちは神に感謝を献げ、神に礼拝を献げるために、イエス以外の道を通ることはできないのです。
私たちの言葉も行いも、神に献げる感謝も、その基準は主イエスさまです。主イエスの中で、主イエスを通って、私たちは神と出会う。イエスこそ私たちのすべてです。

2026年7月9日木曜日

2026年7月9日の聖句

秘密を啓示する神が天におられます。(ダニエル2:28)
神は彼らに、この秘儀が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようとされました。この秘儀とは、あなたがたの内におられるキリスト、すなわち栄光の希望です。(コロサイ1:27)

今日の聖書の御言葉には「秘密」とか「秘儀」とか書かれています。ここでとても興味深いのは、「秘密を啓示する」とか「秘儀が異邦人の間でどれほど栄光に満ちたものであるかを知らせようと」と書かれていることです。どちらも「啓示する」や「知らせる」とある。つまりこの秘密や秘儀は秘められたままのものではなく、啓き示され、知らされるべきものだと言っている、ということになると思います。
世の中にはおかしな教えを垂れる「教会」が登場することがあります。まるで自分たちだけが神の秘儀を知り、他の人は知らない秘密を知っているかのように振る舞う。
以前はやった「ダビンチ・コード」という映画もそういう類の陰謀論のようなものを背景としていたようですし、私たちの生活に身近にいるところで言えば「エホバの証人」と呼ばれる異端的なグループも、ある一部の統治する者たちこそが神の秘儀を知るという立て付けになっているようです。私は今日の聖書の御言葉を読んで、そのようなものに惑わされてはならない、と感じました。
神さまはご自身の秘密や秘儀を私たちに知らせてくださるお方です。イエス・キリストというお方によって。キリストとその御言葉に目を注げば、私たちが知るべき事は全部明らかになる。それが聖書のメッセージです。神さまのこと、救いのこと、そういう私たちに不可欠な救いのメッセージはすべてキリストと共にある。他の神の言葉は、私たちには必要ない。キリスト集中。それが私たちの信仰です。

2026年7月8日水曜日

2026年7月8日の聖句

主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。(民数記23:12)
(イエスの言葉)あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

主が私たちに授け、私たちが互いに語り合うべき新しい起きて。それは「互いに愛し合うこと」です。主イエス・キリストは私たちに、ご自身が私たちを愛してくださったように互いに愛し合うように、とお命じになりました。私たちの生きる指針はここにある、と主は言われます。
「互いに愛し合う」というのは、私たちの中では消費され尽くした感がある言葉なのかもしれません。愛することが大事だとか、愛の関係が貴いとか、どこででも聞ける言葉です。誰でも知っているようなことです。そして「きれい事」で済まされてしまう言葉でもあるように思います。
しかし、主イエス・キリストは「私があなた方を愛したように」と言われます。主ご自身が実際に私たちを愛してくださったことをまねして愛し合え、と言われるのです。
主は、私たちのために身をかがめて足を洗ってくださるお方です。主は私たちの責めや侮辱を引き受けてくださいました。主は私たちの裏切りに対して、諦めや呪いの言葉で返すのではなく、私たちを神さまの御許へ連れ帰ってくださいました。同じようにあなたがたも互いに愛し合いなさい、と主は言われます。
主イエスの語る「愛」は絵空事ではなく、ご自身が私たちのために実際に示してくださった愛です。私たちはキリストの愛以外の場所からは出発しない。キリストが私たちにしてくださった愛だけが私たちの道標です。ですから私たちはまず、自分がこれまで見聞きしてきたことから「愛らしきもの」を思ってその成否を考えるのではなく、愛そのものでいらっしゃるキリストに目を向けることが大事なのです。キリストが私にしてくださったことが愛なのであって、他には私たちのよすがはないのです。

2026年7月7日火曜日

2026年7月7日の聖句

わが神、主よ
あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった。(ヨナ2:7)
ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。(使徒9:34)

アイネアは体が麻痺して八年前から床に就いていました。ペトロが彼の住むリダの町にやって来て、主イエス・キリストの御名で彼を癒やしたのです。「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」。こうして彼はすぐに起き上がり、町の人々はこのようすを見て主に立ち返りました。
ペトロの宣教は、主イエスがなさっていたことそのままだった、ということなのだと思います。御国の福音を宣言し、人々に教えて主の弟子とし、あるいは病を癒やした。主がしておられたことをペトロもし、それを見て人々は主に立ち返ったのです。私たちにも同じことが託されています。私たちには主イエスがなさり、あるいはペトロがしたような奇跡を起こす力はないかもしれません。しかし出会う人の癒やしのために祈ることやその痛みに寄り添うこと、共に生きることはできます。そういうことを通して、主は御業を起こしてくださいます。
私たちは、話す言葉や手足を使ってする一つひとつのことを通してキリストを証しします。主イエス・キリストは私たちのところへ来てくださり、神の国を宣言した。神の国はキリストの福音が届けられるその場所で始まっている。神さまが私たちを滅びから救うための御業は始まっているし、私たちはそのために神さまに遣わされているのです。今日あなたも、です。

2026年7月6日月曜日

2026年7月6日の聖句

あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおり、守り行わなければならない。右にも左にもそれてはならない。(申命記5:32)
(イエスの言葉)「私に仕えようとする者は、私に従ってきなさい。そうすれば、私のいる所に、私に仕える者もいることになる。」(ヨハネ12:26)

「私に仕えようとする者は、私に従ってきなさい」と主イエスは言われます。主イエスさまに従うというのは、主の命じるように生きる、ということです。主が私たちに願っておられるように実際にしてみる。それが、キリストに従うということでしょう。
今日の旧約の御言葉でも「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに、守り行わなければならない」と言われています。主が命じられたとおりにとあります。私たちにとって大事なことは主が何とおっしゃっているのか、ということではないでしょうか。聖書の御言葉が大事なのではないでしょうか。あるいは別の言い方をすれば、聖書が証しするキリストが私たちに何と言っておられるか、ということが大事なことではないでしょうか。
聖書の御言葉こそ、私たちの生命線です。聖書に聞くことからすべてが始まるのです。右にも左にもそれることなく、聖書に。そうやって主に従うことで、私たちはキリストに仕える者として生きるのではないでしょうか。
キリストは、今日も私たちと出会おうとしてくださっています。そのために私たちに御言葉を届けてくださっています。私たちと出会い、「私に従え」とキリストは聖書を通して語りかけてくださっている。この出会いの出来事が日ごとに新しく私たちに起こりますように。

2026年7月5日日曜日

2026年7月5日の聖句

今週の聖句:
あなたがたは恵みと信仰によって救われたのです。あなたがたの力ではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

今日の聖句:
母の胎にいたときから
あなたはわが神。(詩編22:11)
(パウロのテモテへの手紙)また、あなたの抱いている偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。(2テモテ1:5)

主は私たちがまだ母の胎にいるときから憶えていてくださり、生まれたときにはすでに私たちをご自分のものとしてくださっていました。私たちが「この神を信じよう」と選んだのではなく、神が私たちをご自分の民として選んでくださいました。神さまの選びが先にある。母の胎にいるとき、もう既に!
私たちの基準で「選ぶ」ということを考えると、とてもスケールが小さくなるように思います。これを選んだときに自分にとってどんな得があるか、役に立つか。選んだ意味があるのか。特に今は商品にしてもテレビドラマにしても、どれを選んだらいいのかという情報が溢れています。無駄なことはしたくない、という気持ちも強くなります。
神さまの選びは、私たちの思いをはるかに超えています。まだ母の胎にいるときに、私たちの目で捉えることのできない小さな細胞一つでしかなかったときに、神が既に私をご自分のものと選んでくださった。私の有用性や評判とは関係などよりもずっと先の段階で、神さまが選んで、キリストのものとしてくださっていた。
私たちはこのお方の慈しみの深さを信頼し、このお方に身を委ねるだけです。

2026年7月4日土曜日

2026年7月4日の聖句

その時、私は主の声を聞いた。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(イザヤ6:8)
こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストに代わって使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神の和解を受け入れなさい。(2コリント5:20)

神さまは今日、問うておられます。「誰を遣わそうか。誰が私たちのために行ってくれるだろうか。」私たちは主の御声を聞き、どうするのでしょう。主に遣わされて、主のために仕えましょうか?
もし今、主に「ここに私がおります。私を遣わしてください」と応えて今日の一日を献げるのであれば、主は私たちをご自身の使者として、御言葉を託そうとしておられます。「神の和解を受け入れなさい」と。キリストにあって神が下さった和解の福音をこの世界に届けるために、神は私たちの口を通して語ろうとしておられます。私たちの手を通して神の和解の福音をこの世界に起こそうとしておられます。私たちの隣人が神との和解に生きるために、神さまはあなたを必要としておられます。
イザヤも、パウロも、そのために身を献げ、神に仕えました。隣人のために福音を届けました。神は「誰が私たちのために行ってくれるだろうか」と、使者として今日の日を献げる人を求めておられます。あなたは、今日という日をどのように生きますか?

2026年7月3日金曜日

2026年7月3日の聖句

主が語ると、そのよう成り
主が命じると、そのように立った。(詩編33:9)
(イエスは)天を仰いで呻き、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。(マルコ7:34~35)

この人は耳が聞こえず口の利けない人でした。主イエスのところへ連れてこられた。主は彼の両耳にご自分の指を差し入れ、それから唾を付けてその舌に触れられて、天を仰いで「エッファタ」と言われた。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになった。」
印象深いのは、主イエスがおっしゃった「エッファタ」という言葉の音が私たちに伝えられていることです。マルコはこの出来事を私たちに伝えるときに、単に「開け」という意味だけを伝えるのではなく、主がおっしゃったお言葉の響きをも伝えました。なぜでしょう。
耳が聞こえず、口も利けない人。この時代のユダヤに手話はあったのでしょうか。調べたことがないので確かなことは分かりませんが、恐らくまだなかったのではないかと思います。そうすると、コミュニケーションの手段は、身振り手振りや接触が主だったでしょう。今日も、わけも分からずに連れてこられたところに主イエスがおられた、ということだったのではないかと思います。彼は、閉ざされた世界に押し込められていた。しかし、主イエスの声が彼の世界を開きました。「エッファタ」。これこそ彼が初めて聞いた言葉です。この人が生まれて初めて聞いた音は主イエスの声です。マルコは、その主イエスの声の響きを私たちに届けたかったのではないかと思うのです。
私たちにも、同じ主イエスの御声が響いています。私たちのために救いの世界を開く御声です。「エッファタ」と、主は今日あなたのためにも語りかけてくださっています。

2026年7月2日木曜日

2026年7月2日の聖句

主なる神よ、あなたの大いなる業によって贖い出したあなたの所有の民を滅ぼさないでください。(申命記9:26)
(ヨセフへの天使の言葉)「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイ1:21)

今日の旧約に「贖い出した」とあります。これは「代価を支払って買い戻す」という意味の言葉です。さらに言い直せば、「購入した」ということでしょう。主なる神さまが購入した民、神さまが代価を支払って買った民。ですから、民は神さまのものです。神さまが買い取った以上は神さまのものに他ならない。そして、今日の旧約の御言葉は、あなたが買い取ってあなたの所有物となったあなたの民をどうか滅ぼさないでください、と祈っているということになります。
神さまはご自分の民として買い取った者たちが、ご自分のものとして全くふさわしくない生き方を繰り返しているのをずっとご覧になっていました。主人を知らず、あるいは裏切り、背を向けて生き続けてきた。そして、イスラエルの歴史は、神さまを蔑ろにしながら結局は自ら滅びに飛び込んでいくようなものでした。
ところが、最後の最後に神さまはご自分の民を滅ぼさないために、主イエスをお送りくださった。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」イエス。このお方がご自分の民を罪から救ってくださる。神のものである民を、まさに神の民として買い戻してくださる。そのために神は主イエスをお与えくださいました。
今日、私たちも考えたいと思います。私は、神に買い取られた神の所有物だ、と。その事実は今日一日の私たちの生に何をもたらし、何を始めるのでしょうか?

2026年7月1日水曜日

2026年7月1日の聖句

今月の聖句:
公正を水のように
正義を大河のように
尽きることなく流れさせよ。(アモス5:24)

今日の聖句:
主を畏れることは知恵の初め。(箴言1:7)
あなたがたは、信仰の内にあるかどうか、自分を試し、自分を吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。あなたがたの内にはイエス・キリストがおられるのです。(2コリント13:5)

自分を知る、というのは難しいことです。「汝、自身を知れ」という格言が古代ギリシアには既にあったと聞きます。現代でも、特に思春期から青年期にかけて多くの人が自分に問うことでしょう。ただ、どんな年齢になっても、あるいはどんな時代になっても、その問いに満足に答えることはとても難しいのではないか、と思います。私たちの内の一体どれだけの人が「自分を知っている」と真実に言うことができるのでしょうか。
聖書は驚くべきことを言います。「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。あなたがたの内にはイエス・キリストがおられるのです。」あなたは、あなた自身の内にキリストがいてくださる者。それがあなただ、と言います。そういうあなたであることをあなたは知らないのか?
これは、私たちの「自分を知る」を巡る考え方を一変させる言葉です。キリストとの関わり以外では、私たちには本当の意味で自分を知ることができません。しかしキリストが我が内にいてくださっているという事実から「私」を見つめ直すなら、それほど確かなことはないのです。
だから、パウロは「あなたがたは、信仰の内にあるかどうか、自分を試し、自分を吟味しなさい」と言います。キリストが内にいてくださる者として、信仰の内に生きるということが自然な生き方ではないか、と言うのです。神を信じて生きるとき、私は最も私らしく生きられる。すばらしい福音です。

2026年8月15日の聖句

さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。 私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。(詩編95:6) そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(ルカ17:16) 主イエスがエルサレムに向かう旅をしておられた途上で、10人の皮膚の病にかかった人た...