2026年8月31日月曜日

2026年8月31日の聖句

(ヤコブによる神への賛美)「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」(創世記28:22)
喜んで与える人を神は愛してくださいます。(2コリント9:7)

カンバーランド長老教会の信仰告白ではこのように告白しています。
「神が人類に委ねたすべてのものを、ふさわしく定期的にささげることは献身の行為であり恵みの手段である。教会に対する、また教会を通してのささげものは、すべての信仰者の特権である。ささげものに対する聖書の指針である十一献金は信仰の冒険であり、豊かに報いられる業である。十一献金者は、神の恵みを経験するだけでなく分かち合う恵みをも経験するのである。」
この告白の根拠となる聖書の御言葉の一つが、今日の旧約の御言葉です。「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
この言葉をヤコブが口にしたのは、ベテルという場所でのことでした。ヤコブは父を欺き兄エサウの怒りを買い、家にいられなくなってしまった。母の実家を目指して荒れ野を旅したとき、石を枕に野宿をしました。その夜ヤコブは先端が天にまで達する階段があって天使が上ったり降ったりしているのを夢に見ました。その夢を通して、ヤコブは主がここにもいてくださることを知りました。ヤコブは神を賛美して言ったのです。「私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。」
ヤコブのささげ物は、誰が私を捨てても私を見捨てないでいてくださる神の愛への応答です。父をも兄をも裏切り、家にいられなくなってしまうような私をも神が憐れんでくださっている事への感謝の表れです。神の恵みがまずあって、それに応えるヤコブの一途な思いです。
私たちは、神の恵みをどのように味わっているでしょうか?「まだ足りない」と不満を抱いて生きるのか、あるいはこのような私への神の憐れみに感謝を献げるのか?静かに祈り、受け止めなおしたいと思うのです。

2026年8月30日日曜日

2026年8月30日の聖句

今週の聖句:
(キリストの言葉)この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである。(マタイ25:40)

今日の聖句:
主の使いがエリヤに触れ、「起きて食べなさい。この道のりは耐えがたいほど長いのだから」と言った。(王上19:7)
(嵐の中でのパウロの言葉)「どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。」(使徒27:34)

今日の御言葉はどちらも絶望している人への言葉です。預言者エリヤはイスラエルの国を支配していた恐ろしい王妃イゼベルに命を狙われていました。逃避行に疲れたエリヤは神さまに言っています。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください。」
嵐の中でパウロが語りかけたのは、パウロが囚人として護送されていた船が暴風で難船したときに一緒にその船にいた人々です。すさまじい暴風のために船は破損し、嵐の中で生きる望みは絶たれていました。人々は14日間も不安に過ごし、殆ど食事することができずにいたのです。
主の使いはエリヤに「起きて食べなさい」と言います。パウロは船の人々に「どうぞ何か食べてください」と言います。絶望して生きる望みを失い、食べる気力を失った人に、神さまは「食べなさい」と語りかけてくださるお方です。それは、神さまが私たちの命を気にかけていてくださる、ということではないでしょうか。
私たちの進む道のりは、時に、私たちには耐えがたく長いものになります。どうなるか見通しが立たず、不安で、迷ってしまう道になってしまいます。その道を共に歩んでくださるお方がおられます。私たちと同じ、お腹が減る肉体を持った方です。食べなければ体力がなくなり、どんどん弱ってしまう肉体。食欲がなく、食べても美味しいと感じられず、心の弱さと肉体の弱さが直結していることを誰よりもよくご存じのお方です。
今日私たちがつく食卓に、そのお方は共にいてくださいます。私たちの箸の上げ下ろしも、主イエス・キリストの御手の中にあるのです。

2026年8月29日土曜日

2026年8月29日の聖句

私は苦しむ者、貧しい者。
わが主が顧みてくださるように。(詩編40:18)
(パウロの言葉)私は貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹することにも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(フィリピ4:12~13)

使徒パウロは本当にこの言葉のとおりの人物で、そうであるからこそ信仰が血肉に宿っていたのだなと思います。あるときは貧しくあるいは豊かに暮らし、満腹することも飢えることも知っていた。有り余ることも乏しいことも、他のありとあらゆる境遇を生き、そしてキリストにより頼んで対処しました。パウロは本当にすごい信仰者だと思います。私は、すぐに「あれが足りない」「これがダメだ」と不満を持ったり、周囲の人や環境のせいにしてしまいがちです。ところがパウロは、主イエス・キリストを信じる信仰によって、自分の境遇を受け止めなおし、神さまに依り頼んでいたのではないでしょうか。
もしも「私は苦しむ者、貧しい者。わが主が顧みてくださるように」という詩編のとおりに、主が顧みてくださるということだけに私たちの思いが向くのなら、それはとても幸いなことです。ルカによる福音書第6章を見ると、主ご自身が「貧しい人々は、幸いである」「今飢えている人は、幸いである」「今泣いている人々は、幸いである」とおっしゃっています。キリストが神の国を来たらせ、キリストが満たし、キリストが笑いを与えてくださるからです。
私たちの生活の一つひとつのことを、豊かさや貧しさ、今日のご飯のことも含めて、そのすべてをキリストに委ねましょう。キリストの下さる神の国を待ち望み、キリストが満たしてくださることを待ち望み、キリストが私にも与えてくださる笑みをこそ求めましょう。キリストこそ私たちのただおひとりの救い主です。

2026年8月28日金曜日

2026年8月28日の聖句

主よ、私に代わって争い、私を贖い
あなたの仰せのとおりに私を生かしてください。(詩編119:154)
(イエスの言葉)「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」その時、女は治った。(マタイ9:22)

今日与えられている二つの御言葉ですが、旧約と新約とが少し矛盾しているように感じられます。旧約のほうでは「主よ、私に代わって争い」と言っています。主が私に代わってくださって、主ご自身が争ってくださいますように、と言っている。ところが新約のほうでは、主イエスが「あなたの信仰があなたを治した」とおっしゃっています。ここでは「あなたの信仰が」ということで、私たちの側の信仰がものを言っているようにも見えます。そうすると、旧約の御言葉とは矛盾しているように感じられます。どういうことなのでしょうか?
主イエスに「娘よ」と呼ばれているこの女性ですが、マタイによる福音書を開いてみると12年間も出血の止まらない病(つまり婦人病と思われますが)、に苦しんできた人でした。マタイが伝えているところによると、彼女は後ろから主イエスに近寄り、その衣にでも触れれば治していただけると信じて手を伸ばした。主イエスはそんな彼女をご覧になって「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した」と言ってくださった。つまり、このお方には私を癒やす力があると信じたところに彼女の信仰があった、ということになると思います。
そうすると、私たちの「信仰」というのは、私たちの信じる力のことではないということではないでしょうか。私たちは自分の信じる力や敬虔な生き方によって自分を救うのではない。私たちの祈りの力強さが私たちを助けるのではない。主イエスこそが私を救ってくださるお方だと信じて、主に頼り切ること。それこそが私たちの信仰です。
そうすると、今日の新約は旧約とぴったりと重なっていることに気付きます。主ご自身が私たちのために、私たちに代わって戦ってくださる。そのお方だけが私を救ってくださるまことの神。私たちはこのお方を信じます。

2026年8月27日木曜日

2026年8月27日の聖句

私の民を良いもので飽かせるーー主の仰せ。(エレミヤ31:14)
私の神は、ご自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスにあって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(フィリピ4:19)

主イエス・キリストは私たちに教えてくださいました。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈れ、と。私たちは自分のご飯のため、自分たちが食っていくために祈っていいし、むしろそういう祈りをするようにと主ご自身がお教えくださったのです。糧のための祈りは決して低俗な祈りではありません。私たちにとっては大事でも神さまから見たらどうでもいいような祈り、ではないのです。
「私の民を良いもので飽かせる」と主は約束してくださいました。必要に事欠き、食べるに困る者のための糧を本当に心配して準備してくださるのは、誰よりも主なる神さまです。思えば、私たちは、自分の糧以外のものはあまり本気で心配しないのかもしれません。ちょっと気になったり、時に大丈夫かなと思ったりはします。しかし、地球のどこかにいる、私たちがまだ会ったことのない人の今日のご飯の心配はあまり心に掛けていないのではないでしょうか。ところが神さまは、ご自分の民すべての者のために良いものを準備し、それによって飽きるほどに豊かに与えよう、と言われるのです。
私たちの家の冷蔵庫でいつの間にか腐ってしまった野菜は、今日食べるものがない人たちのためのものでした。私たちが食べないままに残してしまったおかずは、本当は今飢えている人たちのためのものでした。私たちは、すべての人のために良いものを準備してくださる神さまの手となり、足となりたい。分け合うことで神の愛を少しでも実現したい。キリストは私たちに豊かに与えてくださいました。ご自身の栄光の富に応じて与えてくださいました。その豊かさを映す鏡として生き、また祈りたいのです。「<我ら>の日用の糧を、今日も与えたまえ!」私もそのような者にならせてください、と祈ります。

2026年8月26日水曜日

2026年8月26日の聖句

(主の言葉)彼は私を慕う。
私は彼を助け出そう。(詩編91:14)
(イエスの言葉)私がお願いするのは、彼らを世から取りさることではなく、悪い者から守ってくださることです。(ヨハネ17:15)

使徒パウロがフィリピの信徒への手紙の中でこのようなことを言っています。「私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、実は、この方がはるかに望ましい。しかし、肉にとどまるほうが、あなたがたのためにはもっと必要です。」世を去りたい、そしてキリストと共にいたい。この思いと、生きてあなたたちのために働く必要があるという二つの事の間で自分は板挟みになっている、とパウロは言います。どちらを選んだらいいのかパウロ自身にも分からないのです。
今日の新約の聖句、主イエスの御言葉を読んで、パウロのこの葛藤を思い出しました。パウロほど信仰に根ざした思いでなくても、私たちにも、世から取り去られてしまいたいと願うことはあるかもしれません。
私たちには世で苦難があります。あまりにも苦しくて、もう十分だ、もうたくさんだ、もう終わりにしたいとしか考えられないことがある。主イエスはそのようなときに私たちを世から取り去ってはくださいません。「もう十分だ」と私が思っても、神さまのタイミングは違っている。しかし、キリストはそんな私たちを悪い者から守ってくださいます。この世にあって、キリストご自身が私を守ってくださる。その約束は確かです。
あなたには神がお与えになったこの世での使命がある。隣人に傾ける愛、あるいはこの地にあって献げるべき祈り。キリストはご自分の使者として、この世へと今日あなたを遣わしておられるのです。大いなる守りの中で!

2026年8月25日火曜日

2026年8月25日の聖句

私はいと高き神に
私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。(詩編57:3)
(イエスの言葉)今までは、あなたがたは私の名によっては名にも願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。(ヨハネ16:24)

今日の旧約聖書の詩編第57編には標題が付いていて、そこには「ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき」と書いてあります。サウル王の臣下であったダビデは、王の激しい妬みを買って命を狙われていました。ダビデは王の手から落ち延びて逃亡生活をします。あるとき、ダビデはアドラムという所にある洞穴に隠れて難を逃れました。その後、ダビデは国外へ逃亡し、モアブ王の庇護を求めることになります。状況は極めて悪かった。今朝の詩編はそのようなときの歌として記録されているものです。
この詩編はこのように始まっています。「私を憐れんでください。神よ、私を憐れんでください。私の魂はあなたのもとに逃れました。災いが過ぎ去るまであなたの翼の陰に私は逃れます。」そして今朝の箇所に続きます。「私はいと高き神に、私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。」
ダビデには、神さましか頼るべき存在がありませんでした。そしてこのような逃避行の中、神さまはダビデのために仲間を与えてくださいました。それは、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者などおよそ400人でした。「400人」というとたくさんいるようにも聞こえますが、一国の王に狙われている立場としては僅かな味方です。しかし、神さまはこれからの長い逃避行のすべてにおいて、ダビデのために御業を成し遂げてくださいました。
私たちは苦難の中でどのように祈るのでしょうか。主にあって、神を信じ期待して神に呼びかけているでしょうか?主イエスは、主ご自身のお名前で祈れと言ってくださいます。どのようなときにも神は必ず私たちの祈りを聞いてくださいます。神の子イエスのお名前で祈ることを許されているのですから。信じて、期待して、祈りましょう。祈り続けましょう。

2026年8月24日月曜日

2026年8月24日の聖句

(神の言葉)これから私が新しいことを聞かせよう
あなたの知らない秘められたことを。(イザヤ48:6)
(アテネの人々は)死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。(使徒17:32)

パウロがアテネを訪れて伝道したときのことです。最初、アテネの人々はパウロの言葉に喜んで耳を傾けました。珍しい外国の神の話をしてくれると、興味深くその話を聞いたのです。ところがパウロが主イエスの復活の話をし始めると、状況が突然一変してしまいます。「死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。」彼らは誰も復活の言葉に耳を傾けることなく、それどころか嘲笑してどこかに行ってしまいました。アテネの人たちにとっては「死者の復活」などは馬鹿げた与太話に過ぎなかったのです。
しかしそれは、アテネにいたギリシア人だけのことではないでしょう。私たちの社会でだって、死者の復活などは馬鹿げた与太話です。しかしそこにこそ、私たちを救う神の福音はあるのです。
神さまの福音は私たちにはまったく新しい話、私たちの知らなかった話、私たちには予期することのできない話です。だから、私たちの常識からしたら馬鹿げた与太話にしかならないのではないでしょうか。しかし、そこにこそ神の知恵があり、神の力がある。神は私たちを想っても見なかった福音によって救ってくださるのです。

2026年8月23日日曜日

2026年8月23日の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消すことがない。(イザヤ書42:3)

今日の聖句:
主が彼らに乾いた地を行かせるときも
彼らは渇かなかった。
主は彼らのために岩から水を流れ出させた。(イザヤ48:21)
よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:41)

「岩から水を流れ出させた」というのは、私たちからしたら全く不可能なことです。乾いた地、荒れ野の岩から水を流れ出させる。私たちには思いもつかないし、私たちにはできないことです。
しかし、主なる神さまはその不可能なことをしてくださいます。私私たちのために想像も付かない御業を行ってくださいます。私たちを渇かせることなく、私たちを生かすために、神が御業を進めてくださる。
主は、私たちに水を与えるために、共に生きる隣人を私たちに与えてくださいました。隣人の愛の手を通して、神は私たちが生きるための水を与えてくださいます。「よく言っておく。あなたがキリストに属する者だという理由で、一杯の水を飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」今日、私たちがこの世界で生きることができるのは、そのようにして私たちのための神の恵みの御業を担ってくれる隣人が与えられているからです。

2026年8月22日土曜日

2026年8月22日の聖句

私の舌はあなたの仰せを歌います。
あなたの戒めはすべて正しい。(詩編119:172)
同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:10)

私たちの口から出る言葉、私たちの舌に上ってくる言葉が神を賛美する言葉でありますように。そして、主ご自身の言葉が私たちの歌でありますように。「私の舌はあなたの仰せを歌います。」私たちも、神の言葉を歌って神をほめたたえる者でありたい、と願います。
神の言葉は、私たちに新しい将来を開く言葉です。私たちの狭くて浅い知恵では計り知れない、神が造り出す新しい出来事を私たちに幻によって見せる言葉です。だから、そのような言葉は「歌」によってでしか私たちが知ることのできないのです。私たちの知恵に収まる散文によって説明することはできない。歌によって、賛美によってでしか私たちには口にすることのできない言葉です。
大きな神さまを仰ぎ、神さまの自由な御業に期待をし、ただこのお方を賛美して待ち望む。そういう祈りの内に今日の日を過ごしていきたい、と願います。

2026年8月21日金曜日

2026年8月21日の聖句

主に贖い出された者たちが帰って来る。
歓声を上げながらシオンに入る。
その頭上にとこしえの喜びを抱きつつ。
喜びと楽しみが彼らに追いつき
悲しみと呻きは逃げ去る。(イザヤ51:11)
あなたがたは、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたの信仰の目標である魂の救いを得ているからです。(1ペトロ1:8~9)

今日の旧約の御言葉は、今現に悲しんでいる人への言葉です。故国を失い、遠くバビロンの地に捕囚として連れ去られた者たち。しかも、それからすでに何十年も経過している。捕囚地で生まれた二世や三世の時代に変わっていく。世界史的な政情の激変によって捕囚から解放されるという知らせはもたらされたものの、故郷には何千キロという距離があり、その間には砂漠が広がっています。そういう者たちに対して「歓声を上げながらシオンに入る」という途方もない幻を見せる言葉が今日の御言葉です。
神さまの救いの御業は、私たちからしたら途方もないものです。私たちの常識からしたら絵空事です。
今は教会が加速度的に弱体化しています。いい話なんて殆ど聞こえてきません。人が少ない、増して若い人がいない、奉仕者が不足している、誰も教会なんて見向きもしない・・・。そのように「もう無理だ」という理由を挙げればいくらでもあります。しかし、預言者は言います。「喜びと楽しみが彼らに追いつき」と。「彼ら」つまり神の民の方が先に進むのです。神の見せてくださる幻、この世界の救いの幻を追い求めて私たちが歩むとき、喜びや楽しみの方が後になって追いついてくる。民の歩みはその先を進みます。神は、必ず自由と解放の御業、私たちを一つの民とする救いの御業を実現してくださる。それを信じて、生きよと主は私たちに言われます。

2026年8月20日木曜日

2026年8月20日の聖句

わが住まいは彼らと共にあり、私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。(エゼキエル37:27)
言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。(ヨハネ1:12)

主は私たちの神となり、私たちをご自身の民としてくださいます。私たちは神の民、神の国の国民、神の御支配によって生きる者たちです。それは、神さまのお住まいが私たちの間にあるということだ、と聖書は言います。
夏の教会の行事で、ボーイスカウトやガールスカウトのキャンプが行われています。私は今年いくつかのキャンプに参加しています。スカウトたちと寝食を共にします。そうでないと知ることのできない子どもたちの様子が見えてきます。同じ場所に寝起きして生活すると、お互いが近くなる。大雨もトラブルも一緒に経験します。まして神様は、ほんの数泊のキャンプを一緒にしたというのではなく、住まいそのものを私たちの間に定めてくださいました。一緒に泊まったのではなく、一緒に住んでくださいました。私たちが生きている生活の場所に神さまは来てくださり、そこに留まって、私たちがいる場所をご自分の住居にしてくださった、というのです。
この神をあなたは受け入れるのか、と聖書は今日私たちに問いかけています。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。」神の言であるイエス・キリストは、私たちの間に宿ったこのお方を受け入れた者を神の子としてくださいます。私たちの間に住んでいてくださるこのお方を、私たちも愛し、敬い、信じていく。私たちは神の住まいで生きる神の子にしていただいたのです。

2026年8月19日水曜日

2026年8月19日の聖句

主の日が来る、それは近い。(ヨエル2:1)
だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。(マタイ24:44)

主の日、それは主が再び来られてすべてのものを裁かれる日です。私たちの行いも、私たちも社会も、そのすべてが良きにつけ悪しきにつけ神の裁きを受けるべき日。やがて来たる完成の日、すべてが神の御心によって問いに付され、その答を求められる日です。
聖書は「主の日が来る、それは近い」と言います。私たちの営みは、ただ人間の思惑や偶然だけが積み重なっていくものではない。あるいはただ強い者がいい思いをしたり、たまたま成功した者が正義を名乗って済むのでもない。主の日が来るというのは、神の義だけが永遠の基準であって私たちの営みは相対的な価値しか持たない、ということです。この世での「成功者」や「強者」も、そうではない者と共に神の前で裁かれるときが来るのです。
「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」と主イエスは言われます。すべてを裁くために、キリストが再び来られる。キリストを信じるというのは、このお方が裁き主として来られることを信じ、この方を迎える準備して生きるということです。私たちは、世の中が準備した勝者の都合に合わせた基準に「然り」とは言いません。この世の力ある者たちが勝手に決めた、人間の貪欲を正当化する価値に賛成しません。再び来られるキリストの前で本当に価値のあること、キリストが私たちに教えてくださった貴いものを求めて生きていきます。私たちは、必ず来る主の日に備えて生きていく。
キリストを待ち望む信仰を、今日、新たにしましょう。

2026年8月18日火曜日

2026年8月18日の聖句

主なる神は私の耳を開かれた。
私は逆らわず、退かなかった。(イザヤ50:5)
マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。(ルカ10:39)

今日の旧約の御言葉の直前、4節にこのように書かれています。
「主なる神は、弟子としての舌を私に与えた、疲れた者を言葉で励ますすべを学べるように。」
主は私たちに舌を与え、耳を開かれます。私たちが福音の言葉を語るための舌を。私たちが神の言葉に聞くための耳を。私たちは、福音の言葉、神の言葉を慕い求めます。主よ、語るための舌を与えてください、聞くための耳を開いてください。そう祈りつつ、私たちは御言葉に心を集めます。
マリアという一人の主イエスの弟子が、主の足元でイエスのお語りになる言葉に耳を傾けています。主が開いてくださった耳で、一心にキリストの言葉に聞き入っている。主の弟子としての私たちのモデルです。マリアのようでありたいのです。
「主なる神は私の耳を開かれた。私は逆らわず、退かなかった。」
神が開いてくださった耳で聞く御言葉。逆らわず、退かず、御言葉に従う。これがキリスト者の姿です。私たちの耳を神が開いてくださり、私たちは御言葉に聞き、御言葉に従う。そうやって神に従う私たちを神は必ず助けてくださいます。弟子として生きる者を主はお見捨てにならない。そのことに信頼をして、キリストに従って今日の日を生きていきたいと願います。

2026年8月17日月曜日

2026年8月17日の聖句

主は公正を愛する方。
主に忠実な人々を見捨てることはない。
彼らはとこしえに守られるが
悪しき者の子孫は絶たれる。(詩編37:28)
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マルコ12:17)

「主は公正を愛する方」と聖書は言います。この御言葉を、心から信じたい。私たちの生きている世間には、はっきり言って公正を無視する人がたくさんいます。自分の小さな権力を誇示する人、任された責任を自分の偉さと勘違いする人、自分よりも立場の弱い人をコントロールしようとする人。しかし、主は公正を愛されます。私たちはそのことを信じたいと願います。
この「公正」という言葉ですが、これには「裁き」という意味もあります。神さまご自身が裁かれる。ただ、この裁きは私たちの思っているタイミングで起こるわけではないように思います。「彼らはとこしえに守られるが、悪しき者の子孫は絶たれる」と書いてあります。「とこしえ」とか「子孫」とか書かれています。ここにはものすごく長いスパンが前提になっているように思うのです。私たちには「悪しき者の子孫」がどうなるかなんて、見ることはできません。つまり、公正も裁きも神さまの御手の中にあるものであり、それをなさるのは主であり、私たちが自分の思い通りにどうすることもできない、ということではないでしょうか。
主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われました。もともとの主イエスさまの話の文脈はお金や税金の話ですが、今日の二つの聖句の組み合わせからすると、公正と裁きの話として聞くことも許されるように思います。皇帝の裁き、つまりこの世の裁きはこの世がすることです。社会の中での責任や不正をただすシステムはこの世が整えるものですが、それはこの世のものに過ぎません。神の裁きは神のものであり、神の手の中にあり、私たちの好きにすることはできない。私たちはこの世で生きるのと同時に、いやそれ以上に神の前に生きています。神を畏れ、神の求める公正を求め、神に忠実でありたい。私たちの思ったタイミングではなかったとしても、必ず神は公正を愛しておられ、私もまた神の前に生きていることを覚えてへりくだりたい。そう願います。

2026年8月16日の聖句

今週の聖句:
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5)

今日の聖句:
異国の子らはあなたの城壁を築き
その王たちもあなたに仕える。
私は怒りを持ってあなたを打ったが
恵みを持ってあなたを憐れんだ。(イザヤ60:10)
神は、私たちを怒りに遭わせるように定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたからです。(1テサロニケ5:9)

イザヤ書第60章は、救いの幻を語り出している章です。光の輝き、曙の光、喜び、宝といったイメージの言葉が連ねられています。更にイスラエルではない諸国の名前がいくつか挙げられています。そして「異国の子らはあなたの城壁を築き、その王たちもあなたに仕える」と語り出します。
これが神さまの救いのイメージです。「異国の子ら」は、そもそも敵であった国々です。その人たちがイスラエルのための城壁を築く。イスラエルの守りを固める城壁を。つまり、これはもう戦争のための城壁では必要ない、ということではないでしょうか。国と国とが争い合うことはなくなる。そうでなければ戦いに備える壁を他国が造ることはありえません。この城壁は、戦争に備えるためのものではない。生活を支え、生きていくための住まいを形づくるためのものではないでしょうか。これは、平和のイメージです。
私たちの世界には、今憎しみが溢れています。争うことが現実だと考えられています。しかし神さまが私たちに見せてくださるのは平和の幻です。私たちのために神が備えてくださった救いは、平和を生み出すのです。
神の前にへりくだり、この福音の言葉を受け止めたいと願います。

2026年8月15日土曜日

2026年8月15日の聖句

さあ、ひれ伏し、身をかがめよう。
私たちを造られた方、主の前にひざまずこう。(詩編95:6)
そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。(ルカ17:16)

主イエスがエルサレムに向かう旅をしておられた途上で、10人の皮膚の病にかかった人たちと出会われました。この病は律法で規定されているもので、彼らは村に入って普通の社会生活をすることが許されず、誰かが側に来そうになったら「私は汚れています」と叫んで遠ざけなければなりませんでした。「汚れ(けがれ)」というのは「きたない」という身ではなく、祭儀の上でのタブーに触れるという意味です。(「穢れ」と表記しても良いかも知れません。)ですから単に体が良くなると言うだけではなく、この病の回復の認定は祭司によらなければならない、とされていました。彼らは社会的にも信仰的にも、非常に辛い立場に立たされていた人たちでした。
彼らは遠くから主イエスに向かって叫びました。「イエス様、先生、私たちを憐れんでください。」主イエスはその叫びを聞いておっしゃいました。「行って、祭司たちに体を見せなさい。」彼らはそこへ行く途中、体が癒やされたことを知りました。9人は祭司のところに行きましたが、その中の一人だけが主イエスのところへ戻って来ました。「そして、イエスの足元にひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」
サマリア人は、主イエスご自身や弟子たちがそうであったユダヤ人とはたいへん仲が悪く、普通であれば絶対に付き合わない間柄です。しかし、そのようなこととは関係なく彼は主イエスさまに感謝を献げたし、主イエスさまは彼を癒やし、またその感謝を受け入れてくださいました。人種や国を超えるものがここにあります。
今日は8月15日です。特別な日付です。今日、私たちに与えられた御言葉は一人のサマリア人の主イエスとの出会いの物語でした。主の前にひれ伏し、ひざまずくのに国家の隔ては本来ないはずです。主イエスさまの救いの御業はどのような障壁をも乗り越えるからです。私たちは今この壊れた世界でどうやって神の民として生きるのでしょうか?

2026年8月14日金曜日

2026年8月14日の聖句

あなたは私に命と慈しみを授け
私を顧みて、私の霊を見守りました。(ヨブ記10:12)
彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」(ヨハネ9:11)

主なる神さまの恵みの御業は、ときに、とても奇妙なかたちを取ることがあります。主イエスさまは目の見えない人の目に泥を塗って、それを池で洗うようにおっしゃいました。かなり奇妙な命令です。どういう意味があるのか、命じられた時点では分かりません。しかしこの生まれつき目の見えなかった人は、意味の分からない奇妙な主イエスの言葉に従ったとき、思ってもみなかった癒やしの御業に与ることになったのです。
私たちが熱心に祈り神さまに求めたけれど思っていたのとは全然違うプロセスを強いられる、ということは少なくありません。むしろ願っていたとおりになることなんてほとんど無いのかもしれません。しかしそれは、私たちの目には奇妙に映る神さまの御業が既に始まっているということなのかもしれません。神さまのなさることは私たちには計り知れませんから、私たちには意味が分からなかったり、とても奇妙に見えたりすることが多い。しかし実はそこにも既に神の御業は進んでいる。私たちに大事なことは、自分の納得できる範囲に押しとどめることではなく、信じて従うことです。
あの生まれつき目の見えない人は、主イエスに言われたとおりにシロアムの池に行って目を洗ったとき、見えるようになりました。信じて、キリストの言葉に従うことこそが私たちに必要なことです。そうであるからこそ、神の言葉をしっかりと聞きましょう。そして、神の言葉に従いましょう。

2026年8月13日木曜日

2026年8月13日の聖句

主は心に留められる
主の契約をとこしえに
命じた言葉を幾千代に。(詩編105:8)
神の約束はすべて、この方において「然り」となったからです。それで、私たちはこの方を通して神に「アーメン」と唱え、栄光を帰するのです。(2コリント1:20)

私たちの信仰の要は、神さまの御言葉です。神の言葉を聞くことで、信仰が与えられます。神の言葉に従うことで、キリスト者として生きることができます。御言葉は私たちのために与えられた羅針盤です。御言葉にいつも聞き、心に留め、そして御言葉に従いたい。そう願います。
しかし、私たちはいつも悩みます。自分は忘れっぽいし、他の声が気になってしまいます。御言葉をいつも聞ければ良いかもしれない、御言葉に従えれば一番よいだろう。でも、実際の私はそうではない。
そのような私たちのつぶやきを、もう何千年も前から聖書はよく知っていました。「主は心に留められる、主の契約をとこしえに、命じた言葉を幾千代に。」ここで聖書が言うのは、御言葉を本当に心に留めているのは私たちではなく主だ、ということです。私たちが主の言葉をちゃんと守っている、ずっと忘れないでいる、ということではありません。主は、ご自分の御言葉を幾先代にわたってお忘れになることなく、主はご自分が立てた契約をとこしえに心に留めていてくださる。私は忘れっぽいし不誠実だしどうしようもないけれど、主はそうではない。主はご自分の言葉への誠実を貫いてくださる。
主は、永遠の「然り」となってくださいました。ご自分の慈しみに、ご自分の平和に、ご自分の愛に、とこしえに「アーメン」を貫いてくださる。私たちの救いは、真実そのものでいらっしゃる神だけです。

2026年8月12日水曜日

2026年8月12日の聖句

父が子らに憐れみをもたらすように
主を畏れる者らに憐れみをもたらす。(詩編103:13)
あなたがたが子であるゆえに、神は「アッバ、父よ」と呼び求める御子の霊を、私たちの心に送ってくださったのです。(ガラテヤ4:6)

主は、ご自分を恐れる者を憐れんでくださいます。慈しみを示してくださいます。それは「父が子らに憐れみを持たすよう」だと聖書は言います。
私も三人の子どもの父ですが、人間である私は、父になったところで大した父ではありません。理不尽に怒ることもあるし、偉そうに間違ったことを口にすることも少なくないと思います。(恐ろしいことに、自分ではなかなか気づけないのですが。)
しかし、神さまの憐れみは私たちが知っている「父親像」をはるかに超えています。このお方の憐れみに偽りはなく、このお方の慈しみに誤りはありません。神は私たちの完全な父です。
私たちがこの神様の子どもとされていることは、私たちに「父よ」と祈る言葉を与えられていることから分かります。御子イエスの霊が与えられているから、私たちにも神を父とお呼びする祈りが生まれるのだ、と聖書は言うのです。
あなたも神の子です。何とすばらしい発見でしょう!私たちは神の子としての自分を見いだすことが許されている。このすばらしい福音が今日あなたに語りかけられているのです。

2026年8月11日火曜日

2026年8月11日の聖句

歩むべき道を知らせてください。
私はあなたに向かって魂を高く上げます。(詩編143:8)
シモン・ペトロが答えた。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68~69)

今日の旧約に「私はあなたに向かって魂を高く上げます」と書いてあります。すてきな言葉だと思います。私たちも、自分の魂を神に向かって高く上げましょう。魂、それは自分の内奥の、一番奥深い部分です。神さましかご存じではない、自分の深み。自分でも知ることのできない、自分という存在の淵。そう言ってもいいのではないかと思います。しかしその深みが神に向かう。天の天におられる神、その高みに向かう。私たちは、弱く脆く、すぐに損なわれてしまう存在でしかありません。しかしそのような者を神が御心に留めていてくださる。私を深く究め、知っていてくださるのは、神さまです。そうであるからこそ、この方だけが私たちの歩むべき道を知っておられるのです。
シモン・ペトロが主に告白しています。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」本当に、「アーメン」と思います。主イエスさまこそ永遠の命の言葉を持ち、それを私たちに語りかけることのできるお方です。私たちは他の誰のところへ行きましょう。この方以外に神はいないのです。私の魂が慕い求める唯一の神、私が心を上げるただおひとりの神。イエス・キリストを慕い求め、この方を愛します。私は他のどこへ行きましょうか。

2026年8月10日月曜日

2026年8月10日の聖句

主は天に王座を据え
その王権はすべてを治める。(詩編103:19)
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる。(マタイ25:31~32)

私たちの国は、81年前まで天皇を王として国作りをしてきました。国民は天皇の臣民、あるいは天皇の赤子とされていました。今はどうでしょうか。ここのところ起こっている天皇の世継ぎ問題に関わる世論の沸騰を見ると、心根のところではあまり変わっていないのではないか、と私は思っています。私たちの国の多くの人は、やはり天皇を王として頂くことに誇りを持っているし、それを望んでいるように私は感じています。
今日の御言葉はそれとは真っ向から対立します。「主は天に王座を据え、その王権はすべてを治める。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる。」
天には神の王座があります。神が天にあって王権を持ち、この世界の王として支配しておられます。主イエスこそ真の王。イエスこそこの世界を支配する栄光に輝く王。それが私たちの信仰です。地上の王は、世界の真の王に仕える僕の一人に過ぎないはずです。私たち庶民と同じように。神が王であられることと矛盾するシステムや社会構造、伝承、あるいは人物は、それが例え誰であっても何であっても、神の前には相対的なもの、一時的で歴史の中に消えゆくものに過ぎません。この世界の王権をお持ちなのは、まことの神だけだからです。
私たちキリスト教会は、何かの革命運動をするわけではありません。天皇制を転覆するために剣を取るわけでもない。この国の制度も、今いる支配者も、神がお立てになったものと信じ、それを尊重し、敬意を払います。しかし、それは絶対的なものではない。天皇も神の前にはただの人間に過ぎないし、天皇制も人間の考え出した制度に過ぎない。私自身がただの愚かな罪人に過ぎないのと同じように。その事実を畏れをもって受け止めなおしたい、と願います。

2026年8月9日日曜日

2026年8月9日の聖句

今週の聖句:
幸いな者。主を神とする国民、主がご自分のものとして選んだ民。(詩編33:12)

今日の聖句:
見よ、先にあったことは実現した。
そこで、私は新しいことを告げよう。
それが起こる前に
私はなた方に聞かせよう。(イザヤ書42:9)
良い種を蒔く者は人の子、畑は世界。(マタイ13:37~38)

少し前に「閉塞感」という言葉がいろいろなところで聞かれました。私たちの社会は閉塞感に包まれている。成長の兆しも見えず、その可能性も途絶えているのではないか。希望が見えてこない。そのようなことが言われていたと思います。その後のコロナや各地の地震などを経て、今でも経済的な成長の停止や賃金の停滞が続いており、人心に余裕がない状況はますます悪化しています。
ところが聖書は、私たちには思いもつかないような神さまの新しい御業を私たちに告げています。「私は新しいことを告げよう」と神さまは私たちにおっしゃいます。それは荒れ地に道を通し、砂漠に大河を流れさせる出来事です。滅びと絶望と私たちが思っているところに命への道を神が拓いてくださる。
あなたは、それを信じますか?私たち教会に託されているのは希望の福音です。尽きることのない望みをもたらす言葉を神は私たちに託してくださいました。十字架の上で惨殺された方が復活したことで示された望みです。私たちはもはや奴隷ではなく自由にされた、という知らせです。あなたはこれを信じるか、と主は私たちに問うておられます。

2026年8月8日土曜日

2026年8月8日の聖句

あなたこそ、我が救いの神。
私は日夜、あなたを待ち望んだ。(詩編25:5)
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイ7:7)

聖書は、私たちが忍耐して待ち望み、神に求め続けることの大切さを私たちに教えます。私たちがそのようにして待ち望むのは、神ご自身です。「あなたこそ、我が救いの神。私は日夜、あなたを待ち望んだ。」主こそが私たちの救いの神。このお方を「あなた」とお呼びし、待ち望む。昼も夜も、絶えず待ち続ける。それが私たちの信仰生活です。
これは、主なる神さまにしか救いを求めることのできない人の祈りです。他のどこにも救いがない人の言葉です。もしも今日の御言葉に響き合うものを感じていないとしたら、それは主以外のものに救いがあるとどこかで思い込んでいるからではないでしょうか。
しかし主は、ご自身にしか望みがないと感じている人に無限の慈しみを示してくださいます。他のどこにも寄る辺がない人を必ず迎え入れてくださいます。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。叩きなさい。そうすれば、開かれる」と命じてくださったキリストは、生きるために必要なものを持たない人、大切なものを失った人、戸を閉ざされて社会から締め出された人を受け入れ、愛してくださるお方です。

2026年8月7日金曜日

2026年8月7日の聖句

娘シオンよ、喜び歌え。
イスラエルよ、喜びの声を上げよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び祝え。
主は、あなたに対する裁きを取り去られた。(ゼファニヤ3:14~15)
キリストは来られ、遠く離れているあなたがたにも、また近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせてくださいました。(エフェソ2:17)

キリストが私たちに告げ知らせてくださったのは、平和の福音です。キリストの平和が私たちの内に宿るように、キリストは私たちのところへ来られて平和の福音を宣言してくださいました。
キリストは、力で脅しませんでした。お金の力で言うことを聞かせませんでした。権力で相手を黙らせるということもなさいませんでした。そういうものの陰にこっそり隠れませんでした。この世が「平和」と嘯くものに、主イエスは与しませんでした。
私たちは昨日8月6日を迎え、今度の日曜日に9日を迎えようとしています。キリストの平和が私たちに告げ知らされたということの意味を、今日、へりくだって考え直したいと願います。キリストは国と国とが争い、人々が傷つくことを絶対にお喜びにはならないでしょう。「仕方のないことだ」とはおっしゃらないでしょう。私たちの世界が「現実はこうだ」と言い張っている見せかけの「平和」を、ご自分の平和だとはおっしゃらないでしょう。
私たちの国も、この国の歴史も、神の裁きの前に立っています。私たちには、本当に見つめるべき絶対の基準があります。神という究極の視座から私たち自身を見つめ直す。それが旧約の預言者たちがしたことです。自分たちの現状を肯定し、私たちが享受している豊かさや安心が維持されることと、キリストの十字架と復活によって打ち立てられた平和が実現することと、どちらの道を進むのか?私たちは問われています。

2026年8月6日木曜日

2026年8月6日の聖句

朝と夕べの始まる所に
あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。(詩編65:9)
看守は二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。(使徒16:34)

今日の新約には「看守」という人が登場しています。この人はフィリピという町にある牢獄の看守でした。そこにパウロとシラスが投獄されていた。牢獄の中にいた二人は、真夜中、主への賛美の歌を歌って祈っていました。他の囚人たちもこれに聴き入っていました。そこに突然大地震が起こった。牢の戸が開いてしまいました。看守は囚人たちが皆逃げてしまったと思い込み、自殺しようとします。すると牢の中からパウロが大声で叫んだのです。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」このようなことがあって看守は信仰に導かれました。彼は二人を自宅に招いて一緒に食事をしました。
ところで、先日、保育園で子どもたちに聖書のお話をする機会がありました。8月ということで平和の話をしました。与えられた聖書の御言葉は「彼はその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す」でした。鋤も鎌も農業をするための道具、つまりご飯を作り出すための道具です。ご飯を作り、食べて、生きていくための、しかも自分だけではなく皆が生きていくための道具です。剣や槍という殺すための道具が人の命をつなぐための道具に変えられる、という幻を預言者イザヤは見ました。
今日私たちに与えられている聖書の御言葉も、看守は、パウロやシラス、それに他の囚人が逃げないように剣を持って見張りをしていたのでしょう。地震というハプニングのために皆が逃げたと思ったら、今度は責任を取って自分を傷つけなければならないと思い詰めてしまった。しかし、パウロに導かれ、主イエスと出会ったときに、彼は敵だと思っていたパウロやシラスと共に食事をする道に導かれました。敵対していた者たちが一緒に食事をする。ここに既にキリストの平和が始まっています。
実に、私たちは敵対し、憎しみ合い、傷つけ合うために生きているのではない。一緒にご飯を食べ、互いの命を喜び、共に賛美を献げて祈るために生きているのです。キリストが私たちの間にいてくださることに気づくとき、新しい出来事が始まります。

2026年8月5日水曜日

2026年8月5日の聖句

(主の使いへのギデオンの言葉)主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。(士師記6:13)
それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊いのです。(1ペトロ1:6~7)

土や岩の中から、あるいは砂金として取り出した金には他の鉱物が混じっているので、精錬してそれを取り除きます。今では電気分解をするようですが、もちろん昔はそのような技術はありません。恐らく火で焼いていたのでしょう。そうやって純度の高い、より純粋な金を生み出します。火で精錬された金。それは本当に尊くて、庶民であればもしかしたら一生目にすることもないようなものだったのかもしれません。純度が低い金であれば庶民の手に渡ることももしかしたらあったかもしれませんが、火で精錬された金はそういうわけにはいかなかったと思います。王侯貴族だけのものだったのではないでしょうか。あるいは、ユダヤの世界ではそれは神さまに献げていましたから、神殿の奥にある祭具に使われるものでした。
しかしそんな精錬された金よりももっと尊いものがある、と使徒ペトロは言います。「それゆえ、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、さまざまな試練に悩まなければならないかもしれませんが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊いのです。」試練によって精錬されたあなたがたの信仰は、どんなに純度の高い金よりももっと尊い。金などよりもはるかに貴重で、あなたたちの喜びになるはずだ、と言うのです。
「主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか。」私たちにも、そう言わねばならない出来事が起こる。しかしそれは私たちを精錬する火です。だから試練の時に驚き怪しんではならない。あなたたちの信仰をさらに高価な神へのささげ物とするために、今この試練の時が来ているのだ、と聖書は言います。

2026年8月4日火曜日

2026年8月4日の聖句

(主の言葉)あなたがを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。(出エジプト記19:4)
これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:10)

今日の旧約聖書の御言葉は、エジプトという奴隷の家から解放してくださった神がその民に語りかけた言葉です。エジプト人に奴隷として追い使われ、喘ぎ、苦しみ、呻いていたヘブライ人たち。神が彼らの呻きを聞き、モーセを遣わして救ってくださいました。そのために神はエジプト人たちに大いなる御業を行い、強い手で海の中に道までつくって救い出してくださいました。主は言われます。「あなたがを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。」あなたたち自身が救いの出来事を経験してきたはずだ、と主は言われます。
神の民はこの記憶を共にする民です。エジプトから導き上ってくださった神は、民の歴史に関わり続け、その後もこの民を救い続けてくださいました。バビロンという国に滅ぼされ、捕囚として連れ去られたときにも、やはりエジプトから救ってくださった神が私たちを救ってくださるというのが預言者たちが語った救いのメッセージです。かつて先祖を救ってくださった神は、今日私たちをも救ってくださるに違いない。
そうであるからこそ、今同じ神の民の一員である私たちも信じます。「これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」同じ神が私たちと共に歩んでくださっている。同じ神が私たちを救ってくださる。私たちは同じ神の出来事に巻き込まれて、神の救いの出来事を物語る民として生きているのです。

2026年8月3日月曜日

2026年8月3日の聖句

主こそ神と知れ。(詩編100:3)
(使徒ときょうだいたちは)「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」と言って、神を崇めた。(使徒11:18)

最初のキリスト者たちにとって、ユダヤ人ではない異邦人が神を信じるというのは、私たちには想像できないほどに大きな驚きであったのだと思います。
もともと、主なる神さまはユダヤ人にご自身を現し、ユダヤ人に関わってこられました。ユダヤ人、それはアブラハムとその子孫です。彼らの歴史と共に歩み、彼らが奴隷としてエジプトで虐げられているのをご覧になって心を痛めて救い出し、約束の地へと導き出しました。その地で彼らが国を造り、堕落し、神に背いていくのをご覧になって心を痛めました。罪の中で彼らは破滅した。遠い国に捕囚として連れらされた彼らをそれでも捨てずに再び彼の地へ連れ戻してくださったのも、主なる神さまです。そしてユダヤ人の中にご自身の独り子をお与えくださったのもこの神です。
主なる神さまは、ユダヤ人という特定の民をご自分の民とし、彼らにご自身を現してこられました。ですからユダヤ人にとっては主なる神さまは「私たちの民の神」です。その神を外国人が信じるというのは、考えてもみなかったことだったと思います。「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」というのは、本当に驚天動地だったでしょう。まさに神を崇めるよりほかない新しい出来事だったでしょう。
一つの民をお選びになってご自身を現してこられた神は、しかし、ユダヤ人だけの神ではないのです。世界のすべての者の神です。日本人であろうと韓国人であろうと中国人であろうと、ウクライナ人であろうとペルー人であろうとコンゴ人であろうと、誰であろうとも信じるべきはこのお方です。神は世界中のすべての人をお造りになった、ただおひとりのまことの神なのです。主こそ神。私たちはそのことを知り、神を崇めます。ただ一つの民と関わり、その歴史に深く関わったお方であるからこそ、どのような出自を持ったものであろうともその人の歴史に深く関わることのできるお方なのです。

2026年8月2日日曜日

2026年8月2日の聖句

今週の聖句:
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。(ルカ12:48)

今日の聖句:
これらの国民は卜占する者や占い師の言うことを聞いているが、あなたの神、主は、あなたがそうすることをお許しにならない。(申命記18:14)
だが、今や神を知っていたのに、いや、神に知られたのに、どうしてあの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。(ガラテヤ4:9)

卜占や占いは聖書で固く禁じられています。なぜでしょうか。
その一つの理由は、占いの類が神を知ったつもりにさせるからではないか、と思います。いや、そもそも占いが知ろうとするのは神ではなく運命や運勢の類でしかないのかもしれません。いずれにしても、分かったつもりにさせる。そこで知った気になっている神にしても運勢にしても、それは聖書が証しする主なる神さまとは似ても似つきません。全然違う。知ったつもりになってもらっては困る、ということではないかと思います。
運命は心を痛めません。私たちを愛し、あるいはそのために怒り、私たちを求めて捜し回りません。占いは神の自由を認めません。私たちが主人であって、神を支配することができる、というのが占いの前提であると思います。それは聖書が証しする神ではない。不自由な神、それは偶像です。人間の欲望に従う神、それは偽りの神です。だから聖書は問います。「だが、今や神を知っていたのに、いや、神に知られたのに、どうしてあの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りするのですか。」
まことの神さまは、自由な愛をもって私たちを求めてくださいます。私たちの予想もつかないほど大きな愛で私たちを捜し回ってくださいます。喜び、怒り、妬み、愛し、私たちのためにご自分の独り子さえ与えてしまうほどのお方です。占いで知ることができるような方ではない。私たちの考えを押しつけることのできるような方ではない。私たちの思いを超えて自由でいらっしゃるし、私たちが考えている以上に深く大きな愛に溢れたお方なのです。

2026年8月1日土曜日

2026年8月1日の聖句

8月の御言葉:
(イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10)

今日の御言葉:
隣人のものを一切貪ってはならない。(申命記5:21)
私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。(ガラテヤ5:16)

隣人のものを貪る、つまり貪欲は、今の社会の基本的な欲望です。他人のものをうらやましいと思うだけでは留まらず、自分のものにしたいと強く望む。顔が見えるくらい近しい隣人のものであれば奪い取るということはあまりしないかもしれませんが、遠くて顔が見えない相手のものを私たちは奪い取ってはいないでしょうか?
ある経済学者がこのようなことを言っていました。アボカドという果実があります。輸入に頼っています。とてもおいしい。しかしこれは生長するためにとても大量の水を必要とする植物なのだそうです。アボカドを輸入することによって、日本は大量の水を現地から輸入していることになる。さらにアボカドは発育のために大量の栄養分を必要とし、一度アボカドを生産するとその土壌では他の種類の果実などの栽培がこんなになってしまう。私たちのスーパーに並んでいるアボカドは、実は他の土壌を奪い取ってできた果実なのだ、というのです。
私たちの貪欲は留まるところを知りません。欲しいものはいくらでもある。そして「貪欲」をエネルギーにして今の社会は成り立っているところがある。そう考えると私たちが生きているのは実は非常に罪深い社会ではないかとさえ思います。
「隣人のものを一切貪ってはならない。」「私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
今日の二つの御言葉は、私たちにこれまでとは異なる生き方を提示します。主にものとしてこの世で生きるとはどういうことなのか。今日、神さまはあなたに何と語りかけておられますか?

2026年10月31日の聖句

不正に得た宝は役に立たず、正義は人を死から救い出す。(箴言10:2) キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。(ローマ3:24) 今日は10月31日、マルティン・ルターの教会改革の運動が始まったことを記念する日です。1517年1...