主が私の口に授けられたことは、私はとどめおかず、告げなければならないのではないでしょうか。(民数記23:12)
私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。(使徒4:20)
教会で仕事をしていて、ご飯の時間になると妻が子どもを私のところに寄こして、ご飯の時間になったと言います。その役目を上の子が先に果たしてしまうと、一番下の娘が「私がしたかった」と言ってよく悔しがっています。嬉しい知らせを他ならぬ自分の口で伝えたいという気持ちはよく分かります。何か楽しい計画があることを伝えて相手を誘ったり、最近あったすばらしい出来事を話したりするのは、本当に嬉しいことです。伝えることで、その喜ばしい出来事を再体験できます。
「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」私たちの内で湧き上がる喜びが、私のこの口から溢れてくるのを留めることはできない。例えそれを止められても、邪魔されても、禁止されたとしても、口を閉ざすことはできない。なぜなら、「見たことや聞いたこと」とは他ならぬイエス・キリストの出来事であり、私たちへの神の愛の出来事だからです。この良き知らせ、喜びの知らせを伝えないではいられない。
今日の旧約聖書の御言葉は、少し不思議な箇所から引用されています。バラムという異教の預言者の言葉です。彼はモアブ人の王バラクという人物に、イスラエルの民を呪うように命令されました。しかし主なる神がイスラエルの民を祝福しておられたので、バラムには彼らを呪うことができませんでした。異教の預言者でさえ、主なる神様が授けられた言葉以外のことを口にすることができなかったのです。しかしバラク王の命令は非常に強いものでしたから、バラムも命が惜しくてイスラエルを呪おうと試行錯誤しました。しかし、その試みはことごとく失敗した。結局、「主が私の口に授けられたことは、私はとどめおかず、告げなければならないのではないでしょうか」ということであったのです。
主なる神様の私たちへの愛に満ちた祝福は、決して取り消されてしまうことはありません。必ずそれは告げられなければならない。そして、あらゆる呪いから守られています。この祝福の言葉を、今、神さまは私たちの口に託してくださいました。私たちはこの祝福を届けるために、神さまに今日生きるべき場所へと遣わされているのです。
私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。(使徒4:20)
教会で仕事をしていて、ご飯の時間になると妻が子どもを私のところに寄こして、ご飯の時間になったと言います。その役目を上の子が先に果たしてしまうと、一番下の娘が「私がしたかった」と言ってよく悔しがっています。嬉しい知らせを他ならぬ自分の口で伝えたいという気持ちはよく分かります。何か楽しい計画があることを伝えて相手を誘ったり、最近あったすばらしい出来事を話したりするのは、本当に嬉しいことです。伝えることで、その喜ばしい出来事を再体験できます。
「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」私たちの内で湧き上がる喜びが、私のこの口から溢れてくるのを留めることはできない。例えそれを止められても、邪魔されても、禁止されたとしても、口を閉ざすことはできない。なぜなら、「見たことや聞いたこと」とは他ならぬイエス・キリストの出来事であり、私たちへの神の愛の出来事だからです。この良き知らせ、喜びの知らせを伝えないではいられない。
今日の旧約聖書の御言葉は、少し不思議な箇所から引用されています。バラムという異教の預言者の言葉です。彼はモアブ人の王バラクという人物に、イスラエルの民を呪うように命令されました。しかし主なる神がイスラエルの民を祝福しておられたので、バラムには彼らを呪うことができませんでした。異教の預言者でさえ、主なる神様が授けられた言葉以外のことを口にすることができなかったのです。しかしバラク王の命令は非常に強いものでしたから、バラムも命が惜しくてイスラエルを呪おうと試行錯誤しました。しかし、その試みはことごとく失敗した。結局、「主が私の口に授けられたことは、私はとどめおかず、告げなければならないのではないでしょうか」ということであったのです。
主なる神様の私たちへの愛に満ちた祝福は、決して取り消されてしまうことはありません。必ずそれは告げられなければならない。そして、あらゆる呪いから守られています。この祝福の言葉を、今、神さまは私たちの口に託してくださいました。私たちはこの祝福を届けるために、神さまに今日生きるべき場所へと遣わされているのです。