2025年1月29日水曜日

2025年1月29日の聖句

私の命が主の目に重んじられ、主があらゆる苦難から私を助け出してくださいますように。(サムエル上26:24)
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。(2コリント8:9)

昨日、厚木にある保育園の礼拝に伺ってきました。礼拝がもう少しで始まるというときに、子どもたちがおしゃべりをしていました。ある男の子が、ちょっと誇らしげにいいました。「今日、ぼくのおかあさんは会社に行ってるんだ!」するとそれを聞いた別の男の子が言ったのです。「おまえのお母さん、お金持ちなの?」すぐ側でそんな会話を聞いていて、私は笑いをかみ殺すのに必死でした。子どもの言うことはかわいいですね。
この世で生活していれば小さな子どもでもお金が大事だと知っていますし、豊かな方が望ましいと誰にでも分かります。まして主イエスさまの豊かさというのはどのようなものなのでしょうか。
主イエスの豊かさは、私たちのような相対的な豊かさではありません。神の子としての豊かさです。父なる神には経済活動をする必要はありませんから、貯金がいくらあるとか、資産がどれくらい多きかとか、そのような豊かさを言っているのではないでしょう。むしろ、主イエスが神の子としてお持ちでいらした栄光や誉れ、ということではないでしょうか。主イエスは神の子として、栄光を受けるべきお方です。神ご自身の誉れをご自分のものとすることがおできになる方です。ところが主イエスはそれをすべて捨てて貧しくなられた。すなわち、私たちと同じ一人の人間になられた。それどころか私たちの誰よりも貧しく、乏しく、小さな者になられました。十字架にかけられたのです。
キリストの貧しさが私たちを救ってくださいます。キリストの乏しさが私たちに命を与えてくださいます。豊かでいらしたのに貧しくなってくださった。そこにキリストの恵みがある。聖書はそのように語りかけます。

2025年1月30日の聖句

主はわが力(ハバクク3:19) だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。(2コリント4:16) 「私たちの外なる人」というのは、私たちの肉体のことであり、心や精神のことです。私たちが生来持っている人間としてのすべ...