主はわが力(ハバクク3:19)
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)
「私たちの外なる人」というのは、私たちの肉体のことであり、心や精神のことです。私たちが生来持っている人間としてのすべてのことです。私たちの外なる人は、朽ちていきます。私たちの生は、死に向かうプロセスでもある。
人によっては、肉体は滅びても魂は永遠だと考える人もいるかもしれません。日本人の素朴な死生観はそういう考え方ととても親和性が高いと思います。かつて石居基夫という先生が古来の日本人の死生観を「自然回帰型」と「共同体回帰型」という二つの言葉で整理しておられたのを聞いたことがあります。自然回帰型というのは、亡くなった人が山や海のような自然に帰り、そこに宿るという考え。共同体回帰型というのは、村落や家族の中に魂が宿り、やがて子孫として生まれ変わって家族のもとに帰ってくる、というタイプ。伝統的な日本の死生観は、そのどちらかに分類されることが多いというのです。とても興味深い話です。しかしいずれにしても、そこで前提になっているのは「霊魂の不滅」という考え方です。人間の魂は肉体が滅んでも消えてしまうことがない。ふるさとの自然や共同体の中に留まり続ける、と考える。しかし、聖書はそのようには言わないのです。私たちの外なる人は朽ちる。肉体も魂も、私たちは死に、滅びる存在です。土から取られた者は、土に返る。
ところが、使徒パウロは驚くべきことを言います。「私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」この「内なる人」というのは、神に救って頂いた私たち、ということです。私たちは滅びます。身も心も死んで消滅します。しかしそのような私たちを神は御心に留め、滅びから救ってくださる。私たちを新しくし、私たちに新しい復活の命をくださいます。私たちは無力で、死にゆく存在です。しかし「神はわが力」です。滅ぶ者を救うことが神にはおできになる。私たちは神に造られたものとして、神によって滅びから救われるのです。
だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)
「私たちの外なる人」というのは、私たちの肉体のことであり、心や精神のことです。私たちが生来持っている人間としてのすべてのことです。私たちの外なる人は、朽ちていきます。私たちの生は、死に向かうプロセスでもある。
人によっては、肉体は滅びても魂は永遠だと考える人もいるかもしれません。日本人の素朴な死生観はそういう考え方ととても親和性が高いと思います。かつて石居基夫という先生が古来の日本人の死生観を「自然回帰型」と「共同体回帰型」という二つの言葉で整理しておられたのを聞いたことがあります。自然回帰型というのは、亡くなった人が山や海のような自然に帰り、そこに宿るという考え。共同体回帰型というのは、村落や家族の中に魂が宿り、やがて子孫として生まれ変わって家族のもとに帰ってくる、というタイプ。伝統的な日本の死生観は、そのどちらかに分類されることが多いというのです。とても興味深い話です。しかしいずれにしても、そこで前提になっているのは「霊魂の不滅」という考え方です。人間の魂は肉体が滅んでも消えてしまうことがない。ふるさとの自然や共同体の中に留まり続ける、と考える。しかし、聖書はそのようには言わないのです。私たちの外なる人は朽ちる。肉体も魂も、私たちは死に、滅びる存在です。土から取られた者は、土に返る。
ところが、使徒パウロは驚くべきことを言います。「私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」この「内なる人」というのは、神に救って頂いた私たち、ということです。私たちは滅びます。身も心も死んで消滅します。しかしそのような私たちを神は御心に留め、滅びから救ってくださる。私たちを新しくし、私たちに新しい復活の命をくださいます。私たちは無力で、死にゆく存在です。しかし「神はわが力」です。滅ぶ者を救うことが神にはおできになる。私たちは神に造られたものとして、神によって滅びから救われるのです。