見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える。(エレミヤ9:6)
祈りなさい、誘惑に陥らないために。(ルカ22:40)
聖書が書かれた言語では、日本語で「試練」と翻訳される言葉と「誘惑」と翻訳される言葉とは同じ単語で言い表されます。同じ出来事が、場合によっては試練にもなるし、他の場合には誘惑にもなる、ということであると思います。
「祈りなさい、誘惑に陥らないために」と主は言われます。苦しい出来事が私たちを罪に誘い込む誘惑になるのか、それとも信仰を試し、あるいは精錬する試練になるのか。その鍵は祈りだ、と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。苦しいときは信仰の危機です。右に行くか左に行くかが問われる。分かれ道です。神に従うのか、自分や周囲の声に従うのか。今の自分の置かれている状況や取るべき道はどこなのかを識別し、そこで神に従う道を選び取るためには祈りが欠かせません。神が聖霊によって私たちを導いてくださるのであれば、それを受け止める私たちのあるべき姿は祈ることをおいて他にないからです。
「見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える」と主は言われます。あまりありがたくない言葉のように思います。できれば試練になんて遭いたくありません。しかし、それとは逆の反応もあると思います。今起きているこの出来事は、神の手の中にある。神がお与えになった試練に他ならない。そのことを信じるならば、その出来事が苦しくとも、それは誘惑ではなく試練です。神の手の中にあるという信仰こそ、私たちにとっては「試練からの逃れる道」なのではないでしょうか。
祈りなさい、誘惑に陥らないために。(ルカ22:40)
聖書が書かれた言語では、日本語で「試練」と翻訳される言葉と「誘惑」と翻訳される言葉とは同じ単語で言い表されます。同じ出来事が、場合によっては試練にもなるし、他の場合には誘惑にもなる、ということであると思います。
「祈りなさい、誘惑に陥らないために」と主は言われます。苦しい出来事が私たちを罪に誘い込む誘惑になるのか、それとも信仰を試し、あるいは精錬する試練になるのか。その鍵は祈りだ、と主イエスはおっしゃっているのではないでしょうか。苦しいときは信仰の危機です。右に行くか左に行くかが問われる。分かれ道です。神に従うのか、自分や周囲の声に従うのか。今の自分の置かれている状況や取るべき道はどこなのかを識別し、そこで神に従う道を選び取るためには祈りが欠かせません。神が聖霊によって私たちを導いてくださるのであれば、それを受け止める私たちのあるべき姿は祈ることをおいて他にないからです。
「見よ、私は我が民を火で精錬し、試練を与える」と主は言われます。あまりありがたくない言葉のように思います。できれば試練になんて遭いたくありません。しかし、それとは逆の反応もあると思います。今起きているこの出来事は、神の手の中にある。神がお与えになった試練に他ならない。そのことを信じるならば、その出来事が苦しくとも、それは誘惑ではなく試練です。神の手の中にあるという信仰こそ、私たちにとっては「試練からの逃れる道」なのではないでしょうか。