2026年9月17日木曜日

2026年9月17日の聖句

あなたがたは、隣人や兄弟との間で互いに、「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言わなければならない。(エレミヤ23:35)
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ26:75)

私たちの問うべきことはこれだ、と主は言われます。「主は何と答えられたか。主は何と語られたか。」主が語られた事、主の言葉こそが私たちの問うべき事、私たちにとって何よりも大事なことです。
私たちのカンバーランド長老教会の「信仰告白」では、1.02でこのように告白しています。「三位一体の父・子・聖霊なる唯一の生ける神は、聖書を通して、自然や歴史の出来事を通して、また使徒、預言者、伝道者、牧師、教師を通して語られるが、何よりも、肉体となったことばであるイエス・キリストにおいて比類なく語られる。」
神は今何を語っておられるのか?私たちはそれをどうやって聞くことができるのか?超自然的な託宣を求めるのではなく、瞑想や修行の果てに何かを悟るのでもない。私たちは、イエス・キリストを通して神の語りかけを聞きます。イエス・キリストこそ、神が比類なく語っておられる神の言葉そのものでいらっしゃるのです。
「信仰告白」は1.06で更にこのように言っています。「聖書において、また聖書を通して語られる神のことばは、ナザレのイエスの誕生と生涯と、死と、復活の光のもとで理解されなければならない。聖書の権威は、聖書の内にある真理と、聖書を通して語る神の声に基づいている。」
イエス・キリストの光の中で、私たちは聖書を読みます。それこそが聖書を通して「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」を聞く、ということに他ならないのです。

2026年9月17日の聖句

あなたがたは、隣人や兄弟との間で互いに、「主は何と答えられたか。主は何と語られたか」と言わなければならない。(エレミヤ23:35) ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。(マタイ...