2018年11月18日日曜日

コリントの信徒への手紙一5:1-8「イエスの名によって始まる新しい生活」


 礼拝は祭りです。そこで罪の赦しが告げられ、解放が宣言され、神の祝福を喜び、分かち合う祭りです。私たちは今朝も祭りをしています。この祭りを、今日の聖書の御言葉では「過越祭」と呼んでいます。過越祭とは、エジプトで奴隷であったヘブライ人たちがエジプトの国から解放されるために、神が助けてくださったことを記念する祭りです。羊を屠って、その地を家の扉の鴨居に塗り、そしてその肉を食べました。その血がしるしになって彼らは助けられた。その脱出の時にパン種を入れないパンを食べた。過越祭の時にはそのことを記念して、種入れぬパンを食べます。「純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」と言っています。そして、この純粋で真実なパンというのは私たちのことだ、と言うのです。「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。」わたしは、この「現に」という言葉が好きになりました。現にあなたはこういうものだ、と神さまが言ってくださいます。私たちも、自分の現実はこうだ、それは聖書とは違うと簡単に言ってしまいます。しかし、神さまはそれに抗して、あなたたちの現実はこれだと言ってくださっている。
 ここで言う「パン種」は、とても具体的な出来事が念頭にあったようです。みだらな行い。コリント教会の中に、父の妻を自分のものにしている人がいた。自分の母ではない後妻ということでしょうか。彼女と肉体関係を結んでしまった者がいる。これは社会通念上許されないということに留まらず、聖書(申命記27:20)で禁じられていることです。そのような罪を犯した者を教会がどう取り扱うのかという話です。いや、話は近親相姦だけには留まらない。11節に指摘されているようなみだらな行い、強欲、偶像礼拝、悪口、酩酊、貪欲と収奪などの過ち。教会はそれらとどうやって向き合うのか?そこで教会そのものの信仰が問われます。
 パウロは驚くほど厳しいことを言います。25節を見ると、そのような罪を犯した者を教会から除外し、霊において裁き、サタンに引き渡すようにと言うのです。まず注目すべきは、パウロが罪をいい加減にしなかったということです。教会でトラブルが発覚したときに、四方丸く収めるために波風立てないことに腐心するということはない。罪は罪としてきちんと対処する。しかしそれは厄介払いするために当事者を放逐するということでもありません。「肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」。ここで言う「肉」とは罪を犯す人間本性といった意味です。それは教会の交わりからひとたび出されて悔い改めに導かれ、「主の日に彼の霊が救われるため」。その人の救いを目指しているのだ、と言います。
 私たちはここで躓きやすいのです。コリント教会での出来事について、「現に聞くところによると」とパウロが言うことから、噂が立っていたようです。罪を犯した人としっかり向かい合わずに噂だけ立つ。結局はなあなあにする。罪と向き合うことができない。それは高慢だとパウロは指摘します。共に頑迷固陋な罪人として一人の兄弟・姉妹と共に罪と向き合い、悔い、生き方を改めて、キリストの許に帰る。私たちは罪の奴隷でしたが、キリストの名で救われているからです。

2018年11月15日木曜日

詩編第126編「思いもしない偉大な業」


この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超えて大きく、偉大だ。だから「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」ことを信じよう。神が働いてくださるなら、私たちの思いを超えた出来事が起こるのだ。

2018年11月11日日曜日

マタイによる福音書20:1〜16「さあ、パーティがはじまるよ!」


 主イエスが話してくださった譬え話です。まことに主イエスらしい話だと思います。皆さんは、この話、お好きでしょうか?それとも嫌いでしょうか?とても理不尽で不公平な話だという感想も多いのではないかと思います。
 あるぶどう園で働いた労働者たち。夜明けから働いた人、その後も何もせずに広場に立っていて9時から雇われた人、12時からの人、3時からの人、そして5時まで何もせずに広場にいて雇われ、一時間しか働かなかった人。主人は5時からの人から初めて、全員に同じ給料を支払いました。ところが夜明けから働いた人がこれに怒ります。自分たちは夜明けから、熱い中一日中苦労して働いたのに、同じ給料だなんて…と。主人は答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。」主人はもともと一デナリオンの約束をしていた。それを彼らにも支払ってやりたいのだ、と言います。「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」そう問うてこの譬えは終わります。
 不公平な話のようにも感じさせます。自分が一日苦労して働いて、ヘロヘロになっているところに、自分よりも全然働いていない者が疲れたような顔をし、そればかりかその人にも神さまからの報いは変わらないなんて聖書は言う。自分の苦労なんて、神さまは見ておられないのかと思ってしまいます。ここに書いてあることは、明らかに私たちの社会の常識とは違います。奇妙な話ではないでしょうか。
 これは天の国の譬えです。神の国はこのようなもの、私たちの尺度でははかれないと主イエスはおっしゃるのです。この主人は、気前のよい人物です。もちろん、神さまのことです。神さまは気前がよい。夜明けから働ける能力のある人も、夕方まで誰にも雇ってもらえなかった人にも、同じように今日生きる命を下さいます。私たちの妬みを引き起こすほど気前がよい。
 この譬え話の前に出てくるのは、子どもたちです。イエスのところに子どもを連れて来た人たちを弟子たちは叱りましたが、主イエスは喜んで祝福なさいました。それに続けて、金持ちの青年が登場します。彼は旧約聖書の律法を子どもの頃から守ってきました。しかし、結局、主イエスのもとを悲しみながら立ち去ることになりました。彼が持っていたお金や彼のこれまでの立派な生き方は、彼を救いませんでした。それでは、一体誰が救われるのか?「それは人間にはできることではないが、神にはできる」と主イエスは言われます。その主イエスは、子どもたちを祝福しながら、「天の国はこのような者たちのものである」と言われたのです。天の国は、私たちの立派な生き方や努力で獲得するのではなく、何もできない者に、誰にも見向きもされずに5時になってやっと憐れみで雇われたにすぎない者にも、神が恵みとして下さる一方的なプレゼントなのです。
 神さまは、気前のよい方です。周囲に妬みを引き起こすほどに。だから、私でも救われたのです。神さまは、何時から働いたにせよ、今日を生きるための賃金(恵み)を下さいます。労働者はそれをもって家に帰り、晩餐をたのしむのでしょう。私たちも、天の国の宴に招かれています。子どもたちは、そんな神さまの恵み深さを証しする生きた証人なのです。

2026年7月30日の聖句

自分の神を知る民は揺るがず行動する。(ダニエル11:32) 聖なる方、真実な方がこう言われる。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから試練の時に、私もあなたを守ろう。」(黙示録3:7,10) 今日の御言葉は「忍耐」と言います。必ず試練の時が来る。苦しみの時に忍...