2017年1月15日日曜日
ルカによる福音書第18章9から14節「ごめんなさい」と言えるしあわせ
主イエスの譬え話です。二人の人が登場します。彼らは神殿に祈りに来ました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。ファリサイ派というのは、とても真面目に毎日の生活をしていた人たちです。周りの人からは尊敬され、一目置かれる存在でした。実際、この人はこういうふうに祈っています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」この言葉だけを聞くと、何とも厭なやつのような気もしてしまいますが、恐らく実際にそうやって生きていたのでしょう。彼が言っていることを全部やったのだとしたら、2000年前当時の基準からしても相当すごいことです。なかなか真似できません。しかし、ここにはもう一人の人が登場しています。この人は徴税人でした。当時の徴税人は罪人の代表格のように考えられていました。徴税人は文字通りに税金を徴収するのが仕事ですが、これは委託業で、民衆からいくら集めても構いませんでした。国に規定の額さえ納めれば、後はどんな不正を働こうとも黙認されていたのです。当然、嫌われていました。この嫌われ者の罪人は、祈るために神殿に来たというのに、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」そんな譬え話をして、イエスは最後におっしゃいます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」この話を聞くといかにもファリサイ派の人が高慢ちきで厭なやつだったからいけないという気になってしまいますが、イエスさまが伝えようとしておられるのは、少し違うことなのではないかと思います。この話は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」といって始まっていました。この「うぬぼれる」と日本語に翻訳されている元の言葉には「頼りにする」という意味もあります。つまり、あのファリサイ派の人は自分の生き方の正しさを頼りにしていました。その結果として、高慢になっていたのだと思うのです。自分は立派に生きている。他の人よりも努力している。隣の人よりも結果を残している。そういう自信は、自分の生き方を頼りにさせますし、自分の正しさを頼りにする物の見方は、他の人との比較の中に自分をおきます。そうすると、他の人と自分とを比べて、まさっていれば優越感に浸るし、劣っていれば劣等感に苛まれる。そして、優越感をもてるような自分であれば、他人を見下します。ファリサイ派の人は立派に生きていました。それ自体はすばらしいことです。でも、その自分のすばらしさに頼り始めたとき、他の人はつまらない存在になりました。あの徴税人の男は、自分を誰と比べるのでもなく、ただただ神様の前に自分の罪深さを嘆き、自分に絶望しながら、神様に助けを求めます。神に頼ったのです。神様、助けてください、罪深いわたしを憐れんでください。この譬え話をしてくださったイエス・キリストは、罪深い私たちの友になるために来てくださった神の子です。この方を頼って、助けてくださいと祈りましょう。
2024年9月19日の聖句
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