2015年1月7日水曜日

詩編第119編について

 150編の詩編の中でもいちばん長い詩として知られている詩編第119編は、実に176もの節から成り立っています。新共同訳聖書では119という数字の後にアルファベットによる詩と書いてありますが、これはいわゆるいろは歌であるという意味で、原文のヘブル語を見てみると美しい韻を踏んでいることに気づきます。新共同訳聖書では連の初めに括弧書きで「アレフ」や「ベト」と書かれていますが、これはヘブル語のアルファベットの名前で、例えば1から8節のアレフの詩の各節の最初の単語の1文字目がすべてアレフから始まっています。9節から16節は同じように各節の最初の単語がベトから始まっていて、次はギメルで始まる単語が各節の最初に置かれている・・・そのように続き、ヘブル語のアルファベット22文字について、それぞれ8節からなる詩が記されています。そのようなわけで、22文字×8節=176節もの長い節から成り立つ詩が生まれることになりました。
 第119編は22もの詩から成り立ちますが、単に互いに関係の無い詩を寄せ集めたものではなく、一つの一貫したテーマを持つ22の詩です。その意味では、やはり全体をまとめて一つの詩と呼ぶべきです。この第119編に一貫したテーマとは、主の律法です。この詩編を読んでみると、各節にとてもよく似た意味の言葉が置かれていることに気づきます。「律法(1)」、「定め(2)」、「命令(4)」、「掟(5)」、「戒め(6)」、「裁き(7)」、「御言葉(9)」、「仰せ(11)」これら8つの言葉のどれかがこの詩編のほぼ各節に登場します。様々な表現で言い表していますが、意味するところは基本的にはほぼ同じであると考えられると思います。この詩編は1節にもある通り、主の律法に従う幸いを主題としているのです。

 主の律法に従うことが幸いである、というのは現代日本に生きる私たちには少し分かりにくいことであるかも知れません。なぜこれが幸いであるのか、私たちにとっても幸いであるのか、ということについてはこの詩編をゆっくり読みながら、聖書によく聞きたいと思います。私たちは新約聖書に登場するファリサイ派の人々を知っており、その事もあって律法に対してマイナスのイメージを持っているところがありますが、本来、主の律法がいかなるものであったのかは、聖書そのものに虚心坦懐になって聞かなければ決して分かりません。

資料
https://drive.google.com/file/d/0B2xNZrl4svuJRUN1M19oRU9fLTA/view?usp=sharing

2015年1月4日日曜日

詩編119:105-113


どれほど多くの人に愛されてきた詩編であろうかと思います。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」キリスト者として生きると、いくつもの御言葉がこれまでの人生の折に触れて私を照らしてきたことを知っています。大きな決断をしたとき。病気で苦しんでいたとき。進路に悩んだとき。結婚したとき。子どもが生まれたとき。あの人とどうしても上手くいかなかったとき。様々なときに聖書の記された神さまの御言葉によって支えられ、導かれてきました。まさに、神の言葉こそ、私の道の光であり、私の歩みを照らす灯です。もちろん、私たちの生きる道は平坦ではありません。そのようなことはありえません。「わたしは甚だしく卑しめられています。」一体、誰が私を卑しめ、圧迫するのでしょう。どうしても和解できないあの人なのか、自分にはどうすることもできない運命なのか。そのようなとき、私たちには祈り以外に逃れ場がありません。主よ、私を生かしてください。私の祈りを受け入れてください。あなたの裁きを教えてください。そこにしか私の救いはないからです。いや、もうすでに、「主よ」とお呼びして祈ることが許されていること自体が既に救いです。神さまの「主」というお名前は、「私はお前と共にいる」という約束を意味すると言った人があります。この方のお名前を呼んで祈ることができるとは、何ということでしょうか。例え悪いものが私の前に罠を仕掛け、もう風前の灯のようになっていても、私には主の律法がある。私はこれを決して忘れません。「律法(トーラー)」という単語はもともと「矢を放つ(ヤーラー)」という単語から派生しました。神がどこに行って良いのか分からなくなっている私のために、行くべき道を示す矢を放ってくださったのです。だから、神に逆らう者の罠にかかって行くべき道を見失ったとき、「これが道だ」と神に教えて頂けるならば、それは救いです。讃美歌460番の2節にこのようにあります。「行くすえ遠く見るを願わず。よろめくわが歩みを守りて、ひと足、また火と足、導き、行かせたまえ。」主の御言葉という光は強い光ではありません。夜道を煌々と照らす町の光ではなく、一歩先だけを照らす弱い光です。それで良いのです。行くすえを遠く見る必要など無いからです。なぜなら、一歩進んだその先でも、主の御言葉の光は消えてしまうことがないからです。神の御言葉、「それはわたしの心の喜びです」。2015年、私たちは聖書の御言葉に聞くことを大切にします。そして、それだけではなく、御言葉に照らされて生活することを大切にします。神が放つ矢は私たちの頭上ではなく、生活の場を飛んでいるからです。

2014年10月29日水曜日

秋の特別集会のお知らせ

山崎美津江さん講演会「家の整理は心の整理」

あのNHKの朝イチにも出演したスーパー主婦、山崎美津江さんの講演会をいたします。
11月7日金曜日、午前10時から12時まで。会場はさがみ野教会。
参加無料、申込みも必要ありません。(託児が必要な方のみ要申込み。)

お問い合わせ:
電話;046-255-6441
メール:kyokai@sagamino.org


教会の詳しい地図はこちらからどうぞ。

相鉄線「さがみ野駅」下車、徒歩5,6分です。
改札を出て右側の階段を降り、突き当たりの横浜銀行を左に向かい、また突き当たりのマクドナルドを右に進みます。桜並木通りを進み、信号を二つこえると、広場のような公園と東原コミュニティセンターがありますので、その間の道を左に曲がり、最初の交差点を右に進んでください。教会が見えます。

リベルタにも案内を載せて頂きました。


(一部、誤植があります。住所は東原4−13−24、東原コミセン裏です。)


2014年8月10日日曜日

創世記1:1-2:4a「世界は安息に向かう」

聖書の最初の巻の最初の言葉に、聖書のメッセージが凝縮されているように思います。「初めに、神は天地を創造された。」神が創造されたこの天と地には神の祝福が充ち満ちています。神は光を造り、空と陸を造り、草木を造り、天体を造り、水の中の生き物と空の鳥を造り、それぞれの生き物を造り、人を造ったとき、御自分が造ったものをご覧になって、「良し」とされました。それは極めて良かったとおっしゃいました。この「良い」という言葉には目的に適った美しさという意味があります。神は私たちをご覧になって「美しい」とおっしゃるのです。皆さんはご存知でしょうか、ご自分の美しさを。あなたは美しいのです。神がそうおっしゃっています。神があなたを祝福しておられるのです。神が祝福してくださっているということは、私たちが神のものだということです。その事実を確認するのが、七日目に訪れる安息日の祝福です。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」とある通りです。私たちには6日間の仕事があります。それどころか6日間では足りなくて、もっとたくさん働かなくてはならないこともしばしばです。日曜日に礼拝を献げること、そのために神さまに時間を献げることにはある戦いが伴います。娑婆の生活が聖日を凌駕するかのようです。しかし、聖書の初めの言葉に聞くと、事情は変わってしまうのです。「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」安息の日をもって、神は6日間の仕事を完成なさいました。6日間の娑婆の生活を完成されたもの、聖なるものとするのは、7日目の安息の日の祝福です。私たちの一週間はすべて丸ごと神のものです。神が祝福してくださっているのです。その事実を、私たちは安息日に知ります。勿論、日曜日に必ずしも休むことができない仕事はたくさんありますし、私たちの社会はそういう仕事によって支えられています。だからこそ、今ここで7日目の神の安息を覚えて時間を献げる人がいることは尊いことです。この世界はきれい事だけでは済みません。神がお造りになった世界には、光だけではなく、闇もありました。夜も残されていました。敢えて言えば、蛇もいる世界でした。極めて良いこの世界で、しかし、神を失ってしまうと神の光を失ってしまいます。その時、私たちの罪は深く、その深淵は混沌としています。神に光を灯して頂かなくては生きられないのです。私たちは娑婆の深淵から十字架を見上げます。私たちは神のもの。この祝福の事実を私たちが決して忘れることのないために。

2014年8月3日日曜日

使徒言行録12:1-24「熱心な祈りを神は聞いて」

教案誌「成長」のカリキュラムに従って使徒言行録を読んできましたが、今日で一区切りです。使徒言行録は天に昇る主イエスが使徒たちに、あなたがたは私の証人となるとおっしゃったことから始まりました。そして教会がどうやってキリストの証人として生きたのかを伝えています。使徒言行録によれば、彼らは何より祈る教会でした。今日の箇所でもそうです。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」この「彼」というのはペトロのことで、ヘロデ王の迫害のために捕らえられ、投獄されていました。教会はヘロデが支配する世界で祈り続けたのです。約2000年経ち、今でも彼の地では暴力の応酬が続いています。20節を見ると、キリスト者ばかりでなく、ティルスやシドン地方に住む人々もヘロデが食料の流通をにぎっていたために彼に従わないわけにはいかなかったようです。同じことが今でも起きています。こんなに大きな力を前にして、教会に一体何ができるのかと思います。教会は、祈り続けました。しかも、熱心に祈りました。希望を絶やしませんでした。その希望はどこから来るのか。復活です。今日の聖書の箇所には復活という言葉は直接には出てきません。しかし、隠された主題は復活信仰です。そもそも事の始まりは使徒ヤコブの殉教、即ち死です。そして投獄、天使の登場、神の力による救出、出迎える女、男の弟子の不信仰といった具合に、福音書がキリストの十字架と復活を伝えるのと同じモチーフがいくつも登場しています。ペトロが牢から解放されたことを、まるでキリストの復活をなぞるように描いているのです。復活の信仰は、うっかりすると現在の私の命にはあまり関係のない、遠い未来の話のように考えてしまいますが、そうではありません。今、ここで、どういう望みをもって祈り続けるのかということに深く関わっているのです。しばらく前、成瀬教会のY君のために祈って頂きました。まだ二十歳の青年ですがくも膜下出血で倒れ、私たちも彼のために熱心に祈りました。手術が成功し、彼は今元気になりました。更にこの出来事を通して祈りを取り戻したそうです。教会の人たちに祈られていることへの感謝が溢れているそうです。お父様とメールのやりとりをしましたが、聖書の言葉を引用して、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」とおっしゃいました。神の息子である自分を取り戻したのです。教会はどのようなときにも祈り続けます。このヘロデの世界で傷つき痛む人々のために。

2014年7月27日日曜日

使徒言行録10:1-48「神は人を分け隔てなさらない」

私に牧師としての指導をしてくださっている加藤常昭先生が先週メールをくださいました。奥様のお具合が良くないという内容です。メールの結びに「御言葉に飢え渇いています」と書かれていました。私は牧師として、聖書の御言葉の説教をする者として、先生に指導して頂いています。何ができるか考え、私がした説教の原稿をお送りすることにしました。昨日、他の塾生の牧師も同じように投稿しておられました。イエス・キリストの御言葉こそが慰めであり救いであると信じてのことです。コルネリウスとその家族にペトロが語ったのは主イエス・キリストのことです。「神がイエス・キリストによって−この方こそ、すべての人の主です−平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう」とペトロは言いました。御言葉というのは主イエスのことです。キリストが十字架にかかり、復活させられた。このキリストと共に神が働いておられた。ペトロはその事だけを語りました。これこそ我らの救いと信じているからです。先日私が投稿した説教は、先月、私が待った伝道教会に伺ったときにした説教です。マルコ1:9〜20から、「神の国は近づいた」と題していたしました。主イエスが荒れ野に送り込まれたように、私たちにも荒れ野を生きるときがあります。しかし、主イエスは、そんな私たちにおっしゃいます。「時は満ち、神の国は近づいた。」このキリストの宣言に促されて、信仰を持つ人、教会に導かれる人が起こされます。ここに神の国が来ているからです。キリストが何をおっしゃったのか、キリストが何をなさったのか、それこそ、私たちにとってのかけがえのない慰めなのです。この方は「人を分け隔てなさらない(34節)」方です。誰もが蔑む徴税人や皆に差別されていた罪人と共に食卓についた方です。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」とおっしゃった方です。キリストの御言葉に聞き、この方の生涯に学ぶならば、イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられることを知ります。これは、勿論、コルネリウスというキリストを知らなかったであろう異邦人の回心物語でもありますが、ペトロの回心物語でもあります。ペトロも、ここで新しく、キリストがくださった福音のなんたるかを知ったのです。自分が思っていたよりも広くて深い神の愛を。十字架にかかり復活させられたキリストが、あなたを救ってくださいます。

2014年7月6日日曜日

使徒言行録5:27-42「新しい喜び」

ペトロと他の使徒たちは主イエス・キリストの福音を証言し、多くの病人をいやします。多くの人々が主イエスを信じました。しかし、それが当時の宗教指導者の妬みを買い、彼らは捕らえられ、最高法院の尋問を受けることになります。迫害がいよいよエスカレートしたのです。使徒たちは答えます。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」捕らえられ、牢につながれ責め立てられながら彼らは証言します、主イエスにある罪の赦しの福音とその望みを。この苦しみのときを却って福音を証しする機会としたのです。驚くべき事です。迫害されたり、迫害とまで行かなくても苦しい目に遭ったりすると、多くの場合、落ち込んでしまいます。神さまを信じ続けることに難しさを覚えてしまいます。あるいは、現代の日本という社会の状況やこれからへの見通しが暗いことを覚えたとき、多くの人は絶望的な展望を口にします。しかし、キリストの復活の証人であるキリスト者は、苦しみのときに望みを証しするのです。確かに、わたしたちの罪の闇は深い。神の子を殺してしまうほどに。しかし、その神の子であられるイエス・キリストを神は復活させ、わたしたちを悔い改めさせ罪をゆるすために、導き手、救い主にしてくださいました。どんなにわたしたちの闇が深くて濃くても、わたしたちが証言するのは絶望ではなく希望です。キリストがあなたをも救ってくださった!しかし、望みを証ししているからと言って、皆が喜んで話を聞いてくれるわけではありません。主イエスさまご自身がかつておっしゃいました。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために追うや総督の前に引っ張っていく。(ルカ21.12)」喜ばれるどころか迫害され、喜びの報せを告げた代償は苦しみだと言うのです。しかし、更に主イエスは続けられます。「それはあなたがたにとって証しをする機会になる。」苦しみのときにこそ、キリストを信じる者は証しをします。キリストがわたしたちを救ってくださったことを。キリストにあって望みがあることを。苦しむ者の証しにこそ力があるのです。今回のブラジルへの旅でマッタ伝道教会のT長老のお宅に夕食に招いて頂きました。特にゆっくりとお話するチャンスを頂いた長老のお母様は娘と孫を亡くした経験の持ち主です。苦しみ、試練の中で強められた信仰、望みを証ししてくださいました。

2026年9月13日の聖句

今週の聖句: 一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7) 今日の聖句: 主は虐げられた人の砦 苦難の時の砦。(詩編9:10) みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。...