誰かに苦しめられている人、しかも、敵ではなく、友、知り合った仲、楽しく、親しく交わりをもった人(14,15)に苦しむ人は、誰でもこの詩編を読んだら良い。あなたの悩みはここにすべて言い表されている。あなたの苦しみはすでに聖書に記されている。悩みにうろたえ、不安な思いが吐露されたこの詩編は、絶望に満ちた言葉によって不思議と読む者を慰める。これが独りぼっちのつぶやきではなく、絶望しつつも神に向かう祈りだからだ。
2017年2月9日木曜日
2017年2月5日日曜日
マルコによる福音書第8章1から10節「パンは異邦人にも届けられて」
主イエスが言われます。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れ切ってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」そして、7つのパンと少しの小さな魚をもって4000人の人を食べさせ、彼らは満腹になりました。これはイエス・キリストが「かわいそうだ」とおっしゃったことから始まった出来事です。「かわいそう」というのは「私はこの群衆を憐れむ」という言葉です。憐れみ、それは新約聖書が書かれたギリシア語では「腹が痛む」という字を書きます。群衆が疲れてしまうことを憐れんで、イエスが彼らに食べるものをくださいました。疲れている人、いませんか?気力を失っている人、いませんか?これはあなたのための物語です。あなたをご覧になったキリストは、あなたを憐れんで、すばらしいことをお始めになります。主イエスがご覧になったのが三日分の空腹だったということに興味を覚えます。主イエスにしてみたら、私たちが何を食べるかとか、そのための私たちの労苦だとか、私たちの生活だとかは、どうでも良い事ではありません。そこで喘いで疲れている私たちの呻きを憐れまれるのです。しかも、そこは「人里離れたところ」です。「荒れ野」という字です。きっと困難に囲まれていたり、神が助けてくださるなんて非現実的だとしか思えなかったりするような場所や状況の象徴なのではないかと思います。そんな私たちの荒れ野で、キリストは私たちを養ってくださるのです。今日はデノミネーション・サンデーと呼ばれる日曜日で、カンバーランド長老教会の誕生を覚える日です。カンバーランド長老教会は1810年に米国南部で誕生し、1877年に開国したばかりの日本へ宣教師を派遣しています。この時に送られた宣教師、ヘール兄弟は大阪、和歌山、三重などの山の中をわらじを履いて歩き回って宣教しました。その中で、兄のA.D.ヘールが開拓に関わった教会に山田教会という教会があります。この教会は伊勢神宮の前に位置します。日本人の心のふるさとであり、明治からの天皇を中心としたく荷造りの根幹をなした伊勢神宮。日本の中でも最も伝道困難な場所での伝道です。伊勢伝道に大きな貢献をしたのが、カンバーランドが派遣した女性の宣教師、ジェッシー・ライカーです。当地に幼稚園を作り、そこにはたくさんの子どもが来ました。山田教会の伊勢伝道でキリスト者になった多くの人がこの幼稚園の関係者だったそうです。私がこの林を今日思い起こしたのは、この主イエスに養われた4000人は、恐らく異邦人であったからです。この時主イエスはガリラヤ湖の西岸にいました。異邦人の地です。神を信じていなかった者たちに主イエスは伝道し、そこで出会った人たちの疲れ切った姿、気力を失っている姿をご覧になって、ご自分の腹を痛める思いで憐れみ、彼らを養ってくださいました。これまで神を知らず、何の関係もなく生きてきた者に、主イエスは熱い思いを向けられます。こうやって届けられた福音が、私たちのところにもやって来たのです。主イエスに養われるとき、私たちは独りぼっちではありません。そこには4000人の仲間がいます。いや、この群衆が、イエスに養われることで教会という家族に生まれ変わるのです。主イエスは私たちを養ってくださいます。ご自分の肉を裂いたパン、聖餐のパンによって。キリストの体を分かつ私たちは、一つなのです。
2017年2月2日木曜日
詩編第54編「神の御名は恵み深い」
神に助けを求め、救ってくださいという祈りの言葉である。この人は言う。「神よ、御名によってわたしを救い、力強い御業によって、わたしを裁いてください。」この信仰者のように、わたしも苦しみの日にどこまでも神を求めたい。自分をくるめる者たちはこぞって神に逆らう。それでも尚神に従うことを非現実的なことと言って逃げずに、神のみ名にこそわたしの助けはあると信じているのだ。本当にその通りだと信じる。この方こそ救いだと。
2017年1月29日日曜日
ルカによる福音書第19章11から27節「今、小さな事に忠実に」
今日の聖書の話を聞いて、どう思われるでしょうか。初めてこの話を読んだ人には少し衝撃的な物語であったかも知れません。聖書に多少とも慣れ親しんでいる人は、「あれ」と思われたかも知れません。というのも、マタイによる福音書によく似た話があるからです。しかも、よく似ているけれど、細部がちょっと違いますし、気になる違いです。ある人が不在になるので僕たちがなにがしかを預かって、その後商売をする。そのもうけを主人に報告して、ある者はほめられ、ある者は裁かれる。そういう基本的なことは一緒ですが、まず、預かる金額が違います。マタイでは5タラントン、2タラントン、1タラントン。ルカは10人に10ムナ。恐らく1ムナずつでしょう。1タラントンは、約60ムナです。それに、マタイにはない物語もくっついています。この人は不人気だったようで、王になるというのに住民に反対された。そして、最後にはこの反対者を殺すという話があります。マタイはそういう事は言いませんでした。実は、この後半の話は、2000年前に直接主イエスの口からこの話を聞いた人たちにとっても、ビックリする話であったのではないかと思うのです。というのも、本当にこれとよく似た話が当時あったからです。あの有名なヘロデ大王の息子が王位を継ぐとき、当時の地中海世界を支配していたローマ帝国の認証を受けにいき、それに対してユダヤ人が反対の使者を出した、という事件がありました。「イエスさま、あの話をしているの?」と思ったことでしょう。しかし、ユダヤで起きた出来事は似ているけれど、やっぱり違います。主イエスの譬えに登場する王は、旅立つときに、家来たちにムナを託していきます。主イエスは史実を思わせる話をしながら、ご自分とご自分を信じるキリスト者達の話をしているのでしょう。当時の人が「あのヘロデ家の話?」と思ったり、私たちが「マタイとちょっと違うゾ」と思ったり、「この残酷な話って何?」といぶかったりするときに既にそこでイエスの話の中に引き込まれています。キリストの言葉を聞く私たちもこの話の登場人物の独りになってしまっているのです。なぜなら、ここで王が家来に託した「ムナ」とは、古代からの教会の考えによれば、キリストの言葉そのものを意味しているからです。主イエス・キリストは、キリストの言葉を聞く私たちに、ご自分の言葉というムナ、ご自分の言葉という宝を預けてくださっているのです。「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」と。主イエスの言葉に生きることで、もうけを得てきなさいと私たちに神さまの言葉という宝を預けてくださっているのです。ところが、この王、即ちキリストは、この世界では嫌われている王です。考えてみれば、残されて商売をする家来たちはこの地で嫌われた主人をもって商売しなければなりません。ある人はムナを死蔵しましたが、あの人の家来だと言って商売するのは怖いことだったのかも知れません。この世で神の言葉に従って生きるとは、そういうことなのです。あの鼻つまみ者、ヤクザなザアカイと一緒に食事を食べてつきあうキリストの後に付いていくのですから。でも、神に託されたタラントに生きるとき、必ずもうけが生まれます。神からの報いがあります。神の言葉に生きるほどに、喜びに喜びが増し加わります。これはもう確実です。このキリストの約束を信じて、今私たちは小さな事に忠実に生きようではありませんか。
2017年1月26日木曜日
詩編第53編「善を行う者はいない」
「神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。誰も彼も背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」何と厳しい言葉だろう。神が天から見渡しても、一人も善を行う者はいないのだ。神の前に汚れているのは、この私なのだ。だから、私から救いが始まることはない。決してない。神からしか始まらない。私たちが喜び祝うことができるように、主よ、救ってください。
2017年1月22日日曜日
ローマの信徒への手紙8:26〜28「どんな時でも、神は道を備えておられる」
私たちは礼拝をしています。改めて言う必要もないことかもしれません。しかし、礼拝とはなんなのか。それを問われることもありますし、いったん考えますと難しいことにも気が付きます。礼拝について書かれている本も何冊もありますから、ここには一言などでは言い表せないほど豊かな恵みがあるということです。豊かな礼拝に招かれている私たちは今、その礼拝の一部である「祈り」ということに注目してみたいと思います。
本日のパウロの言葉。「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と言う言葉は、すこし不思議です。祈りを大切にし、誰よりも祈っていたことと思います。しかし、パウロはどう祈るべきかを知らないと言うのです。パウロは、私たちがすべき祈りはいかなるものなのか、それを問うているように思います。
主イエスは、奥まった場所で祈りなさい、とも教えられたことがあります(マタイ6章)。誰にも聞かれないような場所でも、父なる神は私たちの祈りを待っておられる。祈りとは、神秘だと思います。祈りが深まるというのは、言葉の巧みさでもなければ、回数でもない。信頼が増すかどうかに関わってくる。それは聖霊の働きにとてもよく似ています。
私たちが神を「父よ」「お父ちゃん」と呼ぶことができること、それは聖霊の働きによるものです。神の子どもとされることを、私たちは願っております。それは目には見えない希望です。この目には見えない希望を聖霊ご自身が、私たちよりも先に願っておられます。「執り成す」とパウロは言いましたが、この言葉のイメージはくっついて動かすイメージです。私は子どもが服を引っ張って「あっち」「あっち」と願うようなイメージをします。聖霊は私たちの内に働いて、神のご計画を願います。ですから、聖霊が私たちの内で祈りを始めるということは、私たちが求めていることよりも先に、神がどのような計画を持っているかに関わってくるのです。
ここで改めて振り返りますと、私たちは自分の生活の保持のために心を多く使ってしまうことがあります。疲れます。不安に苛まれます。ですが、私たちが礼拝に招かれているということ、神を父と呼び祈りをするということ。それは、確かに私たちの願ったことではありますが、生活の安定のためではなかったことが分かります。言い換えるならば、この方にご計画があり、そのご計画がなされるために、私たちが招かれ命が守られているのであります。ですから、私たちの祈りは、「わたしを守ってください」と祈りつつ、同時に「あなたは何をなさるのでしょうか?」「あなたのご計画のために、私は何の役目を与えられているのでしょうか?」と尋ねることとなるのです。このお方のご計画に従って歩む歩みが与えられている私たちは何と幸いな者なのでしょうか。皆さまの今週の歩みが、聖霊の執り成しのもと、父なる神の業を見せていただく歩みとなりますように。
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