2020年2月29日土曜日

2020年2月29日(ローマの信徒への手紙16)

ローマの信徒への手紙16;
この第16章を読むと、パウロがこの手紙をどんな思いでしたためてきたのか、その思いの一端が垣間見えます。パウロはここでたくさんの人の名前を挙げています。プリスカとアキラ、エパイネト、マリア、アンドロニコとユリア、アンプリアト、などなど・・・。パウロは彼ら一人一人の顔を思い浮かべながら、この手紙を書いたのではないでしょうか。そして、パウロの背後にもたくさんの人がいます。ローマのキリスト者立ちに福音が届けあれるように祈り、願ってくれている仲間たちが。「キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。」この「よろしく」というわずか四文字に込められた思いは、どんなに深く、豊かなものであったことでしょうか。共にキリストの福音に仕える者たち同士の「よろしく」です。福音が彼らの絆だったのでした。
「神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めるおことがおできになります。この福音は、代々にわたって隠されていた秘儀を啓示するのです。その秘儀は、すべての異邦人を信仰による従順へと導くようにとの永遠の神の命令に従い、・・・。」秘儀と言っていますが、別の言葉に訳すなら「神秘」です。原語のギリシア語では「ミュステーリオン」という言葉が使われています。英語のミステリーの語源です。イエス・キリストについての宣教、それは神様の秘儀、神秘、ミステリーだ、と言います。キリストが神様の秘密を私たちに明かしてくださいました。
秘儀は普通は明かされないことに価値があります。秘めておくものです。しかし、イエス・キリストについて宣教、福音は、明かされ、宣べ伝えられることを求めているという点で、他の秘密とは違っています。キリストの福音は、明らかにされることを求める神秘です。
主イエスが明かしてくださったミステリーは、例えば旧約聖書というミステリーです。このローマ書では、旧約の律法にあらわされていたミステリーがつまびらかにされていました。神様は、律法に映し出される私たちの罪深さにもかかわらず、何の功績もなく私たちを救ってくださいます。このように、神様は惜しみなく秘儀を明らかにしてくださいます。私たちはキリストによって示された神の愛から、新約聖書も、旧約聖書も読むことができるのです。キリストが明かしてくださる愛の神秘が、私たちを生かしてくださいます。

2020年2月28日金曜日

2020年2月28日(ローマの信徒への手紙15:14〜33)

ローマの信徒への手紙15:14~33;
「こういうわけで、私はあなたがたのところに行くことを、何度も妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、あなた方のところへ行きたいと長年、切望してきたので、イスパニアへ行くとき、それをかなえたいと思います。」
パウロはローマを訪問したいとずっと願ってきましたが、なかなかそれは叶えられませんでした。パウロは更にその先、イスパニア、つまりスペインにまで行きたいと考えていました。地中海世界の果てということになります。ローマに行きたかったけどなかなかいけなかった。そこで、更にその先のイスパニアにまで行く。だから、その途上でローマを訪問しよう、と言うのです。実際にはパウロがイスパニアに行くことはできませんでした。しかしローマには訪れました。しかしそれはパウロが思っても見なかった形で、つまり囚人としてローマまで護送されるという形で行くことになります。思わぬ仕方で、パウロが異邦人に福音を宣べ伝える働きが進んでいったのでした。
彼がローマに行きたいと願ったのは、神様が自分をそこに異邦人へ遣わしたと確信していたからです。「それは、私が神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。」パウロは自分を異邦人のための祭司だ、と言います。
去年使っていた通読表を使って今年も旧新訳聖書を通読していると、今ちょうどレビ記を呼んでいることになります。レビ記は祭司の作法について丁寧に触れています。レビ記が記す祭司の振る舞いは、聖なるものと穢れたものとと分ける、ということが基本です。食べ物から始まって、それは日常のありとあらゆることに及びます。そして日常生活を区別し「穢れ」を可視化することで、「聖」とは何かを始めて知ることができます。白っぽいクリーム色と真っ白の違いは、並べて区別することでしか分からないのと同じです。ですから、祭司の基本的な作業は「区別」にあります。
しかし異邦人のための祭司となったパウロは、それまでは穢れた存在と考えられてきた異邦人と、聖なる民と考えられてきたユダヤ人との区別をなくしました。聖なる方はただお一人、キリストだけ。キリストによって示された聖なる愛だけが、聖い。その聖さは、穢れた罪人である私たち(異邦人もユダヤ人も)を愛してくださるところで発揮されました。誰もが、キリストのゆえに、神に近づくことができます。キリストは、人間的なすべての区別を乗り越えて、神の聖なる愛を私たちの穢れの中で輝かせるのです。パウロも彼に続く教会も、そのために仕えています。

2020年2月27日木曜日

2020年2月27日(ローマの信徒への手紙15:1〜13)

ローマの信徒への手紙15:1〜13
「私は言う。キリストは神の真実を現すために、割礼のある者に仕える者となられました。」
パウロはこの手紙で、一貫して、割礼によらない福音を伝えてきました。人は割礼を受け、律法を守ることによって義とされるのではない。神の恵みによって、キリストの真実によって救われるのだ、と。つまり、神様の救いの御業には、異邦人もユダヤ人も与ることができる、と訴えてきました。これまでは異邦人は割礼を受けなければならないとされていました。つまり、先ずユダヤ人になったら救いの条件が整えられる、ということになります。しかしキリストの十字架の御業は、どんな人にも条件なく神様の救いを届ける出来事です。だから、キリストがいてくださるから、異邦人ではない私たちも神様の御許に招かれたのです。
しかし、キリストは異邦人だけではなくユダヤ人にとっても主です。割礼あるものにとっても、キリストは救い主です。主イエスは本当に自由な方だと思います。もしも私が救い主の立場だったとしたら、割礼なしの救いというものを打ち立てたら割礼ありの者は排除してしまうような気がします。しかし、主イエスは割礼の有無にこだわらずに、神の愛を届けてくださいました。主イエスは言われます。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする(ヨハネ8:32)」。主イエスの自由は、愛の自由です。私たちをどんな者でも、条件なしに愛する自由です。
だから、この愛を頂いている者として、パウロは私たちに勧めました。「私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。おのおの、互いを築き上げるために善を行い、隣人を喜ばせるべきです。キリストもご自身を喜ばせようとはなさいませんでした。」私たちも愛する自由に招かれています。

2020年2月26日水曜日

2020年2月26日(ローマの信徒への手紙14)

ローマの信徒への手紙14;
「従って、もう互いに裁き合うのはやめましょう。」
パウロはそのように言います。人を簡単に裁いてしまうというのは、私たちの重い病気のようなものであるかもしれません。後になってよくなかったと思うことはあっても、裁くようなことを口にしているときには、こんなに強い快感を覚えることは他にはありません。誰かと会って噂話をしてその人を裁いてみせることも、テレビに座って、不倫や薬物で失敗した有名人を裁くことも、とどまることを知らない。そんな醜悪な言葉を吐いている自分をビデオにでも撮って後から見せられたりしたら、そんなに恥ずかしことはありません。頭ではそう分かっていますが、舌を制するのは本当に難しいことです。一体どうしたらいいのでしょうか。
やはり、キリストを見上げることなしには、それは不可能です。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、きょうだいを裁くのですか。また、なぜ、きょうだいを軽んじるのですか。」きょうだいを裁いてはならないということの根拠は、キリストが死に、そして生きたことだと言います。やはり、この事実から始めないと、どうしようもないようだと思います。キリストの死と復活の事実こそが、揺れ動き不安定な私たちの、変わることのない不動点、常に確かめるべき基準点です。
ここでは具体的に、食べ物のことが問題になっています。コリント教会と似たような問題があったのでしょう。偶像に備えられた肉を食べても良いのか?偶像の神なんてそもそもいないので、ただの肉として感謝して食べればそれでよろしい。論理的な話の筋としてはそうなりますが、それによって躓く人もいました。肉を食べる人たちは、弱い人たちを裁きました。パウロの考える筋道は、偶像の肉を食べることが正しいか間違っているかということではありません。「このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人に信頼されます。だから、平和に役立つことや、互いを築き上げるのに役立つことを追い求めようではありませんか。」「きょうだいが心を痛めているなら、あなたがたはもはや愛に従って歩んではいません。食べ物のことで、きょうだいを滅ぼしてはなりません。キリストはそのきょうだいのためにも死んでくださったのです。」キリストがこの人にしてくださったこと、そして、それゆえに私は何をすべきなのか。それがパウロの考える人間関係の基準です。

2020年2月25日火曜日

2020年2月25日(ローマの信徒への手紙13)

ローマの信徒への手紙13;
「人は皆、上に立つ権力に従うべきです。神によらない権力はなく、今ある権力はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権力に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くことになります。」
使徒パウロが書いた手紙の一節であるこの言葉は、大変驚くべき言葉ではないでしょうか。パウロといえばローマ帝国の権力と対峙した人です。自分を捕縛したユダヤの最高法院に対し、自分はローマの市民権を持っているのだからローマへ護送して皇帝に直訴させて欲しいと言って、実際にローマまで連行されます。ローマでは囚われの身で生活をし、暴君ネロの時代にローマで殉教したと伝えられています。第一、主イエスを捕まえたのもユダヤの権力者たちでしたし、十字架刑の判決を下したポンテオ・ピラトはローマの役人です。権力の下での苦しみを実際に嘗めつくしたし、権力の下で殺された方を神のこと信じている者の言葉です。ですので、大変驚くべき言葉ではないでしょうか。
パウロはこの下りで税金のことにも触れています。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」主イエスご自身、皇帝に対する税金を納めるようにおっしゃったことがありました。キリスト者はこの世で生き、働き、自分の義務に従って決められた額を納税します。一人の善良な市民として生きます。
しかし、例えばナチスに支配されていた時代のドイツのように、国家権力が暴走してしまったとしたらどうなのでしょうか。それでも権力に従うべきなのでしょうか。パウロは権力について「権力は神に仕える者であり、この務めに専心しているのです」と言います。従って、もしも権力が神に仕えるという究極的な目的から逸脱してしまうことがあれば、それに対しては「否」と言うことまた権力に仕えることの一つなのではないでしょうか。権力に仕えることと時流に乗ることとは違います。神に仕えることを蔑ろにするならば、「ならぬものはならぬ」と言わねばなりません。
神に仕えるということを、パウロは「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」と言って、愛の掟に見ています。互いを愛し、隣人を尊び、「馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬みを捨て」る。つまり、「主イエス・キリストを着」ること。それが神に仕えることだと言います。それは、キリストを着ると言っているとおり、主イエス様が歩まれたように歩むということではないでしょうか。私たちは、この世界でキリストを着る者、神の国からこの世界に来た在留外国人なのです。

2020年2月24日月曜日

2020年2月24日(ローマの信徒への手紙12)

ローマの信徒への手紙12;
「こういうわけで、きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい。」
「これこそ、あなたがたの理に適った礼拝です」とあります。新共同訳では「あなたがたのなすべき礼拝です」となっているところですので、基本的には同じ理解と言ってよいと思います。この「理に適った」とか「なすべき」と訳されている言葉の語源は「言う」という動詞で、「言葉」や「言」と訳される「ロゴス」いう単語も同じルーツを持ちます。ですので、「理に適った」というのは、まさに筋の通った、そうすべき事柄だ、ということになるだろうと思います。
この言葉で興味深いのは、同じ単語に「霊的な」という意味もあるということです。日本聖書協会共同訳の訳注には、その意味もあると指摘されています。「理に適った」というのと「霊的な」というのでは随分と違う、場合によっては矛盾するのではないかと考えてしまいがちですが、それは全くの勘違いだと言わなければなりません。
ここで「霊的」というのは、この世に倣わないということです。世間のまねをするのではなく、神様の前にふさわしい生き方を選び取る。何が神の御心であり、神に喜ばれるのかを理性を持って識別し、選んで、生きていきます。神の御心を求め識別して生きることこそ、霊的な生き方です。それこそ、私たちの礼拝です。礼拝は、日曜日の午前中だけの話ではありません。私たちの生き方そのものが神を礼拝するものとなりうるのだ、と聖書は語りかけます。素敵な御言葉です。
神の御心に適った生き方ということについて、9節ではすぐに「愛には偽りがあってはなりません」と言います。また「兄弟愛をもって互いに深く愛し、互いに相手を尊敬し、怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望を持って喜び・・・」と続きます。私たちが兄弟愛に生きる、そのためにこの身を献げること、それが理に適った生き方であり、礼拝だと言います。なぜ理に適っているのか?それこそ現代的なこの世の知恵では、隣人愛なんてコスパが悪いと言われかねません。隣人愛が理に適っているのは、私自身がキリストの愛に生かされているからです。それ以外の理由はありません。情けは人のためならずではなく、私たちはまさに自分のためではない「人のため」の情けに招かれています。それは、キリストが私のために情け深い方でいてくださるからです。他の理由は、ありません。キリストの愛が私たちのすべてです。

2020年2月23日日曜日

2020年2月23日(ローマの信徒への手紙11:13~36)

ローマの信徒への手紙11:13~36;
「ユダヤ人は不信仰のために折り取られ、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。厳しさは倒れた者に向けられ、神の慈しみにとどまるかぎり、その慈しみはあなたに向けられるのです。」
パウロは、今、ユダヤ人が不信仰と不従順に陥っている現実を見つめています。そして、この手紙を読んでいる異邦人キリスト者たちに、神の慈しみを思い起こさせます。もともと、神様はアブラハムを選び、その子孫であるユダヤ人をお選びになり、ご自分の民となさいました。ところがユダヤ人は不信仰と不従順に陥ってしまった。それがゆえに、異邦人に福音がもたらされた。だから、異邦人キリスト者のあなたがたは、ユダヤ人をさげすむのではなく、ただ神の慈しみと厳しさを思って恐れよ、とパウロは言います。
この手紙で繰り返し繰り返し、パウロが私たちに訴えることは、私たちは何の功績によって選ばれたわけではなく、ただ神の慈しみのゆえに信仰に入れられた、という事実です。だから、私たちには高ぶることはできません。神の慈しみの事実を思えば、それはまったく不可能なことです。
ときに、信仰生活に失敗してしまうことが私たちにはあります。教会を離れてしまった。何らかの罪を犯して敷居が高くなってしまった。牧師や長老を続けてはならないような過ちを犯した。あるいは、教会生活が重荷になったり、煩わしくなったりしてしまうこともあるかもしれません。私がその当事者になるかもしれないし、身近な人であるかもしれません。そんなとき、私たちは自分のことも隣人のことも裁くのではなく、ただ神の慈しみと厳しさに心を向けたいと願います。何の功もない私を選んでくださった神の慈しみです。そして何よりも、キリストを十字架にまでおつけになった神の厳しさです。神を畏れ、身をかがめて、一人の赦されなければ生きられない罪人として、神様の御前に出て行きます。神に赦された罪人として、神様の御前に頭を垂れて生きていきたい。罪人の群れの中に帰って行きたい。そう願います。

2026年7月29日の聖句

昼も夜も、わたしは涙を食物とする。 人は日夜私に言う 「あなたの神はどこにいるのか」と。(詩編42:4) (パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄された...