2025年10月30日木曜日

2025年10月31日の聖句

あなたがたはなぜ、私と争うのか。
あなたがたは皆、私に背いたーー主の仰せ。(エレミヤ2:29)
人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。(ローマ3:23,24)

今日10月31日は宗教改革記念日です。マルティン・ルターが95箇条の提題をヴィッテンベルクの城教会の門扉に掲げたことから始まる教会の改革運動を記念する日です。ルターは95箇条の提題の第一の命題で次のとおりに述べています。
「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」
私たちが神の御前に真剣に自分の罪を悔い改め、キリストに従う者として生きることを主はお望みになりました。これが私たちの教会の信仰の原点です。
「あなたがたはなぜ、私と争うのか。あなたがたは皆、私に背いたーー主の仰せ。」私たちは自分が罪を犯し、主に背いていることを認めたくありません。あまりそのようなことは考えたくもありません。本当のところ私たちは自分を省みようとしていないという事実が、既に私たちの罪の証拠なのかもしれません。
ところがそういう私たちのあり方とは関わりのないところで、神さまの方からお始めになった新しい出来事が起こりました。「人は皆、罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっていますが、イエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより価なしに義とされるのです。」私たちは相も変わらず罪の中にとぐろを巻いていますが、そのような私たちとは関わりなく、神がキリストによって私たちをご自分のもとに買い戻してくださった。神さまが私たちを救ってくださった。私たちにあるのはそれだけです。私たちはただただ、キリストの憐れみを求めるだけです。

2025年10月30日の聖句

主よ、帰って来てください。私の魂を助け出し、慈しみによって、お救いください。(詩編6:5)
神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。(2コリント1:4)

私は聖書に書いてあるこの「慰め」という字が大好きです。新約聖書が書かれたギリシア語では、パラクレーシスという単語です。「パラ」というのは、「隣」という意味の接頭辞で、「クレーシス」は「呼ぶ」という意味の単語です。ですので「パラクレーシス」というのは、隣で呼びかける、隣で語りかけるという字です。そうすると「慰め」という意味になります。すてきです。「慰め」は、どこか遠くで何かを言っているのではない。関係のない所とか、自分は痛くもかゆくもない場所から無責任なことを行っているのでもない。すぐ隣りにいて、その心に語りかける。
しかもパウロがここで言っているのは「神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださる」と言っています。どんな苦難のときであっても神が隣りにいてくださる。隣りにいて私たちに良き知らせ、福音を語りかけてくださる。「主よ、帰って来てください!」それが私たちの慰めなのです。
その慰めは、慰めをいただいた私たちだけに留まるものではない。その慰めによって私たちも苦難の中にいる他の人を慰めることができる。その人の傍らへ行き、主が共にいてくださることを証しし、共に祈り、あるいはその人が祈りの言葉さえ失っているならば替わっている者になれる。主の慰めは、私をも慰めの人にしてくださるのです。

2025年10月29日水曜日

2025年10月29日の聖句

(主の言葉)それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。(出エジプト記19:5)
(イエスの言葉)あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。(ヨハネ15:10)

主なる神さまを信じる私たちの信仰は、主の御言葉に聞き従うということです。御言葉を聞いて安心しているだけとか、自分の好みの聖書の言葉を標語のように準備しておくとか、そういうことではない。私たちがご自身に実際に従うことを、神さまは求めておられます。
もしも我が家で、子どもたちに「もう遅いから早く寝なさい」と私が妻に言ったとします。子どもたちが「お父さんは早く寝なさいと言っているけれど、それは私の体が心配だという気持ちを伝えてくれているということ。私が楽しい時間をすごしていることもお父さんは嬉しいはずだし、本当に今すぐ寝なさいという意味ではないから、まだテレビを見ていて大丈夫」などと言ったら・・・、そんな屁理屈は通りません。ところが私たちは神さま相手にそういう無茶な話を押し通そうとしてしまいがちです。
「あなたがたも、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる。」主イエスはそうおっしゃいます。神が私たちを愛してくださっているという事実は、どんなときにも確かに揺るがない。しかし、私が神を愛し、私が神の愛に留まるというのはどういうことか。キリストの戒めに留まることではないか、とおっしゃっているのです。
神さまの戒めに従うことなど私にはできない、不可能だ、人間にできるわけがないと投げ出す前に、主の言葉を信じて進み出てみることを主イエスさまは求めておられるのかもしれません。主の御言葉に従いたいという切なる願いと、その困難さの中で覚える私の罪。それを日々真剣に悔い改める道こそが、神を信じる者の道であるのかもしれません。

2025年10月28日火曜日

2025年10月28日の聖句

破滅に先立つのは驕り、つまずきに先立つのは高慢な霊。(箴言16:18)
イエスは言われた。「人から出てくるもの、これが人を汚す。」(マルコ7:20)

驕りや高慢は、本当に巧妙に、そして簡単に忍び込んできます。私はすぐにそういう悪い心の侵入を許し、負けてしまいます。どうして驕ってしまうのか。自分を見誤っているからなのかもしれません。なぜ高慢に覆い尽くされてしまうのか。神さまの前にへりくだることを忘れているからなのかもしれません。
「破滅に先立つのは驕り、つまずきに先立つのは高慢な霊。」どちらも、私の心の中から生まれてくるものです。「人から出てくるもの、これが人を汚す。」外にあるものや他人のせいで自分が罪の虜になって汚れてしまうのではない。私の中から出てくるものが私を汚している。主イエスはそうおっしゃいます。「罪」に捕らわれることの恐ろしさを思わされます。
ここでもう一度改めて考えたいのは、どうして驕りや高慢が罪なのか、ということです。人として感じが悪いからとか、そのような言動は鼻につくからとか、そういうこともあるかもしれません。しかし、人間性の問題みたいなものが決定的な理由ではありません。
私たちが罪とは何かを知ることができるのは、主イエスさまのお姿から、逆説的に知ることができるだけなのだと思います。主イエス・キリストはへりくだったお方です。神の身分でありながら、ご自身をむなしくして、僕の姿を取り、人間となられ、十字架の死に至るまで従順になられたお方です。誰よりも尊いお方が誰よりも低くへりくだられました。この主イエスさまのへりくだったお姿から、逆説的に、私たちは高慢が罪であることを知ります。驕りの罪は、謙虚の極みにおられる主イエスさまのお姿から知らされる事実です。
ですので、驕りと高慢にもし今私たちが支配されているのなら、へりくだりの主イエスさまにおすがりするしかありません。十字架の死に至るまでへりくだられたお方だけが高ぶる私を救うことがおできになるのです。

2025年10月27日月曜日

2025年10月27日の聖句

すべてのものがあなたに目を向けて待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物をくださる。あなたは手を開き命あるものすべての望みを満ち足らせる。(詩編145:15~16)
(洗礼者ヨハネの言葉)下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ。(ルカ3:11)

私たちのために手を開いて望みを与えてくださり、満ち足らせてくださるのは、神さまです。神が私たちの生きるために必要なものを下さったとき、それは、私たちが自分だけのために、そして自分が愛する者だけのために使うためではなかったのだと思います。「下着を二枚持っている者は、持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と言われているとおりです。
ただ、そう言われても、これは私たちにとってとても苦しい言葉でもあります。自分に幾らかの余裕があるときには誰かに寄付しようとか、たいへんな人のために使おうという気にもなりやすいです。しかし今のような自分の生活すら厳しい状況になると財布のひもが固くなってしまいます。「私にだって余裕はないから・・・」と、いくらでも言い訳ができます。
先ほどのルカによる福音書の御言葉は洗礼者ヨハネの言葉です。ヨハネはこれを悔い改めの言葉として口にしました。私たちに生き方の方向転換を迫る言葉です。人からだまし取ったりゆすり取ったりするのではなく、却って自分に与えられた物を事欠いている他者に分け与えるように、と言うのです。
「神の恵みの業を映す私」として生きるというのは、悔い改めなくしてはできないことなのだと思います。主イエスさまの憐れみにすがりつつ、私の貪欲をお赦しくださいと祈ることでしか、私たちにはできないことなのではないでしょうか。憐れみに満ちたキリストを待ち望みつつ、新しい一日を始めましょう。

2025年10月26日日曜日

2025年10月26日の聖句

今週の聖句:
主よ、癒やしてください。そうすれば癒やされます。救ってください。そうすれば救われます。(エレミヤ17:14)

今日の聖句:
あなたの手に善を行う力があるなら、なすべき相手にそれを拒むな。(箴言3:27)
あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、「どうぞ、あなたはこちらにお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づいて裁く者になったのではありませんか。(ヤコブ2:2~4)

非常に強く胸に突き刺さるような御言葉です。すぐに意味が分かります。そして、分かるだけに苦しい御言葉です。いくつも心当たりが思い浮かびます。「悪い考えに基づいて裁く者」、それは私のことですと告白せねばなりません。「あなたの手に善を行う力があるなら、なすべき相手にそれを拒むな」という御言葉とは全然違う私の現実があります。あまりにも心当たりが多く、どうして良いのか分かりません。
今日の聖句と共に「今週の聖句」として与えられているのは、このような御言葉です。「主よ、癒やしてください。そうすれば癒やされます。救ってください。そうすれば救われます。」神の憐れみを求め、そう祈るよりほかありません。私を、この罪から癒してください。神に憐れみを求め、そのように願うより他に道がない。「主よ、憐れんでください。」主なる神さまはそのような祈りに耳を傾けてくださり、私のような者をも新しくすることがおできになることを信じて、主にすがります。

2025年10月25日土曜日

2025年10月25日の聖句

あなたがたはパンを食べて満ち足り、安らかにこの地に住むことができる。(レビ26:5)
神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。(ヨハネ6:33)

「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈ることを、主イエスさまが教えてくださいました。私たちの神さまは、私たちの「食べること」を気にかけてくださるお方です。私たちが食べなければ生きられないことをよく知っていてくださいます。主イエスさまは私たちと同じ、弱い肉体をお持ちの方ですから。
「あなたがたはパンを食べて満ち足り、安らかにこの地に住むことができる。」神が私たちの食べるパンを与えてくださり、この地に住む安らぎを与えてくださる。ご飯を食べるとき、目の前のものは神が与えてくださったことに心からの感謝の祈りを捧げたいと改めて考えさせられます。私が働いたから、私が頑張ったから。それだけではない。神が私を養い、与えてくださった。そういう神さまへの感謝に目が開かれるならば、これを作ってくださった方を初めとして、生産者や流通、小売りなど、私たちが普段気にかけることの少ないたくさんの人の手を通して養われていることにも目が向けられるのではないでしょうか。
神が養ってくださる。その事実は、さらなる深みを持っています。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」私たちの肉体を養うだけに留まらず、私たちの魂をも養うキリストの下さる糧。主イエスさま御自身のお体。私たちは聖なるキリストのお体によって命を与えられ、養われ、生かされている。主イエス・キリストが差し出してくださっている命のパンで生かされている私であることを、今日、心に刻みましょう。

2025年10月24日金曜日

2025年10月24日の聖句

あなたの未来には希望があるーー主の仰せ。(エレミヤ31:17)
神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来たるべき世に現そうとされたのです。(エフェソ2:7)

私たちにはこれから先のことは分かりません。自分自身の事も分からないし、私たち皆が生きているこの国や社会の行く末も分かりません。皆が共に生きるためのプラットフォームであるはずの社会が保たれるのか、共に生きるに足るものとなりうるのか。私たちが生きている間だけではなく、孫子の世代になったとき、日本社会は一体どうなっているのでしょう。そういうことを考えたときに明るい見通しをもっているという人は、今の世の中にはあまり多くないような気がします。どうでしょうか。
しかし、聖書は言います。「あなたの未来には希望があるーー主の仰せ。」主なる神様ご自身が、私たちの将来にある希望を宣言してくださっています。
これは旧約聖書のエレミヤ書に書かれている言葉ですが、今日の31:17には続きがあります。「あなたの未来には希望があるーー主の仰せ。子らは自分の国に帰ってくる。」ということは、今は子どもたちが国からいなくなっている、ということです。この時代、ユダヤの国は消滅していました。バビロン捕囚の時代です。国は滅ぼされ、民は遠い異国の地に捕囚として連れ去られ、子どもたちも自分の国からいなくなってしまった。そういう現実を目の前にしながら、なおも神さまは言ってくださいます。「あなたの未来には希望がある」と。
これは、希望に足るような兆候や徴があるから、良くなりそうな兆しや見込みが立ちそうだから、ということではありません。故国は瓦礫の山になり、かつての暮らしは崩壊し、遠い異国に連れ去られた。それが目の前に広がっている現実です。しかし、そうであるにも拘わらず、神は希望を宣言してくださいます。
「神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来たるべき世に現そうとされたのです。」ここに書かれている主イエス・キリストにある希望こそ、究極の「にもかかわらずの希望」です。十字架にかけられて惨殺された方です。世間から見れば志半ばで殺された人物です。しかし、それにもかかわらず、神はこのお方によって私たちの希望を確かにしてくださいました。限りない神の慈しみは、十字架にかけられたこのお方によって現されました。神の新しい出来事が主イエスにおいて始まっている。私たちのための希望の御業が。そのことを信じるか、と主は私たちに語りかけておられます。

2025年10月23日木曜日

2025年10月23日の聖句

女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。
自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。
たとえ、女たちが忘れても
私はあなたを忘れない。(イザヤ49:15)
神は愛です。(1ヨハネ4:8)

神の愛ということを考えるときに、「親が子を思うような愛」というような言い方を耳にすることがあります。しかし、これは間違っていると私は思っています。親の愛はそれほど立派なものではありません。親の愛は無条件ではないし、無償でもない。それが現実です。
「女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎内の子を憐れまずにいられようか。たとえ、女たちが忘れても、私はあなたを忘れない。」
今日の旧約の御言葉はそのように言います。女が自分の乳飲み子を忘れてしまうようなこと。自分の胎内の子を憐れまないようなこと。そのようなことはあり得ない。そう、確かにありえないでしょう。しかし万が一そのようなことが起こったとしても・・・神は言われます。「たとえ、女たちが忘れても私はあなたを忘れない」と。あり得ないことが起こったとしても、人間の最も確かだと思われる愛が限界あるものだとしても、神の愛は確かであり続ける。
「神は愛です。」その愛は、私たちの思いを超えています。私たちの愛から推し量ることはできません。私たちの愛は、最も大きな愛と思われる愛でさえも不確かで、限界があり、小さなものに過ぎない。しかし、神の愛はそうではない。神の愛、それはキリストに示された愛です。キリストに現された確かな愛です。主イエスさまの十字架にかけられたお姿によってでしか私たちに分からないほどに大きな愛です。私たちの愛が破綻しようとも、神の愛が終わってしまうことはあり得ないのです。

2025年10月22日水曜日

2025年10月22日の聖句

主はこう言われる。かつて、この民にこの極めて大きな災いを下したように、私は、約束したあらゆる恵みを彼らにもたらす。(エレミヤ32:42)
私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。(2コリント1:7)

今日の旧約はエレミヤ書の言葉ですが、今日の42節に先立つ28節を見ると「私はこの都をカルデア人の手に、またバビロンの王ネブカドレツァルの手に渡す。王はこの都を占領する」と書いてあります。さらに36節には「剣、飢饉、疫病によってバビロンの王の手に渡されてしまった」とも書かれています。ですので今日の箇所もバビロン捕囚を念頭に置いた言葉と考えられます。この言葉が捕囚後に語られたものなのかそれ以前の時代を背景にしているのかはよく分からないところもありますが、非常に具体的な災厄として、バビロンのことを念頭に置いていたことは間違えないでしょう。
バビロンはイスラエルにとっては最大の脅威です。バビロンによって国は滅び、民も連れ去られ、生活の信仰も何もかもが破壊されました。「極めて大きな災い」です。しかしそれは神を捨てた民への神の裁きです。「極めて大きな災いを下した」と主なる神様ご自身がおっしゃっています。
ところが、神はそれ以上に大きな恵みを持って神の民を再建してくださいました。古代イスラエルはバビロンに滅ぼされましたが、やがて回復され、再建されることになります。それ以上に、私たちは神の子でいらっしゃる主イエス様を殺し、私たち自身の罪の中に埋もれていました。そんな私たちを神はご自分の民として再建し、キリストの教会として呼び集めてくださいました。キリストにあって、神が私たちをご自分のものとしてくださっています。ここに私たちの慰めがあります。キリストにある慰めを共にして、私たちは一つの民として共に生きていきます。

2025年10月21日火曜日

2025年10月21日の聖句

アブラムは主が告げられたとおり出かけて行った。(創世記12:4)
神はわたしたちをユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(ローマ9:24)

アブラムは自分を呼び出す主なる神さまの招きに応えて、行く先も知らずに旅立ちました。神に導かれるままに、行けと命じられるままに旅人の人生を生きました。そんなアブラムの信仰について、ヘブライ人への手紙は「(彼が)堅固な土台の上に建てられた都を待ち望んでいた」(11:10)と評します。神が準備してくださっている都を待ち望んでいたからこそ、自分の生まれ故郷を離れて神に導かれるままに、「行け」と命じられたところで生きることができたのです。
そんなアブラムに、神は「アブラハム」という新しい名を与え、さらに「私はあなたと、あなたに続く子孫との間に契約を立て、それを代々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたに続く子孫の神となるためである」(創17:7)と約束なさいました。アブラハムとその子孫をご自分の契約のパートナーとしてお選びになったのです。
わたしたちキリスト教会も、この神のアブラハムへの約束に連ねてくださっている、と信じています。「神はわたしたちをユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。」アブラハムの血を分けた子孫であるユダヤ人だけではなく、異邦人である私たちも、「あなたと、あなたに続く子孫の神となる」という神さまの約束のパートナーにしてくださっている。私たちにも、アブラハムに神がお与えになった神の愛と恵みを与える者として選んでくださったのです。
だから、私たちも神に招かれ、導かれるままに、この世では旅人して生きていきます。この世の何かが私たちの拠り所になるのではない。私たちの故郷は、神さまの御許にあります。神の都に向かって私たちは旅人して生きる。神に期待して、神を求め、神を仰いで、私たちは今日も生きていきます。

2025年10月20日月曜日

2025年10月20日の聖句

その支配は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ。(ゼカリヤ9:10)
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう。」すると、イエスは言われた。「退け、サタン」。(マタイ4:8~10)

自分には、世のすべての国々とその栄華とを全部与えることができる。悪魔はそのように嘯きます。そしてそのために「私を拝め」と言います。神のことなど忘れろ、神を父と呼ぶことなど止めて私を頼ればいい、私があなたの欲しいものを与えることができるのだから。悪魔はそのように言うのです。
主イエスは、「退け、サタン」と言います。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という聖書の御言葉をもって悪魔と戦われます。私たちにとって本当に大切なのは、本当にかけがえのないのは、主なる神さまのみを礼拝すること。世界の国々やその栄華ではない。それらを欲する貪欲自体が、すでに悪魔の虜になっている心から生まれてくるものなのかもしれません。
今日の旧約には「その支配は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ」と書いてあります。主なる神さまの御支配、神の国は海から海へ、大河から地の果てに及ぶ。この世界をおっている。主なる神さまの御支配は、この世界の輝きとは違います。十字架にかけられたお方が王でいらっしゃる国です。低く下ったお方の御支配です。神の国はこの世のきらめきに包まれているのではなく、飼い葉桶の中にあります。
ただこのお方だけを拝み、この神だけにひれ伏し、神の国を生きていきたい。そのように願います。

2025年10月19日日曜日

2025年10月19日の聖句

今週の聖句:
神を愛する者はきょうだいをも愛すべきです。これが私たちが神から受けた戒めです。(1ヨハネ4:21)

今日の聖句:
神よ、沈黙しないでください。神よ、押し黙らないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ち、あなたを憎む者は頭をもたげました。(詩編83:2~3)
主よ、剣で切りつけましょうか。(ルカ22:49)

「主よ、剣で切りつけましょうか」と弟子たちが主イエスに言ったとき、彼らの気持ちとしてはまさに今日の詩編のとおりだったのかもしれません。「神よ、沈黙しないでください。神よ、押し黙らないでください。ご覧ください。あなたの敵が騒ぎ立ち、あなたを憎む者は頭をもたげました。」
これは、イスカリオテのユダが群衆の先頭に立ち、主イエスを捕らえようとやって来たときのことです。主イエスはユダに「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」とおっしゃった。それを聞いた者が「主よ、剣で切りつけましょうか」と言い、他の者は実際に大祭司の僕に打ちかかって右の耳を切り落としました。敵の脅威を実力でなぎ払わなければならない、と考えたのです。
今日の旧約の祈りの言葉と新約の主イエスの周りにいた人々とは、似ているようでありながらよく考えると全然違います。今日の旧約は解決を神さまに祈り求めています。神がどうにかしてくださることを待っています。しかし主イエスの周りの人々は自分たちの暴力で事を解決しようとしました。
剣を取り、右の耳を切り落とした者たちに向かって主イエスは「もうそれでやめなさい」とおっしゃって、その耳に触れて癒やされました。そして主イエスは捕らえられ十字架にかけられていきます。騒ぎ立っている敵、憎しみに打ち震える者にご自分の身を委ねられました。
私たちはキリストの愛と憐れみが生んでくださった実りです。キリストは私たちの憎しみや力の論理に、愛や癒やし、和解をもって向かってくださいます。そのようにして私たちはキリストに迎え入れられました。私たちもまたそのようなキリストの実りにしていただいている。その事実をしっかりと受け止めたいと願います。

2025年10月18日土曜日

2025年10月18日の聖句

憐れみと赦しは私たちの神、主にあります。(ダニエル9:9)
イエス・キリストにおいて、その血による贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。これは、神の豊かな恵みによるものです。(エフェソ1:7)

私たちはイエス・キリストにおいて、その血によって贖われました。つまり、買い戻されました。私たちは神ならぬものの奴隷でした。それは罪の力であり、悪の力です。私たちが愛し合って生きることは非現実的だと囁く力です。社会システムがどんなに非人間的であっても、それが現実だと嘯く力です。分裂と憎しみと貪欲の力です。この世界を支配する時代精神です。悪の力は強い。社会全体を動かす悪の力に、私たち自身では勝つことができません。
そんな私たちをキリストがご自分の血によって贖って、神のものとして買い戻してくださいました。私たちはもはや罪の奴隷ではないし、悪の手先でもない。キリストが私たちの罪の赦しとなってくださったからです。
私たちには罪がよく分かりません。いわゆる「手が後ろに回る」ようなことなら見分けがつくかもしれない。あるいは、そうでなければごく小さな自分の心の問題として、自分の劣等感や不全感に基づいて自分なりに何かを「罪」と思い込むことも、私たちには難しくないかもしれません。しかし聖書は、私たちが本当に神に反逆していることを見抜いています。そしてそれに私たちがどんなに鈍感なのかも、聖書はよく知っています。私たちには自分の罪が分からない。ただ分かるのは、キリストの赦しの恵みの輝きです。キリストが血を流したことです。その輝きに包まれて、初めて、おぼろげにであっても、自分の罪がどんなに深く自分自身を罪と悪の奴隷として売り渡す深刻な問題なのかが見えてくるのだと思います。私たちが本当に罪を知ることができるのは、キリストに既に赦された罪だけです。
ですから神の赦しの恵みの中を今日一日、生きていきましょう。キリストを見上げましょう。キリストの愛があなたを覆っています。あなたを包み込んでいます。

2025年10月17日金曜日

2025年10月17日の聖句

私はあなたを行かせません、あなたが私を祝福してくださるまでは。(創世記32:27)
イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。(マタイ19:13)

「私はあなたを行かせません、あなたが私を祝福してくださるまでは。」本当にすばらしい言葉です。なんとしてでも主にすがりつき、その祝福を求めました。これはヤコブの言葉です。ある、ヤコブがたった一人でいたときのこと。「ある男が夜明けまで彼と格闘した」と聖書は伝えています。それは、主なる神様ご自身だった。ヤコブは主と格闘しました。格闘の末に、彼は主の祝福を求め、主を掴んで放そうとしなかったのです。
クリスティアン・メラーという実践神学者がいます。この先生の御著書に、このような内容の話が書かれていました。「私たちの信仰には、三つのものが欠かせない。それは、祈り、黙想、誘惑だ。」祈りと黙想というのは意味が分かるような気がします。祈ることも、聖書の御言葉を思い巡らすことも、確かに欠かすことができないでしょう。それに対して「誘惑」というのは、分かりにくいです。どうして不可欠なのか?むしろ避けたいように思います。何を意味しているのか。
この「誘惑」という言葉には「攻撃」という意味もあるのだそうです。神からの攻撃です。祈るとき、聖書を読んで黙想するとき、私たちはしばしば神から攻撃される。ヤコブのように。神に追い詰められ、信仰の危機に晒されてしまうことがある。神を信じていれば誰にでも起こります。どうして神はこのようなときに放っておかれるのかと思うような試練が。しかし、実は神に放っておかれているのではなく、神ご自身から攻撃されている。そして、それこそが私たちの信仰に欠かすことのできない時間だ、とメラー先生はおっしゃいます。そういう神からの攻撃に身をさらすことによって、私たちは神の祝福を頂くのです。
主イエス・キリストは私たちにも手を置いてくださいます。神の子として。愛する子どもとして、私たちにも手を置いてくださる。キリストの祝福の手を信じて、神と格闘しましょう。神に対して訝しく思うとき、信仰が揺らぐとき、実は神は私たちのすぐ側におられます。組み合うほどに、神は私たちに肉薄しておられるのです。

2025年10月16日木曜日

2025年10月16日の聖句

(主のイサクへの言葉)恐れるな。私はあなたと共にいて、あなたを祝福する。(創世記26:24)
私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいます。(エフェソ1:3)

「恐れるな。私はあなたと共にいて、あなたを祝福する。」この神の祝福の宣言は、どのような時にも私たちに響き続けます。どのようなときにも神は必ず私たちと共にいてくださるし、神の祝福が私たちから離れることはない。この揺るぎない事実を、私たちも信じましょう。
今日の新約の御言葉はこのように言っています。「神はキリストにあって、天上で、あらゆる霊の祝福をもって私たちを祝福してくださいます。」あらゆる霊の祝福と言います。聖霊が私たちに与えてくださる祝福。聖霊なる神さまが私たちに働いてくださって、私たちを「神と共にいる者」としてきよめてくださる。神が共にいてくださるという事実は、私たちを新しくします。私たちがキリストと共に生き、キリストに従って生き、キリストのために生きる者にならせてくださる。そのために、聖霊は「あらゆる祝福」で私たちを支えてくださいます。
今日、神は私たちと共にいてくださいます。ご飯を食べているときにも、人と話しているときにも、床に就いているときにも、神は私たちと共にいてくださいます。ですから、どのようなときにも神の御前にある聖なる者として、神の祝福の中を生きていきましょう。

2025年10月15日水曜日

2025年10月15日の聖句

あなたがたは喜びをもって出て行き、平和のうちに導かれて行く。(イザヤ55:12)
七十二人(の弟子たち)は喜んで帰って来て言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:17,18,20)

主イエスに遣わされていった七十二人の弟子たち。主イエスがなさっていることを託されました。彼らは平和を告げ、神の国が来たことを宣言した。主イエスの力は強い。彼らは主イエスのお名前で悪霊を追い出すことさえできた。自分の力では到底なしえないことができたのです。どんなに嬉しかったかと思います。「七十二人は喜んで帰って来て言った。『主よ、お名前を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」喜びと誇りに満ちた成果報告だったはずです。
ところが主イエスは弟子たちが予想したのとは違う反応でした。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
主イエスからしてみれば、主のお名前によって悪霊が従うことなど当然であったのだと思います。主イエスはサタンが天から落ちるのさえ見ておられた。神の子でいらっしゃるお方の権威に悪魔が服従しないわけがない。だから、そのようなことを自分の成果として誇るのではなく、むしろ、あなたもまた神の国の民とされていることを喜ぶがいい。主イエスはそうおっしゃいます。
私たちは自分の成果やできたことを誇り、そうでなければできなかったことに引け目を感じます。しかし主イエスにとってそれは小さな事に過ぎません。それよりも、私たちの小さな名前さえも神の国にしるされている。その事実の方が主イエスにとってはよほど大きな事だとおっしゃいます。そのためにこそ、主イエスは私たちのところに来てくださったのですから。ですから私たちも、この事実を宣べ伝えるためにこの世界へと出て行きます。「キリストのお名前によって、あなたも神の国の民にされている!」この福音を携えて。

2025年10月14日の聖句

あなたは私の命を死から、目を涙から、足をつまずきから助け出してくださった。(詩編116:8)
ここに、十二年この方、出血が止まらない女がいた。医者に全財産を使い果たしたが、誰にも治してもらえなかった。この女が後ろから近寄って、イエスの衣の裾に触れると、たちまち出血が止まった。(ルカ8:43~44)

十二年間出血が止まらない病にかかっていた女性。彼女の病は「穢れ」とされていました。つまり、宗教的なタブーとされ、礼拝に行くこともできず、彼女が触れたものも「穢れ」とされていました。彼女は、病による肉体的な苦痛だけでなく、精神的にも、社会的にも、とても苦しい立場にありました。さらに、彼女は医者にかかって全財産を使い果たしました。12年の間、誰が自分を癒やしてくれるのか、さまよい続けました。しかしお金が消えていくだけで、誰も彼女を癒やすことはできませんでした。
そんな一人の人が主イエスに向かって手を伸ばします。主の衣の裾にでも触れれば癒やして頂けると思ったのです。そして事実、主の力によって彼女は癒やされました。出血が止まったのです。
ところが主イエスはそれで終わらせませんでした。主は立ち止まり、一体誰がご自分に触れたのかを探し始めた。彼女は名乗りを上げ、恐る恐るすべてを話しました。すると、主イエスは彼女に言ってくださった。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
主イエスとの出会いは、本当に「あなたは私の命を死から、目を涙から、足をつまずきから助け出してくださった」という出来事です。それは肉体が癒やされること以上の意味を持つ出会いです。主イエスにただ後ろから一方的に触れるのではなく、主イエスと向き合い、思いの丈を祈り、主イエスの御言葉を待ち望む。そうやって主と出会うことこそ、本当に私たちに必要な出会いなのです。

2025年10月13日月曜日

2025年10月13日の聖句

主はこう言われる。「あなたの痛みは癒えず、あなたの傷は治らない。(けれども)私があなたの傷を治し、打ち傷を癒やそう。」(エレミヤ30:12,17)
あなたがたも知っているように、御子(イエス・キリスト)は罪を取り除くために現れました。御子には罪がありません。(1ヨハネ3:5)

「あなたの痛みは癒えず、あなたの傷は治らない」と主なる神さまは言われます。それは、私たちの痛みや傷が、運の悪さとかちょっとした失敗とか、そういうことから生まれたものではないからです。主なる神さまの御前に、そして隣人の前に、私たちの罪が癒やしがたく治しがたく深いからです。罪の痛み、悪の傷。死に至る痛みや傷であるから、それは私たち自身が考えている以上に深く、私たちを蝕みます。
しかし、主はなお告げてくださいます。「私があなたの傷を治し、打ち傷を癒やそう。」私たちの罪の痛み、悪の傷は、ただ主なる神さまにしか癒やすことができない。主なる神さまにしか私たちを治すことはおできにならない。そして、このお方は私たちを救うことが確かにおできになる方です。
それは、私たちとは違って罪を犯したことのないお方が私たちを救ってくださったからです。「あなたがたも知っているように、御子は罪を取り除くために現れました。御子には罪がありません。」御子イエス・キリストが私たちの罪を取り除くために来てくださった。私たちと共に生き、私たちを神のものとして勝ち取ってくださった。
今日の私たちの命は、キリストのものです。私たちを罪と死と悪の力から勝ち取ってくださったキリストのもの。それが私たちのただ一つの慰めです。

2025年10月12日日曜日

2025年10月12日の聖句

今週の聖句:
世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です。(1ヨハネ5:4c)

今日の聖句:
その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7:14)
イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)

主イエス・キリストは永遠なるお方、永遠に変わることがない。この「永遠」は、主の主権の永続性です。神の国の永遠性です。主イエス・キリストの御支配は永遠に変わることがない。
歴史の中にたくさんの国が登場しました。世界を支配するような力をもつ国もいくつもあります。しかし、どんなに強大でもその支配は一時的なものに過ぎません。人間のすることには限りがあるし、時に(あるいはしばしば)悪しきものにもなります。私たちの生きているこの国は、どうでしょうか?その支配は悪しき支配になってはいないでしょうか?それが例えどのようなものであったとしても、私たちはわきまえねばならない。人の造る国は、神の国ではないということを。
今週の聖句は「世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」と言っています。キリストは世に打ち勝つ。私たちの罪の世の支配にキリストは打ち勝ち、神の恵みの支配を確立してくださいます。キリストの支配する国が近づいている。その永遠の御支配の下、神の国の民としてこの世で生きるようにとキリストは私たちを招いておられます。

2025年10月11日土曜日

2025年10月11日の聖句

主よ、我らの主よ
あなたの名はすべての地でいかに栄光に満ちあふれていることでしょうか。(詩編8:2)
(イエスの言葉)あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。(使徒1:8)

主の御名は、すべての地で栄光に満ちあふれていると言っています。この詩編のすばらしい想像力を私たちも学びたい、と願います。この詩編は、栄光に満ちるべき主なる神さまのお名前を愛し、喜ぶ祈りの言葉です。そしてその栄光をほめたたえる歌が世界中で献げられていることを幻の内に見ている詩編であると思います。
私たちは、とかく神さまを狭い世界に押し込めてしまいがちです。自分の理解できる範囲や、自分の心地よい場所、あるいは自分の諦めの中に神さまを閉じ込め、最初から期待することもなく、神を小さくしてしまうことがないでしょうか。
ところがこの詩編はそうではありません。この想像力の翼は「すべての地」に及びます。すべての地で神の御名が栄光に満ちあふれている輝きを見ています。本来そうであるべき神の栄光を、肉の目に映るところに先立って見つめている。
そうであるからこそ、主イエスは地の果てにまで行って福音を宣べ伝えるようにお命じになったのではないでしょうか。「あなたがたはエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」
神様ご自身の広がりに私たちの視野狭窄な信仰の眼が開かれ、主の御業を信じて、歩み出すことができますように。

2025年10月10日金曜日

2025年10月10日の聖句

あなたを確かに純粋な良いぶどうとして植えた。それなのに、私にとって質の悪い異国のぶどうに変わり果ててしまうとはどういうことか。(エレミヤ2:21)
神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでした。(ローマ11:2)

聖書は「罪」ということを言いますが、それは、何か一般的に言って悪いこととか、世間に顔向けできないとか、そういうこととは違う事柄を言い表しているのだと思います。今日の旧約の御言葉はこのように書かれています。「あなたを確かに純粋な良いぶどうとして植えた。それなのに、私にとって質の悪い異国のぶどうに変わり果ててしまうとはどういうことか。」もともと、神は「あなたを確かに純粋な良いぶどうとして植えた」とおっしゃっています。純粋で良いものとして神が造ってくださった筈のものがどうして「質の悪い異国のぶどうに変わり果ててしまう」ということが、神さまの私たちへの問いです。神さまが造ってくださったのとは全然違うものに成り下がってしまった。本来の良さが損なわれた。その理由は、純粋な良いぶどうとして私たちを植えてくださった神さまから遠く離れてしまったからです。そういう私たちの有り様を、聖書は「罪」と呼んでいます。
そういう私たちを神さまはお見捨てになりませんでした。「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けたりなさいませんでした。」あらかじめ神に知られていた。神のものであった。ところが、神から遠く離れてしまった。それなのに、神はそう言う私たちを捨てず、退けず、ご自分のものと言い続けてくださっている。それが「福音」です。神はなお私たちをご自分のものとしてくださっている。私たちの罪深さを理由に、私たちを退けることなく。
ですから、そういう主イエス・キリストに示された神の愛を慕い、求めて、私たちは生きていきたい。そう願います。

2025年10月9日木曜日

2025年10月9日の聖句

(アブラハムへの主の言葉)地上のすべての氏族はあなたによって祝福される。(創世記12:1,3)
信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです。(ガラテヤ3:9)

今日の新約の御言葉はガラテヤの信徒への手紙です。恐らくこの手紙を最初に受け取って読んだ人たちの驚きは私たちには計り知れないのではないかと思います。ここに出て来る「アブラハム」との距離が私たちよりもずっと近いからです。
アブラハムは「すべての信じる者の父」と呼ばれています。神さまがアブラハムにご自身を示し、語りかけ、新しい歩みへと導き出した。それがすべての始まりでした。旧約聖書の信仰は、神がアブラハムと結んだ契約が彼の子孫にもたらされるという約束を巡る信仰です。私もアブラハムの子、私たちもアブラハムと同じ信仰に生きている。それがアブラハムの子孫であるユダヤ人の誇りでした。
ガラテヤ教会は異邦人たちの教会です。かつてパウロがここを訪れ、その後、エルサレムからやって来た別のユダヤ人キリスト者たちから教えを受けていた。パウロの後に来た人たちはガラテヤの人々に、神を信じるならばキチンと割礼を受けてユダヤ人の仲間入りをして、アブラハムの子としての祝福に与るように、と教えました。ユダヤ人のしるしである割礼こそ、神がアブラハムと結んでくださった契約の民となる道だと教えたのです。
ところがパウロは、それは間違っているとこの手紙に書いています。アブラハムに神が下さった祝福は、割礼を受けたユダヤ人だけのものではない。すべての信じる者に与えられた祝福に他ならない。そこには「割礼」は必要ない。神は私たちに信じることを求めておられる。「信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです。」
そう聞いたガラテヤ教会の人々は驚いたと思います。私たちがアブラハムの祝福を頂くためには何の条件も行いも必要ない。主イエスこそ私たちの王メシアで、私たちはイエスが宣言した神の国に招かれていることを信じ、このお方の招きに応える。それが神の求めておられる信仰です。私たちも信仰によってアブラハムの子とされ、アブラハムが頂いた祝福を受けている。神の国の民にして頂いているのです。

2025年10月8日水曜日

2025年10月8日の聖句

主よ、あなたは苦しむ人の願いを聞いてくださいました。彼らの心を確かなものとしてくださいます。(詩編10:17)
「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしている。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。(ルカ19:5~6)

「今日は、あなたの家に泊まることにしている」と主イエスはおっしゃいます。ザアカイに向けられたこの言葉は、あなたにも語りかけられています。
「今日は、あなたの家に泊まることにしている。」これまでザアカイにそのようなことを言った人は一人もいなかったに違いありません。彼は徴税人です。はっきりと町中の人から罪人と言って後ろ指を指され、蔑まれていました。お金はありましたが、彼の周りには誰もいませんでした。ところが主イエスは罪人ザアカイの家に行って宿をとったのです。
「今日は、あなたの家に泊まることにしている。」主イエスは、「今晩、泊めてもらえないだろうか」とはおっしゃいませんでした。「もしも都合が好ければ」ともおっしゃいません。「泊まることにしている」のです。ザアカイの都合や気持ちなんてお構いなしです。それほどまでに、ザアカイを探して見つけようと、神の御許に連れ戻そうと、主イエスは必死になっておられる、ということではないでしょうか。ルカが伝えるところによると、主イエスがザアカイの町エリコでしたことは、ザアカイの家に泊まったことと、その食卓で一つの譬え話をなさったこと。それだけです。ザアカイの家に行って説教するためだけに主イエスはエリコへ行ったのです。
「主よ、あなたは苦しむ人の願いを聞いてくださいました。彼らの心を確かなものとしてくださいます。」ザアカイの家に行って宿をとった主イエスは、あなたのところにも来ておられます。そしてあなたの心を主に向かう確かなものとしてくださる。恵み深いキリストが、今日あなたのところに来ておられます。

2025年10月6日月曜日

2025年10月7日の聖句

主よ、あなたはどのようなこともおできになり、
あなたの企てを妨げることはできません。(ヨブ記42:2)
神にできないことは何一つない。(ルカ1:37)

神には、どのようなこともおできになります。だからと言って、子どものような屁理屈の話ではありません。「神には、自分が持ち上げられない岩を造ることができるのか?」のような・・・。そのようなどうしようもない話ではない。他でもない私たちにとって真剣な事柄です。「神にはできないことは何一つない。」私たちを救うために、神はどのようなことでもしてくださるのです。
「神にできないことは何一つない。」これは、天使ガブリエルがおとめマリアに告げた言葉です。まだ男の人を知らない女性の胎に子が宿る。全くあり得ないファンタジーの世界、おとぎ話の類。人々はそう言うでしょう。ところが天使は断乎として言います。「神にできないことは何一つない。」神の子救い主は、人の手によらず、人の力や思惑によらず、ただ神の愛に満ちた聖霊の力によっておとめマリアの胎に宿った。神は、私たちを罪から救うためであればどのようなことでもしてくださいます。私たちの真の王であるキリストが私たちを救うために、神はご自身の力を振るってくださったのです。
「神にできないことは何一つない。」神の力は、人間の悪や罪にも阻むことはできません。例え神の独り子を十字架にかけて殺そうとも、神の愛の御心は果たされたのです。神は、私たちを捕らえて放さない悪と罪の力から私たちを救うために、どのようなこともしてくださいます。私たちに愛する御子を与え、十字架にかけられたこのお方を復活させるということさえも神は成し遂げてくださる。
「主よ、あなたはどのようなこともおできになり、あなたの企てを妨げることはできません。」この神の企ては、今日も私たちのために完成へと進んでいるのです。

2025年10月6日の聖句

私は信じます。生ける者の地で主の恵みにまみえることを。(詩編27:13)
信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。(ヤコブ5:15)

私たちキリスト教会は、祈りの群れです。今日の新約聖書ですが、これに先立つ14節から改めて引用すると、このように書かれています。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。」ここには、「長老たちを招き」と書いてあります。「招く」です。招いて、「私のために祈ってください」と願う。とても積極的な姿勢だと思います。積極的に祈りを求め、そして長老がその人のために祈る、という「祈りによって形づくられる共同体」です。
招かれ、祈りを求められた教会の仲間は、その人のために祈りを捧げます。信仰によって祈る。主が弱っている人を救い、その人を起き上がらせてくださることを信じて祈る。しかし同時に人間的には望むべくもない時も訪れます。人生の最後の道を歩むときが必ず訪れる。しかしそのようなときにも、やがて復活の朝にキリストが手を取って起こしてくださる日を待ち望んで、教会は祈ります。罪を赦してくださるキリストの手が私たちに伸ばされている。その事実を信じ、主の復活の恵みにまみえる日を望み、私たちは祈りの共同体として歩んでいくのです。

2025年10月5日日曜日

2025年10月5日の聖句

今週の聖句:
すべてのものがあなたがたに目を向けて待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物をくださる。(詩編145:15)

今日の聖句:
良くても悪くても、私たちの神である主の声に聞き従いなさい。(エレミヤ42:6)
すると、イエスは(弟子たちに)答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」(マルコ6:37)

大勢の群衆が、飼い主のいない羊のような状態であることをご覧になって深く憐れまれた主イエスは、彼らに福音を語り聞かせました。ところが時が大分経ち、弟子たちは心配になりました。「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください」と主イエスにお願いします。すると、主はお答えになりました。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」
事の次第をこのように見てみると、弟子たちの心配はもっともです。店がそばにあるわけではなく、町まで距離があるような場所にいて夜になってしまったらたいへんです。飢えたらどうしようもなくなってしまう。今のうちに、一度食事の休憩を取ればそれぞれ自分でどうにかすることができるのではないか。
主イエスは、弟子たちの思いの中に潜んでいた「自己責任」の思いを修正なさったように思います。それぞれ自分でどうにかすれば良い、と突き放すのではなく、あなたたちが彼らのために食事を準備したらいい。ところが彼らにはできなかった。何しろそこには男だけでも5,000人という大群衆がいたのです。そこで、主イエスが群衆を五つのパンと二匹の魚をもって養ってくださいました。主は、主ご自身でなければできない仕方で人々を養ってくださった。
私たちは、主のお働きを信じたい。自己責任の世界の中に輝く主イエスの御業を信じたい。そして、時が良くても悪くても、私たちは主を信頼して従い、主と隣人とに仕えたい。そう願います。

2025年10月4日土曜日

2025年10月4日の聖句

(ソロモンの祈り)あなたはあなたの僕、父ダビデに約束されたことを守られました。あなたはその口をもって約束されたことを、今日このとおり、その手をもって成し遂げられました。(列王記上8:24)
あなたがたをお招きになった方は、真実な方です。(1テサロニケ5:24)

「あなたがたをお招きになったかは、真実な方です。」私たちは主イエス・キリストの真実によって神の国に招かれ、救われ、神の民の一人として頂きました。キリストの真実が私たちを救ってくださいました。ただそれだけです。私の真実ではないし、私の信心ですらない。キリストご自身の真実な招きが私を神の民にしてくださったのです。
今日の旧約は、ソロモン王の祈りの言葉です。「あなたはあなたの僕、父ダビデに約束されたことを守られました。あなたはその口をもって約束されたことを、今日このとおり、その手をもって成し遂げられました。」神ご自身が、ご自分の約束なさったことに忠実でいてくださるから。ただそれだけです。神さまが御言葉を真実に貫いてくださったから。ただそれだけの理由で、ソロモンは今神の御前に祈ることができた。
この祈りは、ソロモンが主のための神殿を建ててそれを神に献げたときの祈りです。これから主への礼拝を献げる場所です。神を賛美する場所です。神を礼拝し、祈り、賛美を献げる私たちの営みを支え導くのは、神の言葉です。ご自身の約束に真実な神が、私たちの礼拝の民にしてくださる。私たちの祈りも賛美も、先立つ神の真実によってだけ可能になる。ですから、私たちは自分にこだわらずに安心して、神の御前に祈りましょう。

2025年10月3日金曜日

2025年10月3日の聖句

私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。
主の腕は、誰に示されただろうか。(イザヤ53:1)
マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18)

今日の旧約の御言葉は、イザヤ書第53章が伝える「苦難の僕」の姿を描く言葉の一節です。「主の腕は、誰に示されただろうか」と言いながら「これを誰が信じただろうか」と言っているのを聞くと、フトすると、よほど力強くて奇跡的な、それこそ信じられないような凄い話、という印象を受けます。ところが苦難の僕は、それとは真逆の姿を見せています。「彼には見えるべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない」。それどころか「人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった」とまで言われます。この僕は病と痛みを負っており、しかもそれは私たちの病であり、私たちの痛みであったにもかかわらず、私たちは彼が「神に打たれて、苦しめられた」と思い込んでいた。しかし、そんな苦難の僕こそに、神は「多くの人を彼に分け与え」られる。この僕によって、私たちは救われる。私たちの救いのために力を振るい、誰が見ても「この人だ」と言われるのではない、醜く、傷つき、軽蔑され、排除され、殺される僕。この方に私たちの救いがかかっているなどと、「誰が信じただろうか」と預言者は言います。
今日の新約聖書の御言葉は、マグダラのマリアが復活のキリストと出会い、そのことを弟子たちに伝えたときのことです。「私は主を見ました」。この主イエス・キリストは、十字架にかけられたお方です。あの苦難の僕そのものでいらっしゃるお方です。その方が復活し、再びマグダラのマリアと出会い、他の弟子たちと出会ってくださった。
私たちはへりくだって、十字架の上で軽蔑され、人々に見捨てられ、痛み、苦しんだ方を神として信じたいと願います。決して当たり前のことではない。神の、私たちの思いを超えた不思議な御業を驚き、へりくだって受け入れ、信じましょう。

2025年10月2日木曜日

2025年10月2日の聖句

来て、神の業を見よ。人の子になされた恐るべき業を。(詩編66:5)
イエスは百人隊長に言われた。「あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどその時、その子は癒やされた。(マタイ8:13)

ある一人の異邦人です。ローマの軍隊の百人隊長。この人の子どもが麻痺を起こし家で倒れてひどく苦しんでいました。百人隊長は主イエスのところへ行って、部下の困窮をお伝えしました。するとそれを聞いた主イエスは、「私が行って癒やしてあげよう」と言ってくださいました。
ところが百人隊長は主イエスのお言葉を辞退します。私は主を我が家にお迎えできるような人間ではありません。ただお言葉をくださるだけで十分です。あなたの御言葉には権威がありますから。私が隊長として百人の部下に命じれば、皆その通りにします。あなたの御言葉にはそれ以上の権威がありますから、ただお言葉をください。
それを聞いて主イエスはたいへん驚き、この異邦人の信仰をお喜びになりました。「よくよく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」と。
この百人隊長の信仰は、主の御言葉への全幅の信頼と服従です。主イエスさまの御言葉には私の子どもを癒やす力がある。そのことを単純に信じていました。この単純さが大切なのではないでしょうか。私たちはとかく複雑に考えがちです。理屈をこねて物事が分かった気になります。ところがこの百人隊長はまっすぐに信じて服従し、主はそれをお喜びになりました。私たちも信仰の模範がここにあります。

2025年10月1日水曜日

2025年10月1日の聖句

今月の聖句:
(イエスの言葉)神の国はあなたがたの中にある。(ルカ17:21)

今日の聖句:
主が民の霊を奮い起こされたので、彼らは言って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。(ハガイ1:14)
(イエスの言葉)私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。(黙示録2:2)

今日の旧約聖書のハガイ書は、バビロン捕囚が終焉を迎えてしばらく経ってからの時代を舞台としています。その当時の世界の支配者はペルシア帝国(アケメネス朝ペルシア)。この当時はダレイオスという王が治めていました。ダレイオスの二代前の王であるキュロス王がバビロンを滅ぼして替わって支配者となり、捕囚民の解放政策を始めた。今日の箇所は、一部のユダヤ人のエルサレムへの帰還が始まって10数年後の言葉であると思われます。
人々は故国へ帰り、エルサレムで神殿を再建し始めましたが、なかなか上手くいきませんでした。70年に及ぶ捕囚の期間の内に新しい住民も生まれていましたし、そもそも廃墟になっている町や神殿を遠くからやって来た帰還民が再建するなどというのは並大抵ではなかったのだと思います。だいたい、生活の場所からして瓦礫の山です。
預言者ハガイは、しかし人々に訴えかけます。「この神殿が廃墟となっているのに、あなたがたが板張りの家に住むときであろうか」(1:4)と。このような檄や励ましを受け、人々は再建に取り掛かり出しました。「主が民の霊を奮い起こされたので、彼らは言って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。」聖霊なる神様ご自身が彼らの事業を支えてくださったのです。
私たちが取り組まねばならない課題は、時に、瓦礫の中に神殿を再建するように、途方もなく遠く、どう考えても不可能だと諦めざるを得ないことがあります。どこからどう手を付けて良いのか、分からなくなってしまう。しかし、神は私たちにご自分の霊を与えてくださいます。「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。」主イエスさまがそう言ってくださいます。ですから、今日私たちがするべきことに真摯であり、神の助けをいただいて、雄々しく仕えたいと願います。

2025年11月17日の聖句

主の契約を守る者にとって、主の道はすべて慈しみとまこと。(詩編25:10) (イエスの言葉)私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。(マタイ5:11~12) 主...