2014年10月29日水曜日

秋の特別集会のお知らせ

山崎美津江さん講演会「家の整理は心の整理」

あのNHKの朝イチにも出演したスーパー主婦、山崎美津江さんの講演会をいたします。
11月7日金曜日、午前10時から12時まで。会場はさがみ野教会。
参加無料、申込みも必要ありません。(託児が必要な方のみ要申込み。)

お問い合わせ:
電話;046-255-6441
メール:kyokai@sagamino.org


教会の詳しい地図はこちらからどうぞ。

相鉄線「さがみ野駅」下車、徒歩5,6分です。
改札を出て右側の階段を降り、突き当たりの横浜銀行を左に向かい、また突き当たりのマクドナルドを右に進みます。桜並木通りを進み、信号を二つこえると、広場のような公園と東原コミュニティセンターがありますので、その間の道を左に曲がり、最初の交差点を右に進んでください。教会が見えます。

リベルタにも案内を載せて頂きました。


(一部、誤植があります。住所は東原4−13−24、東原コミセン裏です。)


2014年8月10日日曜日

創世記1:1-2:4a「世界は安息に向かう」

聖書の最初の巻の最初の言葉に、聖書のメッセージが凝縮されているように思います。「初めに、神は天地を創造された。」神が創造されたこの天と地には神の祝福が充ち満ちています。神は光を造り、空と陸を造り、草木を造り、天体を造り、水の中の生き物と空の鳥を造り、それぞれの生き物を造り、人を造ったとき、御自分が造ったものをご覧になって、「良し」とされました。それは極めて良かったとおっしゃいました。この「良い」という言葉には目的に適った美しさという意味があります。神は私たちをご覧になって「美しい」とおっしゃるのです。皆さんはご存知でしょうか、ご自分の美しさを。あなたは美しいのです。神がそうおっしゃっています。神があなたを祝福しておられるのです。神が祝福してくださっているということは、私たちが神のものだということです。その事実を確認するのが、七日目に訪れる安息日の祝福です。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」とある通りです。私たちには6日間の仕事があります。それどころか6日間では足りなくて、もっとたくさん働かなくてはならないこともしばしばです。日曜日に礼拝を献げること、そのために神さまに時間を献げることにはある戦いが伴います。娑婆の生活が聖日を凌駕するかのようです。しかし、聖書の初めの言葉に聞くと、事情は変わってしまうのです。「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。」安息の日をもって、神は6日間の仕事を完成なさいました。6日間の娑婆の生活を完成されたもの、聖なるものとするのは、7日目の安息の日の祝福です。私たちの一週間はすべて丸ごと神のものです。神が祝福してくださっているのです。その事実を、私たちは安息日に知ります。勿論、日曜日に必ずしも休むことができない仕事はたくさんありますし、私たちの社会はそういう仕事によって支えられています。だからこそ、今ここで7日目の神の安息を覚えて時間を献げる人がいることは尊いことです。この世界はきれい事だけでは済みません。神がお造りになった世界には、光だけではなく、闇もありました。夜も残されていました。敢えて言えば、蛇もいる世界でした。極めて良いこの世界で、しかし、神を失ってしまうと神の光を失ってしまいます。その時、私たちの罪は深く、その深淵は混沌としています。神に光を灯して頂かなくては生きられないのです。私たちは娑婆の深淵から十字架を見上げます。私たちは神のもの。この祝福の事実を私たちが決して忘れることのないために。

2014年8月3日日曜日

使徒言行録12:1-24「熱心な祈りを神は聞いて」

教案誌「成長」のカリキュラムに従って使徒言行録を読んできましたが、今日で一区切りです。使徒言行録は天に昇る主イエスが使徒たちに、あなたがたは私の証人となるとおっしゃったことから始まりました。そして教会がどうやってキリストの証人として生きたのかを伝えています。使徒言行録によれば、彼らは何より祈る教会でした。今日の箇所でもそうです。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」この「彼」というのはペトロのことで、ヘロデ王の迫害のために捕らえられ、投獄されていました。教会はヘロデが支配する世界で祈り続けたのです。約2000年経ち、今でも彼の地では暴力の応酬が続いています。20節を見ると、キリスト者ばかりでなく、ティルスやシドン地方に住む人々もヘロデが食料の流通をにぎっていたために彼に従わないわけにはいかなかったようです。同じことが今でも起きています。こんなに大きな力を前にして、教会に一体何ができるのかと思います。教会は、祈り続けました。しかも、熱心に祈りました。希望を絶やしませんでした。その希望はどこから来るのか。復活です。今日の聖書の箇所には復活という言葉は直接には出てきません。しかし、隠された主題は復活信仰です。そもそも事の始まりは使徒ヤコブの殉教、即ち死です。そして投獄、天使の登場、神の力による救出、出迎える女、男の弟子の不信仰といった具合に、福音書がキリストの十字架と復活を伝えるのと同じモチーフがいくつも登場しています。ペトロが牢から解放されたことを、まるでキリストの復活をなぞるように描いているのです。復活の信仰は、うっかりすると現在の私の命にはあまり関係のない、遠い未来の話のように考えてしまいますが、そうではありません。今、ここで、どういう望みをもって祈り続けるのかということに深く関わっているのです。しばらく前、成瀬教会のY君のために祈って頂きました。まだ二十歳の青年ですがくも膜下出血で倒れ、私たちも彼のために熱心に祈りました。手術が成功し、彼は今元気になりました。更にこの出来事を通して祈りを取り戻したそうです。教会の人たちに祈られていることへの感謝が溢れているそうです。お父様とメールのやりとりをしましたが、聖書の言葉を引用して、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」とおっしゃいました。神の息子である自分を取り戻したのです。教会はどのようなときにも祈り続けます。このヘロデの世界で傷つき痛む人々のために。

2014年7月27日日曜日

使徒言行録10:1-48「神は人を分け隔てなさらない」

私に牧師としての指導をしてくださっている加藤常昭先生が先週メールをくださいました。奥様のお具合が良くないという内容です。メールの結びに「御言葉に飢え渇いています」と書かれていました。私は牧師として、聖書の御言葉の説教をする者として、先生に指導して頂いています。何ができるか考え、私がした説教の原稿をお送りすることにしました。昨日、他の塾生の牧師も同じように投稿しておられました。イエス・キリストの御言葉こそが慰めであり救いであると信じてのことです。コルネリウスとその家族にペトロが語ったのは主イエス・キリストのことです。「神がイエス・キリストによって−この方こそ、すべての人の主です−平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存知でしょう」とペトロは言いました。御言葉というのは主イエスのことです。キリストが十字架にかかり、復活させられた。このキリストと共に神が働いておられた。ペトロはその事だけを語りました。これこそ我らの救いと信じているからです。先日私が投稿した説教は、先月、私が待った伝道教会に伺ったときにした説教です。マルコ1:9〜20から、「神の国は近づいた」と題していたしました。主イエスが荒れ野に送り込まれたように、私たちにも荒れ野を生きるときがあります。しかし、主イエスは、そんな私たちにおっしゃいます。「時は満ち、神の国は近づいた。」このキリストの宣言に促されて、信仰を持つ人、教会に導かれる人が起こされます。ここに神の国が来ているからです。キリストが何をおっしゃったのか、キリストが何をなさったのか、それこそ、私たちにとってのかけがえのない慰めなのです。この方は「人を分け隔てなさらない(34節)」方です。誰もが蔑む徴税人や皆に差別されていた罪人と共に食卓についた方です。「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」とおっしゃった方です。キリストの御言葉に聞き、この方の生涯に学ぶならば、イエスを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられることを知ります。これは、勿論、コルネリウスというキリストを知らなかったであろう異邦人の回心物語でもありますが、ペトロの回心物語でもあります。ペトロも、ここで新しく、キリストがくださった福音のなんたるかを知ったのです。自分が思っていたよりも広くて深い神の愛を。十字架にかかり復活させられたキリストが、あなたを救ってくださいます。

2014年7月6日日曜日

使徒言行録5:27-42「新しい喜び」

ペトロと他の使徒たちは主イエス・キリストの福音を証言し、多くの病人をいやします。多くの人々が主イエスを信じました。しかし、それが当時の宗教指導者の妬みを買い、彼らは捕らえられ、最高法院の尋問を受けることになります。迫害がいよいよエスカレートしたのです。使徒たちは答えます。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。」捕らえられ、牢につながれ責め立てられながら彼らは証言します、主イエスにある罪の赦しの福音とその望みを。この苦しみのときを却って福音を証しする機会としたのです。驚くべき事です。迫害されたり、迫害とまで行かなくても苦しい目に遭ったりすると、多くの場合、落ち込んでしまいます。神さまを信じ続けることに難しさを覚えてしまいます。あるいは、現代の日本という社会の状況やこれからへの見通しが暗いことを覚えたとき、多くの人は絶望的な展望を口にします。しかし、キリストの復活の証人であるキリスト者は、苦しみのときに望みを証しするのです。確かに、わたしたちの罪の闇は深い。神の子を殺してしまうほどに。しかし、その神の子であられるイエス・キリストを神は復活させ、わたしたちを悔い改めさせ罪をゆるすために、導き手、救い主にしてくださいました。どんなにわたしたちの闇が深くて濃くても、わたしたちが証言するのは絶望ではなく希望です。キリストがあなたをも救ってくださった!しかし、望みを証ししているからと言って、皆が喜んで話を聞いてくれるわけではありません。主イエスさまご自身がかつておっしゃいました。「人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために追うや総督の前に引っ張っていく。(ルカ21.12)」喜ばれるどころか迫害され、喜びの報せを告げた代償は苦しみだと言うのです。しかし、更に主イエスは続けられます。「それはあなたがたにとって証しをする機会になる。」苦しみのときにこそ、キリストを信じる者は証しをします。キリストがわたしたちを救ってくださったことを。キリストにあって望みがあることを。苦しむ者の証しにこそ力があるのです。今回のブラジルへの旅でマッタ伝道教会のT長老のお宅に夕食に招いて頂きました。特にゆっくりとお話するチャンスを頂いた長老のお母様は娘と孫を亡くした経験の持ち主です。苦しみ、試練の中で強められた信仰、望みを証ししてくださいました。

2014年6月8日日曜日

使徒言行録2:1-13「この言葉を届けたい」

さがみ野教会は1976年から38年間、この座間の地で伝道して来ました。多くの人がここで神を信じ、洗礼を受けました。なぜ、人は神を信じるのでしょうか。自身の決断や決意がそこにはあったでしょう。しかし、それだけではなく、いやそれ以上に神がご自分の霊である聖霊によって人の心に信仰をくださるのです。
では、「聖霊」とは何でしょう。聖書の言語で「霊」という言葉は空気の流れ、風、息といった意味を持ちます。日本語の「霊」という語感が持つ人間の魂や幽霊、亡霊のようなイメージはそこにはありません。風が吹いて木の枝が揺れるように、何らかの作用をもたらす力を意味します。「聖霊」即ち神の霊は、私たちに働きかける神の力です。教会を生み出したのは神さまの働きかけです。私の心に信仰を生み出すのも神さまの働きかけです。
しかし、その神さまの働きかけは、神秘的に私と神とが交信するということではありません。私もわたし自身の入信への道を思い起こすと、懇ろに私の心に語りかけ、福音を届けてくれた多くの人を思い起こします。使徒言行録第2章を読むと、聖霊を頂いた使徒たちはその時エルサレムに来ていたいろいろな国の人々の言葉で語り合います。この「いろいろな国から来た人々」というのは外国人ではありません。外国に住むユダヤ人です。かつて彼らの先祖はイスラエルに住んでいましたが、彼ら自身は生まれも育ちも外国です。その人たちが耳にしたのです、使徒たちが自分たちの故郷の言葉で神の偉大な業を語っているのを。ユダヤ人の彼らが外国を故郷とするには様々な理由があったことでしょう。いわば、彼らはふるさとを喪失した人々です。現代社会を生きる私たちと似た悩みを持っているに違いないのです。だからこそ、遠い外国の自分の生まれ故郷から先祖の故郷であるエルサレムへ巡礼に来ていた。これは自分のアイデンティティを取り戻す旅です。その旅路を行く者たちが自分の故郷の言葉で福音が語れているのを耳にしました。心に通じる言葉で福音が届けられた。私も私のこれまでをふり返って思います。私に、同じようにして福音の言葉を届けてくれた人々を。そこには神の霊の働きがあったのです。そうとしか考えられません。
人と会話をし、一緒に時間を過ごしたときに言葉が通じ合わない悲しみを覚えることがあります。懸命に話しても意図したことと正反対のことが伝わってしまうこともあります。しかし、福音の言葉は言葉の壁を越える言葉です。ふるさとを失った私たちを一つにする言葉なのです。

2014年6月1日日曜日

使徒言行録1:3-11「約束」

私たちの姉妹教会、めぐみ教会の荒瀬牧彦牧師があるところでこのような物語を紹介しておられました。「郊外の家に住むその少年は、自分の部屋が大好きでした。その部屋には天窓があったのです。窓の真下においたベッドに寝転んで、空を眺めるのは彼の大切な時間であり、深い喜びを与えてくれることでした。季節によって、天気によって、空はいつも変化します。空を渡っていく鳥の群れを眺め、夜には月や星を仰ぐ時、心が広がっていくのを感じました。ところがある日、激しい台風が襲いました。翌朝、上を見あげると、天窓は木の枝や葉っぱですっかり覆われ、一筋の光も入ってきません。窓をふさいでいる者を取り除いて欲しいと両親に幾度も頼みましたが、他の箇所の補修で忙しくて、生活に支障のない天窓のことまでは手がまわりません。やがて少年は、親にせがむことをあきらめ、覆われた天窓に慣れていき、少し経つと空を眺めるというあの至上の喜びがあったことさえ忘れました。そして、空など眺めはしない忙しい大人になっていったのです。」
とても印象に残る話です。この少年の天窓を覆ってしまった木の枝や葉っぱというのは、一体何でしょうか。毎日嵐のように襲ってくる生活のための雑事やしなければならないたくさんの仕事、そういうところで覚える人間関係の悩み、あるいは肉体の病や痛み、そういうものは私たちが空を眺めるためのあの天窓を覆い尽くしてしまいます。生活を続けること自体はできるのです、天窓がふさがっていても。
しかし、やがて心は苦しくなり、忙しさを追いかけるだけでは心が失われてしまいます。天はイエス・キリストが昇っていかれた場所です。だから、雑事に追われた手を休めて、天を仰いでみてはいかがでしょうか。旧約聖書を開くと安息日を守ることを大切に教えています。安息日に自分の仕事を中断して、静かに神を仰いでみる。それは、何にも変えがたい幸いです。そのような安息日を取る余裕はないでしょうか?主イエスの周りにいた使徒たちもそう思っていたようです。すぐ目の前のことしか見えていませんでした。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。自分のこと、自分たちのことしか目に入りません。心配や悩みが天窓を覆っているのです。自分で天窓の掃除することは難しい。悩んだままで良いのです。祈り始めれば、神の霊である聖霊の風が天窓を覆うゴミを吹き飛ばしてくださいます。だから少しだけ手を休めて祈りましょう。「天にまします我らの父よ」と。

2026年9月13日の聖句

今週の聖句: 一切の思い煩いを神にお任せしなさい。神が心にかけていてくださるからです。(1ペトロ5:7) 今日の聖句: 主は虐げられた人の砦 苦難の時の砦。(詩編9:10) みなしごや、やもめの苦労を見舞うこと、それが純粋で汚れのない父なる神への礼拝です。...