2018年1月21日日曜日
イザヤ書40:27〜31「望みを抱く信仰」
今朝の聖書の御言葉はわずか5節の短い箇所ですが、何回も繰り返されている言葉があります。「倦む」と「疲れる」です。両方合わせると何と7回も登場します。これは倦み、疲れている人への福音の言葉です。今、日本の社会中が疲れの空気に被われているようにも思います。諦めと言ってもいいかもしれません。もしかしたら、この社会の中に生きる私たち教会も同じ空気に支配されてはいないでしょうか?だけれども、自分たちのヘソにばかり向かってしまう私たちの目を神さまに向けるとき、神が始めておられる新しい出来事を知ることになる。望みを見せていただける。聖書はそう言います。私は疲れるし、倦むけれど、神は新しい力を下さるのです。今日の説教の主題「望みを抱く信仰」は今年から3年間の教会の共通の主題としています。先々週は今年一年の主題「愛のコイノニアの形成」を取り上げました。一週間空きました。先週はファミリーサンデーの礼拝を近所の子どもたちと一緒に捧げました。そういう日曜日が間に挟まったというのは、意義深いことだと思います。私たちは、今彼らのような人々に福音を届けようと願っているのです。福音は、望みの言葉です。子どもたちに希望を届けたい。今子どもたちが生きているのは非常に厳しい時代だと思います。社会が閉塞感に満ちていて、子どもらしい将来への希望を描きにくい。この前話した子どもは「漫画家かユーチューバーになりたい」と言っていましたが、現実に青年たちはとても生きにくく、夢を叶えるどころか正社員になるのも簡単ではありません。でも、一歩立ち止まってみると、どうなのでしょう。私たちの社会は子どもたちに夢とか、自分のやりたいこととか、そういうものを実現するのが一番のしあわせだと教えてきました。「なにをやりたいの?」という意味での自己実現がしあわせの鍵だと。でも、本当にそうなのでしょうか?自分のために生きることを、むしろ聖書は罪と呼んではいなかったでしょうか?自分の思い通りに生きること、したいようにすることが幸せだと思っていたけれど、それは実は的外れな生き方なのではないでしょうか。そこに望みを抱くのだとしたら、もしかしたらそのような望みは拓けない方が却っていいのかも知れません。預言者の言葉を読んで気がつくのは、本当に私たちが絶望すべきなのは、自分の望みが叶わないことではなくて、自分の思いこそ絶対だと信じて疑わない私たちの罪なのではないでしょうか。でも、そのことに気づいたとき、私たちはもうすでにそのような私たちの罪を遙か上回る大きな神が下さる望みの中に生かされていることを知ります。「イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と。」「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」私たちの望みは、主におきます。主なる神。このお方が一体どのようなお方なのかを知れば、そこにこそ望みが拓けます。「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」と言います。そうであれば、私たちは子どもたちに言うことができます。「あなたが生まれたことには意味がある、あなたの命には尊い価値がある」と。それは自己実現できるかどうかには関係がない望みです。神が与えてくださった尊い一人なのです。疲れ、倦んでいる人に語りかけることができます。私たちを救ってくださる方がいる、と。キリストにこそ私たちの望みがあるのです。
2018年1月18日木曜日
詩編第104編「主をたたえる者が知っていること」
この詩編の興味深いのは、天の神の栄光をまず「光を衣として身を被っておられる」と表現し、その後、「家畜のためには牧草を茂らせ、地から糧を引き出そうと働く人間のために、さまざまな草木を生えさせられる」などとも言っていることだ。天の神の栄光というと自分からは遠いと感じてしまう。しかし、それは私たちが命を長らえるための神のご配慮を別のものではない。何と深い神の慈しみであろう。我らは神の栄光に生かされているのだ。
2018年1月14日日曜日
マタイによる福音書2:1〜12「王さまに会いに行こう!」
主イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。そのとき東方からやって来た占星術の学者たちが尋ねます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは・・・拝みに来たのです。」王さまに会いに、彼らはやって来ました。エルサレムで尋ねて回ったのでしょう。ユダヤ人の王さまはどこにお生まれになりましたか、と。ユダヤ人の王がお生まれになったのなら、首都エルサレムから探すのが順当です。彼らの来訪は噂になり、遂に王ヘロデの耳にまで届いた。それで、ヘロデ王は不安になります。それだけではない。エルサレムの人々も不安になりました。ヘロデが不安を覚える気持ちはよく分かります。自分の王位を脅かすと思ったのでしょう。しかし、エルサレムの人々はどうして不安になったのでしょう?もしヘロデよりも素晴らしい王さまが生まれたのなら、それは喜ばしいことであるような気もしますが・・・不思議です。私は、こういうところに、人間の素朴な気持ちが表れてきているように思います。ここはエルサレム。少なくともユダヤ社会の中では中心です。もちろん当時はローマ帝国の圧倒的な力が支配する世界で、エルサレムなんて周縁の辺境地の一つに過ぎなかったでしょう。しかし、それでもユダヤ人にとっての中心であることに代わりはない。ヘロデに変わる王が生まれたら、自分たちがいる中心が中心ではなくなってしまうかもしれない。彼らの心境もヘロデと似ていたのではないかと思います。そして、それは、私たちの心ではないでしょうか。私たちは「中心」に生きることを望みます。「寄らば大樹の陰」とも言いますが、私たちにとって自分を守ってくれる「王」の如き存在は一体何なのか、一度立ち止まって考え直してみてもいいのかも知れません。そして、驚くべき事に、あの占星術の学者たちが探していた王は、エルサレムではなく、小さなベツヘレムに生まれてこられました。彼らはヘロデを王とする世界の周縁、片隅で、もう一人の王と出会ったのです。この王は、やがて、罪人の列に入ってヨハネから洗礼を受ける方です。空腹を覚え、神を試みる誘惑にさらされ、神ならぬものを神として拝んで得る誘惑を覚えた方です。漁師を弟子とし、重い皮膚病の人に手を伸ばし、徴税人の友になられました。やがて十字架につけられました。この王は全ての人の僕になられました。そして、その僕である方が全ての人の王として天に挙げられました。まことの王は、しかし、世界の中心ではなく周縁におられます。全ての人の僕として、一番貧しい人間になられたのです。私たちは、まことの王に会うために、どこに行けば良いのでしょうか?あの占星術の学者たちは、言っていました。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」そう、彼らは、星を見て王に会いに来ました。どこに行けば良いのか?それは、星が教えてくれました。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立て進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」その時代、世界中の人が同じ星を見ていたはずです。しかし、その導きに気づいてまことの王のところへ行ったのは彼らだけでした。神さまは、私たちに語りかけているのではありませんか?私たちがよく注意して耳を傾けなければ聴き取ることのできない声で。聖書は、いつもあなたに語りかけています。まことの王はここにいる、あなたを救う王はここにいる、と。
2018年1月11日木曜日
詩編第103編「主の憐れみにすがりつつ」
主の憐れみを賛美する詩編。その憐れみは私たちの罪への神の処置を通して見えてくる。「主私たちを罪に応じてあしらわれることなく、私たちの悪に従って報いられることもない。」主は、主を畏れる人を憐れんでくださる。古来キリスト教会では「キリエ・エレイソン」という祈りが繰り返されてきた。罪を悔いつつ「主よ、憐れみたまえ」と祈る。主の慈しみこそ私たちの希望なのだ。我らは塵のようにつまらぬが、神は覚えていてくださる。
2018年1月7日日曜日
エフェソの信徒への手紙4:15-16「望みを抱く信仰 〜愛のコイノニアの形成〜」
先日、私の尊敬する説教者の説教を聞きました。こんな話をしておられました。「主われを愛す」という讃美歌があります。聞くところによると、これはもともと戯曲に挿入された歌なのだそうです。死の床に就いている小さな子どもが歌う。「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ。」この讃美歌は讃美歌21になって新しい訳詞が付きました。その新しい方ではリフレインが原詞に近くなっています。「聖書は言う、イエス様は愛されます、この私を。」聖書は言うというところがミソです。聖書がそう言っているから、私は恐れませんと告白します。更に、その説教者は言います。「聖書は言う」というが、その聖書を私たちは教会で読む。教会の仲間とのつながりの中で読む。私が「怖くない」と思い込むのではない、聖書がそのように言い、共にその聖書の言葉に耳を傾ける仲間がいる。私たちはどのような最期を迎えるのか分かりません。何も分からなくなって、イエス様を呪うようなことを言うかもしれません。神を信じて生きられなくなってしまうかもしれません。しかし、そんなときにも教会が私のことを覚えていてくれます。あの宮井という男は神を信じ、牧師として生きた、と。あの人もまたキリスト者だ、と教会が覚えていてくれます。聖書は、私が弱いときにも主は強いと私たちに教えます。だから、大丈夫です。今日の主題は「教会」です。今年、私たちは教会を愛のコイノニアとして覚えます。コイノニアという横文字を使っています。ギリシア語で共同体、交わり、関わり、などの意味があります。聖書ではとても大切にされている単語です。礼拝の最後の祝福の言葉、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共にあるように」の「交わり」がコイノニアです。神がいつもあなたに関わっていてくださいます、という祝福の宣言です。教会もまたコイノニアです。食べ物や持ち物を共有する教会の姿を、聖書はコイノニアと呼びます。何よりも信じること、信仰を共有します。それが一番はっきりと表れるのは、今日も行う聖餐のときです。私たちは一緒に聖なるものに与ります。キリストの体であるパンと、血であるブドウの杯です。キリストを信じることにおいて私たちはキリストのコイノニアに与ります。しかし、教会は完璧な存在ではありません。教会はキリストの体。しかし、そのことを疑いたくなることはいくらでも起こります。エフェソの信徒への手紙の今朝の言葉はあまりにもまぶしい言葉です。しかし、パウロがこう書いたのは、もしかしたらエフェソ教会の現実が到底そうとは見えなかったからなのかも知れません。エフェソ書では教会を神の家族とも呼びます。家族は嬉しいことも苦しいことも共有します。我が家に幼子が生まれ、5才の息子も2才の娘も親と共にその喜びも苦しみも共有しています。しかし、それよりも更に私たちには教会という神の家族がいる。キリスト者になったら肉の家族を捨てるわけではありませんが、神の家族の仲間の一員になって、肉の家族との関わり(コイノニア)が新しくなるということも起きる。肉の家族との関わりのために教会が祈ってくれているからです。家族は他人には見せない醜聞もさらします。でも、それは家族だからです。そんな私たちを一つの神の家族に、キリストの体にしてくださるのは、キリストの愛だけです。互いに愛し合う教会はこの世の中で光輝く魅力を持つと私は信じています。
2018年1月4日木曜日
詩編第102編「後の世代のために」
後の世代のために、私たちが書き記して残すことは一体何だろう。私たちは次世代に何をバトンタッチしていくのだろう。「主を賛美するために民は創造された。」この詩編はそのように言う。主は苦難のときに祈っていい方。煙のように儚いわたし、衰え、生涯の短いわたしの望み。それが主なる神様。自分の歳月の終わりを迎えるときにもこの方を呼び続ける。この主の下さる慰めと祝福をこそ、後の世代のために語り伝えていきたいのである。
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