2025年5月14日水曜日

2025年5月14日の聖句

暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも、そこでも、あなたの手は私を導き、右の手は私を離さない。(詩編139:9~10)
パウロは言った。「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(使徒27:23~24)

パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そのために彼は投獄され、鞭で打たれ、迫害されました。それでも止めませんでした。再び逮捕されたとき、彼は、自分がローマの市民権を持っていることを主張し、皇帝に上訴しました。遂にキリストに仕える伝道者が時の世界支配者と見なされていたローマ皇帝の前に出て、福音の道を語ることになったのです。驚くべきことです。
ところが、パウロを乗せた船は途中でひどい暴風に遭い、難破してしまいました。助かる見込みは全くなく、船はただただ漂うことしかできない。みんな絶望しました。そんな中で囚人パウロが同じ船に乗っていた人々に言ったのです。「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」パウロは捕らえられていても、護送されているときにも、迫害され鞭で打たれるときにも、それでも神の手が自分を導き、神の右の手が自分を離さないことを知っていました。
どのようなときにも、どこにいても。主イエス・キリストの父である神は私たちを離すことがありません。神の手によって私たちは立つことができる。望みを抱くことができる。今日も、この神があなたと共におられます。

2025年5月13日火曜日

2025年5月13日の聖句

私はあなたの仰せを喜びます。
多くの戦利品を見つけた者のように。(詩編119:162)
天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。(マタイ13:44)

ある人が畑を耕しました。他人の畑です。そこを耕すようにと雇われていたのでしょう。地面の中に何かが埋まっていることに気付く。なんと土の中には宝があった。この人はその宝を隠しておいて、有り金全部をはたいてその畑を買おうとする。ところが手持ちのお金では足りなかった。それなら持ち物全部を売り払って金を作って、その畑を手に入れるに違いない。
面白い譬え話です。この人が畑を手に入れるために必死なのは、そこで見つけた宝が素晴らしいからです。どんなことをしてでも、他の物を全部手放してでも手に入れたい。そう思わせる宝を見つけたからです。
これは天の国のたとえです。主イエスは、天の国はあなたたちにとってそういうものであるはずだ、とおっしゃいます。他のすべてを手放してでもそれを得たいと思うほどの尊い価値がある。他では代替できない素晴らしい輝きがある。そんな宝、それがキリストがもたらしてくださった天の国です。「私はあなたの仰せを喜びます。多くの戦利品を見つけた者のように」と旧約の信仰者が言ったとおりです。
キリストのくださったものの輝き、その尊さに、もう一度私たちの目を向けましょう。キリストがご自分の命を差し出して私たちに与えられた宝です。主イエスの命が勝ち取った戦利品です。

2025年5月12日月曜日

2025年5月12日の聖句

心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされるーー主の仰せ。(エレミヤ29:13~14)
すると、十二年間も出血が止まらない女が近寄って来て、後ろからイエスの衣の裾に触れた。「この方の衣に触れさえすれば治していただける」と思ったからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」(マタイ9:20~22)

主イエス・キリストが言ってくださいます。「元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」この女の人は、12年間も病に苦しめられてきました。婦人病です。旧約の律法によって「汚れ」と分類される病気です。町の生活でも差別に晒されていたと思います。礼拝にも出席できませんでした。神様に対しても、人に対しても、本当に孤独だったと思います。しかし彼女は主イエスの衣に向かって手を伸ばしました。「この方の衣に触れさえすれば治していただける。」ただそれだけです。
主は言われます。「心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる。」この御言葉の通り、心を尽くして主を尋ね求める一人の女が主を見いだしました。「元気を出しなさい」という主イエスの御言葉を頂きました。「あなたの信仰があなたを治した」と告げてくださる主イエスの御言葉を聞きました。
あなたは、今心を尽くして主を尋ね求めていますか?主イエス・キリストに祈っていますか?この祈りを聞き、耳を傾けてくださることを信じて、心を尽くして主を求めましょう。主イエスさまの御言葉を聞くために。主イエスは律法のタブーさえも恐れずにあの女に応えてくださいました。同じお方があなたの祈りも聞いてくださるのです。

2025年5月11日日曜日

2025年5月11日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストにあるなら、新しくされた者、古きは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2コリント5:17)

今日の聖句:
あなたは盗んではならない。(出エジプト20:15)
盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。(エフェソ4::28)

今週の聖句として与えられている御言葉は、とても印象深いものです。「誰でもキリストにあるなら、新しくされた者、古きは過ぎ去り、新しいものが生じた。」聖書は「誰でも」と言っています。ということは、この私でさえも、と言ってよいことになります。キリストにあるなら、もうすっかり新しくなってしまっている。古いものではなくなっている。新しいものとして神が生み出してくださっている。キリストにある新しい出来事を、私のこと、私たちのこととして聖書は語りだします。
新しいもの。それは今日の聖句からすると、盗まずに生きるものになる、ということであると思います。人から盗むのではなく、自分で働く。明らかに刑法で裁かれる窃盗罪よりももっと広い視野で事柄を捉えています。それは「盗むな」ということからさらに突っ込んで、「必要としている人に分け与えることができるようになりなさい」と言っていることからも明らかです。盗まなければいい、という話ではない。必要を覚えている隣人に与えることこそ、盗まずに生きる生活、新しい人としての生活だ、と言います。
人の労力や善意、やさしさ・・・。私たちは、気付かぬうちにいろいろな事につけ込んで人から盗みます。しかしそれを主イエスはお喜びにはならない。相手の自由を重んじ、相手の必要のために与える人になることを主は願っておられる。「相手の必要」です。自分があげたいものではない。主が私たちを招く新しい生き方に、私たちも足を踏み入れてみませんか?

2025年5月10日土曜日

2025年5月10日の聖句

私は近くにいる神なのかー主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。(エレミヤ23:23)
三時にイエスは大声で叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)

今日の御言葉は、私たちの信仰的な甘えを厳しく裁きます。「私は近くにいる神なのかー主の仰せ。遠くにいる神ではないのか。」私たちは本当に簡単に思ってしまいます。神様はいつでも側にいてくださる優しい神様、と。確かに、神様はお優しい方でしょう。愛に満ちたお方でしょう。しかしそれは聖なる愛です。神が愛に富んでおられるということと、私たちがなれなれしくするということとは別問題です。
遠くにいる神。私は、本当に簡単に「神はいつも一緒にいてくださる」と言ってしまいます。そこには畏れがありません。神を神として、聖なるお方として畏れ敬い、神様らしく接するということをすぐに忘れてしまいます。それは、とても罪深いことです。
主イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。罪人が立つべき遠さです。神の子であるこの方ほど神から遠く離れたところに降って行かれたお方は他にはいません。キリストこそ、神から最も遠いところにおられるお方です。陰府のどん底です。だから、神から最も遠いところで、私たちは神と出会う。私に代わって罪の裁きをお受けになった方を通して、私たちは神と出会う。
神を畏れ、このお方の前にへりくだってあがめましょう。神を礼拝し、神をあがめる幸いに立ち帰りましょう。ここに私たちの生きる道がある。私たちはそのことを素直に信じてよいのです。

2025年5月9日金曜日

2025年5月9日の聖句

あなたの同胞は、「主の道は公正ではない」と言っている。しかし彼らの道こそ公正ではない。(エゼキエル33:17)
神に不正があるのか。決してそうではない。(ローマ9:14)

どこに基準を置くかによって何が不正に見えるのかが変わります。私たちの側に基準を据えれば、神のなさることが不正に見える。神はどうしてこんなにひどいことをするのか、と・・・。私たちはどうしても自分の感覚を物差しにして神様を裁いてしまいます。「主の道は公正ではない。」
そんな私たちにとって、「しかし彼らの道こそ公正ではない」という神さまの御言葉は、天動説が地動説にひっくり返ってしまうほどの大逆転です。公正ではないのは神の道ではなく、私の道の方。「私」という人間が曲がった物差しなのであって、公正を図る基準になり得ていなかった・・・。
神様の正しさの物差しは、主イエス・キリストとして私たちに示されました。キリストに示された神の愛にこそ、神様の公正さがあますところなく現れています。私たちの目には不条理に映ることや、意味の分からない出来事もたくさん起こります。分からないことは分からないと認めていいのだと思います。無理に分かった振りをする必要もありません。しかし、それでも、キリストにあってすべてのことは永遠の祝福へと向かっていると私たちには信じることができる。キリストに示された神の愛を、神ご自身が裏切ることは絶対にない。私はそのことを確信しています。私たちの目には今のことしか見えませんが、神様の永遠のまなざしはすべてのことを見ておられる。永遠の愛であるお方に、私たちの思う「公正」を明け渡し、神のなさることを信じてみませんか?

2025年5月8日木曜日

2025年5月8日の聖句

主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられた。それが十戒である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。(申命記4:13)
(イエスの言葉)私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)

ナチス・ドイツの時代に生きたキリスト教会は、その殆どが「ドイツ的キリスト者」と嘯いてナチの支配に屈してしまいました。しかしほんのごく少数の教会がナチに屈せずに信仰の道を守り通した。その教会がバルメン宣言と呼ばれる信仰告白を残しています。その第二条項にこのように告白されています。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しを告げる神の慰めである。それと同じように、同じ真剣さをもって、イエス・キリストは、またわれわれの生活のすべてに向けられる、神の力ある要求である。」
キリストという罪の赦しの福音は、同時に私たちを神の国の民として生かす神からの要求でもある。私たちは神に従い、神のものとしてこの世界で生きていきます。新しい生き方をキリストにあって私たちは求められている。
今日の聖書の御言葉を読んで、バルメン宣言のこの告白を思い起こしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」キリストは私たちに神の律法に従って生きることを求めておられます。私たちは、キリストを信じて新しくなります。新しい私になる。それは「キリストの弟子として生きる私」です。
バルメン宣言では先ほどの言葉に続いてこのように告白します。「イエス・キリストを通じて、われわれに起こるのは。この世が神を無視しつつわれわれに強いる束縛から解き放たれ、神が造られたものに対する自由で、感謝に満ちた奉仕へと向かわせて頂く喜びである。」キリストに従う道は、罪の束縛から解放される自由な喜びの生活。私たちもこの自由な喜びに生かされるために、律法という指針を頂いています。

2026年8月4日の聖句

(主の言葉)あなたがを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。(出エジプト記19:4) これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:10) 今日の旧約聖書の御言葉は、エジプトという奴隷の家から解放してくだ...