2025年9月6日土曜日

2025年9月6日の聖句

(神の言葉)私はイスラエルにとって露のようになる。
彼は百合のように花を咲かせる。(ホセア14:6)
(イエスの言葉)だから、あなたがたは、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い煩ってはならない。あなたがたの天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。(マタイ6:31,32)

なんと美しい言葉だろうか、と思います。今日の旧約聖書です。「私はイスラエルにとって露のようになる。彼は百合のように花を咲かせる。」神が露としてイスラエルを潤し、百合のように花を咲かせる。
しかしこれは、単に美しいだけの言葉ではありません。注目すべきは、これがホセア書に記録されている言葉だということです。ホセア書は、預言者ホセアの味わった厳しい妻からの裏切りの経験を通して、神さまの御心を私たちに伝えています。ホセアの妻の名はゴメル。彼女は淫行の女と呼ばれ、ホセアの妻でありながら繰り返し他の男のところへ行きました。神はホセアに、そんなゴメルを迎え入れよ、とお命じになります。この一人の預言者の姿を通して、神が私たちを愛しておられること、ところが私たちがそんな神の愛を裏切っていること、その神の苦しみや悲しみのどんなに深いかを私たちに示しています。
そういうホセア書の最後のところにいたって、この言葉が登場しています。「私はイスラエルにとって露のようになる。彼は百合のように花を咲かせる。」これは、神さまのただならぬ決意の言葉ではないでしょうか。神さまは、それでもなお私たちを愛し、私たちを裂かせるための露になると決断してくださっている。私たちの咲かせる花が百合のように美しいものであると神ご自身が宣言してくださる。
ここには神の並々ならぬ愛が詰まっているのです。

2025年9月5日金曜日

2025年9月5日の聖句

真実の言葉を私の口から奪わないでください。(詩編119:43)
神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられる方です。(ローマ1:25)

神は造り主であって、私たちは造られたものに過ぎない。この秩序は絶対です。ですから、私たちが造った物を神とすることはできません。私たちが造った物や、私たちが造ったのでなくても神がお造りになった自然物とか、そういうものを選んで神とするというのは、私たちの側が主体になっています。こちらが拝むべき神を選ぶ。しかしそれは違う、と聖書は言います。神が主権を持って私たちを造り、私たちをお選びになった。あちらが選ぶのであって、こちらが選ぶのではない。神が私たちの神となってくださったのであって、私たちがこのお方を神として選んだのではないのです。
私たちを造り、私たちを選び、ご自分のものとしてくださった神を崇める。これこそ、真理です。造られたものとして造ってくださったお方を崇める。それが自然な秩序です。神を信じること、神を崇めることは、特殊なことや不自然なことではなく、道理に適ったことです。
だから、聖書はそのことを「真実の言葉」と言います。神を信じ拝むことは、真実なあり方です。私たちの本性に適う振る舞いです。神を畏れ、命を与えてくださった方の前にへりくだること。そこにこそ、本当の「私らしさ」があるのです。

2025年9月4日木曜日

2025年9月4日の聖句

あなたを助ける父の神により、あなたを恵まれる全能者による。(創世記49:25)
福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。(ローマ1:16)

今日の旧約の御言葉は、25節全体を含めて見ると聖書協会共同訳ではこのように翻訳されています。「お前を助ける父の神から、お前を祝福する全能者から、上は天の祝福、下は横たわる深淵の祝福、乳房と胎の祝福があるように。」
神はあなたの生きているときにも死ぬときにも、あるいはまだ生まれない先から陰府に至るまで、大いなる祝福をもってあなたを助け、恵んでくださる。この神の圧倒的な祝福の事実こそ、福音です。
「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。」福音は、神の力!神さまはご自身の力を私たち信じる者すべてを救うために振るってくださいます。福音は力強い神の御業。主イエス・キリストの出来事という力ある御業が私たちを罪と死と悪の力から救いだしてくださった。全能者でいらっしゃる方の力によって私たちは神のものとされました。
ですから、私たちはキリストによって私たちを救ってくださった神の力を信じましょう。「信じる者すべてに救いをもたらす」と書かれています。信じることを、神さまは私たちに求めておられます。神の力を信じ、神が私を救ってくださったことを信じ、神がどのようなときにも祝福してくださっていることを信じる。私たちが信じるのは神であって、自分自身ではない。自分の良さやダメさではなく、神の力強い、聖なる愛なのです。

2025年9月3日水曜日

2025年9月3日の聖句

あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。(エゼキエル36:26)
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(マタイ5:44~45)

主なる神さまが約束してくださいました。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。」神が私たちに新しい心を与えてくださる。私たちの内に新しい霊を授けてくださる。神さまが私たちを新しくしてくださいます。
「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と主イエスがおっしゃいました。私たちが敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるとしたら、それは神ご自身の霊が働いてくださっているからという事実以外に理由がないのではないでしょうか。私たちは神ご自身が私の内で働いてくださっているからこそ、キリストに倣って生きることができるのではないでしょうか。
しかし、自分の現実を考えると、敵は憎いし、迫害する者には地獄に落ちてほしいと思ってしまっています。そうすると自分は本当に神さまを信じていると言えるのか、そう言える資格があるのか、と考えざるを得ない。ただ、もう少し考えてみると、そういう自分の心の中で起きているのは、単に相手が憎いとか呪ってやろうとか、そういう思い一色というわけでもありません。憎たらしい思いと、どうやったら愛せるのかという思いもあって、その葛藤、二つの心のはざまでどうしたら良いのか分からないということなのかもしれません。
私は、そのせめぎ合いが既に聖霊のお働きの証拠なのではないかと思います。私たちは本当にどうしようもない罪人でしかないけれど、そんな私の内にも神ははたいてくださっていて、愛の願いを起こしてくださっている。それもまた事実です。そういう神の出来事が私の内にも働き始めていることを信じ、受け入れて、なお「愛をもって生きさせてください」と神に願って歩みたいのです。

2025年9月2日火曜日

2025年9月2日の聖句

(ダビデの言葉)主なる神よ、わたしがだれ、わたしの家が何であるので、あなたはこれまでわたしを導かれたのですか。(サムエル下7:18)
リディアと彼女の家族の者も洗礼を受けたが、その時、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言って、無理やり招き入れた。(使徒16:15)

私たちは一体何者でしょう。私の家をたどったとしても、一体それで何者だと言いうるのでしょうか。人の前にはもちろんのこと、まして神様に対して私たちは一体何者だと言いうるのでしょうか。しかも、そんな私であるにも拘わらず「あなたはこれまで私を導かれた」。神が何者でもない私を導き、これまでの歩みを支えてくださった。
今日の新約聖書は、使徒パウロたちがフィリピを訪れたときに出会ったリディアという女性の言葉を伝えています。リディアは紫布を扱う商人でした。紫布は高価ですから、リディアも裕福な人であったと思います。そんなリディアもその家族も主イエスを信じて洗礼を受けました。リディアはパウロたちに「私が主を信じる者だとお思いでしたら・・・」と言います。彼女は、自分の家柄を見てくれとか、裕福な私であることなどについては何も言いません。神様の御前にも、主にあって出会ったパウロに対しても、そのようなことではなく、ただ「主を信じる者」ということだけが意味を持ったのです。
私たちはただキリストを信じ、キリストのものとして生かされている。それだけの存在です。主イエス・キリストのものとされ、主を信じる者として私たちは互いに出会い、神の御前に生かされているのです。

2025年9月1日月曜日

2025年9月1日の聖句

9月の聖句:
神は我らの逃れ場、我らの力。(詩編46:2)

今日の聖句:
今日までしてきたように、あなたがたの神、主にのみ付き従わなければならない。(ヨシュア23:8)
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。(ヘブライ10:25)

ヘブライ人への手紙が誰の手で書かれ、誰に宛てられたのかは定かではありません。もともとは何通かの別の手紙であったものがつなげられて今日のかたちになっている、と考えられているようです。しかも、それも元は教会で実際に語られた説教から生まれたのではないか、という説があるようです。
手紙の受け手が誰なのか確たることは分かりませんが、迫害下の教会であったことは内容から想像されます。教会で集まって礼拝を献げるということ自体に大きな困難を覚えていた教会で語られた説教。それがヘブライ人への手紙ではないか、と推測されている。
そうすると、今日の箇所の意味もよく分かります。「ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。」教会の集会に行くことを止めてしまう仲間たちが実際にたくさんいたのでしょう。礼拝や祈りとは異なる習慣が教会の中にはびこってしまった。しかし「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」と呼びかけます。「かの日」というのは、キリストが再び来られる日です。主イエスをお迎えする日を待ち望んで、共に祈って生きていこう、と励ましているのです。
私たちは、私たちの神である主にのみ付き従いましょう。他の何者でもなく、ただ主イエスさまに付き従い、主の憐れみの中を生きていきましょう。ここにこそ救いがあるし、慰めがあります。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年8月31日の聖句

今週の聖句:
神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお与えになる。(1ペトロ5:5b)

今日の聖句:
すべて主に寄り頼むものはさいわいである。(詩編2:12)
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。(エフェソ3:12)

「キリストの真実により」です。主イエス・キリストが真実な方でいらっしゃるから、私たちは神に近づくことができる。キリストが私たちを神に近づけてくださったからです。キリストの真実は、私たちを神のものとするということにおいてその力を発揮なさいました。主イエス・キリストの真実が私たちを救ってくださいます。
キリストの真実によって、私たちは「確信をもって、堂々と神に近づくことができます」という、この「堂々と」というのも本当にすばらしい言葉です。コソコソではありません。神さまに怒られないかビクビクしながらでもない。私たちは大胆にも堂々と神に近づくことができる。神の御前で神を礼拝し、祈り、大胆に信じ、堂々と生きることが許されている。ですから、キリスト者とは、自分らしく生きることのできる人、と言っても良いと思います。
主に寄り頼んで生きていきましょう。自分には神に頼る必要なんてない、自分の力で生きることができる。そのように言う人もたくさんいます。自立して生きるということ自体はとても大切なことでしょう。しかし、本当に、何にも寄り頼まずに生きられる人がいるのでしょうか。自分だけの力で、堂々とした確信を死ぬまで持ち続けることができるのでしょうか。キリストの真実に頼るというのは弱い者であるかのようで、実は自分の弱さに真摯に向き合い、自分の力を超えたものに対する誠実な畏れをもって生きる強いあり方ではないでしょうか。
キリストの真実があなたを生かしています。今、もう既に。あなたが生きているのはあなたの内に生きるキリストの真実によるものなのです。

2026年8月1日の聖句

8月の御言葉: (イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10) 今日の御言葉: 隣人のものを一切貪ってはならない。(申命記5:21) 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決して...