2017年12月14日木曜日

詩編第99編「主は聖なる方」


「主は聖なる方。」三度、そう繰り返す。聖なる方は大いなる、恐るべき方。我らの王。礼拝されるべきお方だ。改革者カルヴァンは、我らは神を礼拝するために生きていると言った。礼拝とは、主を聖なる方らしくあがめることだ。聖なる方が私たちの間に住まわれたのがクリスマスの出来事である。聖なる方は飼い葉桶におられるのだ。私たちはこの方をあがめる。この世で無価値と捨てられた方の前に膝をかがめる。そのことを肝に銘じたい。

2017年12月10日日曜日

マルコによる福音書1:1~8「十字架を見つめるクリスマス」

昨日、近所の子どもたちがここでクリスマスを祝いました。皆、とても嬉しそうに、喜んでいました。さがみ野教会は栗原伝道所として設立された当初から子どもたちへの福音の種蒔きを大切にしてきました。神さまから与えられた教会への使命であると信じています。今朝の御言葉はアドベントによく読まれる箇所です。洗礼者ヨハネが、荒れ野で罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。ヨハネの活動をイザヤ書の言葉で総括しています。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」主が来られるから、道を整え、まっすぐにせよと言います。主をお迎えするために。マルコは福音書の冒頭で言っていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」福音です。福音とは、喜びの報せという字です。喜びがここに始まる。そのための道を備えよ。昨日のクリスマス会も、そのための一筋の道であると信じています。伝道は、地道な取り組みです。すぐに成果にはつながりません。しかし、2000年間、教会は地道に御言葉の種を蒔き続けました。悲観的になるのが現実的な物の見方だという風潮がありますが、そうではないのだと思います。主イエスだって、楽に伝道なさったわけではありません。人間のこころの頑固さに嘆き、仲間の弟子たちのふがいなさにがっかりなさりながら、しかし私たちのことを諦めませんでした。どんな時にも、主の道はまっすぐにされなければなりません。主イエスがそれを望んでおられるからです。ローマ・カトリック教会の教皇フランシスコがこのようなことを言います。「主にかける者を主は失望させません。小さな一歩であってもイエスに向かって歩み出すならば、イエスが両手を広げてその到着を待っていることにきづくでしょう。そのときこそ、イエス・キリストに向かって次のように言うときです。『主よ、わたしは間違っていました。何度もあなたの愛から逃げました。しかし、今もう一度あなたとの約束を更新するためにここにいます。主よ、あなたを必要としています。もう一度あがないの腕にわたしを受け入れ、救い出してください。』」だから、私たちは失望せずに、キリストのもとへ帰りましょう。主が両手を広げて待っていてくださいます。神のもとへ帰ることを、聖書は「悔い改め」と呼びます。思えば、「失望」や「諦め」というのは現代を覆う時代精神の一つだと思います。私たちは自分自身のことも他人のことも、簡単に失望し諦めてしまいます。そこには冷めた愛がある。ヨハネは悔い改めを求めます。聖書が言う悔い改めは、日本語の語感から想像しがちな後悔といった意味ではありません。自分のあそこが悪いここが悪いと悩むことではないのです。そうは言っても私たちには後悔することがあるし、悔やんでも悔やみきれないこと、上手くいかないこともある。トマス・ロング牧師は言います。「私たちが記憶の中の経験を呼び起こし、初めに理解していたよりもさらに多くの神の御業の証拠や、それまで知っていたよりもずっと多くの神の恵みのしるしや、これまで表していたよりももっと」多くの神への感謝をそこに発見して、もっと誠実で従順に明日を生きたいとの願いを持つ、今までとは異なった自分を見いだすとき、私たちは悔い改めているのです。」この私に今も働いておられる神を見上げることこそ悔い改めです。そこでは私のためにかけられた十字架が見えてくる。そこに喜びが始まります。 

2017年12月7日木曜日

詩編第98編「待降節の詩編」


「主は驚くべき御業を成し遂げられた。」待降節の最初の日曜日にこの御言葉を聞くのは幸いだ。アーメンと応えたい。主は聖なる救いの御業を成し遂げられたのだ。この救いは万民のための救い。「地の果てまですべての人は、私たちの神の救いを見た。」全ての人にクリスマスを届けたい。「とどろけ、海とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものよ。主を迎えて。」そして「主は来られる。」この方を待ち望むアドベントを新しい思いで過ごそう。

2017年12月3日日曜日

マタイによる福音書24:36〜44「ただ神だけはご存知だから」

今日から待降節です。待降節、アドベントはクリスマスを待ち望むとき。私たちはそう考えています。確かにその通りですが、ただ、これは主イエスがまだ生まれていないことにしておいてクリスマスを待つというわけではありません。今、私たちは第二のクリスマスを待っています。キリストが再び来てくださるのを待っているのです。T..ロングという米国の説教者の『何かが起ころうとしている』というアドベント・クリスマスの説教集を最近手に入れて、さっそく読み始めました。表題になった説教は今朝の箇所のマルコによる福音書の並行記事の説教です。「何かが起ころうとしている。」私たちはそれを期待しています。それはちょうどもうすぐ子どもが生まれる夫婦が、子ども部屋のペンキを塗ったりベビーベッドを組み立てたりする気持ちのようです。何かが起ころうとしています。クリスマスツリーを飾り、クリスマスの買い物にショッピングモールに行くのは、クリスマスに何かが起ころうとしているからです。私たちは、主イエスが私たちのところへ来てくださって、私たちを慰め、救ってくださるのを待っています。しかし、他方では、1226日になるとクリスマスは終わり、ツリーも片付けられ、正月になれば誰もクリスマスのことなど覚えていません。特に何も起こらず、いつものようにクリスマスが終わったのです。何かが起ころうとしている・・・。本当なのでしょうか?私たちには神さまに助けていただきたいこと、救っていただきたい現実をたくさん抱えています。食べたり飲んだりしながら営んでいく毎日の営みの片隅には、私たちのため息が淀んでいます。年末を迎えて一年を振り返れば後悔が残っているし、これまでの生き方をふり返れば、昔に戻ってやり直したいことが誰にだっていくつもあります。そんな私を救ってくれるような何かが、本当に起こるのでしょうか?主イエスは、「起こる」と言われます。キリストは来られます。「人の子は思いがけないときに来る」と主は言われます。救い主は再び来るのです。但し、思いがけないときに。私たちには、その時が分からない。誰も知らないのです。8月に仙台市若林区の荒浜小学校を再訪しました。震災の一ヶ月後にボランティアに行った地域です。小学校が震災遺構になっていました。津波で地域全体が倒壊した場所です。小学校の屋上にたくさんの人が避難して、いつ来るか分からない救助を待っていました。私たちを助ける助けは一体いつ来るのでしょうか?食べたり飲んだりして生きる私たちの日常を全部のみ込んでしまうほどの大きくて恐ろしい力に、私たちは日々さらされているのです。ノアの時代の人々は、そんな毎日の生活を送りながら、洪水が来ることを誰も気づきませんでした。しかし、考えてみれば目の前でノアが箱舟を造っていたはずです。目には入っていても、その意味するところが分からなかったのでしょう。実は、私たちの日常生活の目の前には、箱舟があるのです。聖書の原語では「箱舟」はもともと単なる「箱」です。舟の形ではありません。神殿の形です。ノアの箱舟は、洪水の中で礼拝する民がいるという物語です。神を礼拝し、神に祈る。それが主が「目を覚ましていなさい」とおっしゃったことの意味です。目を覚まし、祈りつつ生きていきましょう。私たちにはキリストに来て救っていただかなければどうにもならないことが溢れています。「主よ、来てください」と祈りつつ生きていきましょう。 

2017年11月30日木曜日

詩編第97編「主こそ王」


「主こそ王」と高らかに宣言して始まる詩編。比較的新しく設定されたようだが、暦を重んじる教会ではアドベントが始まる前の日曜日を王であるキリストの主日と呼ぶ。教会暦の一年はこの週で終わる。最後に覚えるのは王キリストの前にひれ伏すことなのだ。それは私たちにとって喜びだ。「全地よ、喜び踊れ」と言うとおり。私たちは神が君臨する神の国の民だからだ。神に従う人よ、主にあって喜び祝え。そう唱えつつ、新しい年を迎える。

2017年11月26日日曜日

マタイによる福音書25:31~46「片隅で出会う王」

今朝の聖書の御言葉を、私はこれまでどこかで怖いと思ってきました。到底実現できないような無理難題をふっかける言葉だ、と。しかし、本当はそうなのではなくて、私たちを解放し自由にする御言葉なのだと気づきました。この箇所は、教会暦の最後である王であるキリストの主日に読まれることがあります。キリストが王でいらっしゃることを教えると考えられているのです。しかし、この世では私たちが王様です。特にお客様になったとき、私たちは王様になります。王様としてあらゆる権利を主張します。私たちは、お金を出す者があらゆる権利を主張できると思い込んでいます。先日、ある鉄道会社が電車が20秒早く出発したことを謝罪したそうです。私たちの社会は小さな王様たちの支配によって、かなりまずいことになっています。クレーマーという言葉はほとんど日常語になってしまいました。もう、私たちの社会は私たちのわがままに耐えられなくなっています。しかし、同時に私たちは「御国を来たらせたまえ」という祈りを主イエスから教えていただきました。神が王でいらっしゃる神の国が来ますように、と祈っています。私たちのわがままを聖書は罪と呼びます。わがままな王は怪物です。神に救っていただくというのは、神を王として迎えるということです。私たちは、本当に王としてあがめるべき方と出会うときに、人間らしさを取り戻すのです。神の国が来るときにキリストがなさるのは、今日の話によると裁きです。この裁きが私の心を重くしました。どう考えても、私は左側の羊の方にいるとしか思えないからです。祝福された人たちに該当するような愛の行いに生きてこなかった。でも、もしかしたら、その聖書の読み方は間違っていたかも知れない、と思います。王は言われます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」。これは、実はキリストが私にしてくださったことではないでしょうか。王は言われます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」最も小さい者の一人。私は、自分の小ささをよく知りませんでした。でも、本当は私は最も小さいのです。飢えていたり渇いていたりして、助けていただかないと生きられないのです。自分への過信を打ち砕かれる。しかし、それは実は救いです。使徒パウロはこのように言いました。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(一コリ15:9)」自分の罪深さに震えている。いちばん小さな罪人、価値なき自分であることに気づいたとき、もうすでに私たちは救われています。怪物ではなくなるのです。主イエスのお姿を、私たちはそこで見ます。「『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。(ヘブ2:9)」低い者、これは小さいという字です。キリスト御自身が小さくなって、私のために死んでくださった。私たちの王は私たちのために十字架を玉座に、茨の冠を王冠に戴きました。このキリストを真似て、私たちは隣人のために小さくなる喜びに召されているのです。 

2026年7月1日の聖句

今月の聖句: 公正を水のように 正義を大河のように 尽きることなく流れさせよ。(アモス5:24) 今日の聖句: 主を畏れることは知恵の初め。(箴言1:7) あなたがたは、信仰の内にあるかどうか、自分を試し、自分を吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分...