2025年7月31日木曜日

2025年7月31日の聖句

天が地よりも高いように、主の慈しみは主を畏れる者に示される。(詩編103:11)
しかし、罪が増したところには、恵みはいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。(ローマ5:20~21)

「天が地よりも高い」というのは、改めて考えてみると当然のことです。空の上にある地面なんてありえません。エベレストのような果てしなく高い山であっても、天はその上に広がっています。当たり前のことです。そうであるからこそ、驚くべき御言葉です。「天が地よりも高いように、主の慈しみは主を畏れる者に示される。」大地の上に当然のこととして天が広がっているのと同じように、当然のこととして、主の慈しみは主を畏れる者に示される。それが必然だ、というのです。すごい御言葉です。
私たちは足りないもの探しが上手なところがあるように思います。不満の種はすぐに見つかります。しかし、主の慈しみは私たちに示されている。この圧倒的な御言葉を畏れつつ受け止めたいのです。
今日の新約の御言葉は、この事実をさらに突き詰めて、究極的に言い表していると思います。「罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。」罪が死によって支配しているというのは、私たちの周りに広がっている現実そのものです。死を恐れる私たちの心がこの社会を死の奴隷にする。それが罪の力ではないでしょうか。ところが、それよりももっと力強く、そしてもっともっと必然的に、キリストは私たちを神の恵みによって支配してくださいます。神の愛の力で私たちを神の国へ迎えてくださいます。
神の圧倒的な恵みを仰ぎましょう。主イエス・キリストに示された神の愛に打ちのめされて、神の愛の中を生きていきましょう。キリストの祝福が今日もあなたを覆っています。キリストの恵みがありますように。

2025年7月30日水曜日

2025年7月30日の聖句

私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。(箴言7:2)
青年はイエスに言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(マタイ19:20)

神さまがモーセと出会われたときのことです。神さまはモーセにおっしゃいました。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った」(出3:7,8)。それで、神さまはモーセをお遣わしになって、エジプトからヘブライ人たちを救いだしてくださいました。エジプトから出たら、モーセが主と出会ったこの山に再び来るように、主はおっしゃいます。「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる」(出3:12)。そして、そのお言葉の通りにエジプトから救い出され、再びこの山に来て神を礼拝し、十戒を頂きました。
神の戒めや教えは、私たちを愛し、その苦しみをつぶさに見、叫びを聞きき、痛みを知ってくださったお方が与えてくださったものです。私たちが神の愛によって与えられた命でもってこの世界を生きるための羅針盤です。神の愛が出発点です。
そのことを忘れるとき、このような言葉が出て来るのだと思います。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」この言葉からは、本当に辛い響きが聞こえてきます。これ以上何を頑張れば良いのか、という苦しさが感じられます。しかし、最初のボタンを掛け違えているのだと思います。私たちが頑張る以前に、もう既に神さまは私たちを愛してくださっています。神の愛が私たちの出発点です。
神さまが私たちにお与えになる戒めは、神の愛のしるしであり、私たちを守る盾です。神さまのものとして生きる道を神ご自身が開いてくださいました。神さまが私たちにお求めになるのは、ただ愛することです。神を愛し、隣人を愛すること。「頑張って愛する」というのは、多分無理です。愛は自発的なものですから。私たちの自発を促すのは、神の愛による満たしです。神の愛を日々確認し、神さまのものとして頂いていることを存分に味わい尽くすとき、私たちの新しい歩みが始まるのではないでしょうか。

2025年7月29日火曜日

2025年7月29日の聖句

主よ、力に満ちて、高くいませ。
私たちはあなたの力強い業を歌い、ほめ歌を歌おう。(詩編21:14)
イエスがいよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。(ルカ19:37)

私たちは神さまをほめたたえます。主を賛美します。「主よ、力に満ちて、高くいませ。私たちはあなたの力強い業を歌い、ほめ歌を歌おう。」ここで、「あなたの力強い業を歌い」と言っています。私たちは神さまの御業のゆえに、主を賛美する。
神の力強い御業、それは何よりも主イエス・キリストにおいて現されました。しかし改めて考えてみると、イエス・キリストの誕生は羊飼いしか知らない飼い葉桶の中でしたし、その死は犯罪人の一人として十字架に掛けられて迎えました。イエス・キリストにおいて現された神の御業は、私たちの思いとは反して弱さの中で示された御業だったのではないでしょうか。
私たちはキリストをほめたたえます。主イエスさまを賛美します。それは、私たちもまた主イエスにおいて現された救いの道に生きる、ということに他なりません。私たちもまたキリストに倣ってへりくだりの道を行く、ということではないでしょうか。
今日、私たちは「御名を崇めさせたまえ」と祈りつつ、歩んでいきましょう。主イエス・キリストの誕生と死のゆえに。そして、このお方の復活によって現された神の御力のゆえに。

2025年7月28日月曜日

2025年7月28日の聖句

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)
天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。(マタイ6:9)

十戒の第3の戒めです。
前半を直訳すると、このようになります。「唱えるな、お前の神である主の名を、空しいことのために。」このように、「みだりに」という私たちの親しんでいる翻訳は、直訳すると「空しいことのために」という意味です。
このようなことが命じられているというのは、私たちの現実として空しいことのために神さまのお名前をみだりに口にしている、ということに他ならないのだと思います。そう思ってわが身を振り返ってみると、自分の主張を正当化するために神さまのお名前や信仰を空しく語ってみたり、言い訳のために神さまを持ち出したり、キリスト者ではない家族や知り合いを心の中で裁く大義名分として神さまを持ち出してしまったり・・・ということが起きているのかも知れません。
神さまは、本当は私たちが神さまを賛美するためにご自身を示してくださいました。「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。」私たちは、これこそが私の祈りと告白する恵みに招かれています。私の願いは他の何でもなく、主の御名が崇められ、聖とされること。私たちもそうやって神さまをほめたたえる者にして頂いています。私たちの心の中にはいろいろな思いが渦巻いているし、「みだりに」犯す罪がたくさんあるかもしれません。そうであるからこそ、神を賛美する時に私たちは解放され、新しい思いをもって主の民として生きることができるのです。

2025年7月27日日曜日

2025年7月27日の聖句

今週の聖句:
あなたを造られた主は今言われる。
恐れるな。私はあなたの名を呼んだ。
あなたは私のもの。(イザヤ43:1)

今日の聖句:
主がその民に力を与えてくださる。(詩編29:11)
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。(2テモテ1:7)

主イエスは弟子たちに、繰り返し「恐れるな」とおっしゃいました。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10:28)、逆風に悩む小舟に乗る弟子たちにも「安心しなさい。私だ。恐れることはない」(マルコ6:50)と言ってくださり、弟子たちを見つめて「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12:32)とも言ってくださいました。主イエスを信じるというのは、恐れなくなるということです。
私はとても臆病な人間です。しかし、本当は臆病は信仰と両立しません。主イエスが「恐れるな」と命じてくださったことを、繰り返し、真剣に受け止めたい、と願います。
「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。」この御言葉によると、私たちが力を得て生きることができるのは、聖霊のお働きによるということがよく分かります。私たちに力と愛と思慮を与えてくださる聖霊によって、私たちは臆病から解放される。神さまが私に働いてくださるのです。
自分で自分を見つめていても、永遠に救いは訪れません。私の外から神が働きかけてくださる。私をも新しくしてくださる。この神の御業を信じ、待ち望んで、今日の日を生きていきたいと願います。主は、ご自分の民である私たちに必ず力を与えてくださいます。主を待ち望んで、祈り、礼拝を献げましょう。

2025年7月26日土曜日

2025年7月26日の聖句

私はあなたがたの業が結ぶ実に従ってあなたがたを罰するーー主の仰せ。(エレミヤ21:14)
主人は言った。「よくやった。忠実な良い僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスのなさった譬え話の中に出てくる言葉です。天の国の話を主イエスがなさった。ある人が旅に出るので、僕たちを呼びました。ある僕には5タラントン、別の僕には2タラントン、もう一人の僕には1タラントン預けました。5タラントンを預かった僕はそれで商売をして、他に5タラントン儲けました。
やがて主人が帰ってきて、僕たちと清算を始めました。5タラントンの僕が主人から預かったタラントンとそこから生み出された儲けを差し出した時、主人はこの僕をお褒めになりました。「よくやった。忠実な良い僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」
ここで目を惹くのは、「お前はわずかなものに忠実だった」という言葉です。5タラントンという額を預かっています。およそ3万日分の賃金に相当する金額です。約80年間、休みなしで働いて得る賃金、というイメージでしょうか。決して小さな金額ではありません。ところが主人から見たら、それは「僅かなもの」です。
神さまからご覧になったら、私たちの人生に与えられているいろいろなものは、「僅かなもの」なのだと思います。私たちはその僅かなものを巡って右顧左眄し、あるいは恐れ、結局は不忠実になる過ちを犯しがちです。しかし、与えられたものに誠実に、神さまを信頼することを神さまは喜んでくださる、ということではないでしょうか。
主イエスさまは、主を信頼するものをご自分の天の祝宴に招き入れてくださいます。神の与えてくださったものを喜び、信頼して、平安な気持ちで歩んでいきましょう。

2025年7月25日金曜日

2025年7月25日の聖句

神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。いにしえの日々にあなたのされた業について、先祖が私たちに語り伝えたことを。(詩編44:2)
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。(2テモテ4:3)

今日の新約聖書の御言葉は、聖書協会共同訳の翻訳をベースにしていますが、新しい日本語表現が使われています。「みみざわり」はもともとは「耳障り」という字で、耳にとっては障りとなる不快な言葉を意味しますが、この「耳触り」というのは新しい日本語ですね。「耳への感触」という字なので、必ずしも悪いことだけを指すのではないようです。ここでは「耳触りのよい話」という翻訳が充てられています。
日本語としてはとても新しい表現ですが、感覚的によく分かります。味で言えば甘い、誰でもすぐに飛びつきたくなるような言葉。甘言という表現もあります。そういう言葉は誰でも聞いていたい。そういう言葉にしか耳を傾けない時代が必ず来る、と聖書は言います。健全な教えはそれに比べればたいへん耳障りなことも多いですから、忌諱されてしまう。もしかしたら、今まさにそういう時代を迎えているのかもしれません。
しかし、私たちは例え耳障りでも、まことの神の言葉を慕い求めます。「神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。いにしえの日々にあなたのされた業について、先祖が私たちに語り伝えたことを。」私たちを罪と死と悪の力から救いだしてくださるキリストの御言葉を、私たちは耳を傾けて聞く。そこにこそ私たちの命があり、救いがあると私たちは信じています。

2026年8月1日の聖句

8月の御言葉: (イエスの言葉)私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。(ヨハネ10:10) 今日の御言葉: 隣人のものを一切貪ってはならない。(申命記5:21) 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決して...