2025年8月30日土曜日

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16)
時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8)

熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。本人のことだけではなく、ある人は家族の病のための悩みを抱いている。若い人は進路を求めているでしょう。いろいろなことのために、私たちは祈りを必要としています。教会はお互いのために祈る者たちの共同体です。私たちの神が私たちに最もよいことをしてくださると信じて、私たちは神に祈ります。癒しを求め、解決を求めて。
パウロもプブリウスの父親のために祈りました。神はその祈りを聞き入れて彼を癒やしてくださいました。私たちも同じように教会生活を送っています。それは神が必ず祈りを聞いてくださる方だと信じ、信頼しているからです。「主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。」これは、私たちの祈りでもあります。
新約聖書のヤコブの手紙にこんな言葉があります。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」ここでのオリーブ油というのは、恐らく祈りの象徴のような意味合いだと思います。私たちはオリーブ油は塗ってはいませんが、互いのために祈る営みを続けていることには何ら変わりがない。
私たちもお互いに祈りを求めましょう。仲間に祈ってもらいましょう。そして、仲間のために祈りましょう。そのようにして神の家族として私たちは練られていくのです。

2025年8月29日金曜日

2025年8月29日の聖句

万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。(イザヤ37:16)
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:3)

天と地とそこに満ちるすべてのものは神がお造りになった。しかも、言によって。そのように、今日私たちに与えられた聖書の御言葉は証言しています。
ヨハネによる福音書第1章を読んでみると、この「言」とは、主イエス・キリストのことであると言っています。神の言そのものでいらっしゃるイエス。イエスというお方によって示された神ご自身の御心、その知恵、福音。そのような「言」において、神はこの世界をお造りになりました。
ですから造られたものである私たちは、神の言を待ち望む存在です。私たちは神の語りかけに向かうものとして造られました。主イエス・キリストによって私たちに示された福音に向かって開かれた者として、私たちは命を与えられているのです。
ですので、私たちは今日も御言葉に耳を傾けます。神の語りかけこそが私たちの命そのものであると信じ、神に向かって生きるために、私たちは祈ります。神ご自身の霊によって私を照らしてくださって、神の言葉を聞き、神に従って生きる者にならせてください、と私たちは祈る。それが私たちの自然な生き方であるはずです。
「あなただけが地上のすべての王国の神であり」と言っています。この世界のすべてを、神はご自身の言によって創造なさいました。世界が神の語りかけを待っている。この世界のすべてがキリストの福音を待っている。神に向かう世界の憧れが、渇きが、あなたにも見えるでしょうか?

2025年8月28日木曜日

2025年8月28日の聖句

あなたは主の手の中で誉れある冠となり、神の手のひらの上で王冠となる。(イザヤ62:3)
(イエスの言葉)あなたがた招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、「友よ、もっと上席にお進みください」と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。(ルカ14:10)

主イエスのこのお言葉ですが、もしも、後で上席を勧められることを期待してとりあえず末席に座っているのだとしたら、何の意味もないのだと思います。主イエスは徹底して謙ることを求めておられる。人からの誉れを受けること、自分が重んじられるのを期待することを止めろ、とおっしゃっているのだと思います。人からの誉れを期待せず、ただ神の誉れとなることだけを求めよ、とおっしゃっているのではないでしょうか。
今日の旧約の御言葉には「あなたは主の手の中で誉れある冠となり、神の手のひらの上で王冠となる」と書かれています。なんと美しく、素晴らしい御言葉でしょうか。神が御手の中で私たちをご自身の誉れとしてくださる、と言っています。あまりにもったいない御言葉です。主は、神がくださるこの栄誉だけを求めるように、と教えてくださいました。
そうは言っても、神さまは見えませんし、人が褒めてくれる言葉や自分を重んじてくれる態度は気持ちの良いものです。やっぱりそれを求めてしまいます。そんな私たちの前に、ご自身が底の底まで徹底して謙り尽くされたお方がおられます。飼い葉桶に生まれ、十字架にまでかけられた神の子がおられます。キリストは、ご自分の歩まれた道へと私たちを招いておられるのです。

2025年8月27日水曜日

2025年8月27日の聖句

子をいとおしむ父のように、主は愛する者を懲らしめる。(箴言3:12)
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。(ルカ15:32)

「喜び祝うのは当然ではないか。」失われた息子の譬え話の父、すなわち神さまは、ここで「当然」とおっしゃいます。死んでいたのに生き返った息子、いなくなっていたのに見つかった「お前のあの弟」のことを喜び祝うのは当然ではないか。
ところが兄息子にとっては、父の当たり前は自分の当たり前ではありませんでした。帰って来た弟を拒み、息子の生還を喜ぶ父を受け入れられませんでした。兄から見て父は不公平で不公正でした。
「子をいとおしむ父のように」と聖書は言います。神は私たちを父のように慈しんでくださいます。それどころか、どんな人間の父よりももっと深くいとおしみ、深い憐れみをもって愛してくださいます。神さまのその深い御心は、私たちにとっては時として受け入れがたく、不公正です。神さまの愛は私たちにとっての「当然」からは大きく外れているのです。
神さまの「当然」とおっしゃる深い憐れみを喜ぶ私でありたい、と願います。神さまが、どんなものであっても愛して当たり前だとおっしゃるのを受け入れて、一緒に喜ぶ私でありたい、と願います。神の喜びが結び合わせ、一つとしてくださる共同体こそ、教会です。神が深い憐れみをもって喜んでくださっている者たち、それが私たちキリスト教会です。私たちからしたら常識を外れている神の喜びだけが私たちを生かしているのです。

2025年8月26日火曜日

2025年8月26日の聖句

主はあなたを守る方。
主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。
昼、太陽があなたを打つことはなく、
夜、月があなたを打つこともない。(詩編121:5~6)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。(フィレモン3)

まだまだ毎日暑い日が続きます。「昼、太陽があなたを打つことはなく」という御言葉が身に染みます。荒れ野を歩いた聖書の時代の人々も、同じように思っていたのではないかと思います。神が昼に照りつける太陽から私を守ってくださらなければ、どうして私は生きることができるだろう!
それだけではなく、夜の話もしています。「夜、月があなたを打つこともない」。月は、昼の太陽が肉体的な苦しみを象徴するのに対して、精神的な苦しみを象徴しているのではないか、と思います。心を幻惑し、不安定にする月の光。そういうイメージなのでしょう。しかしそこからも神が守ってくださる。だから、私は生きられる。
「主はあなたを守る方。主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。」主なる神に守られて、私たちは生きています。旧約聖書の時代に生きた人々も、主イエスと共に歩んだ弟子たちも、その後の2000年間の教会の歴史でも、無数の信仰者を神が陰となって覆い、昼の太陽からも夜の月からも守ってくださいました。そして、私たちのことも。
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。」あなたのためのキリストの恵みと平和が今日もありますように。心から祈ります。

2025年8月24日日曜日

2025年8月24日の聖句

今週の聖句:
幸いな者
主を神とする国民
主がご自分のものとして選んだ民。(詩編33:12)

今日の聖句:
私たちはあなたの民、あなたの牧場の羊です。
とこしえにあなたに感謝し
代々にあなたの誉れを語り伝えます。(詩編79:13)
(イエスの言葉)私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。(ヨハネ10:14)

私たちはあなたの牧場の羊、と言っています。こういう言葉を聞くと、どこか牧歌的で穏やかなイメージを抱いてしまいがちですが、実情はそうではないと思います。それは羊飼いの仕事が厳しい自然を相手にしながら羊を養うことであるということに思いをいたせば当然のことであるかもしれません。この詩編でも、今日の箇所に先立つ10節ではこのように言われています。
「なぜ、国々は言うのでしょうか。『彼らの神はどこにいるのか』と。国々の中で私たちに示してください。僕らの流した血に対する報復を。」
このような言葉に耳を傾けるだけで、どれほど激しく厳しい戦いの中に身をさらしていたのか、ということが伝わってきます。そのような中にあってもなお、「とこしえにあなたに感謝し、代々にあなたの誉れを語り伝えます」と告白している。それほど深く神を信頼している。
「私は良い羊飼いである」と語りかけてくださるキリストのお言葉の深みは、このような詩編の御言葉からもよく伝わってきます。しかもキリストは「私は羊をよく知っており、羊も私を知っている」と言われます。キリストと私たちとの篤い信頼関係を、主は本当に大切にしてくださる。何があっても、この関係が壊れてしまうことは決してない、とキリストは言ってくださるのです。

2025年8月23日土曜日

2025年8月23日の聖句

あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなく
いけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。
かえって、あなたの罪で私に労苦させ
あなたの過ちで私を疲れさせた。
私、この私は、私自身のために
あなたの背きの罪を消し去り
あなたの罪を思い起こすことはない。(イザヤ43:24~25)
イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」(ヨハネ5:17)

突然「菖蒲」が登場していて何のことかと戸惑いますが、出エジプト記第30章22節を見ると、菖蒲が最上の香料の一つとして登場しています。神に燃やして献げる香の一つでした。礼拝でのささげ物です。脂肪も同じように焼いて神に献げるものですが、こちらは明らかに高価な物です。菖蒲や脂肪は、それらを神に献げて礼拝するためのものです。
ところがそのように神を礼拝すること、自分の懐を痛めて神にささげ物をすることもしようとせず、自分の罪を悔い改めて神の前に身をかがめることもなく、神を疲れさせている、と言われています。私たちは、自分の罪を真剣に悔い、生き方を改めることをしているのか。そう問われ、神ご自身がその問に答えておられます。私たちは誰も、神が欲しておられる真剣さをもってそれをしていない、と。
しかし、神は今日も働いてくださっています。「私の父は今も働いておられる」とキリストは言われます。だから、キリストご自身も働いておられる。何のために?「あなたの背きを消し去り」と言われます。私たちの罪を消し去るため、私たちを救うために、神は今日も働いてくださっています。
この事実を、畏れをもって覚えましょう。神の御前に謙って、この事実を受け入れましょう。私たちよりも先に、神ご自身が働いてくださっています。私たちの思うところに先立って、神ご自身の御心によって神は働いてくださっています。「私、この私は、私自身のために、あなたの背きの罪を消し去り、あなたの罪を思い起こすことはない。」

2026年10月25日の聖句

今週の聖句: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:2) 今日の聖句: あなたの慈しみは命にもまさる恵み。(詩編63:4) 御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。(コロサイ1:...