2026年9月29日火曜日

2026年9月28日の聖句

私はあなたと、とこしえの契りを結ぼう。
私は正義と公正、慈しみと憐れみをもって
あなたと契りを結ぶ。(ホセア2:21)
(イエスの言葉)あなたがた私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。(ヨハネ15:16)

聖書を読むと、神さまの正義と公正、慈しみとお哀れみは、常に人間が持っているそれと衝突しています。私たちの考える「正義」は、自分の正義感の満足でしかありません。自分が悪と思う者が懲らしめられるのが正義、公正であるとすぐに考えてしまいます。私たちの抱く敵愾心がすっきりするときに私たちは正義が成し遂げられたと思い込む。しかし相手からしてみれば不正義以外の何ものでもないし、味方と思っている人の中にも不公正に苦しめられている人はいくらでもいるのではないでしょうか。
あるいは、私たちの考える慈しみや憐れみは、狭い範囲での依怙贔屓でしかなかったり、偽善を含んだ優しさでしかなかったりします。結局は自分が優先で、自分に対する他人の評判やその場の事しか考えようとしない浅さのようなものがつきまといます。
ところが、神さまの正義と公正、慈しみと憐れみはそうではない。神さまは貧しい人や弱い人を守り、その尊厳を重んじることを求めます。強い人が幅をきかせる「正義」を正義とはなさらず、神さまに造られた者として私たちを公正に扱われます。神さまは縁故や仲間内の慈しみや憐れみで物事をなあなあにはせず、キリストに示された慈しみと憐れみを最後まで貫かれます。私たちがこの神さまが良い、この公正や正義が良いといって選んだのではない。神のほうが私たちを選んで、ご自身の正義や憐れみの相手にしてくださったのです。

2026年9月27日日曜日

2026年9月27日の聖句

今週の聖句:
世に勝つ勝利、それは私たちの信仰です。(1ヨハネ5:4)

今日の聖句:
主はその偉大な御名のゆえに、ご自分の民をおろそかにはなさらない。(サムエル上12:22)
(イエスの祈り)私は彼らに御名を知らせました。また、これからも知らせます。私を愛してくださったあなたの愛が彼らの内にあり、私も彼らの内にいるようになるためです。(ヨハネ17:26)

主なる神さまは私たちにご自分のお名前を知らせてくださいました。旧約聖書を見ると、それは英語のアルファベットに置き換えると「YHWH」と現されるお名前です。私たちの人間関係に置き換えて考えてみると、自分の名を名乗るというのは相手との関係を築こうとしている、ということであると思います。通りすがりの人や、行きずりでその場限りのおしゃべり相手には名乗らないでしょう。自分の名前を名乗るのは、相手との人格的な関係を結ぼうとするときです。そうすると、神さまは私たちとそういう関係を結ぼうとして御自分のお名前を教えてくださった、ということではないでしょうか。そして主はその尊いお名前にかけて、私たちを決しておろそかにすることはなさらないのです。ご自分が名乗った、という事実に忠実でいらっしゃるのです。
神さまが私たちを愛してくださっているというのは、そういう人格的な関係の相手にしてくださった、ということではないでしょうか。私たちは神の名乗りという神の愛の内にいる。旧約においてYHWHと名乗られた方は、今、イエス・キリストの父というお名前を持って私たちに関わっておられます。神の大きな愛の中で、私たちはこの御名を愛し、慕い求めているのです。

2026年9月26日土曜日

2026年9月26日の聖句

その支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。(ゼカリヤ9:10)
この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。(マタイ24:14)

「御国の福音」と書いてあります。御国というのは、神の国です。この「国」という日本語に翻訳されている言葉には「支配」という意味もあります。神の国というのは神の支配という意味です。ですから「御国の福音」は、神さまの御支配の良き知らせ、ということです。神の支配が始まった、神の王としての統治が始まった。
「この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。」
神の国はもう私たちのところへ来ました。神がこの世界を統治しておられる。神はすべての民族、あらゆる人間の王でいらっしゃる。これこそ、世界中で宣言されるべき福音、良き知らせです。
私たちは、この福音を21世紀という時代に日本という国に生きる者として耳にし、信じています。今この国を支配しているのは、政治や行政の権力者なのか、民意なのか、資本なのか、あるいは他の別の人間的な力なのか。いずれにしても、そのようなあらゆる支配力は所詮は最後まで残るものではない。人間の力や支配は永遠の意味を持たない。永遠なのは、神の支配です。ですから私たちはへりくだって、神がキリストにあって教えてくださった正義と公正を求めなければならないのではないでしょうか。貧しい人や弱い人、片隅に追いやられた人を踏みにじる悪を拒まなければならないのではないでしょうか。神の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで至る。この国にも。私たちのところにも神の支配は及ぶのです。もうここに神の国は始まっているのです。それにふさわしい者として生きることこそ、神を信じるということではないでしょうか。

2026年9月25日金曜日

2026年9月25日の聖句

幸いな者、主を神とする民は。(詩編144:15)
同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ローマ10:12)

今日の新約の御言葉の直前には「ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。」と書かれています。これまで主なる神さまへの信仰は、ひとつのユダヤ人の民俗宗教でした。ところが主はユダヤ人だけにとっての神ではない。すべての人の神であり、すべての人の主です。ユダヤ人もギリシア人もなく、同じ主が、すべての人の主です。そしてご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるお方です。
私たちはこの点を曖昧にすべきではない、と思います。主なる神さまへの信仰は教会に行っている人だけにしか通用しない、あの人にはあの人の信念があるから立ち入るべきではない。今は、そうやっていろいろな物事を相対化する時代です。信仰や宗教など、真っ先に相対化されるべき事柄としてやり玉に挙げられている。一方で、独善的に「他のものは間違っている」と考えるのは、誤りでしょう。しかし他方で「何でも良い」「全部、結局は同じだ」というのも傲慢ではないでしょうか。他の宗教に対しても傲慢ですし、誰より神さまに対して傲慢です。
私たちは「同じ主が、すべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」という御言葉を前にして、神さまに対しても隣人に対してもへりくだらなければならない。身を低くしなければ聞くことのできない御言葉であると思います。私たちは何者でもない。そんな者を選んでご自分のものとしてくださったお方です。憐れみを求めて、私たちは主を呼び求める。その幸いはすべての人に開かれています。私たちはそのために仕える神と隣人の僕です。

2026年9月24日木曜日

2026年9月24日の聖句

あなたがたの周りに残された諸国民は、主である私が破壊された所を建て直し、荒廃させられた所に植物を植え直したことを知るようになる。(エゼキエル36:36)
(幻視者ヨハネの言葉)この後、私は数えきれぬほどの大群衆を見た。彼らはあらゆる国民、部族、民族、言葉の違う民から成り、白い衣を身にまとい、なつめやしの枝を手に持って、玉座と小羊の前に立っていた。彼らは声高らかに言った。「救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊とにある。」(黙示録7:9~10)

ヨハネが幻の内に仰ぎ見たのは、天上での礼拝の様子です。国籍も民族も言語も関わりなく、数えきれないほどのたくさんの人々が神の玉座の前で礼拝を献げている。壮大な幻です。この幻を見たヨハネは、今、パトモス島に流刑されていました。迫害され、囚人として孤島に流されていた。絶望的な状況です。しかし、神は彼に幻を与えてくださった。礼拝の幻です。それは実は、例え彼が絶海の孤島にいたとして常につながり続けている主の日の礼拝の幻です。私たちも、今神を礼拝するときに同じ天上の礼拝と共に神を賛美しているのです。「救いは、玉座におられる私たちの神と、小羊とにある!」
そう、私たちの救いは神とキリストにだけあります。そうであるから、パトモスにいようと日本にいようと、私たちは救われるのです。神は私たちを救ってくださる。
「あなたがたの周りに残された諸国民は、主である私が破壊された所を建て直し、荒廃させられた所に植物を植え直したことを知るようになる。」
この預言者エゼキエルの言葉も、荒廃と絶望の中で語られました。私たちの周囲の状況がどうであろうとも、神が御言葉を語るときそこに新しい出来事が始まります。神は新しくすばらしいことを始めてくださっている。救いの出来事を。あなたも、あなたの周りの人々も、あなたを憎んでいる人もあなたが憎んでいる人をも、神は救ってくださる。あなたが人生の中で一度も出会うことのない人、あなたが知らずに一生を終える人のことをも、神は救ってくださる。神の御業は想像を超えてはるかに大きいのです。

2026年9月23日の聖句

私の魂よ、主をたたえよ。
そのすべての計らいを忘れるな。(詩編103:2)
いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。(エフェソ5:20)

「主をたたえよ」と自分自身に呼びかけるときに、その根拠として「そのすべての計らいを忘れるな」と言っています。主がしてくださったすべてのこと、主の計らいを忘れることなく心に留めよ、そのゆえに主を賛美せよと言います。主がしてくださったこと、主の御業、主の恵み深いお取り扱いを心に留め続けるならば、そこに賛美が生まれるはずだ、と言うのです。
改めて考えたとき、私は、その点で自分がたくさんのことを見逃していると思わないわけにはいきません。主の恵みは私の周りにたくさんあるはずなのに、それに気付かず、主をたたえることの乏しい自分なのです。心柔らかく気付き、心軽やかに記憶する霊性がほしいと心から願います。
「いつも、あらゆることについて、私たちの主イエス・キリストの名により、父なる神に感謝しなさい。」
いつも、あらゆることについて感謝できるはずなのです。キリストの御名で、というところがポイントでしょう。キリストにあって神さまが私たちにしてくださっていることをよく心に留め、主を賛美し、感謝に満ちた一日を過ごしたいと願います。

2026年9月22日火曜日

2026年9月22日の聖句

こうして民は、自分たちが自ら選んで献げた物を喜んだ。(歴代誌上29:9)
キプロス島生まれのヨセフは、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。(使徒4:37)

今日は献金の話です。
カンバーランド長老教会の信仰告白にはこのような言葉があります。「神が人類に委ねたすべてのものを、ふさわしく定期的にささげることは献身の行為であり恵みの手段である。教会に対する、また教会を通してのささげものは、すべての信仰者の特権である。ささげものに対する聖書の指針である十一献金は信仰の冒険であり、豊かに報いられる業である。」
ここに「十一献金」と書いてあります。全収入の十分の一を神さまへのささげものとする、という意味です。聖書には、例えば創世記に出て来るヤコブがしたように、そういうささげものの指針が記されています。
今の社会は貨幣によって経済が成り立っていて、私たちの収入は多くの場合「お金」によります。(作物や収穫物のような「現物」ではない。)ですので、給料にしろ年金にしろ、自分が得たお金の中から適切な分を神さまに献げることは、大切な信仰の実践です。
そのときに大切なことは、信仰告白の別のところに「(ささげものの)動機は神の豊かな愛と憐れみに対する感謝であり、神からいただくあらゆる良い賜物を他の人々と分かち合いたいという願いが伴う」と書いてあるとおり、神の恵みへの感謝であり、隣人への愛です。
教会という共同体を支え、保つために、献金は欠かせません。教会という、他者と共に生き神を愛し神に仕える場所への具体的な愛を欠いたまま神を愛することはできません。自分に今与えられている収入の中から適正な献金額を自分で決めなければならないので、「いくら払えばいいのか」という話ではなく、神さまと隣人への愛をもって、与えられている物をふさわしく管理するという事ではないでしょうか。

2026年10月6日の聖句

私が恥をさらすことがないようにしてください。 私はあなたのもとに逃れます。(詩編25:20) (イエスの言葉)私が生きているので、あなたがたも生きることになる。(ヨハネ14:19) 今日の新約の御言葉は主イエスのお言葉ですが、直前にはこのように記されています。「私...