神さまって、どういう方だと思いますか?聖書を読むと、神さまは、私たちを捜している方です。神さまはどこか遠くにある「天国」で私たちのことを眺めているのではなくて、私たちのことを捜して、捜し回って、決して諦めない方です。あるとき、主イエス様が徴税人や罪人たちと一緒にいました。徴税人は税金を集めるのが仕事ですが、不正を働いて私腹を肥やしていたようです。「罪人」というのは具体的に何をしたのかここには書いてありませんが、きっと社会からのけ者にされていたのでしょう。その証拠に、彼らが主イエスと一緒にいるのを見て、正しい人たちはイエスに文句を言いました。「罪人たちを迎えて食事まで一緒にするなんて」と。それで、主イエス様は譬え話を始められます。ある人に二人の息子がいた。弟は父親に、自分が貰うことになっている財産の分け前がほしいと言います。それを手にするとすぐに遠い国に行って、放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまいました。彼が破産したとき、その地方は不景気のどん底で、豚のえさでも食べたいと思いましたが、誰も食べ物をくれません。そのどん底で彼はお父さんを思い出して、家に帰ります。すると、お父さんはまだ息子が遠くに居るのに見つけて、走り寄り、あたたかく迎えます。「この息子はいなくなっていたのに見つかった」と。それを聞いて怒ったのはお兄さんで、自分は父親のもとでずっと真面目に生きてきたのに、あいつが戻ってくると喜んで迎えてやるなんて。お兄さんは弟のことも父親のことも拒んで、家に入ろうともしない。父親は出てきてなだめます。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった。喜ぶのは当たり前だ」と言いました。この二人の息子がいるお父さんは、息子たちのことをずっと捜していました。下の息子がいなくなった日から、ずっと家の外で遠くを見ていたのでしょう。だから、帰ってきたとき、まだ遠く離れていたのに駈け寄ることができました。上の息子が怒って家に入らないときも、外に迎えに来ます。「喜ぶのは当たり前だ」と言いながら、お前も一緒に喜ぼうと説得します。優しいお父さんです。このお父さんの優しさ、お父さんの愛の「当たり前」、それが、息子たちを捜し続けるお父さんの姿になって現れているのだと思います。主イエス様がこの話をしたとき、父親の姿に託して神さまのことを話してくださいました。神さまは、良い子になれない私のことも、自分は正しいって自信を持ってしまって優しくなれない私のことも、愛してくださいます。愛することが当たり前だと言ってくださいます。神さまは優しい方です。考えられないほどに優しい方です。教会は、この神さまの愛の当たり前をみんなで喜ぶ場所です。弟息子が家出をしたとき、きっと、お父さんのところを離れれば、自分は本当に自分らしく生きられると思い込んでいたのではないかと私は思います。確かに、金がある内は楽しかったでしょう。でも、不景気になった時に分かったことは、本当は独りぼっちだったということです。お兄さんも、体は家にいましたが、心は弟と一緒で、家出していました。やっぱり、独りぼっちでした。神さまの愛の「当たり前」に、二人とも気付いていなかったからです。でも、神さまはそんな息子たちを愛するのを当たり前だといって捜しています。失敗しても、傷つけても、神さまは私たちを愛することを当たり前と言ってくださっています。
2025年1月16日の聖句
人間の高ぶる目は低くされ、人の高慢は卑しめられる。 その日には、主のみが高くされる。(イザヤ2:11) 神は知恵ある者を恥じ入らせるために、世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。また、神は世の取るに足りない者や軽んじられている者を選ばれました。...
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さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
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神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
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仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...