2022年8月7日日曜日

2022年8月7日の聖句

恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。安心しなさい、安心しなさい。(ダニエル10:19)
しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。(ヨハネ16:20)

今日の旧約聖書の御言葉は、本当に大いなる、偉大な平安の言葉です。「恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。安心しなさい、安心しなさい。」私は特に、この最後の「安心しなさい、安心しなさい」と二度繰り返しているところが好きです。一度言っただけで終わらせずに繰り返すのは、一回だけでは私たちの心がまだ安心できず、恐れに取りつかれているからではないでしょうか。神さまは、私たちを言い聞かせてくださいます。「安心しなさい、安心しなさい」と。本当に、ありがたいことです。小さな子どもに語りかけるように、主は私たちに語りかけてくださいます。
「恐れるな、神により愛されている人よ、平和があなたと共にあるように。」平和があなたと共にあるように、と言っています。私たちは今、平和でしょうか。「平和」は関係を表す言葉です。関係と言ったときに、聖書は三つの関係を考えています。神さまとの関係、他人との関係、自分との関係。どれかが平和でなくなってしまえば、他の関係も平和ではいられません。目に見える兄弟姉妹を憎んでいれば目に見えない神を愛することはできないし、神さまとの関係を無視して他者との関係を結ぶことはできません。自分自身を憎みながら他者を健全に愛することはできないし、神に愛されていることを無視したら自分を愛することもできない。「平和があなたと共にあるように」と、神さまは私たちに言ってくださいます。そこには、神様ご自身が私たちとの平和を打ち立てるという決意が込められています。キリストの愛を知っているから、私たちは平和に生きることができる。
「しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」今、悲しみに心を奪われてはいないでしょうか。悲しみのあまりに神さまが見えず、神さまの声を聞く耳を塞いではいないでしょうか。平和の主が私たちのところに来てくださっています。キリストが神の愛を携えて、私たちと出会うために来てくださっています。このキリストに向かって、今、心を開き、どうか主を迎え入れてください。

2022年8月6日土曜日

2022年8月6日の聖句

あなた自身ただ気をつけ、あなたの魂を守って、あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9)
あなたが福音をどのように受け、聞いたかを思い起こしなさい。そしてそれを守り、回心しなさい。(黙示録3:3)

旧約聖書の申命記は、モーセが40年間の荒れ野の度の最後に、これまで共に旅をしてきた民に謂わば遺言のようなかたちで語りかけた言葉が記録されています。モーセ自身は約束の地にはいることがない。荒れ野で死にます。自分の最期を前にして、約束の地に入っていく神の民に、信仰の言葉を語りかけています。
「あなた自身ただ気をつけ、あなたの魂を守って、あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい。」
あなたの目が見たことを忘れないようにしなさい、と言っています。これまで荒れ野で見た来た事のことでしょう。この荒れ野で神が私たちをどのように生かしてくださったのか、どうやって神が私たちを守ってきてくださったのか、そのことをあなたたちはよく見てきたはずだ。それを忘れないようにしなさい、とモーセは言います。それが、あなた自身に気をつけ、あなたの魂を守ることになるのだから、と言うのです。
荒れ野で神さまは、たとえばマナというパンでもって民を養ってくださいました。荒れ野の水がないところで、岩から水を湧き上がらせてくださったこともありました。40年の旅路の間、彼らの服や靴がすり切れて使えなくなってしまうこともありませんでした。彼が生きるために必要なものはすべて神が準備してくださっていた。モーセは言うのです。あなたたちはそのことをよく目の当たりにしてきたでしょう。神の守りを決して忘れないでいなさい、と。
今日の新約聖書はヨハネの黙示録の御言葉ですが、このように書かれています。「あなたが福音をどのように受け、聞いたかを思い起こしなさい。そしてそれを守り、回心しなさい。」ここでもやはり、思い起こしなさい、と言っています。ここでは先ほどよりも更に突っ込んで、どのように福音を受けたのかということを思い起こせ、と言うのです。恵みの中の恵み、究極の神の愛である福音をどのように受けたのか。それを思い起こし、そこに立ち帰れ、と。
今日、私たちを生かすのは神の恵みです。究極の神の愛である福音です。これを、あなたはどう受けましたか?あなたを生かす神の恵み、あなたのための神の愛を、あなたはどのように受け、どのようにこれまで生かされてきたのでしょうか。忘れずに、思い起こしてください。その事実が、あなたの魂を今日も守るのです。

2022年8月5日金曜日

2022年8月5日の聖句

私の神によって城壁を飛び越えることができます。(詩編18:30)
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。(2テモテ1:7)

今日の旧約聖書は詩編第18編の言葉です。表題として「主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から助け出した日、彼はこの歌の言葉を主に語った」となっています。サウルはダビデの前のイスラエルの王ですが、たいへん嫉妬深い人物で、王である自分よりも人望の篤いダビデを執拗に妬み、追い回し、命を狙っていました。ダビデはただただ神さまに助けを求めていました。
そのダビデの祈りの言葉です。「私の神によって城壁を飛び越えることができます。」サウルは城壁に守られた場所に住んでいます。ダビデは命からがら、野宿をしながら落ち延びていました。兵力は圧倒的に負けていますし、何よりも相手は王です。しかしダビデは言います。どんなに高い城壁も、どんなにたくさんの軍勢も、私は神にあって飛び越えることができる。神は必ず私を助けてくださる。そのことを固く信じていたのです。
使徒パウロは言います。「神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。」神さまが私に与えてくださったのは、臆病の霊ではない。様々な不安が鳥のように私たちに飛んできます。ダビデが陥ったように、非常につらい状況に追い込まれることもあるし、そういう周囲の状況のために意気消沈してしまうことも私たちにはあります。臆病の霊は私たちの中に巣を作って、住み着こうとします。そのようなとき、私たちは神さまの霊のもとに逃れます。力と愛と慈しみの霊です。神さまは私たちを強くいて、愛を下さいます。力強く、慎みをもって他者を愛することができるのは、神さまの霊が私たちの内に働いていてくださるからです。
臆病と愛は対立する。パウロは言います。神が私たちにお与えになったのは臆病の霊ではない、愛の霊だ。神への信頼と、意欲とをもって私たちは隣人を愛する。それこそが、苦難の日に生きる秘訣だからです。
ダビデも、自分を激しく攻撃するサウロを憎むのではなく、神がお立てになった王として尊重し続けました。この人は、愛する勇気を持っていたのです。私たちも同じ神の霊をいただいています。

2022年8月4日木曜日

2022年8月4日の聖句

ヒゼキヤはその手紙を読んだとき、主の家に上り、主の前にそれを拡げた。(列王記下19:14)
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(フィリピ4:6)

南王国ユダをヒゼキヤ王が治めていた時代のことです。北王国イスラエルは既にアッシリアという超大国に攻め滅ぼされてしまいました。アッシリアは主の声に聞き従わず、主との契約を破り、結局は破滅してしまったのです。ヒゼキヤ王は正しい人で、主の命令に従い、主も彼と共におられました。しかし、アッシリアの脅威はすさまじく、北王国が滅ぼされた後、その手は南王国にも伸ばされてきたのです。ヒゼキヤ王はこのままではもはやユダ国が滅ぼされてしまうと考え、ついに、主の神殿と王宮の宝物庫を開け、すべての銀と主の聖所の金の扉と柱までも供出してしまいました。しかしそれでも、アッシリアの侵攻は留まることを知らなかったのです・・・。
アッシリアから遣わされたラブ・シャケという使者は徹底的にユダ国を嘲り、恫喝し、信仰を否定しました。「この度、私が主ご自身と関わりなくこの場所を滅ぼしに攻め上ってきたと思うのか。この地に攻め上り、これを滅ぼせと私に言われたのは主ご自身なのだ」と、主なる神さまの名前を騙って、ユダを脅しにかかります。
更にラブ・シャケは言います。「お前はエルサレムがアッシリアの王の手に渡されることはないなどと言って、神に頼っているが、その神にだまされるな。実際お前は、アッシリアの王たちがすべての国々を滅ぼすために行ったことを聞いているであろう。自分だけは救い出されると言うのか。」お前たちだけが神に救い出されるわけがない、そもそも、お前の信じる神よりも我々の方が強いのだ、と彼は言ったのです。
今日の御言葉のヒゼキヤが主の前に拡げた手紙というのは、この恫喝の言葉が連ねられた手紙のことです。ヒゼキヤはこの最悪の状況をそのまま神さまの前に持っていき、拡げました。主の御名を騙って脅し、侮辱してくる者の言い様を、そのまま神さまに訴えて救いを求めたのです。ヒゼキヤは祈ります。「主よ、耳を傾けて聞いてください。主よ、目を開いてみてください」と。
今日の新約聖書の御言葉は言っています。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」私たちも、率直に祈りましょう。屈辱的な、あるいは脅威的な現実を、そのまま神さまの御前に差し出しましょう。神は「聞いてください、見てください」という私たちの祈りを必ず聞き、それに応えてくださる方です。

2022年8月3日水曜日

2022年8月3日の聖句

起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。(イザヤ60:1)
あなたがたは皆、光の子ども、昼のこどもなのです。(1テサロニケ5:5)

神学生のとき、夏期伝道実習を東大宮教会で受けさせて頂きました。この教会の長老に児童養護施設を立ち上げ、運営しておられる方がおられ、そこの子どもたちが毎週の教会学校に通っていました。光の子どもの家という施設です。
「あなたがたは皆、光の子ども、昼の子どもなのです。」聖書はそのようにはっきりと言います。今日のこの御言葉を読んだときに、あの光の子どもの家のことを思い出しました。私が研修に伺った20年前でも、もう既に、入居している子どもたちの入居理由のほとんどが保護者による虐待だと伺いました。大人だって心身の暴力を受ければ深く傷つきます。まして子どもが、しかも自分を愛してくれるはずの存在から繰り返し傷つけられてきて、どんなに痛んできたことかと思います。そういう子どもたちと共に生きるときに何を伝えるのかということを考えて、あなたたちは光の子どもだし、ここは光の子どもであるあなたたちの家なのだと伝えたかったのだろうと思います。そして、それは私たちも同じです。私たちも光の子どもたちです。
光の子どもたちである私たちに、聖書は言います。「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。」主の栄光の光に照らされているあなたたち光の子どもは、起きて、自ら光を放つことができるのだ、と言うのです。驚くべき言葉です。私のイメージでは、どちらかというと、私たちは太陽ではなく月のようであって、自分で光ることはできないけれど神さまの光を反射させることなら・・・と思っていました。しかし聖書は「起きよ、光を放て」と言うのです。あなた自身が光を放て、と言います。ただそれにはちゃんとそうできるだけの根拠がある。あなたの光が来たのだから。主の栄光があなたを照らしているのだから。だから、起きよ、光を放て!
私たちが神さまに愛される光の子として生きるというのは、すでに光を放っているということなのではないでしょうか。神さまの愛を証言したとしたら、それこそが私たちの光ではないでしょうか。私たちはどんなに悲しいときにも、孤独なときにも、どうしてもうまくいかないときにも、光の子どもです。主イエス・キリストの光が私たちの内面から照っている。私たち自身が光とされている。この聖書の言葉を大胆にも信じ、光の子として今日の日を生きていきましょう。

2022年8月2日火曜日

2022年8月2日の聖句

私たちにはみな、一人の父がいるのではないのか。私たちをつくられたのは、一人の神ではないのか。なぜ私たちはお互いに蔑むのか。(マラキ2:10)
謙虚になり、他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。(フィリピ2:3)

主イエスさまは私たちに「父よ」と祈ることを教えてくださいました。「アッバ、父よ」と、主イエス御自身が祈っておられた。その祈りを口伝えにして私たちにも教え、神が私たちも「父よ」と祈ることを喜んで受け入れてくださっていることを、主イエスは知らせてくださったのです。
主イエスが私たちに知らせてくださった父としての神さまのお姿は、慈しみと愛に満ちたお姿です。父の財産の分け前をもらったと思ったら遠い外国に出て行ってしまって、何もかも失って、惨めにとぼとぼ帰ってくる息子がまだ遠く離れていたのに走り寄って抱きしめる父です。その兄が、弟への父の憐れみを受け入れられずに外に立って怒っていたときに、兄のところへ出て行って一緒に喜ぼうと招きなだめてくださる父です。
私たちは、神さまの慈しみを信じ、神さまの愛を信じて「父よ」と祈ります。私たちが神の子とされたことは、神様ご自身が私たちの口に「父よ」と祈る言葉を授けてくださっている事実から分かります。
私たちにはみな、一人の父がいる。私たちは、一人の神に造られた。私たちに命を与え、私たちをこのような私としてつくり、今生かしてくださっているのは、同じ神さまです。このお方の御手の中で、私も、私の隣人も生かされている。その事実が私たちの間にある蔑みの心を取り去り、私たちを謙虚にするはずだ、と聖書は言います。神さまの慈しみによって、私たちは自分の心に救う傲慢や他人を見下す卑しさから解放されるのです。
「他人を自分自身よりも優れていると重んじなさい。」それは、自分はたいしたことないとわきまえることによってではなく、あるいは他の人を立てる奥ゆかしさによってではなく、私たちお互いをお造りになった神さまの父としての慈しみを信じるときに生まれます。父の慈愛だけが、あの弟息子の父を捨てる罪深さや、父の憐れみを拒む兄息子の傲慢さからの救いです。私たちは、神の子。「天にまします我らの父よ」と、祈る群れなのです。

2022年8月1日月曜日

2022年8月1日の聖句

平和、平和があるように
遠くにいる者にも、近くにいる者にも
「私は彼らを癒やそう」と主は言われる。(イザヤ57:19)
平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。(ローマ15:33)

平和。私たちは本当に切実に平和を必要としています。今日から8月になったということを考えるときに求める平和、という意味においてもそうです。それに、もっと身近な、家族や仲間たちとの平和、あるいはどうしてもわだかまりが残っている人との間の平和もあります。あらゆる人との間に平和がほしいのに、なかなかそれが実現しないというのが私たちの実際のところではないでしょうか。
主なる神さまはおっしゃいます。「私は彼らを癒やそう」と。私たちには神さまの癒やしが欠かせないからです。神さまに癒やされることなくして、私たちが平和に生きることはできないからです。私たちの隣人との間の平和には、どうしても、神さまの平和が必要なのです。
「平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。」あなたがた一同と共に、と言っています。私に個人的に平和の神が訪れるのではない。他の人から隔絶した私に、ひっそりと平和の神が来るというのではない。「平和の神があなたがた一同と共にいてくださいますように。」平和の神は、実に、私たちの間におられるのです。神さまは、私にとって気に触る人や、ちょっと厭な感じがする人、できれば顔を合わせたくない人との間におられる。そして、私たちがその人に和解の手を伸ばすとき、キリスト御自身がその手を取ってくださるのです。
平和。そのことを考えると、私には主イエス・キリストの憐れみにすがるしかないと痛切に思わされます。他に一体どうして私が平和に生きることができるのでしょうか。平和の神、主イエス・キリスト、このお方の真実と関係のないところで、一体どうして私に平和が訪れるのでしょうか。キリストが私のために血を流して、和解の手を伸ばしてくださいました。キリストが私のために肉を裂いて、私の平和になってくださいました。このお方こそが私の平和、私の救いなのです。

2026年9月18日の聖句

私の魂を牢獄から引き出してください。 あなたの名に感謝するために。(詩編142:8) ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた。(使徒12:5) 牢獄に入れられた使徒ペトロのための熱心な祈りが教会で捧げられていました。神はその祈...