2023年2月7日火曜日

2023年2月7日の聖句

雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:10~11)
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それは叶えられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。(ヨハネ15:7~8)

主イエス・キリストの言葉、神さまの御言葉は、出来事を起こします。天から降ってきた雨が大地を潤すように。それによって芽が出て生い茂り、種を結び、人や動物の糧となるように。神さまの御言葉が神さまの口から出たら、必ずそれは出来事を起こす。しっかり雨が降ったのに大地が潤わないことはありません。雨が降ったのに地面につく前に天に戻ってしまうことなどないのです。それと同じように、神さまの口から出た一つひとつの言葉も、神さまのもとに空しく戻っていくことはない。それが神さまの約束です。
ですから、神さまの言葉を蔑ろにして無視するというのは、雨が下から上に戻るほどに不自然でいびつなことです。「わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら」と主イエスはおっしゃいます。キリストが語りかけた言葉は私たちの内に必ずとどまって実を結ぶ。私たちがそれを妨げてしまうとしたら、それは逆さまなことです。
しかし、神さまの言葉は私たちよりも強い。御言葉が語られれば、必ず出来事が起こります。福音の出来事です。私たちを大地として御言葉は根を張って実を結び、神さまはそれによって栄光をお受けになる。私たちからしたら途方もない約束です。
私たちが自分を省みてみれば、本当に力は乏しく、手は空である上に短くて力もなく、途方に暮れるばかりです。自分がしなければならないこと、取り組まなければならない使命。それは大きくて途轍もなく、どうしていいのか分かりません。しかし、神さまの御言葉は必ず実りをもたらします。福音の実りです。神さまの愛の実です。御言葉です。御言葉が私たちの救いです。福音が私たちの内に出来事を起こし、私たちを新しくし、私たちが神の祝福の基として立ちうるようにしてくださるのです。

2023年2月6日月曜日

2023年2月6日の聖句

頑固で臆病なものは心。誰がそれを探り当てられようか。主なる私こそが心を調べ、腹の内を試し、その行いに応じてすべての人に与える。(エレミヤ17:9~10)
善を行い、倦むことのないようにしましょう。諦めずにいれば、キリストの時に至り、私たちも刈り取ることになるからです。(ガラテヤ6:9)

心を探り当てることができるのは、主なる神さまただお一人だけだと言います。表面的に見えていることや、普段の言葉や行動の端々に感じられるところで、私たちは簡単に人を判断してしまいがちです。それに、そういうことができる人をとても頭がいいと思いがちでもあります。洞察力や人間観察力が深いとびっくりしてしまうことも少なくありません。しかし、私たちの見えるところはほんの一部でしかありません。私たちの目に見える他人の言動を生み出す背景に何があるのか、私たちに知るよしもない思いや、心の中にあるものがあるに違いない。他の人の心への謙遜さは、とても大切なのだと思います。自戒を込めて、そのように思います。
「頑固で臆病なものは心。誰がそれを探り当てられようか。主なる私こそが心を調べ、腹の内を試し、その行いに応じてすべての人に与える。」主なる神さまだけが、人の心の中にあるものを本当にご存じです。頑固で臆病な心を本当に知っておられるのは神さま。自分でも知らない私のことを、神さまはご存じです。だから、私たちは他人の心だけではなく自分自身の心についても、神さまに対して謙遜になることが大切なのだと思います。私たちは自分自身のことだって知ったような顔はできないのです。
私たちは、自分のことを諦めてしまうのがもしかしたら早すぎるのかもしれない。仕方がないからとか、自分はこの程度だからと考えるのが、もしかしたら早すぎるのかもしれません。神さまは、私たちの心に神を求める憧れの心を植え付けてくださいました。善を行いたいという願いを与えてくださいました。私たちは自分でもそのことに気づいていないかもしれないし、その心を塞いでしまっているかもしれません。しかし、神さまが植え、神さまが育ててくださっている心が私たちの内にも根付いています。
「善を行い、倦むことのないようにしましょう。諦めずにいれば、キリストの時に至り、私たちも刈り取ることになるからです。」御言葉に応え、善を行い、キリストに向かって生きる願いを私たちに与えてくださったのは、神さまです。私以上に私のことをご存じでいてくださる方が、私のこころに神さまに向かう願いを与えてくださいました。倦むことなくキリストを求め、今日の一日を生きていきましょう。

2023年2月5日日曜日

2023年2月5日の聖句

今週の聖句:
私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、私たちはあなたの前に嘆願を献げるのです。(ダニエル9:18b)

今日の聖句:
幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ、と。(コヘレト7:14)
空の鳥を見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。まして、あなたがたは、鳥よりも優れた者ではないか。(マタイ6:26)

主イエスはおっしゃいます。「まして、あなたがたは」と!私たちの天の父である方、神さまは、空の鳥を養ってくださいます。鳥は自分で種を蒔くことも、刈り入れることも、倉に納めることもしません。ところが、私たちの天の父であるお方は鳥を養ってくださいます。鳥たちが生きているのは、神さまの深い慈しみがあってのことです。まして、あなたがたは!主イエスは言われるのです。空を飛ぶ鳥を養ってくださる神、天の父が、ましてあながたのことをお忘れになることがあろうか!
そこにあるのは完全な信頼です。神さまの、天の父としての慈しみへの信頼です。絶対の慈しみ、変わることのない愛への完全な信頼。主イエスさまのこの信仰に、私たちも招かれています。私たちはこれから先のことについて無知です。幸せな日もあれば不幸な日もあります。未来を知ることはできません。しかし、無知であってよい。見極められる必要はない。あなたの天の父がそれを備えてくださっているから。だから、幸せの日にはそれを楽しめばいい。明日のことを思い煩う必要はない。あなた方の天の父が、あなたに変わってあなたの明日を心配し、無限の慈しみを持ってあなたを養ってくださるから。それが聖書の私たちへのメッセージです。
今週の聖句では「私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに」とあります。神さまの慈しみには、私たちの側の理由がありません。神さまご自身の慈しみが私たちに向けられている。それはまったくの無償の贈り物です。神さまは天の父として、私たちに無限の慈しみを注いでくださっています。

2023年2月4日土曜日

2023年2月4日の聖句

ヤコブの誓い:そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます。(創世記28:22)
わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(2コリント9:6)

献金を考えるときに大切なことは、献金のあまりで生活をする、という考え方だと思います。お給料を頂いて一ヶ月生活をして、貯金もして、その余りを出すというのは献金ではない。お給料を頂いたらまず神さまに献げるものを取り分け、その余りで自分の生活をするという順序の転換が大事です。すべては神さまのもの。自分で稼いできたようであっても、働くことのできる健康も、働くための能力も、これまでの人生の巡り合わせも、全て神さまが与えてくださいました。私たちが生きるために必要なものの全部は、神さまが下さったものです。だから、献金は、自分の得たものの一部が神さまの取り分ということではなく、自分の手にあるすべては神のものだという信仰告白の表現です。ですから、今日の旧約にある「十分の一」というのも、後の九割は好きにしていいということではなく、全部が神のものであるという代表としての十分の一です。
神さまは私たちが生きるために必要なものを全部準備してくださっています。その基本的な信頼、それが私たちの生活に実際的な意味を持つ信仰です。
今日の旧約に書かれたヤコブの言葉は、ヤコブが兄エサウから祝福を奪い取り、家にいられなくなって遠い伯父の家に逃れたときのものです。ベテルでヤコブは神と出会いました。アブラハム、イサクに与えたこの土地をあなたとあなたの子孫に与えるという約束をヤコブ自身が聞きました。その場所でヤコブは神を礼拝し、「そこで私は、あなたが与えてくださるすべてのものの十分の一をあなたに献げます」と約束しました。この出来事が私たちに伝えているのは、献金は神の恵みへの応答だということです。ヤコブは家族とも一緒にいられなくなり、プラスマイナスゼロではなく、完全なマイナスの状態で神と出会いました。そのような私をも神は見捨てず、約束の中に置いてくださっているという事実を知らされて、自分自身を神に献げることを誓った。神の恵みが先にあります。
神さまは私たちに必要なものを必ず準備してくださいます。そのことを信じ、大胆に神さまの御前に生きていきましょう。必ず、神さまは天の窓を開いて私たちを恵んでくださいます。

2023年2月3日金曜日

2023年2月3日の聖句

あなたがたはどうしてすべてを逆さまにしてしまうのか。あたかも粘土が陶工に等しいとでも言うように、作品が自分の作者について「彼は私を造っていない」と言い、彫像が自らの造り手について「彼は何も理解していない」などと言うのか。(イザヤ29:16)
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エフェソ2:10)

私たちは神の作品。嬉しい言葉です。自分という存在への理解が変わります。私も神の作品なのだと私たちは信じて良いし、更にはそのことを知るべきです。私という存在の根本を支える事実です。
一口に作品と言っても、用途によってその尊卑は全然違います。尊い目的のために造られたものであれば作品自体も尊く扱われますが、賤しいことのための道具はそれ自体が賤しいものと見なされる。私たちは神の作品。何のために造られた作品なのか。私たちは「良い行いをするために」造られました。そうであるならば、私たちは神さまのお造りになった良い作品に違いありません。しかも、私たちはキリスト・イエスにあって造られました。わたしたちは神の作品として造られたとき、その最初からすでにキリスト・イエスにあって造られている。だから、わたしたちは根本から良いものとして頂いています。わたしたちがキリストにあって造られたのは悪しき業のためではなく良い業のため。私たちに命を与えられた根にあるもの、そして私たちが向かうべき先にあるもの、そのすべてがイエス・キリストご自身だと聖書は言います。すごいことです。
だから、神の作品として、神がお造りになった目的に適う私でいたいと願います。我が家では平日の朝はテレビで幼児番組が流れています。しばらく前にこんな歌が放映されていました。「あさおきられない、めざましどけい。さむがりな、ゆきだるま。むしいがにがてな、むしかご。はたらきものの、なまけもの。ひとりになりたい、いくら。あつまって、ひるねして、おやつたべて、でたこたえ。いいんじゃない、いいんじゃない、うん、いいんじゃない。またね。」とっても優しいメロディで、癒やし系の歌です。確かに誰かに押しつけられた「らしさ」を強要されのはつらいことです。無理を強いられて疲れ切ってしまうこともあります。ただ、私は同時に思います。他の人間や社会の要求ということではなく、神さまとの関わりで考えると、この歌は少し違うかな、と。私たちが神さまに造られた者としての自分らしさを失ってしまっては、「うん、いいんじゃない」とは言えない。神さまは私たちを尊いことのために造り、キリスト・イエスにあって命を下さいました。キリストにある私らしさ、神さまが愛を込めて造ってくださったものとしての私らしさは、祝福です。神の子、神に造って頂いたものであることを大事にしたい。そこにこそ私たちの本当の癒しがあるのですから。

2023年2月2日木曜日

2023年2月2日の聖句

わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている。(エレミヤ1:12)
イエスの言葉:私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。排するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)

今日の旧約聖書の「見張っている」というのはかなり強い言葉ですが、この強さも驚きすぎて拒まずに御言葉に耳を傾けたいと思います。
私たちはキリストの恵みによって、信仰を通して救われました。神さまの一方的な贈り物として、救いの恵みを頂きました。そこには何の条件もなく、また私たちの素質も見所も関係なく、ただただ神さまの憐れみと慈しみがあるだけです。聖書はそれを神の愛と言います。
神さまが私たちを救ってくださったのは、私たちがこの後はキリストにしたがって生きるためです。そして私たち救われた者の側から考えても、自然な思いとして神さまに喜んで頂きたいと願います。キリストの一方的なご慈愛で救って頂いたからこそ、キリストに喜んで頂きたいというのは自然な思いです。そしてキリストは、私たち救って頂いた者が生きるためのガイドラインを下さっています。新しい命へのキリストのご命令です。
「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。排するためではなく、完成するためである。」律法や預言者というのは、旧約聖書という意味です。主イエスさまは旧約聖書を廃止するためではなく、完成するために来られた。例えば主イエスは言われます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。きょうだいに腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。・・・。」主イエスは「殺すな」というのは文字通りの殺人だけではなく、きょうだいに腹を立てることから既に始まっている、と言われます。姦淫、離縁、偽りの誓い、復讐など、旧約聖書のいろいろな戒めについて、とても厳しく更新しておられる。
しかしそれは単に厳格にしたということではなく、律法や預言者教えていることの精神や急所を私たちに告げたのではないでしょうか。文字通りの殺人を犯さなければそれでいいというのではなく、怒りが私たちの心を覆うときに一体何が起きているのかを鋭く見ておられます。その上で、神さまに従って生きること、神の愛と憐れみに応答して生きるとはどういうことなのかを問い直しています。心を失った字面に縛られがちな私たちを、本当に神の愛の中で生きるとは何を意味するのかという神の恵みの事実に引き戻す。それがキリストのしておられることではないでしょうか。

2023年2月1日水曜日

2023年2月1日の聖句

今月の聖句:
サラは言った。「神は私を笑わせてくださいました。」(創世記21:6)

今日の聖句:
わたしに立ち帰れ、と万軍の主は言われる。そうすれば、わたしもあなたたちのもとに、立ち帰る。(ゼカリヤ1:3)
(主は)一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(2ペトロ3:9)

今月の聖句はアブラハムの妻サラの言葉です。アブラハムとサラには子どもがいませんでした。しかし神さまは、「私はあなたを大いなる国民とし、祝福し・・・」と約束しておられました。また、天に輝く数えきることのできない星を見せながら、「あなたの子孫はこのようになる」とおっしゃいました。ところが、いつまで経っても子どもは生まれませんでした。アブラハムは主の約束を笑いました。それでも主は約束を取り消すようなことはなさいませんでした。そしてやがて、主の使いが夫妻のところを訪れ、来年の今頃にサラは男の子を産んでいると言った。それを聞いてサラも笑いました。主の使いはそのことを咎めましたが、サラは笑ったことを認めませんでした。
そしてあの約束から一年後、サラは神の約束の通りに男の赤ちゃんを出産しました。この一年、アブラハムとサラはどんな思いをしながら過ごしてきたのでしょう。何度も語り合ったに違いありません。私たちは主の約束を笑った。主を侮り、信じなかった。少しずつ大きくなっていくサラのお腹を見つめながら、その原点に繰り返し立ち戻ったに違いありません。やがて約束の通りに息子が誕生したとき、サラは「神は私を笑わせてくださいました」と言った。息子はイサクと名づけられました。彼は笑う、という意味です。
主なる神さまは、アブラハムにもサラにも、ご自分を信じる道を準備してくださっていました。彼らが主を侮る笑いの中に沈んでいくことではなく、ご自分のもとに立ち返ることを望んでおられました。「わたしに立ち帰れ」、それは聖書が一貫して告げる神さまから私たちへのメッセージです。「わたしに立ち帰れ。」主なる神さまは、今日、私たちにも呼びかけておられます。
それは、私たちの一人でも滅びてしまうことは神さまの御心ではないからです。「わたしに立ち帰れ」、それが今日私たちが聞く神のメッセージです。

2026年5月1日の聖句

5月の聖句: 私たちはこの希望を、魂のための安全で確かな錨として携えているのです。(ヘブライ6:19) 今日の聖句: 必ずあなたは私を畏れ、 懲らしめを受け入れる。(ゼファニヤ3:7) 主よ、誰があなたの名を畏れず 崇めずにおられましょう。 聖なる...