2023年12月21日木曜日

2023年12月21日の聖句

私があなたがたの中に霊を与えると、あなたがたは生き返る。私はあなたがたを自分の土地に安住させる。その時、あなたがたは主である私を知るようになる。(エゼキエル37:14)
主の霊のあるところには自由があります。(2コリント3:17)

主の霊を頂くとき、私たちは主を知る。どうして私たちに、主がご自分の霊を送ってくださることなしに主を知ることができるでしょうか。主を知り、たった一言「父よ」と私たちが口にするとき、そこには主なる神さまご自身の霊のお働きがあります。
信仰は、私たちの内在的な力ではない。私たちの決心や強い心の賜物ではありません。神が下さるものです。神が与えてくださる、神の賜物です。主を求める心、信じる心、祈りたいという願い、それは神が与えてくださる聖霊のお働きです。私たちはどんなに拙くても、どんなにたどたどしくても、小さな祈りの言葉が与えられている事実に、主の霊がこの私にも働いてくださっていることの確かな証しを見ることが許されている。
「主の霊のあるところには自由があります。」神の霊を頂いた私たちは、自由です。自由な神の子です。奴隷ではない。言い換えれば、本当に自分らしく生きることができる。神さまの御名をあがめ、神を信じ、神の子として、私たちは生かされています。
聖霊は、私にもまた与えられていて、キリストとそのすべてのよき賜物にあずからせ、私を慰め、永遠に至るまで私と共にいてくださるのです。

2023年12月20日水曜日

2023年12月20日の聖句

主をたたえよ。主はあなたの過ちをすべて赦し、あなたの病をすべて癒やす方。(詩編103:2,3)
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10)

今日の新約聖書の御言葉に「宥めの献げ物」という言葉があります。旧約聖書のレビ記に、この献げ物について書かれています。欠陥のない雄牛を焼き尽くして献げる。それはその人自身の代わりに献げられるいけにえ、贖いとなる。その雄牛は切り分けられ、頭と脂肪が祭壇で焼かれます。「祭司はそのすべてを祭壇で焼いて煙にする。これは焼き尽くすいけにえである。すなわち、主への火による献げ物、宥めの香りである。(レビ1:9)」
この献げ物は、その人自身の代わりとして献げられます。自分自身を神さまに献げる象徴として、傷や欠陥のない雄牛、つまり最上のものを神さまに献げる。宥めというのは、その献げ物を焼くときの香りのこと。自分自身を献げるという徴の意味を持つ香りです。
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」主イエスご自身が献げ物になってくださったのです。私たち自身の代わりとして、キリストが宥めの献げ物になってくださった。神が私たちをご自分のものとして贖うために、御子を与えてくださったのです。
これは、考えられないほどすごいことです。先ほどのレビ記では、私たちの持つ最上の物である雄牛を自分自身の代わりとして献げよ、と命じられていました。一番良い物を献げる。ところが主イエスさまは、私たちの持つ最上の物ではない。神さまのお子様です。神様ご自身が私たちのために宥めの献げ物を準備してくださった。なぜなら、私たちには十分な宥めを献げることができないからです。私たちはどんなに最上の物を準備しようとも的外れになってしまう。神への愛をどんなに真摯に献げようとも、私たちの愛は偽りでしかない。それが、私たちが罪人だということです。罪の存在である以上、私たちがすることはどこか必ずねじ曲がっている。だから、神ご自身が最上の宥めを準備してくださいました。私たちを罪から贖ってご自分のものとするために、神がすべてを準備してくださった。それがクリスマスに起こった出来事なのです。

2023年12月19日火曜日

2023年12月19日の聖句

主の目は正しき人に注がれ、その耳は彼らの叫びを聞く。(詩編34:16)
希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈りなさい。(ローマ12:12)

苦難に耐えることができるのは、何らかの見通しをもつことができるからだと思います。今は辛いけれど、この先どうにかなる。今は悲しけれど、そんな自分に寄り添ってくれる人もいる。この苦しいことにも何かの意味がある。そのような何らかの見通しを抱くことができると、希望が湧いてきます。
しかし、見通しの立たない苦難は本当に辛い。八方塞がりとか閉塞感とか四面楚歌とか、その種の言葉で表すしかないようなときは、本当に厳しく辛いことです。
聖書は「希望をもって喜び、苦難に耐え、たゆまず祈りなさい」と言います。一体どうしたら希望をもって喜ぶことができ、苦難に耐えることができ、たゆまず祈れるのか。一体どうしたらそのように生きることができるのか。
私たちキリスト者にとって、その根拠は究極的には一つしかないと思います。「主の目は正しき人に注がれ、その耳は彼らの叫びを聞く。」主が目を注いでくださっていること、主が耳を傾けて聞いてくださっていること。その事実への信頼。ただそれだけが私たちに希望と喜びを与え、忍耐を与え、祈る言葉を与えるのではないでしょうか。
主なる神さまが私たちに目を注いでくださっていること、耳を傾けてわたしの祈りをも聞いてくださっていること、その証拠は、ただ主イエス・キリストにあります。神さまのお子様が私たちのところにまで降ってきてくださった。そのクリスマスの出来事こそ、主の目が、主の耳が私たちに向けられている証しです。
だから、私たちは苦難の日にも希望をもって喜びうる。忍耐することができるし、祈れる。見通しがあるからです。主の目が、主の耳が私に向けられているということを、信仰をもって見通すことが許されています。その事実への信頼が私たちに望みの道を拓くのです。

2023年12月18日月曜日

2023年12月18日の聖句

神は時と時期を変え、王を退け、王を立てます。(ダニエル2:21)
主は権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げる。(ルカ1:52)

あまりにも強大な国やその権力を見ると、これはもう永遠に続くのではないかと思ってしまいます。福音書が書かれた時代であれば、ローマでしょうか。この時代は今でも世界史で「ローマの平和」とまで言われるほどの時代でした。この後も何百年もローマの支配は続きます。
ダニエル書第2章の時代は、バビロンという国が中近東を支配していました。ユダを滅ぼした国でもあります。これも今での伝えられるほどの超大国です。
しかし、私たちは歴史として知っています。どんなに絶大な権力を誇り、永遠に続くのではないかと思われるような国々であっても、いつかは滅んでいきます。バビロンは滅び、ペルシアという国が勃興し、しかしそれも滅び、ギリシアの時代が訪れ、やがてローマの時代になる。しかしローマだって永遠の支配者ではない。やがてはローマ凋落の時代を迎えることになります。
人間の支配する力の絶大さや、それを支えるシステムの強固さを目の当たりにすると、私たちはついうっかりそれが絶対で揺るぎないもので、しかも正しいものなのだと思い込んでしまいます。しかしそうではありません。「主は権力ある者をその座から引き降ろし、低い者を高く上げる。」なぜなら、まことの王、本当の支配者は、この世界をお造りになった神さまだからです。
しかも神さまはこの世の支配者を引きずり下ろすだけではなく、低い者を高く上げ、貧しい者を満たし、飢えた者を養ってくださるお方です。私たちは人間の造り上げたいかなる力も、人間の主張する正しさも、頭から信頼してしまうことはありません。神の正義に適っているか。低い者を高く上げる神さまのなさり方にふさわしいのか。私たちにはそれを見抜く賢さが必要なのではないでしょうか。
私たちは、この世界に、証し人として派遣されています。主イエス・キリストが愛した一人ひとりを愛し、重んじ、尊ぶために、キリストが私たちを送り出してくださったのです。

2023年12月17日日曜日

2023年12月17日の聖句

今週の聖句:
主の道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びて来られる。(イザヤ書40:3,10)

今日の聖句:
神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、侮ることはない。(民数記23:19)
(パウロの手紙)神は真実な方です。だから、あなたがたに向けた私たちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。私はシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。(2コリント1:18~19)

神は真実な方。偽ることも、侮ることもない方。「然り」だけが実現したのであって、「然り」と同時に「否」ということなどはない、と言います。私たちの周りに溢れている言葉はそうではありません。「然り」と言いながら「否」と言い、「否」と言いながら「然り」と平気で言います。不真実な言葉が溢れています。
以前、本で「ダブルバインド」という言葉を知りました。バインドというのは、拘束とか束縛という意味です。二重の拘束。例えばこのようなことです。普段は自分で考えて行動しなさいと言っておきながら、実際に相手が自分の価値観から外れたことをすると厳しく怒る。あるいは「分からないことがあったら聞いて」と言っておきながら、実際に尋ねられると「そんなことも分からないのか」と怒られる。そういう矛盾した二つの命令をダブルバインドと呼ぶ。これをされてしまうと、相手はどうやっても怒られるしかないので、自分で考えたり判断したりすることを放棄し、相手に怒られないために唯々諾々と言うことを聞いたり、ご機嫌を取るしかなくなってしまいます。親と子の間でも、上司と部下との間でも、力関係がある人間関係であればどこででも起こりうる現象です。これは「然り」と「否」が同時に語られている。不真実な言葉です。
主イエスさまはそのようなお方ではない。キリストは「然り」を実現してくださった。神の大いなる「然り」を。私たちの存在そのものへの「然り」です。「あなたは生きていていい」という「然り」です。私たちの「否」、つまり罪を打ち破り、大いなる「然り」をもって赦し、包み、新しく生かしてくださる。このような主イエス・キリストの真実が私たちを救うのです。

2023年12月16日土曜日

2023年12月16日の聖句

(主の民への言葉)私は穀物と新しいぶどう酒、また新しいオリーブ油を送り、あなたがたを満ち足らせることができる。(ヨエル2:19)
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。(マタイ14:19~20)

五つのパンと二匹の魚によってお腹をすかせた5000人の群衆を養ってくださった主イエスさま。この出来事は群衆をご覧になった主イエスの深い憐れみから始まっていました。主イエスは私たちをご覧になって憐れみを覚え、私たちを養うためにご自分の神の子としての力を発揮してくださるお方です。
実はこの奇跡ですが、聖書のどういうところに記録されているのかという文脈を確かめてみると、とても大事なことが分かります。この話の直前に書かれているのは、ヘロデが洗礼者ヨハネを殺した、という報告です。ヘロデは自分の娘に洗礼者ヨハネの首を要求されてそれに従い、ヨハネを殺しました。その直後にこの奇跡が記録されています。つまり、主イエスは神さまに仕えるヨハネを殺す世界で苦しみ、悩み、飢える民を養ってくださった。ご自分の神の子としての力を、このような世界で深く損なわれた人々を回復するために発揮してくださったのです。
「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで祝福し、パンを裂いて弟子たちにお渡しになり、弟子たちはそれを群衆に配った。」この主イエスの所作は、聖餐を思い起こさせます。主イエスがご自分の体と言ってパンを裂き、ご自分の血と言って杯を与えてくださった。私たちはキリストの体と血によって生かされている。この世界の中、神は私たちをご自分の民として回復するために、御子の下さる食べ物によって養ってくださる。私たちは主の備えてくださる食事に招かれているのです。

2023年12月15日金曜日

2023年12月15日の聖句

船で海に出た人々は、主の業、その奇しき業を見た。主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。(詩編107:23,24,31)
私たちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。島の住民は大変親切にしてくれた。たき火をたいて、私たち一同を迎えてくれたのである。(使徒28:1~2)

今日の新約聖書の御言葉は、パウロが乗った船が難破したときのことを伝えています。パウロは当局に捕らえられて、ローマまで護送されることになりました。海路でローマへ向かう。その途中で船が暴風に襲われて難破してしまった。船は大きく損傷しており、命の危険にさらされるような出来事でした。海上を漂う船が遂に上陸したのが、地中海に浮かぶ小さな島、マルタ島だったのです。
その島の住民との出会いは非常に印象深いものでした。人々は難船のために漂着した者たちを親切にもてなしてくれた。(この後にパウロを巡る不思議な出来事がありましたが、その話はまたの機会に。)島民たちが助けてくれたお陰で、一行は命をつなぎ止めることができたのです。
神さまは、このような不思議な出会いを通して私たちのための慈しみの業をなしてくださいます。「船で海に出た人々は、主の業、その奇しき業を見た。主に感謝せよ。その慈しみと、人の子らになされた奇しき業のゆえに。」具体的な目の前の人との出会いを通して、神さまは慈しみの御業を行ってくださる。
ですから、私たちは一つひとつの出会いを大切にし、尊びたいと願います。もうどうしようもないというときに、そこで出会った一人の人の手を通して、神さまは私たちを慈しみ深く取り扱ってくださいます。神さまはあらゆる手を尽くして私たちを助け、支えてくださいます。そういう神の恵みを発見する信仰の眼を開いていたい。そう願います。

2026年10月2日の聖句

主よ、お話しください。僕は聞いております。(サムエル上3:9) (イエスの言葉)私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイ7:24) 主イエスは私たちに、ご自分の言葉を聞くこと、そして聞くだけではなくそれに従って実際に行うこ...