2025年5月7日水曜日

2025年5月6日の聖句

主はヨブに答えられた。「私が地の基を据え、海に向かって告げたとき、あなたはどこにいたのか。『ここまで来てもよいが、超えてはならない。あなたの高ぶる波はここで止められる』」と。(ヨブ記38:4,11)
イエスは起き上がって風と湖とをお叱りになった。人々は驚いて、「一体、この方はどういう人なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。(マタイ8:26~27)

ガリラヤ湖を進む小さな舟。風と波とに襲われ、どうすることもできません。私たちキリスト教会の姿そのものです。私たちに襲いかかるいろいろな困難や苦しみを前に、私たちにできることはただ一つです。キリストはこの風や湖よりも大いなるお方、権威あるお方という事実を信じることです。「一体、この方はどういう人なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。
弟子たちは主イエスを信じ切ることができませんでした。これは私たちの物語です。不信仰に心を奪われてしまう私たち。主イエスよりもこの世に吹く風や波の方が強いと信じ込んでしまう私たち。主イエスはそういう私たちの不信仰を吹き飛ばすようにして御言葉を語ります。「イエスは起き上がって風と湖とをお叱りになった!」
神様は、この世界をお造りになったお方です。私たちの思いを遙かに超えたところで神ご自身が力を振るっておられる。地の基を据え、海の範囲を決めることのできるお方が私たちを御心に留めてくださって、私たちの髪の毛の一本までも数えていてくださいます。このお方の力によって今日の私も生かされているという事実を今信じましょう。

2025年5月6日火曜日

2025年5月6日の聖句

遠くにいる者よ、私のなしたことを聞け。
近くにいる者よ、私の力を聞け。(イザヤ33:13)
イエスはマルタに言った。「もし信じるなら、神の栄光を見られると言ったではないか」と言われた。(ヨハネ11:40)

「もし信じるなら」と主イエスはマルタに語りかけます。
この時マルタは兄弟ラザロを亡くしたばかりでした。悲しみに暮れて、主イエスに泣きすがって「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。愛する弟を亡くしたマルタに、主イエスはおっしゃいます。「もし信じるなら」と。
主イエスが私たちに今求めているのは、信じることです。主イエスを信じる。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は、決してし宇事はない。このことを信じるか」と主イエスは私たちに問いかけます。あなたは、主イエスを信じますか?
これまで、無数のキリスト者たちがこのイエスの言葉を信じ、そして地上の命を終えていきました。この御言葉の中で家族を看取ってきました。イエスこそ復活であり、命であるという福音の知らせの中で、永遠の命を信じて、命を神の御手に委ねたのです。あなたは、イエスを信じますか?
神様はおっしゃいます。「私のなしたことを聞け」、「私の力を聞け」。主なる神様の御業に耳を傾け、キリストを十字架に上げた神の御業を信じましょう。キリストこそ私たちの命、私たちの救いです。

2025年5月5日月曜日

2025年5月5日の聖句

主はとこしえに拒まれることはない。
たとえ苦しみを与えても、豊かな慈しみによって憐れんでくださる。(哀歌3:31~32)
ザカリアは書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。(ルカ1:63~64)

主の慈しみと憐れみこそ、私たちの救いです。「主はとこしえに拒まれることはない。たとえ苦しみを与えても、豊かな慈しみによって憐れんでくださる。」例え私たちに苦しみが襲ってくるときにも、神様はとこしえに私たちを拒むことはなさいません。私たちの苦しみは一時のものに過ぎない。私たちは主イエスさまにあってそう信じます。
今日の新約の御言葉は祭司ザカリアの話です。洗礼者ヨハネの父となったザカリアですが、妻の懐妊を告げる天使の言葉を信じることができませんでした。彼はそのために息子が生まれるまでの間、口がきけなくなりました。
やがて息子が生まれたとき、ザカリアは息子を天使に言われたとおりにヨハネと名付けました。するとたちまちものが言えるようになったザカリアは、最初に何を話し始めたのかと言えば、「神をほめたたえた」というのです。何ヶ月も口をきけなくなり、そこから解放されたザカリアの最初の言葉は、神をたたえる言葉でした。
「主はとこしえに拒まれることはない。たとえ苦しみを与えても、豊かな慈しみによって憐れんでくださる。」主の慈しみと憐れみをたたえて、私たちも神を賛美します。私たちは神を賛美することで、今この時を生きていきます。

2025年5月4日日曜日

2025年5月4日の聖句

今週の聖句:
私は良い羊飼いである。羊は私の声を聞き分け、従う。(ヨハネ10:11a,27~28a)

今日の聖句:
主は私の力、私の賛美、私の救いとなられた。(出エジプト記15:2)
(マリアの言葉)主は御腕をもって力を振るい、思い上がる者を追い散らしました。(ルカ1:51)

主の御腕が振るわれるとき、思い上がる者が追い散らされる。母マリアの賛歌です。主イエスが胎に宿ったとき、マリアはこの言葉を口に上らせました。
「主は御腕をもって力を振るい」と言いますが、実際に起きている出来事は小さな赤ちゃんが一人の女性に宿っている、ということです。それがどんなに奇跡的な仕方であり、マリアにとって驚くべきことであったとしても、周りから見れば平凡な妊娠にしか見えません。多少スキャンダラスに見えるかもしれませんが、噂はいつか忘れられます。そのお方がやがて生まれ、生き、なさったことはどうでしょう。貧しい人や罪人と呼ばれている人の友になられました。病気の人を癒やし、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出しました。一人ひとりにとっては大きな事ですが、それ自体は世界史に残るような大事件には見えません。最後には、たくさんの人から罵声を浴びせられながら十字架の上で磔にされました。一人の犯罪人と呼ばれました。
「主は御腕をもって力を振るい」というその力は、私たちの目から見ると非力で、頼りなく、小さなものです。しかしここに確かに神の御力が働いている。このお方は復活し、天に上げられ、神の右におられます。十字架に掛けられた方こそまことの神の子。その事実は私たちの思い上がりを打ち砕き、傲慢な者を追い散らします。
キリストの前にへりくだりましょう。小さくなられた神のこの前に身を低くしましょう。この方こそ私たちの力、私たちの賛美、私たちの救いです。

2025年5月3日土曜日

2025年5月3日の聖句

主よ、貪欲ではなく、あなたの証しに私の心を傾けさせてください。(詩編119:36)
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教える際には、高潔で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、私たちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。(テトス2:7~8)

「あなたの証し」。すなわち、神様の御言葉のことでしょう。聖書が語りかける御言葉、キリストの言葉、福音のことです。私たちはキリストの言葉にこそ心を傾けて生きていきたいと願っています。キリストの言葉に従い、福音の言葉に生きていきたいと願っています。ところが、それとは別のものが心を誘い、私たちの思いを奪い取っています。今日の旧約の御言葉は、その正体を「貪欲」と指摘しています。貪欲が私の心を盗み取って、私が主の証しに傾いて生きることを邪魔している。この指摘は鋭い、と思います。
貪欲は本当に恐ろしい力を持っています。私たちを呑み込んでしまう。現代社会のシステムは、私たちの貪欲をくすぐります。貪欲が社会を動かしています。消費や所有が社会の原動力になっている。消費できることが豊かさとされ、他人の所有を羨むことで社会が動いていきます。ところが、聖書にしてみれば、それは貪欲に他ならない。そして、偶像礼拝の正体は貪欲です。私たちの欲望がまるで神のような顔をしている。
今日の新約の御言葉は、健全な言葉と良い行いを求めます。キリストの言葉に従って生きることを私たちに求める。キリストは、私たちのためにすべてを捨ててくださった方です。神の子でいらっしゃる方が降ってきて、枕するところもなく生きてくださいました。私たちは誰に従うのでしょうか。自分の欲望なのか。それとも、私たちのためにすべてを手放した神の子なのか。私たちの健全さは、キリストのもとにあります。

2025年5月2日金曜日

2025年5月2日の聖句

(主の言葉)(私は)あなたを見放すことなく、あなたを見捨てることもない。(ヨシュア1:5)
すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。(マタイ3:16)

今日の旧約の御言葉は、ヨシュアに語りかけた神さまの御言葉です。ヨシュアはモーセのあとを引き継いで、エジプトを脱出して荒れ野の旅をした民のリーダーになりました。これからいよいよその地へ入っていく、という時です。なんと重い責任でしょう。なんと大変な務めでしょう。人間的に考えれば、とても耐えられるものではありません。そんなヨシュアを支えたのは、「あなたを見放すことなく、あなたを見捨てることもない」と言ってくださる主なる神様だけです。神が共にいてくださる。その事実がヨシュアを支えたのです。
主イエスご自身が、それによって歩まれたお方です。「すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。」神の霊がご自分の上に降って来られた。神の霊が共にいてくださり、主イエスをいつも支えておられた。その事実によって、主イエスは歩んでおられます。父と聖霊とがいつも共におられる。その事実が主イエスをその使命に生かしておられたのです。
増して私たちは、この事実以外の一体何を寄る辺とすればよいのでしょうか。そして、私たちもこの神の力強い約束の下に生きることが許されています。主イエス・キリストの恵みと祝福が、聖霊によって今日もあなたと共にありますように。

2025年5月1日木曜日

2025年5月1日の聖句

5月の聖句:
主よ、私はあなたを呼び求めます。火が荒れ野の牧草地を焼き尽くし、炎が野の木々をすべてなめ尽くしたのです。野の獣でさえあなたをあえぎ求めます。川床の水は涸れてしまったからです。(ヨエル1:19~20)

今日の聖句:
その御業はすべて真実であり、その道は正しく、高ぶって歩む者は低くされる。(ダニエル4:34)
イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マルコ15:39)

5月の聖句として与えられている御言葉は、非常に厳しい神の裁きを語る箇所です。火に牧草地が焼き尽くされ、炎に木々がなめ尽くされてしまう。戦争による災禍のことでしょうか。しかし単なる災いではなく、私たち人間の罪が招く災いです。
今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが十字架の上で死なれたお姿を見た百人隊長が「まことに、この人は神の子だった」と口にしたところです。預言者ヨエルが目の当たりにした裁きよりもずっと深刻な裁きをお受けになった主イエス・キリスト。十字架に掛けられ、神に棄てられて死なれた。まさにそのお姿を目の当たりにした異邦人の隊長が「この人は神の子」と言わないわけにはいかなかったのです。
私たちの信じる神の子は、神に裁かれたお方です。私に代わって、私のために裁かれたお方。神の御業は真実です。私たちは十字架につけられたキリストが私に変わって裁かれたことで救われた。その事実を畏れをもって受け止め、へりくだって祈りの道を歩みたい、と願います。

2026年8月4日の聖句

(主の言葉)あなたがを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。(出エジプト記19:4) これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:10) 今日の旧約聖書の御言葉は、エジプトという奴隷の家から解放してくだ...