2025年10月6日月曜日

2025年10月7日の聖句

主よ、あなたはどのようなこともおできになり、
あなたの企てを妨げることはできません。(ヨブ記42:2)
神にできないことは何一つない。(ルカ1:37)

神には、どのようなこともおできになります。だからと言って、子どものような屁理屈の話ではありません。「神には、自分が持ち上げられない岩を造ることができるのか?」のような・・・。そのようなどうしようもない話ではない。他でもない私たちにとって真剣な事柄です。「神にはできないことは何一つない。」私たちを救うために、神はどのようなことでもしてくださるのです。
「神にできないことは何一つない。」これは、天使ガブリエルがおとめマリアに告げた言葉です。まだ男の人を知らない女性の胎に子が宿る。全くあり得ないファンタジーの世界、おとぎ話の類。人々はそう言うでしょう。ところが天使は断乎として言います。「神にできないことは何一つない。」神の子救い主は、人の手によらず、人の力や思惑によらず、ただ神の愛に満ちた聖霊の力によっておとめマリアの胎に宿った。神は、私たちを罪から救うためであればどのようなことでもしてくださいます。私たちの真の王であるキリストが私たちを救うために、神はご自身の力を振るってくださったのです。
「神にできないことは何一つない。」神の力は、人間の悪や罪にも阻むことはできません。例え神の独り子を十字架にかけて殺そうとも、神の愛の御心は果たされたのです。神は、私たちを捕らえて放さない悪と罪の力から私たちを救うために、どのようなこともしてくださいます。私たちに愛する御子を与え、十字架にかけられたこのお方を復活させるということさえも神は成し遂げてくださる。
「主よ、あなたはどのようなこともおできになり、あなたの企てを妨げることはできません。」この神の企ては、今日も私たちのために完成へと進んでいるのです。

2025年10月6日の聖句

私は信じます。生ける者の地で主の恵みにまみえることを。(詩編27:13)
信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。(ヤコブ5:15)

私たちキリスト教会は、祈りの群れです。今日の新約聖書ですが、これに先立つ14節から改めて引用すると、このように書かれています。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。」ここには、「長老たちを招き」と書いてあります。「招く」です。招いて、「私のために祈ってください」と願う。とても積極的な姿勢だと思います。積極的に祈りを求め、そして長老がその人のために祈る、という「祈りによって形づくられる共同体」です。
招かれ、祈りを求められた教会の仲間は、その人のために祈りを捧げます。信仰によって祈る。主が弱っている人を救い、その人を起き上がらせてくださることを信じて祈る。しかし同時に人間的には望むべくもない時も訪れます。人生の最後の道を歩むときが必ず訪れる。しかしそのようなときにも、やがて復活の朝にキリストが手を取って起こしてくださる日を待ち望んで、教会は祈ります。罪を赦してくださるキリストの手が私たちに伸ばされている。その事実を信じ、主の復活の恵みにまみえる日を望み、私たちは祈りの共同体として歩んでいくのです。

2025年10月5日日曜日

2025年10月5日の聖句

今週の聖句:
すべてのものがあなたがたに目を向けて待ち望むと、あなたは時に応じて食べ物をくださる。(詩編145:15)

今日の聖句:
良くても悪くても、私たちの神である主の声に聞き従いなさい。(エレミヤ42:6)
すると、イエスは(弟子たちに)答えられた。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」(マルコ6:37)

大勢の群衆が、飼い主のいない羊のような状態であることをご覧になって深く憐れまれた主イエスは、彼らに福音を語り聞かせました。ところが時が大分経ち、弟子たちは心配になりました。「ここは寂しい所で、もう時も遅くなりました。人々を解散し、周りの里や村へ行ってめいめいで何か食べる物を買うようにさせてください」と主イエスにお願いします。すると、主はお答えになりました。「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」
事の次第をこのように見てみると、弟子たちの心配はもっともです。店がそばにあるわけではなく、町まで距離があるような場所にいて夜になってしまったらたいへんです。飢えたらどうしようもなくなってしまう。今のうちに、一度食事の休憩を取ればそれぞれ自分でどうにかすることができるのではないか。
主イエスは、弟子たちの思いの中に潜んでいた「自己責任」の思いを修正なさったように思います。それぞれ自分でどうにかすれば良い、と突き放すのではなく、あなたたちが彼らのために食事を準備したらいい。ところが彼らにはできなかった。何しろそこには男だけでも5,000人という大群衆がいたのです。そこで、主イエスが群衆を五つのパンと二匹の魚をもって養ってくださいました。主は、主ご自身でなければできない仕方で人々を養ってくださった。
私たちは、主のお働きを信じたい。自己責任の世界の中に輝く主イエスの御業を信じたい。そして、時が良くても悪くても、私たちは主を信頼して従い、主と隣人とに仕えたい。そう願います。

2025年10月4日土曜日

2025年10月4日の聖句

(ソロモンの祈り)あなたはあなたの僕、父ダビデに約束されたことを守られました。あなたはその口をもって約束されたことを、今日このとおり、その手をもって成し遂げられました。(列王記上8:24)
あなたがたをお招きになった方は、真実な方です。(1テサロニケ5:24)

「あなたがたをお招きになったかは、真実な方です。」私たちは主イエス・キリストの真実によって神の国に招かれ、救われ、神の民の一人として頂きました。キリストの真実が私たちを救ってくださいました。ただそれだけです。私の真実ではないし、私の信心ですらない。キリストご自身の真実な招きが私を神の民にしてくださったのです。
今日の旧約は、ソロモン王の祈りの言葉です。「あなたはあなたの僕、父ダビデに約束されたことを守られました。あなたはその口をもって約束されたことを、今日このとおり、その手をもって成し遂げられました。」神ご自身が、ご自分の約束なさったことに忠実でいてくださるから。ただそれだけです。神さまが御言葉を真実に貫いてくださったから。ただそれだけの理由で、ソロモンは今神の御前に祈ることができた。
この祈りは、ソロモンが主のための神殿を建ててそれを神に献げたときの祈りです。これから主への礼拝を献げる場所です。神を賛美する場所です。神を礼拝し、祈り、賛美を献げる私たちの営みを支え導くのは、神の言葉です。ご自身の約束に真実な神が、私たちの礼拝の民にしてくださる。私たちの祈りも賛美も、先立つ神の真実によってだけ可能になる。ですから、私たちは自分にこだわらずに安心して、神の御前に祈りましょう。

2025年10月3日金曜日

2025年10月3日の聖句

私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。
主の腕は、誰に示されただろうか。(イザヤ53:1)
マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18)

今日の旧約の御言葉は、イザヤ書第53章が伝える「苦難の僕」の姿を描く言葉の一節です。「主の腕は、誰に示されただろうか」と言いながら「これを誰が信じただろうか」と言っているのを聞くと、フトすると、よほど力強くて奇跡的な、それこそ信じられないような凄い話、という印象を受けます。ところが苦難の僕は、それとは真逆の姿を見せています。「彼には見えるべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない」。それどころか「人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった」とまで言われます。この僕は病と痛みを負っており、しかもそれは私たちの病であり、私たちの痛みであったにもかかわらず、私たちは彼が「神に打たれて、苦しめられた」と思い込んでいた。しかし、そんな苦難の僕こそに、神は「多くの人を彼に分け与え」られる。この僕によって、私たちは救われる。私たちの救いのために力を振るい、誰が見ても「この人だ」と言われるのではない、醜く、傷つき、軽蔑され、排除され、殺される僕。この方に私たちの救いがかかっているなどと、「誰が信じただろうか」と預言者は言います。
今日の新約聖書の御言葉は、マグダラのマリアが復活のキリストと出会い、そのことを弟子たちに伝えたときのことです。「私は主を見ました」。この主イエス・キリストは、十字架にかけられたお方です。あの苦難の僕そのものでいらっしゃるお方です。その方が復活し、再びマグダラのマリアと出会い、他の弟子たちと出会ってくださった。
私たちはへりくだって、十字架の上で軽蔑され、人々に見捨てられ、痛み、苦しんだ方を神として信じたいと願います。決して当たり前のことではない。神の、私たちの思いを超えた不思議な御業を驚き、へりくだって受け入れ、信じましょう。

2025年10月2日木曜日

2025年10月2日の聖句

来て、神の業を見よ。人の子になされた恐るべき業を。(詩編66:5)
イエスは百人隊長に言われた。「あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどその時、その子は癒やされた。(マタイ8:13)

ある一人の異邦人です。ローマの軍隊の百人隊長。この人の子どもが麻痺を起こし家で倒れてひどく苦しんでいました。百人隊長は主イエスのところへ行って、部下の困窮をお伝えしました。するとそれを聞いた主イエスは、「私が行って癒やしてあげよう」と言ってくださいました。
ところが百人隊長は主イエスのお言葉を辞退します。私は主を我が家にお迎えできるような人間ではありません。ただお言葉をくださるだけで十分です。あなたの御言葉には権威がありますから。私が隊長として百人の部下に命じれば、皆その通りにします。あなたの御言葉にはそれ以上の権威がありますから、ただお言葉をください。
それを聞いて主イエスはたいへん驚き、この異邦人の信仰をお喜びになりました。「よくよく言っておく。イスラエルの中でさえ、これほどの信仰は見たことがない」と。
この百人隊長の信仰は、主の御言葉への全幅の信頼と服従です。主イエスさまの御言葉には私の子どもを癒やす力がある。そのことを単純に信じていました。この単純さが大切なのではないでしょうか。私たちはとかく複雑に考えがちです。理屈をこねて物事が分かった気になります。ところがこの百人隊長はまっすぐに信じて服従し、主はそれをお喜びになりました。私たちも信仰の模範がここにあります。

2025年10月1日水曜日

2025年10月1日の聖句

今月の聖句:
(イエスの言葉)神の国はあなたがたの中にある。(ルカ17:21)

今日の聖句:
主が民の霊を奮い起こされたので、彼らは言って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。(ハガイ1:14)
(イエスの言葉)私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。(黙示録2:2)

今日の旧約聖書のハガイ書は、バビロン捕囚が終焉を迎えてしばらく経ってからの時代を舞台としています。その当時の世界の支配者はペルシア帝国(アケメネス朝ペルシア)。この当時はダレイオスという王が治めていました。ダレイオスの二代前の王であるキュロス王がバビロンを滅ぼして替わって支配者となり、捕囚民の解放政策を始めた。今日の箇所は、一部のユダヤ人のエルサレムへの帰還が始まって10数年後の言葉であると思われます。
人々は故国へ帰り、エルサレムで神殿を再建し始めましたが、なかなか上手くいきませんでした。70年に及ぶ捕囚の期間の内に新しい住民も生まれていましたし、そもそも廃墟になっている町や神殿を遠くからやって来た帰還民が再建するなどというのは並大抵ではなかったのだと思います。だいたい、生活の場所からして瓦礫の山です。
預言者ハガイは、しかし人々に訴えかけます。「この神殿が廃墟となっているのに、あなたがたが板張りの家に住むときであろうか」(1:4)と。このような檄や励ましを受け、人々は再建に取り掛かり出しました。「主が民の霊を奮い起こされたので、彼らは言って、彼らの神、万軍の主の神殿を建てる作業に取りかかった。」聖霊なる神様ご自身が彼らの事業を支えてくださったのです。
私たちが取り組まねばならない課題は、時に、瓦礫の中に神殿を再建するように、途方もなく遠く、どう考えても不可能だと諦めざるを得ないことがあります。どこからどう手を付けて良いのか、分からなくなってしまう。しかし、神は私たちにご自分の霊を与えてくださいます。「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っている。」主イエスさまがそう言ってくださいます。ですから、今日私たちがするべきことに真摯であり、神の助けをいただいて、雄々しく仕えたいと願います。

2026年10月25日の聖句

今週の聖句: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:2) 今日の聖句: あなたの慈しみは命にもまさる恵み。(詩編63:4) 御父は、私たちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下へと移してくださいました。(コロサイ1:...