2017年10月12日木曜日

詩編第90編「自分の儚さに震える者の祈り」


夫は妻がいるから夫だし、逆も然り。親は子がいるから親だ。立場は関係で決まる。しかし、「大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」。神は神なのだ。私たちは儚い。神の怒りの前に絶えてしまう(7)。人生も短い(10)。神が怒って捨てておかれるなら、滅んでしまう。「主よ、帰って来てください」(13)。ひたすらにそう祈る。私は神あっての私なのだ。造られた者としての自己を、神の御前で見いだすのだ。

2017年10月8日日曜日

ガラテヤの信徒への手紙第2章19bから20節「生きる」

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」何と圧倒的な福音の言葉なのでしょうか。まさにこれこそ神が私たちに下さった福音です。神の子が私を愛し、私のために身を献げてくださったのです。この世界を造って、この私に命を与えて、今も世界を支配している神がこの私を本当に御自分の身を献げるほど愛してくださったのだとしたら、それは究極的な救いです。もしもそうであれば、他の誰が何と言おうと私は救われている。改革者ルターはこの言葉を愛しました。彼は言います。「『私を』『私のために』という言葉を大きく強調して読み、この『私を』をたしかな信仰をもって受け入れ、これを自分に当てはめることに習熟するがよい。」面白い言葉です。「習熟するがよい」と言います。ルターはまことに牧師らしく、私たちがなかなか信じられずについ恐れてしまうことをよく知っているのです。恐れていませんか?毎日の生活のために、誰かに非難されているために、自分にふりかかる現実のために。恐れと信仰は両立しません。神がこの私を愛してくださっている、キリストはこの私のために十字架にかかってくださった。それが神からの答です。だから、私たちは信じることに習熟して、大胆に信じましょう。神の子がこの私を愛し、この私のために御自分を献げて十字架にかかってくださったことを。そうであるからこそ、私を恐れさせる「現実」と思い込んでいるものを吹き飛ばすような神の圧倒的な力を。ルターの父親は彼のことを法律家にしたかったようです。しかし、青年ルターはあまりその気になれなかった。これからの自分の人生に悩んでいたとき、たまたま、すぐ近くに雷が落ちるという経験をした。危うく死にそうになった。彼は祈った。「助けてください、修道士になりますから!」その後、彼は親の反対を押し切って修道士になりました。死を前にして生き方を変えた。しかし、彼は修道士として祈りの生活をしながらも、心が晴れませんでした。聖書を学べば学ぶほど、神の義に押しつぶされそうになった。どうしたって自分が神に救われるとは信じられない。自分の生き方を真剣に問い、悩み、つぶれそうになっていました。彼は詩編を読んでいた。第71編にラテン語訳で「あなたの義によって私を救ってください」という言葉があった。塔の一室でそれを読んだルターは、これはキリストのことを言っていると気づいた。これは私が功徳を積んで立てる義ではない。キリストが私を義としてくださる。そう知ったとき彼の世界が変わりました。私の正しい生き方が私を救うのではない。キリストがこのどうしようもない私を救ってくださる。それからルターは生涯その信仰に生きました。神は、他でもないこの私を愛してくださっている、と。信じることには習熟が必要です。自分なんかダメだという声が響いたり、その逆に、自己正当化して周りに問題があると呟いたり。私たちの心はとかくやっかいです。でも、そういう古い私は、もうキリストと共に十字架にかけられて死にました。洗礼を受けたとき古い自分は水に沈んで死んだのです。今生きているのは、あなたの内に生きるキリスト。あなたを生かすキリストの真実を、大胆に信じてください。 

2017年10月5日木曜日

詩編第89編「神様、助けてください」


主の慈しみを賛美する。しかし私たちは主を裏切った。「それでもなお、私は慈しみを彼らから取り去らず」と主は約束してくださった。ところが、「あなたは、御自ら油を注がれた人に対して激しく怒り、彼を退け、見捨て」た。そう嘆く。主の慈しみはもう取り去られたのか?嘆きつつこの信仰者が訴えるのは、人間のむなしさ、はかなさを思い出してくださいということ。そうでなければ滅びてしまう。これは心貧しき者の祈りの言葉なのだ。

2017年10月1日日曜日

コリントの信徒への手紙一第9章19節「自由」

15171031日にマルティン・ルターという修道士がヴィッテンベルク城の教会の門扉に95ヶ条からなる公開質問状を張り出しました。やがて、その日はプロテスタント教会から宗教改革記念日と呼ばれるようになりました。教会改革のうねりは国境を越え、欧州全体に飛び火し、更に歴史を変える大事件になりました。私たちの教会も、この教会改革運動に端を発する「長老教会」の伝統に生きています。今月でこの改革から500年を数えます。「改革」と言うからには過去のエピソードになってしまった時点で意味を失います。改革は常に「今」のことでなければ仕方がありません。今、私たちが聖書の言葉によって絶えず改革され続ける教会であるためにも、今月はルターの信仰に学んでいきたいと思います。今日は「自由」を主題とします。1520年にルターは『キリスト者の自由』という名著を書いています。岩波文庫でも出ています。ぜひお読みください。このような命題から始まります。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。」神を信じる者は自由だと言います。フト立ち止まって考えます。私たちは、神を信じてまで自由になりたいと思っているのでしょうか?あるいは、神なんて信じたら却って不自由になると思ってはいないでしょうか?今度、選挙が行われることになりました。もちろん、私たちは誰にも投票行動を監視されることもなければ、誰かに投票するように強制されることもありません。自由です。しかし、もしも私たちが空気や雰囲気で決めたり、候補者の考えの意味を良く吟味もせずに行動を起こしたら、それは本当に自由な選択と言えるのでしょうか?「真理はあなた方を自由にする。」主イエスはそう言われた。やはり、真理であるキリストと自由とは無関係ではないのではないか。キリストがくださるという自由とは一体どういうものなのか。今日の御言葉はルターが『キリスト者の自由』の冒頭で掲げているものです。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」ルターはあの命題に続けて、すぐに第二の命題を掲げます。「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」なぜか?できるだけ多くの人を得るために。私たちは自由です。キリストが自由にしてくださいました。何を食べても飲んでも自由です。自由だから、例えば仏式のお葬式に行けばお焼香をする自由もあります。しかし、今日の聖書の言葉の文脈で言われていることは、私は何においても自由だけど、弱い人が私のその自由な振る舞いを見て躓いてしまうのであれば、私はその自由を行使しないという話です。私は自由、他の人のためのその自由をストップできるほどに自由。そう言うのです。できるだけ多くの人を得るために、私はだれの僕にでもなれる、そういう自由に生きている、と言うのです。それは、キリストが私のために、僕になってくださったからです。私は、どうしたって自分の自由を自分だけのものにしておきたい。時間も、お金も。それは恥ずかしいほどの気持ちです。でも、キリストがくださったものは時間どころじゃない、お金どころじゃない。御自分の命さえその自由のゆえに与えてくださいました。それが私の原点です。このキリストが私を同じ自由に生かしてくださる。それが、キリストがくださる自由、他者のために生きる自由です。   

2017年9月28日木曜日

詩編第88編「絶望」


何と深い絶望の詩編であろうか。死を間近に見つめつつ、祈り続ける。絶望のどん底で神を求める。しかし、主はわたしの魂を突き放し、み顔を隠しておられる。そうとしか言いようがない。最終的に口からでた言葉。それは、「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」である。最後まで救いがない。まるで、主の絶望を映すかのような詩編だ。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と。キリストは絶望した者の側らにおられる。

2017年9月24日日曜日

フィリピの信徒への手紙3:2〜11「キリストの中に見いだされるために」


昨日、日本中会の伝道フォーラムが開催されました。これからのカンバーランド長老教会の各個教会の宣教のために、お互いを知り、共に祈り、共に同じ福音の御言葉に生かされていることを味わう集会でした。教会には具体的な顔があります。具体的な人間がそこにます。教会堂が建てられている地域社会の特性があり、教会の固有の歴史があります。お互いのために祈るというのは、それぞれ固有の課題のために祈るということです。詩編第56編にこのような言葉があります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」神だけが持っていてくださる革袋に、私たちが人知れずに流した涙さえも蓄えられています。神が涙を覚えていてくださるのです。フィリピ2:10には、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら」と書かれています。「その苦しみにあずかって」という言葉は、直訳すると「彼の苦しみの交わり」と書かれています。キリストの苦しみの交わりです。私たちが苦しむとき、私たちはそこでキリストの苦しみの交わりにあずかります。キリストと苦しみを共有する、いや、キリストが私たちの苦しみを共有してくださいます。教会はキリストの苦しみの交わりです。キリストにあって苦しみを共にするのです。ここにいる具体的な一人の人と、その苦しみを共にするところにキリストの苦しみを共にする交わりが生まれている。その苦しみの交わりである教会の中で、私たちは、自分が一体何者であるのかを発見するのです。私たちは、誰もが、一生懸命に生きています。プライドがあります。それが傷つかないように自分を守ります。パウロは誇り高い人物でした。自分のことをヘブライ人の中のヘブライ人と呼んではばかることがない。実際、そういう人生を生きてきた。それに熱心に信仰に生きてきました。自分はこれで良いと自信を持てた。しかし、自信はしばしば人を傷つけます。苦しみの交わりを疎外します。かつてパウロは信仰の熱心さにおいては教会の迫害者でした。非の打ち所のない行いに生きてきた。でも、私たちを救うのは、そういう自分の正しさや立派さや自分の信念を貫ける強さではないのです。「私たちには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」キリストへの信仰による義というのは、直訳すると、キリストの信仰によって、ということです。私たちがキリストを信じている信仰であるかもしれませんが、キリスト御自身が信じている信仰という意味でもあります。キリストの信仰によって私たちは救われるのです。だから、私たちには自分の立派さや強さは必要ないのです。いや、それどころかパウロはそれらを塵芥だと言い切りました。あってもなくても良いのではなくて、いらないゴミだというのです。キリストの内にいる者と認められるために。私たちは、神から、キリストの中で自分を発見して頂いたのです。私たちはキリストに包まれて、キリストの中に生きている。私たちは自分がどういう生き方をしてこられたかということで突っ張ったりいじけたりするのではなく、キリストの中に包まれていることで自分を確かめることができます。キリストの十字架が私たちを覆ってくださいます。だから、私たちは苦しみの交わりとして、隣人の痛みを共に負うことができるのです。苦しみの交わりこそ、私たちの喜びです。

2026年6月16日の聖句

主を畏れるところには強い信頼が生まれる。(箴言14:26) 神から生まれた人は誰も罪を犯しません。(1ヨハネ5:18) 今日の新約の御言葉を聞くと、私たちは脳内で勝手に変換してしまうのではないでしょうか。「罪を犯した人は神から生まれた人ではありません」「罪を犯す私は神...