2023年10月31日火曜日

2023年10月31日の聖句

私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの正義もすべて、汚れた衣のようになりました。(イザヤ64:5)
息子は彼に言った。「お父さん、私は天に対しても、あなたの前にも罪を犯しました。私はもはや、あなたの息子と呼ばれるに値しません。」しかし父は僕たちに言った。「早く一番よい衣服を持ってきて、彼に着せなさい。」(ルカ15:21~22)

今日10月31日は宗教改革記念日と呼ばれる日です。この言葉が最も一般的に通じやすく、教科書にさえ載っているので私もこの表現を使っていますが、あまり適切な言い方ではないとも思っています。宗教改革が始まったドイツでは、単に「改革の日」と呼びます。「宗教」を意味する文字ではない。ルターに始まった改革運動は、宗教を改革したわけではありません。むしろ、信仰のあり方、あるいは教会のあり方を改革する運動でした。
この改革は95箇条からなる公開質問状に端を発します。その第一の命題はこのように言います。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのです。」ぜひ暗記するべき名文です。主イエスは私たちに全生涯の悔い改めをお求めになった。しかもそれはお金を払ってお札を買えば(贖宥状、いわゆる免罪符のことです)済むということではなくて、内的に悔い改め、また生き方が変わるものであるはずだ、と訴えます。
今日与えられている御言葉は、あの失われた息子と父との対話です。悔い改め、もう息子と呼ばれる資格はありませんと告白する息子を父は迎えます。子として迎えます。同じように、神は私たちをご自分の息子として、娘として迎えてくださいます。父の腕の中に帰る私たちの姿、それが悔い改めです。
「私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの正義もすべて、汚れた衣のようになりました」と言うとおり、私たちがどんなに汚れていても、どんなに罪深くても、父である神は迎えてくださいます。私たちの帰りを待っていてくださいます。息子、娘と呼ばれる資格のない私。それでも神は迎えてくださる。そのことを信じ、私たちは大胆に罪を悔い改める。そういう日ごとの悔い改めに生きる一日を、私たちは生き始めています。

2023年10月30日月曜日

2023年10月30日の聖句

義の業は平和となり、義の収穫は永遠の平安と安全である。(イザヤ32:17)
あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。(1ヨハネ2:29)

「義の業は平和となり!」素晴らしい言葉です。そして、私たちの知恵ではなかなか実現されない言葉でもあると思います。人間の感情の中でも、正義感はかなり厄介なものの一つだと思います。自分が正義だと思ってすることを、私たちはなかなか反省することができません。正義だと確信して、他の人の立場や別の正義の可能性を考えないで行動してしまうことのなんと多いことか。そして、そのために周りを傷つけたり仲違いするしかない結果をもたらしてしまう。
一見すると、声の大きな人や立場の強い人の意見が通っていると、平和に見えます。しかし、ただ周りが我慢し、何も言えないでいるだけでは平和ではありません。正義の虜になるとそれが分からなくなってしまう。
しかし聖書ははっきりと言います。義の業は平和となる。義の収穫は永遠の平安と安全である。更に新約聖書の御言葉が続きます。「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」
聖書が言う「義」とは、御子イエス・キリストの正しさに適う意味での「義」です。私たちの独り善がりな正義感が生み出す義ではない。キリストの御目がご覧になって明らかになる義。それは、神の愛に適う義と言って差し支えありません。神の義と愛は一つです。独り子を私たちに下さった神が見せてくださる義。それは平和に違いありません。
私たちはキリストの前にへりくだり、キリストの愛にひれ伏し、キリストの平和を喜んで生きていく。そこに生まれる平安の実りを共に分かち合うようにと、主は私たちを招いてくださっています。

2023年10月29日日曜日

2023年10月29日の聖句

今週の聖句:
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。(ローマ12:21)

今日の聖句:
(主の言葉)誰におびえ、誰を恐れたのか。不誠実になり、私のことを心にかけることもなかったとは。(イザヤ57:11)
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アッバ、父よ」と叫びます。(ローマ8:15)

私たちの口に「父よ」という祈りの言葉が上ること、それがもうすでに私たちが神の霊を受けている証拠だ、と言います。しかも神の霊は私たちを神の子とする霊だと言う。神はご自分を信じる私たちを神の子とし、その証しとして、私たちの口にも神を父と呼ぶ祈りをご自身の霊によって授けてくださっているのです。
私は神の子。その事実を私たちは信じ、神の子として新しい一週間の旅路に出発します。怯えること、恐れること、私たちはあるかも知れない。しかし、私たちは私たちをご自分の子としてくださる方を見上げて歩んでいます。だから、私たちは恐れない。怯えない。神が父でいてくださるからです。父でいてくださる神が共におられるから。
今日は主の日を迎えています。神を礼拝します。私たちは心を合わせて、神を父と呼んであがめます。主イエス・キリストが私たちの間にいてくださることを信じて、神を礼拝する。まことの神の子である方が私たちに先立って、「父よ」と祈り、その祈りを私たちにも授けてくださいました。主イエスさまの口まねをして、私たちも祈ります。心を合わせて、私たちも祈りに打ち込む一日を過ごしていきましょう。

2023年10月28日土曜日

2023年10月28日の聖句

見よ、慰めを失うのではないかと私は気がかりだった。あなたはしかし、私の魂を滅びないようにと大切に受け入れてくださった。というのも、あなたはすべての私の罪をあなたの背後に投げ捨ててくださったからです。(イザヤ38:17)
これによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます。心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存知だからです。(1ヨハネ3:19~20)

今日の旧約聖書に「慰め」と書いてあります。慰めというと、一般的にはあまり積極的な意味を持たないことも多いのではないかと思います。現実の惨めさを無視して、本当の憐れさをごまかすようなありさまというような意味合いで使われることも多い言葉のようにも思います。
ところが、聖書は非常に積極的に慰めを語ります。神が私の魂が滅びないように、大切に受け入れてくださる。それが私の慰めだと言うのです。そのために神が私の罪を背後に投げ捨ててくださった。この事実こそ私の慰め。聖書はそのように言います。
聖書を読んで気づかされるのは、私は慰めを必要とする惨めで、憐れな存在だということです。しかしその惨めさや憐れなありさまは、世間一般で評価されるようなものとは少し違うのではないでしょうか。私の惨めさ、憐れさは、罪人であることに根本的な理由があります。ハイデルベルク信仰問答では、私の惨めさは、愛をもって生きることのできない惨めさだと言います。神を愛することも人を愛することもできない私という人間の惨めさ。それが私の罪人としての姿に他ならない。
神は、そんな惨めな私の罪を背後に投げ捨ててくださいました。そのような私の心の責められるべきところを、神が真理によって新しくしてくださいました。主イエス・キリストにあって、神が私をご自分のものとしてくださった。その事実こそ私の慰めです。どのようなときにも、どのような私であっても、髪の毛一本に至るまで神は私をご自分のものと宣言してくださっている。この確かな事実によって、私たちの一日が支えられています。

2023年10月27日金曜日

2023年10月27日の聖句

主は私の命の力、誰の前で私は恐れる必要があろう。(詩編27:1)
私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。(フィリピ4:13)

「主は私の命の力」。素晴らしい言葉です。主は私の命の力。私の命を立たせ、恐れを吹き払い、私を死から救ってくださるのは、主なる神に他ならない。主は、私の命の力!この信仰告白を私たち自身の告白としたい。そのように願います。
旧約聖書が書かれたヘブル語では、「命」という言葉と「存在する」という言葉がとてもよく似ています。ここのところは、もしかしたらそういう響きも持っていたのではないかと思います。ただいまここに生きているというだけに留まらない、私というこの存在の根源を支える力、それは主なる神様。この方が私の力となり、私を守る盾になり、砦となってくださる。「誰の前で私は恐れる必要があろう」!
今、どうでしょうか。恐れてはいませんか。自分の存在があやふやになってはいないでしょうか。私たちの力であり、私たちの根源を支えてくださっているのは、ほかの誰でもなく神様です。人からの評価でも、自分の持ち物でも、自負でもない。私たちは、私たちを造り、今も支えてくださる力、主なる神様によって完全に守られています。
「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」これもまた力強い言葉です。キリストが私を強くしてくださる。そのことに完全に期待し、信頼して良いし、神様は必ず私たちがどんなことでもすることのできるようにしてくださる。
「どんなことでもできる」と言ったときに、それは、私たちの欲望を何でもかなえられるとか、自分の好き勝手に何でもできるという意味でないことは明らかです。私を強くしてくださる神によって、私はどんなことでもできる。ですから、私たち自身の、あるいは他者の救いのために、神は私に何でもさせてくださるということに違いない。私たちはキリストがお始めになった神の御支配に仕えるために、何でもさせていただける。
主イエス・キリストこそ、私たちの力です。私たちを救う神の力強い愛そのものです。キリストの力強い恵みと祝福が、今日もあなたにありますように。

2023年10月26日木曜日

2023年10月26日の聖句

朝ごとに私を呼び覚まし
私の耳を呼び覚まして
私が弟子として聞くようにされる。(詩編50:4)
ティアティラ市出身の紫布を扱う商人で、神をあがめるリディアと言う女も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。(使徒16:14)

「主よ、私の耳を開いてください。」聖書の御言葉に耳を傾ける私たちの祈りです。主が私の耳を開き、語られる御言葉を私の耳に入れてください。私たちはそう祈ります。主の日の礼拝でも、聖霊の照らしを求める祈りを献げています。聖霊なる神様ご自身が私の耳を開き、また光を照らして、私に御言葉を聞かせ、悟からしめてください、と私たちは祈る。そうでなければ、どうして御言葉を聞き、また理解することができるでしょうか。私たちに福音を届け、私たちがそれを聞き、理解することができるようにしてくださるのは、神様ご自身の御業です。
リディアはそういう主の御業に与りました。パウロの語る言葉に注意深く耳を傾けた。パウロを通して語られるキリストの福音を耳にし、それを信じ、彼女は洗礼を受け、パウロの宣教に協力するようになりました。そうやって、フィリピの教会が生まれていった。その初めは、一人の人が御言葉を注意深く聞く、という小さな出来事です。しかしその小さな出来事は、神様ご自身の御業に他ならないのです。
私たちも同じ神様の御業に与っています。「朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を呼び覚まして、私が弟子として聞くようにされる。」神様が弟子として、今朝も新しく私たちを呼び覚ましてくださったのです。御言葉によって、神さまのものとして、私たちを呼んでくださっています。

2023年10月25日水曜日

2023年10月25日の聖句

すべての人が地の果てから主へと戻ってくる。(詩編22:28)
天の国は、パン種に似ている。女がこれを取って、三サトンの小麦粉に混ぜると、やがて全体が膨らむ。(マタイ13:33)

小麦粉に水や塩そしてパン種、つまりイーストを入れ、こねて、しばらく置いておくと、生地は見事に膨らんできます。焼くと美味しいパンができる。天の国はそれとよく似ている、と主イエスは言われます。パン種が小麦粉を膨らませるように、天の国は大きく膨らむ。
粉と塩があるだけでは、いくら混ぜても発酵しません。パン種が入ることで、それまででは考えられなかったほどに大きく膨らんで、ふっくらして、美味しいパンになる。ここでのパン種というのは、神の言葉、すなわち福音のことでしょう。御言葉が私たちの間に入ると、私たちを膨らませる。天の国はそうやって私たちの間に広がっている。
この主イエスのお言葉を初めて聞いたのは、主イエスと一緒に旅をした弟子たちです。この話を聞いて、どんな気持ちになったのでしょうか。全体が膨らんで、パンのように大きくなる天の国。ところが足元の自分たちを見てみると、わずか数人でイエス様に付いて行っているだけです。ほんの小さな、それこそ小麦の粉のように風が吹けばどこかに散らばってしまうような私たちです。イエス様の言葉はあまりにも途方もなかったのではないかと思います。
今日の旧約の言葉はこのように言います。「すべての人が地の果てから主へと戻ってくる。」ここでも「すべての人が」や「地の果てから」と言っていますが、これもまたあまりに途方もない言葉です。私たちの小さな頭では考えられないし、私たちの視野狭窄の目ではとても見ることができない。しかし、主イエス・キリストはご覧になっている。天の国が大きく膨らみ、そこにはすべての人が、地の果てからやって来るのだ、と。
私たちは自分の持っている常識や判断力ではなく、キリストが私たちの間で始めてくださっている御業を信じ、キリストに期待しましょう。主イエスさまの約束は確かであって、期待し、待ち望んで間違えのない言葉です。主イエス・キリストが約束した天の国は、必ず私たちの間にあるし、必ず膨らむのです。

2026年10月1日の聖句

10月の聖句: 自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださいました。ですから、しっかりと立って、二度と奴隷の軛につながれてはなりません。(ガラテヤ5:1) 今日の聖句: あなたは多くの苦しみと災いを 私に思い知らせましたが 再び命を与えてくださ...