2017年3月19日日曜日

ルカによる福音書11:5〜10「求めつづけなさい」佐藤岩雄牧師

このようにして、さがみ野教会で皆さんにお会い出来ることを嬉しく思います。 本日は、皆さんと一緒に、「祈り」について学びたいと願っています。祈りというのは、この私たちが、人生を取り戻し、人生を建てあげていくための大切なキーワードです。祈りというのは、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」と聖書が言うように、この永遠を思う思いと、今この時という瞬間が交差する場といえるでしょう。祈るときに、私たちは、永遠の時を感じながら祈るのです。そこから、もう一度、今を見つめなおすことが出来るのです。ですから私たちは今この時だけに行き詰まる必要はないのです。
 本日の聖書箇所には、友人にパンを借りに行く人の姿が書いてあります。夜中に、非常識と思えるような仕方ですけれども、彼は、友人が来たから、パンを貸してくれと、近所の人を起こすわけです。多分、長い旅で夜中にお腹を空かせてきた友人に何とかして食事をふるまってあげたかったのでしょう。自分のところにはないけれども、あの人だったら、絶対にパンの用意があるというお宅の戸を叩きました。あくまで祈り続ける。このことが、状況を変えるということを聖書は伝えています。祈ることと、祈らないことでは状況が違ってくるというのです。私たちが、本当に信じて祈るのであれば、その通りに道が開かれてくると聖書や約束しています。
P.T.フォーサイスという牧師の書いた「祈りの精神」という本に、
「祈りは、神のかたちに造られた人間の力と同様に、神の意志に逆らう形をとることができる。神の意志に逆らうことも神の意図にかなう場合がある。」
とあります。変えることの出来ない過去や、失敗や、人生の傷というのは、 私の人生の中でいくらでもあります。私たちは、それを嘆いて過ごすことも出来ます。しかし、祈りはそこに光をあててくれるのです。私たちが祈るとき、神の計画の全てを見ることは出来ませんが、私たちはもう一度、神の導きに信頼して自分の人生と向き合う事が出来きるのです。
ルカによる福音書第11章9節から10節で、主イエスは言われます。
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」この言葉が、今日も真実であることを信じて、歩み始めましょう。

2017年3月16日木曜日

詩編第60編「大地が揺らぐときにも」


2節の表題は恐らくこの戦いのさなか、という意味であろう。まだ勝利を手中に収めていない。だから、11節以下で神に助けを求めている。詩編作者はひたすら神からの助けを求める。「人間の与える救いは空しい」からだ。そこで思い起こすのが、聖所で聞いた、つまり礼拝で聞いた神の約束である。8から10節に記されている。「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の御手でお救いください。」我らもそう祈ろう。神の約束を思い起こして。

2017年3月12日日曜日

ルカによる福音書4:9〜13「瀬踏みの信仰から卒業しよう」

主イエスが悪魔から受けられた三つ目の誘惑です。悪魔は主イエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせ「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と誘います。なぜ、そのようなことを言うのか?ここはエルサレムの神殿でたくさんの人が集まってきています。何をしに来ていたのか?祈りに来ていたのです。神に救いを求めてやって来ていたのです。そういう人たちに前に、神から遣わされた救い主としての証拠を見せてやればいい、と悪魔は誘います。しかも、「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守られる」と聖書に書いてあるじゃないか、とまで言います。悪魔は聖書の言葉でさえ誘惑をする。主イエスがお受けになった誘惑は、私たちにとっては「どういう救い主を求めているのか」という問いでもあります。本当にこの方を信じていて良いのか、本当にそう信じて良いのか、信じるに価するのか、証拠はあるのか?そういう問いです。主イエスもまた聖書の言葉を引用して答えられます。「あなたの神である主を試してはならない」。これは、かつてエジプトで奴隷だったヘブライ人たちがモーセに導かれて荒れ野に出たとき、飲み水がないと言って不満が爆発したときのことです。神はモーセに奇跡を起こさせて彼らに飲み水を与えます。しかし、言われるのです。「あなたの神である主を試してはならない」と。試すというのは、相手の愛を試すことです。本当にこの人について行っても良いのか不安になって、信じられず、証拠を求めます。昨日は結婚式がありましたが、もしも試験と証拠によって結婚生活を進めようとしたら、家の中は疑心暗鬼に包まれ殺伐とするでしょう。愛と証拠は並び立ちません。もしも、主イエスが悪魔の誘いに乗って、人々に神の子である証拠を見せるために神殿の屋根から飛び降りていたら、どうなったのでしょうか。そのとき、悪魔が言うように天使が現れたとしたらどうなったのか。それを目撃した人はすごい奇跡が起こったと言って賞賛し、イエスを信じたかも知れません。でも、それに一体どんな意味があるというのか。そんな奇跡が起こって明らかになるのは、ただ主イエスがすごい方だと言うことだけで、今悩み、苦しみ、悲しみながら神に祈るために神殿にやって来たこの私の無力とは無関係です。もしも主イエスがあの誘惑に乗っていたとしたら、主イエスは、ただ強い者だけのための救い主、この世で多くの人が賞賛する成功者のためだけの救い主になっていたことでしょう。ここで言う「強い者」とは、誰でも成功だと思えるものを手にした人のことです。教会でさえよく聞きます。自己実現できた人のことについて、それは神さまの恵みだとか、成功は神の祝福だとか。そういう物の見方は悪魔の誘惑に負けてはいませんか?主イエスは飛び降りませんでした。瀬踏みをするように神の愛を確かめながら生きることを退けられたのです。「あなたの神である主を試してはならない」と言われた悪魔は、時が来るまでイエスから離れます。悪魔が再び現れる「時」。恐らく、イエスが十字架にかけられるときでしょう。そのときにも主イエスは罵られます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」しかし、やはりこの時も主イエスは奇跡を起こされない。弱い者の救い主になるためです。捨てられた者を救うためです。惨めな罪人である私たちを救うことができるのは、十字架の上で無力になられた救い主だけだからです。   

2017年3月9日木曜日

詩編第59編「慈しみ深い神を見張って待ちます」


1節の表題を見ると、サウル王に殺されそうになったダビデが、王の手下に家を見張られていたときの祈りとある。敵に見張られているというのはつらい。世間という目はまるでオーウェルの言う「偉大なる兄弟」の目のようだ。しかし、この詩編の興味深いのは10節で、ここでは祈り手が神を見張っている。神は私の砦の塔だから。神が守ってくださるよう、見逃さないように注視する。信仰者の目は世間の目の中でも神に向く。そこに慰めがある。

2017年3月5日日曜日

ルカによる福音書第4章5から8節「人間が怪物にならないために」

私は小さな頃から教会に通っていて、今朝の話は何回も聞かされてきました。おとぎ話の一つのようなイメージがついていたように思います。しかし、最近になってずいぶんと印象が変わりました。というのも、主イエスを誘惑した悪魔は言うのです。「この国々の一切の権力と栄光を与えよう。」国々と言っています。世界中の国です。ずいぶんと政治的ではないでしょうか?主の祈りにも、「御国を来たらせ給え」という祈りがあります。ここでも「国」と言っています。これも政治的な響きがある言葉です。日本特有のことなのか、外国でもそうなのかは私にはよく分かりませんが、私たちは政治的な話はできるだけ避ける傾向があります。特に教会はそうです。教会は政治団体ではないので、当然と言えば当然です。何党の支持者でもいられる場所です。しかし、例えば今の米国の教会から聞こえてくる声を聞くと、ある人たちはトランプ大統領を厳しく批判しています。単に政治の声明を出すのではなく、信仰者としてどう考えるのが良いのかを考え、声にしています。私たちの信仰には「この国々の一切の権力と繁栄」が関わります。しかも、聖書は、それらは悪魔に任されていると言います。悪魔がこれと思う者に与えることができるのだと言うのです。悪魔は「この国々の繁栄」と言います。繁栄というのは、栄光と言っても良い。この世の栄光です。トランプ大統領は米国を再び偉大にしようと言いました。栄光の幻を見せます。私たちの国はどうなのでしょう。かつて、大東亜共栄圏という幻がありました。あるいは、世界第二の経済大国という幻もありました。美しい国という栄光の幻もあります。聖書を見ると、恐ろしいことに、悪魔の誘惑は弱さを試すものではありません。自堕落にさせる誘惑ではなくて、その人の強さを試す誘惑です。私たちは、自分のできないことではなくて、自分の力の範囲内のことをするように誘惑されます。力が強い方が誘惑も強い。もっと強く、もっと大きく、もっと豊かに、もっと偉大に!悪魔はそのように誘惑します。そのために私を拝んだらいい、と言います。それが人間にとって本当に救いになるじゃないかと誘います。注意してください。悪魔は黒い服を着て、しっぽが生え、さすまたを持った格好では現れません。ルターは言いました。「イエス・キリストが私たちと同じ人間になって、ご自分を十字架につけられたということによって、キリストは、まことに不幸な、傲慢な神々、偶像を、本当の人間に変えておしまいになった。つまり、あわれな罪の人間になさったのである。」キリストが人間になって、十字架にかかったから、悪魔の正体が暴かれたと言います。それは、あわれな罪の人間、しかし、この世界では礼賛される栄光に満ちた人間です。悪魔は私たちの栄華を求める罪の空気そのものです。私たちが今求めて生きている栄光は、神を追い出して成立する悪魔の栄光ではないでしょうか?しかし、キリストが人間になられて、十字架にかかったからには、悪魔の正体はもう明らかになっています。キリストは私たちが悪魔の栄光ではなく、神を神として拝むところに現される栄光に生かしてくださいます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。私たちは神様を本当に神様らしく礼拝するために生きています。そこでこそ、私たちが怪物にならず人間らしく生きられると信じます。洗礼を受けたあなたはこの世にある神の国の国境線なのです。   

2017年3月2日木曜日

詩編第58編「神にこそ、問題を持ち出そう」


激しい、呪いの詩編というべき言葉。「神に従う人はこの報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう。」にわかにはどう受けとめるべきか分からない。冒頭が鮮烈だ。「しかし、お前たちは」と言う。この「しかし」の前に何があったのか。何があったにしてもこのような呪いの言葉を口にし、報復を望むべきではないとも言えるが、私たちの現実はそれで済んではいない。この呪いが「詩編」という神への祈りであることに注目したい。

2026年10月21日の聖句

主は常にあなたを導き 干上がった地でもあなたの渇きを癒やし 骨を強くされる。(イザヤ58:11) 私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11) 神さまは私たちの肉体にも強い関心をお持ちです。私たちに、日ごとの糧のために神に祈れと主イエスはお教えく...