2019年4月21日日曜日

2019年4月21日(マルコによる福音書16)

今日の通読箇所:マルコによる福音書16、ヨハネによる福音書20、詩編16

マルコによる福音書16;
 あなたは私の魂を陰府に捨て置かず
 あなたに忠実な者に滅びの穴を見せず
 命の道を私に示されます。
 御前には満ちあふれる喜びが
 右の手には麗しさが永遠にありますように。(詩編16:10~11)
イースターの朝、主の復活の朝を迎えました。墓の中のイエスの遺体に会いに来た女たちに、天使が言います。「十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」主イエスは、ただお一人、もう墓にはおられないと言いうる方です。私たちはやがて死に、葬られる。私たちの肉体はやがて滅びる。しかしその灰は、神が造ってくださった私たちの大切な肉体です。私たちはやがて死に、墓に入れられる。しかし、主は、もはや墓にはおられません。主は、ただお一人、墓から出てこられたのです。私たちをやがて同じ復活の命に入れるために。
ですから、私たちはキリストの命の祝福を信じて、共に賛美するのです。「あなたは私の魂を陰府に捨て置かず、命の道を私に示されます」と。
マルコによる福音書にしても、ヨハネによる福音書にしても、あるいは別の福音書でも、復活の知らせにはそれを信じられない人間の不信仰がつきまといます。あまりにも光に輝き、私たちの経験も想像も超えるこのよき知らせを、信じた人は一人もいなかった。それども、主は私たちと出会ってくださる。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなた方より先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。』」私たちともう一度出会うために、キリストはガリラヤに向かって行かれる。私たちの不信仰を信仰に、恐れを勇気に、悲しみを喜びに帰るために、私たちも、私たちの愛するものも、キリストは命の祝福で包んでいてくださいます。

2019年4月20日土曜日

2019年4月20日(ルカによる福音書23)

今日の通読箇所:ルカによる福音書23、ヨハネによる福音書18:28~19:42、詩編143

ルカによる福音書23;
受難週の土曜日は、一切が沈黙していた日です。土曜日は、ユダヤの社会では安息日です。すべての労働を中断します。埋葬もできません。イエスの墓はアリマタヤのヨセフという人が提供しました。金曜日の日没前に急いで葬られ、安息日を迎えました。この間、弟子たちが何をしていたのかは、聖書に記録されていません。ただ、「女たちは、安息日には戒めに従って休んだ(56b節)」とだけ書かれています。
しかし、考えてみれば世間は過越祭の真っ最中です。ユダヤの社会の中でも、一年の中で一番喜ばしい晴れの日です。都はお祭りムードだったでしょう。狂ったようにイエスを十字架につけた者たちは、きっと溜飲を下げて後は祭りを楽しんでいたのでしょう。過越祭の最中の安息日ですから、特別で重要な日であったのだろうと思います。
しかし、主を信じてきた者たちにとっては、絶望してもしたりない、悪夢のような一日であったに違いありません。世間の晴れ晴れとした雰囲気や空気は、彼らにとっては残酷であり、いよいよその傷は深くなるばかりであったでしょう。私たちには、そのような受難週の土曜日のような日が、ないでしょうか。
一切は沈黙している。主の御声が聞こえない。神の御姿が見えない。しかし、神はそこにおられないのではない。この日、主イエス・キリストは陰府にまで降っておられる。まさに、私たちの悲しみや絶望がどんなに深かろうと、それよりももっと深い深淵にまで下っていてくださるのは、この受難週の土曜日のことなのです。キリストが私たちの弱さに同情することがおできになるのは、この受難週の土曜日を通って行かれたからです。この沈黙は、やがて栄光の日曜日を迎える。主イエス・キリストの聖なる復活の日は、もう始まろうとしています。

2019年4月19日金曜日

2019年4月19日(マルコによる福音書15)

今日の通読箇所:マルコによる福音書15、ヨハネによる福音書18:1~27、詩編130

マルコによる福音書15;
「まことに、この人は神の子だった」、主イエスが十字架に掛けられているお姿を一番側で見ていた百人隊長が、そのように言いました。
イエスを十字架につけろと要求し、無理なその言い分を押し通したのは祭司長や律法学者たちであり、民衆の熱狂です。しかし、彼らが実際にイエスに手を下すわけではありません。その死刑を執行する者がいた。それが、この百人隊長でした。この人やその部下らが、イエスを実際に十字架に掛けたのです。彼は、いわばその現場責任者でした。
マルコはその時の彼をこのように言っています。「イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、『まことに、この人は神の子だった』と言った」。彼がイエスを本当に神の子だと感じ入ったのは、イエスが死んでいかれるお姿をまざまざと目撃をして、それでのことでした。
しかし、イエスの十字架のお姿には、「見るべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ(イザヤ53:2~3)」ていた。マルコは十字架に掛けられていくイエスが「王」と呼ばれていたことを繰り返す。「おまえはユダヤ人の王なのか」とピラトは問いました。あるいは彼は民衆に「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と、恩赦を願う意志があるのかと質します。死刑判決が出た後、兵士たちは『ユダヤ人の王、万歳』といってイエスを侮辱しました。紫の衣を着せ、と茨の冠を被らせて、徹底的に馬鹿にしました。十字架につけられたイエスの頭上に張り出された罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていました。そして、祭司長や律法学者たちもイエスを侮辱して、「メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」と言ってのけたのです。イエスは最後の最後まで侮辱され、何一つとして麗しさが残らないように、入念に準備された屈辱的な死の中に放り込まれたのです。
百人隊長は、まさにそのお姿を見て、「まことに、この人は神の子だった」と言いました。私たち人間の悪がどんなに恐ろしく、それが神を殺すほどのものであったとしても、どこまでもへりくだって、神にまで捨てられたお方の真実を覆い隠すことはできないのです。私たちも、この聖なる金曜日に十字架に掛けられたキリストを見つめ、神の子への信仰を新たにして頂きたく願います。

2019年4月18日木曜日

2019年4月18日(マルコによる福音書14)

今日の聖書箇所:マルコによる福音書14、ヨハネによる福音書17、詩編102

マルコによる福音書14;
この受難週に与えられている詩編の祈りは、150編ある詩編の中でも特に七つの悔い改めの詩編と呼ばれるものです。今日の第102編を読んで、18節が心にとまりました。「主はすべてを失った者の祈りを顧み、その祈りを軽んじられませんでした。」さらに、これに先立つ15節にはこのようにあります。「あなたの僕たちはシオンの石をもいとおしみ、その塵さえ慕います。」この言葉を読んで私がすぐに思ったのは、火事で焼けてしまったパリのノートルダム大聖堂です。長い歴史を経てきた祈りの家が焼けてしまった。そこを信仰の場所としてきた人にとっては、まさにその塵さえもかけがえのないものであると思います。主は、すべてを失った者の祈りを顧みてくださいます。
今日のマルコによる福音書の御言葉はとても長い箇所でした。主イエスが十字架へと向かって行かれる歩みを、細切れにではなく少し長い区切りで通して読むのでなければ気づかないこともあります。主の十字架への歩みは、ユダやペトロに代表される人間の裏切りやつまずきと絡み合うようにして進んでいた、ということです。
主イエスが望まれた過越の食卓。その席上で裏切ろうとしている者がいると主は言われた。そして彼もいる席で主の晩餐が祝われました。さらにオリーブ山に向かっていくときに、ペトロにもつまづきの予告がなされました。彼はそれを否定します。しかしゲツセマネで主が祈っているとき、ペトロたちは眠っていました。その後実際にユダが裏切り、主は引き渡され、弟子たちは皆逃げます。若者も逃げます。主は裁判に掛けられ、その間、ペトロは主がおっしゃったとおりにイエスにつまずいて彼を知らないと言ってしまいました。静かに十字架へ向かって行かれる主のお姿と、心騒ぎ、ざわつきながらイエスから離れていく弟子たちの姿が恐ろしいほど鮮やかな対照になって出来事が進んでいきます。
私たちは、このようにしてイエスを裏切ったのです。ペトロのように。ユダのように。私たちが殺したのは、どんなに歴史があり、多くの人が愛した礼拝堂よりももっと尊いものです。その祈りの場で祈っている相手であられる方を裏切り、この方を十字架につけたのです。
今日、この受難週の木曜日、受難週祈祷会では聖餐を祝いました。裏切り者のために主が用意してくださった食卓に、あずかりました。今度の日曜日、イースターにも同じ食卓を囲みます。私たちのために、主が食卓を準備して、私たちを招いてくださっています。

詩編第148編「天でも地でも」


「ハレル」というヘブル語は「賛美せよ」という言葉。天でも地でも、海でも、どこであっても主へのハレルが声高に呼びかける。日や月、星は、古代世界では神と考えられていた。海に住む竜も同じようなものだろう。あらゆる動植物や自然界の脅威も登場する。賛美されるべきお方は、この世界のすべてのものの支配者。この詩編はそう主張しているのだ。私たちも声を合わせよう。神がお造りになったこのすばらしい世界に生きる者の一人として。

2019年4月17日水曜日

2019年4月17日・受難週水曜日(マルコによる福音書12:41~13:37)

今日の通読箇所:マルコによる福音書12:41~13:37、ヨハネによる福音書16、詩編51

マルコによる福音書12:41~13:37;
マルコによる福音書第13章は、マルコの小黙示録と呼ばれることもあります。これからイスラエルを襲う大いなる苦難、そしてイエスが再び来るという約束、天地の終わりについて語り、「気をつけて、目を覚ましていなさい」とご自分を信じる者たちを励まします。この第13章の中心は、24から27節です。「その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る(26節)」。人の子、イエスが来てくださる。私たちの目はそれを仰ぎ見る。苦しむ私たちを救うために。キリストご自身が来てくださる。そう約束してくださいました。私たちの「今このとき」という時間の意味は、キリストを待つ、という一点につきます。
今朝は日本聖書協会の指定に従って、マルコ第13章だけではなく、12:41からのところを合わせて読んでいます。ある貧しいやもめが、神殿でレプトン銅貨二枚を献金した、という話です。レプトン銅貨は当時の貨幣の中で一番価値が低いものです。私たちで言えば、2円ということでしょうか。しかしそれは「乏しい中から持っているものをすべて、生活費を全部入れた」のだと主イエスに評価されています。
この神殿での出来事の直後から、大いなる苦難(つまり、神殿もやがて崩れ落ちるということ。実際に紀元70年に神殿は戦火に崩れ落ちました。)が予告されます。本当に神殿で献げられるべき祈りを捧げた貧しいやもめ。それに対して見せかけの祈りをし、有り余る中からしか献金しない大勢の金持ち。形や人の目に見える所ではない、まことの信仰を見抜いておられる神様のまなざしの中に、私もまた立たされていることを思わされます。そう考えると、今朝の詩編第51編の御言葉を思わないわけには行きません。「あなたはいけにえを好まれません焼き尽くすいけにえを献げても、あなたは喜ばれません。神の求めるいけにえは砕かれた霊。神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません(18~19節)」。私たちの苦難の日に、目に見える所を取り繕うのではなく、打ち砕かれた心を神に献げたいと思います。ダビデのように、そしてあの貧しいやもめのように。これこそ、キリストの再び来てくださることを待ち望む信仰なのです。

2019年4月16日火曜日

2019年4月16日・受難週火曜日(マルコによる福音書12:18~40)

今日の通読箇所:マルコによる福音書12:18~40、ヨハネによる福音書15、詩編38

マルコによる福音書12:18~40;
サドカイ派の人々が登場します。彼らは、復活はないと主張していました。主イエスをやり込めようと、練りに練った質問をぶつけます。この問答には、旧約聖書の律法で定められた掟が関係しています。申命記25:5~10に登場する掟で、レビラート婚と呼ばれます。もしも兄が結婚し、子を残さないままで死んだ場合、弟が兄の妻をめとります。子どもが生まれた場合は亡くなった兄の子となり、兄の家名を継ぐのです。サドカイ派の人々は、七人兄弟でレビラート婚が繰り返された場合、復活の時にこの女性は誰の妻になるのかと言い出しました。明らかに、実際にそういうケースがあったというようなことではなく、質問のための質問、復活はないと論証するための想像上のケースです。
これに対して、主イエスは、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか(24節)」と言われました。サドカイ派が言っていることは、全然見当違いだということです。
サドカイ派がしたことは、論争のための抽象化です。彼らの想定問答には、実際に血の通った人間がいません。夫を亡くして悲しむ妻の姿も、家族を失って途方に暮れる遺族の姿もありません。ところが、主イエスがおっしゃったことはどうだったのか。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたがたは大変な思い違いをしている(27)」。彼らの思い違いの根は、生きた人間を失ったことにあるのではないかと思います。ところが主イエスにとっては、神は生きて働いておられる方です。だから、目の前にいる人間も生きており、その悲しみや不安、恐れと共に、主はいつもおられるのです。主イエスは、生きた神ご自身であって、私たちの長い生活やそのためのやるせなさや悲しみ、嘆きに、救いを届けてくださいます。
私たちは、時に自分の思い込みを正当化するために生きた人間を失います。それは惨めなことです。愚かな罪です。だからこそ、生きた神に立ち返るために、まことに死者の中から復活したお方に、私たちを思い違いから解き放ってくださるようにと祈り願います。

2026年6月16日の聖句

主を畏れるところには強い信頼が生まれる。(箴言14:26) 神から生まれた人は誰も罪を犯しません。(1ヨハネ5:18) 今日の新約の御言葉を聞くと、私たちは脳内で勝手に変換してしまうのではないでしょうか。「罪を犯した人は神から生まれた人ではありません」「罪を犯す私は神...