2020年9月30日水曜日

2020年9月30日(テモテへの手紙二4)

テモテへの手紙二4
「神の前で、そして生きている者と死んだ者とを裁かれるキリスト・イエスの前で、その出現と御国とを思い、私は厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りの良い話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。しかしあなたは、何事にも身を慎み、苦しみに耐え、福音宣教者の働きをなし、自分の務めを全うしなさい。」

パウロという一人の人が、テモテという一人の人へ書いた手紙を読んできました。パウロはテモテの顔を思い浮かべながらこの手紙を書いたはずです。テモテが今遭っている試練、そこでの彼の意気消沈を思い浮かべながら、テモテの信仰が再び燃え、共に主のために仕える喜びを分かち合おうと願って、これを書いたのでしょう。パーソナルな手紙です。それがパブリックな意味をもって聖書に収められ、私たちの手にも届けられたというのは不思議な神様の御業です。この手紙は私たちの教会への手紙であり、そして、私たち一人ひとりへの手紙に他ならないのです。
ですから、今日の言葉も私たち一人ひとりへの勧めの言葉として受け止めたいと思います。「福音宣教者の働きをなし」というのは、牧師や宣教師、教会やキリスト教関係の職業に就いている人に言っていること、ではありません。明らかにそれは誤解です。キリストを信じる者は誰でもキリストの弟子であり、だれもが福音宣教者です。私たちは、キリストの福音を証しします。
現代は、決して良い時ではないと思います。誰も健全な教えを聞こうとはしない。忍耐が必要です。苦しみに耐えねばならないでしょう。しかし、この言葉もまた私たちのための言葉です、「私は、戦いを立派に闘い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今や、義の冠が私を待っているばかりです。」キリストは、私たちのために義の冠を準備して待っていてくださいます。だからこそ、私たちは走り抜くことができる。ゴールにキリストが待っていてくださるから。
キリストの福音は、私たちに命を与えます。この世界のための救いの言葉です。私たちには、福音そのものであるキリストを告げる聖書の御言葉が必要なのです。

2020年9月29日火曜日

2020年9月29日(テモテへの手紙一3)

テモテへの手紙二3
「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようとする者は皆、迫害を受けます。一方、悪人や詐欺師は惑わし、惑わされながら、ますます悪に進んで行きます。だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また、自分が幼い頃から聖書に親しんできたことを知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を与えることができるからです。」

アメリカで人種差別の事柄が社会的な大きな問題になっています。人種差別の被害を受けて不当に殺害された人たちの名前が書かれたマスクを大坂なおみさんが着けていました。勇気ある行動だと思います。米国社会でどう受け取られていたのかは私には知るよしもありませんが、日本社会の受け止めで私がとても気になったのは、言いようのない嘲笑ムードが漂っていたことです。私たちの社会は差別が行われている現状を「現実的」と言ってそのまま受け入れてしまうところがある。黒人の側が暴力的なのがいけないのだ、と。確かに暴力を振るってしまっている人もいるでしょう。しかし圧倒的な差別への異議申し立てに対して、スポーツ選手が政治を口にするな、スポンサーに迷惑などと嘲笑い、抗議運動にはテロ組織が関わっていると言ったデマまで流すようなものもいます。
キング牧師が今いたら、何と言うだろうかと思います。日本人は、キリスト者でなくてもキング牧師が好きな人が多いと思います。教科書にも載っています。オバマ大統領が誕生したときには、キングの夢が叶ったなどと盛んにニュースが言っていました。しかし実際にはキング牧師がしたのと同じ人種差別への抵抗の姿勢を示す者を嘲笑しているというのは、やはり矛盾と言わないわけには行きません。
人種差別やそれを遠目に見ている私たちという問題だけではなく、貧富の格差や原発問題などありとあらゆるところで同じ構図だと思います。一つの問題は、私たちがある意味での「理想主義」を失ったことにあると思います。夢や幻を語る言葉が通用しないことが「現実的」だとされる。それは今の時代の精神だと思います。
聖書は、キリスト・イエスへの信仰による救いに私たちを導きます。救い、それは究極の理想です。私たちの理想の寄せ集めではありません。上から降りてきた夢であり、幻であり、約束です。私たちは救いの約束を、ただ聖書からだけ学ぶことができる。その約束された救いの世界は、これです。「狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み、小さな子どもがそれを導く。」完全なる平和の世界が来る。主イエス・キリストは、そのために十字架にかかり、世界を損ない苦しめる私たちの罪から、私たちを救ってくださったのです。

2020年9月28日月曜日

2020年9月28日(テモテへの手紙二2)

テモテへの手紙二2
「私たちは、この方と共に死んだのなら
この方と共に生きるようになる。
耐え忍ぶなら
この方と共に支配するようになる。
私たちが否むなら
この方も私たちを否まれる。
私たちが真実でなくても
この方は常に真実であられる。
この方はご自身を
  否むことはできないからである。」

恐らく、当時の教会で歌われていた賛美歌なのだろうと思います。深く私たちの心に残る、本当に素晴らしい賛美歌です。どういうメロディだったのかが分かればどんなにか素敵であったかと思いますが、しかし一番大切な歌詞を共有して、心を合わせられるのは本当にしあわせなことです。
主イエス・キリストへの愛と信仰に生きる幸いを見事に歌っています。特に、パウロはこの言葉を地で生きるような人でした。「この方と共に死んだのなら」と言っています。この賛美歌が引用される直前に、パウロは「この福音のために私は苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」と言っています。文字通りに、パウロの面前に死が迫っていた。パウロはもうしばらくすれば殉教します。しかし「この方とともに死ぬ」というのは、そういう意味だけではないと思います。私たちは洗礼を受けるときに、一度死にます。洗礼はもともとは水に沈めて授けていました。水に沈められるというのは、そこで死ぬということです。水に沈められた者はもう一度自ら出て来る。新しい命の象徴です。私たちの教会で頭に水を振りかけて洗礼を授けますが、意味は全く同じです。さらに、頭にかけられる水は、降ってきた聖霊の象徴でもある。私たちは神の霊によって新しい命に生きる。それが「新しい命」である以上、以前の私は死んだということになる。私たちはキリストともに死に、キリストと共に生きるのです。
私たちの新しい生は、キリストの真実に頼っています。私たち自身の真実ではない。むしろ、私たちの内を探しても真実など見つかりはしないでしょう。そうであっても、キリストの真実が変わってしまうことはありえない。だから、私たちは耐え忍ぶことができるし、キリストを否むことなく生きていきます。ここに、私たちの命をつなぐ水脈があるからです。

2020年9月27日日曜日

2020年9月27日(テモテへの手紙二1)

テモテへの手紙二1
「私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。ですから、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてください。」

パウロからテモテへの手紙は、新約聖書には二通収おさめられています。この第二の手紙は、パウロの殉教からあまり遠くない時期、謂わば晩年の手紙であると考えられています。その頃、パウロはローマで囚人でした。そして、パウロがこの時囚われの身であったという事実は、若き同志テモテにとっても少なからぬ意味を持っていたようです。
テモテがパウロが囚われの身であることを知って奮起した、ということではありません。むしろ意気阻喪した。臆病になってしまった。何かのきっかけで、それまでの信仰の火がふっと消えてしまうようなことは、多くの人が経験するのではないかと思います。あのときの燃え立つ思いは一体何だったのか。どうしても元気に信じる意欲がわかない。あるいは、迫害であってもほかの理由があるにしても、怖くなってしまって、これ以上神を信じたり、教会に行ったりすることができなくなってしまう・・・。テモテは、この時まさにそういう状態だったようです。
パウロはテモテに向かって、もっと根性を出せとは言いませんでした。自分を奮い立たせろとか、自己啓発に励めとは言いませんでした。かといって、あなたにはあなたの道があるから、好きに選べば良いとも言いませんでした。「あなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい」と言います。神の賜物です。「賜物」というからには、それは神が与えてくださったものです。自分の中にある何らかの元気の素ではない。神の与えてくださったものに気付け、というのです。そして、それは臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だと言う。自分の内側にある自分の才能を探すなら、臆病の霊しか見つからないかもしれません。しかし、神が、力と愛と思慮の霊を与えてくださった。この「霊」とは、神ご自身の霊、つまり聖霊以外には考えられません。神ご自身の力、愛、思慮が、私たちの内に宿っていることにパウロは気づかせるのです。
だから、パウロが囚人であることを恐れないでほしいとパウロは言います。何者も恐れないでほしい。むしろ、神があなたに与えてくださった賜物のゆえに安心し、喜んでほしい。それがパウロがテモテに、そして私たちに望んでいることではないでしょうか。私たちには必ず意気阻喪してしまうときがあるのです。だからこそ、神が私にしてくださっていることに、私たちの両目を向けましょう。

2020年9月26日土曜日

2020年9月26日(テモテへの手紙一6)

テモテへの手紙一6
「もっとも、満ち足りる心を伴った敬虔は、大きな利得の道です。私たちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができないからです。食べる物と着る物があれば、私たちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまな欲望に陥ります。その欲望が人を破滅と滅亡へと突き落とすのです。金銭の欲が諸悪の根源だからです。金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、さまざまな苦痛でわが身を刺し貫いた者たちもいます。
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に闘い抜いて、永遠の命を獲得しなさい。あなたは、そのために召され、多くの証人の前で立派に告白をしたのです。」

この聖書の言葉を読んで、私にはとても痛い言葉でした。金銭の欲が諸悪の根源だと言っています。はっきり言って、私は金銭の欲に弱いです。だから、とても痛い言葉です。金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、さまざまな苦痛でわが身を刺し貫いた者たちもいると言います。自分と関係が無い話だとはどうしたって言えません。確かに死ぬときには何も持って行かれないですが、それまでの間はお金がなくては生きていかれないし、少ないよりは多い方が好い。それが正直なところです。
主イエスは言われます。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)。これは、主イエスの言葉として聞くということ以外の聞き方は赦されない言葉であると思います。そうでないと、ただのきれい事になりかねない。しかし主イエスが語る言葉であるのであれば、これは福音の言葉です。貧しい者のために神の国を来たらせるという約束を伴った宣言だからです。
パウロは言います。「ポンティオ・ピラトの面前で立派な告白をして証ししたキリスト・イエスの前で」と。私のために貧しくなり、私のためにピラトの面前で告白をし、私のために十字架にかけられたキリスト。この方は、私のために神の国の到来を宣言するために十字架にかかり、ご自身のすべてを献げました。
私は自分の金銭の欲への弱さを、キリストの前で、悔い改めをもって思い巡らします。そういう誘惑への弱さが自分の中からすっかり消え去ってしまうということは簡単ではありません。しかしキリストへの敬虔はその誘惑に打ち勝つ力であると信じています。このキリストが教えてくださったからです、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りを。

2020年9月25日金曜日

2020年9月25日(テモテへの手紙一5)

テモテへの手紙一5
「年長の男性を叱ってはなりません。むしろ、父親と思って諭しなさい。若い男性は兄弟と思い、年長の女性は母親と思い、若い女性には常に純潔な思いで姉妹と思って諭しなさい。」
教会に来ている具体的な顔を持つ多様な人々と共に一つの共同体を形成する秘訣がここに書かれているのだと思います。この章を読んでいくと、若いやもめや年を取ったやもめ、罪を犯したという疑いが向けられた長老、自身の自己管理のことなどが書かれています。当時の社会的な背景をよくわきまえるべき言葉が多いと思います。
例えば、若いやもめは罪を犯さないように早く再婚しなさいと言っていますが、これをそのまま現代に適用するわけにはいかないと思います。聖書に収められた諸文書は一般論を述べているのではなく、もともとある特定の時代に、特定の文化圏に生きる信仰者に向けて書かれたものです。今私たちが読んでいるのは、その中でも特定の差出人から特定の宛先へ出された「手紙」です。その特殊な事情を持つ文書が、キリストを証言する言葉であるという点において神の言葉として語り出し、また神の言葉として聞かれる。それは聖霊なる神様の御業です。ですので字面だけに目を奪われるのではなく、中心的なメッセージは何かということに積極的に耳を傾ける姿勢が欠かせないと考えています。
このメールの冒頭の言葉は5:1~2ですが、ここを読むと、お互いに対する基本的な尊敬を持つことの大切さを思わされます。年長の男性は父親と、年長の女性は母親と、若い男性は兄弟と、若い女性は姉妹と思って接する。尊敬と愛情を前提にした人間関係です。やもめは、特に社会的に弱い立場にある人です。聖書は旧約の時代から一貫してやもめの立場を擁護してきました。孤児や寄留者も同じです。彼ら・彼女らを守ることは、教会に神様が期待していることです。社会的に排除される者も、キリストにあって尊敬し、受け入れるべき存在です。何よりも、キリストご自身が決してやもめを蔑ろにはしないお方です。
聖書の中心的なメッセージは、キリストです。ですので、私たちの人間関係を考えるときにも、キリストに集中して捉え直すということが大切なのだと思います。キリストは、今この人に何をしておられるのか?その点における想像力を抱き、キリストがこの人と私との間にいてくださることに気づくとき、まさに教会の中心にキリストがおられることに私たちは気づくのです。

2020年9月24日木曜日

2020年9月24日(テモテへの手紙一4)

テモテへの手紙一4
「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」

この章では、パウロは最初に「霊が明らかに言われるように、後の時代になると、惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われて、信仰から離れる者がいます」と始めています。後の時代というのは、直前が主イエスの歩みについて語る敬虔の秘儀の話でしたので、主イエスよりも後の時代、つまり、現代も含む代々の時代のことであるのだと思います。そして、この時代には惑わす霊と悪霊の教えが私たちの心を奪うと言います。その教えは偽善であり、私たちの良心に押された焼き印を刺激するものだと言ってます。
具体的には、ここでは結婚を禁じたり食べ物を絶ったりすることをよしとしている。性的禁欲、食欲における禁欲。一見すると高邁な信仰的禁欲のようにも見えますが、それは偽善だと言います。食べ物も性の営みも、それ自体は神が造ってくださったものであって、「信仰があり、真理を認識している人が感謝して受けるなら、捨てるべきものは何もありません」。
パウロは物事の本質を見る目があったのだなと思います。一見すると、禁欲は崇高な行いです。しかしそれを偽善と呼ぶのは、結局禁欲が自分の良心を基準にしているからです。まさかあの人が、という人が過ちを犯してしまうことは間々あります。それは不真面目だからではなくて、真面目だからなのだと思います。我慢が何かのきっかけではじけ飛んでしまう。それは、ある意味では必然だと思います。私たちは弱いですし、それに食べることも性の営みも、そもそも全面的に否定すべきものではないからです。神が造ってくださったものとして感謝して受けるならば。
私たちが自分の良心を基準にして物事を判断する限り、そういうところでの歪みは如何ともし難い。そこでパウロは言います。「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい」と。聖書が私たちの判断の基準になる。ただ問題は、聖書をどう読むのかということです。聖書の言葉を自分の良心に引き寄せて読むということだって起こります。そこで、ここでの大切なキーワードは「励まし」です。慰めとも翻訳できる単語です。聖書の言葉は私たちへのキリストからの励ましであり、慰めです。私たちは自分の良心を満足させるためではなく、キリストへの奉仕者として、キリストに自由にして頂いた者として、感謝と喜びの内に生きることができる。聖書をキリストからの励まし、慰めの言葉として聞くときに、私たちの生きる航路を示す羅針盤として、聖書の御言葉を聞く敬虔の道が拓けるのではないでしょうか。

2026年7月27日の聖句

主の目は正しき人に注がれ その耳は彼らの叫びを聞く。(詩編34:16) ピラトが裁判の席に着いているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」(マタイ27:19) ピラトの妻...