2025年2月5日水曜日

2025年2月5日の聖句

(神の僕の言葉)私は打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。(イザヤ書50:6)
(イエスの言葉)友のために命を捨てる者ほど、大きな愛をもつ者はいない。(ヨハネ15:13)

私は鞭で打たれたことはありませんが、厭な目に遭ったり侮辱されたりしたことは人並みにはあります。しかし、今日の旧約の御言葉が伝える神の僕は、単に厭な目に遭ったというのではありません。「私は打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。」打とうとする者に自分の背中を差し出した。髭を抜こうとする者に頬を差し出した。意図せず侮辱されたとか、無理強いされて厭な目に遭わされたとか、抵抗したのに力で負かされたというのではありません。背中を差し出し、頬を向けた。「辱めと唾から私は顔を隠さなかった。」屈辱や人々の憎しみを前に、自らそこに進み出、それを敢えて享受した、というのです。驚くべき言葉です。
主イエス・キリストがおっしゃる「友のために命を捨てる」というのは、そういうことです。たまたま人の犠牲になったというのではない。巡り合わせが悪く身代わりになってしまった、というのではないのです。主イエス・キリストは御自らそこに進み出、私たちを愛し、しかも愛の極みを貫いてくださって、私たちのために命を捨ててくださいました。キリストの苦しみは、私たちへの愛のための苦しみです。
今日私たちが生きるこの命は、キリストの差し出してくださった命によって与えられたものです。私たちはキリストの究極の愛によって今日も生かされています。辱めと唾を私たちのために顔を隠さずにお受けくださったお方こそ、私たちの誉れです。

2025年2月4日火曜日

2025年2月4日の聖句

私の言葉は火のようではないかーー主の仰せ。
また、岩を打ち砕く槌のようではないか。(エレミヤ23:29)
神の言葉は生きていて、力があり、いかなる諸刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。(ヘブライ4:12)

関節と骨髄を切り離すまでに刺し通す。すごい切れ味です。鋭い切れ味の諸刃の剣のように、神の言葉は私たちの思いや考えを切り分ける。なまくらな刃ではそういうわけにいきません。手入れしていない包丁では肉を切ることもままならない。しかし神の言葉は関節と骨髄ですら切り離す切れ味だといいます。魂と霊も心の思いや考えを腑分けし、見分けることができる。神の言葉を聞くとき、私たちは神様ご自身に問われるのです。
神の言葉は、火のように私たちを裁きます。岩を打ち砕く槌のように私たちを砕きます。神の言葉は、私たちの心の中から湧き上がってきたり私たちの願望が生み出した言葉ではないからです。私たちとは異質な言葉、聖なる言葉だからです。
聖書を読んでいても、よく分からないことがあります。何でこんなことが書いてあるのか?ちょっとおかしいんじゃないか?例えば、この前の日曜日には、おとめマリアが身ごもって男の子を産むと天使が告げたというところをご一緒に読みました。おとめが身ごもるなんて、科学的に考えれば全くあり得ないことです。しかし私たちの常識ではあり得ないところで神様の御業が始まっています。神の子でいらっしゃるお方が一人のおとめからお生まれになった。一人の人間になって私たちのところに来てくださった。聖書を読んで異質に感じるところには必ず宝が埋まっています。神さまの御言葉であり、神様がなさることですから、私たちに異質であるのは当然のことです。神は御言葉によって私たちを裁くことによって、私たちが想像もしなかった恵みの世界へ私たちを連れ出してくださるのです。
御言葉に聞きましょう。聖なるお方の聖なる御言葉に耳を傾けましょう。異質な言葉の世界、聖なる言葉の世界に、神は今日あなたを連れ出してくださっているのです。

2025年2月3日月曜日

2025年2月3日の聖句

御手が私たちの上にあって、神は私たちを救いだしてくださった。(エズラ8:31)
(パウロの手紙)このような迫害に私は耐え、そのすべてから主は私を助け出してくださったのです。(テモテ二3:11)

今日の新約の御言葉は「このような迫害」と始まっています。「このような」というのは、どのような迫害なのでしょうか。そう思って直前の言葉を読んでみると、こう書かれています。「アンティオキアやイコニオン、リストラで私に降りかかった迫害や苦難・・・。」つまり、パウロは「このような迫害」と言っていますが、具体的にどのような迫害を受け、どんなに酷い目に遭ったのかということについては書いてないのです。ちょっと不思議だと思います。私だったら、どんな苦労をしたのか細かく書いて、相手の気をひこうとすると思います。しかし、パウロはそのようなことを書かない。
なぜでしょう。手紙の宛先になっているテモテがパウロの事情をよく知っていたからとも考えられます。しかしそれだけではないと思います。パウロの興味は、ちょっと違うところにあるのではないでしょうか。「このような迫害に私は耐え、そのすべてから主は私を助け出してくださったのです。」パウロは自分が耐えた迫害がどんなに厳しく辛いものだったのかということよりも、主がそこから私を助け出してくださったということに私たちの目を向けさせようとしているのではないでしょうか。神が私を助け、働いてくださった!
「御手が私たちの上にあって、神は私たちを救いだしてくださった。」パウロも、この言葉に「アーメン」と応えるでしょう。私たちも同じです。私たちも神の助けによって今日生きています。私たちを御心に留めてくださり、私たちを救うために今日も生きて働いてくださっている神に、栄光と誉れがありますように!

2025年2月2日日曜日

2025年2月2日の聖句

今週の聖句:
あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)

今日の聖句:
イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。(民数記9:18)
信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになっている土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。(ヘブライ11:8)

私たちは神の民です。この世という荒野を旅する神の民。ですから私たちは進むのにも主のご命令に従い、宿営するにも主のご命令に従います。主が私たちを導いてくださる。そのことを信じ、主のご命令に従ってこの世界で生きていきます。
主のご命令。主は主イエス・キリストを通して語りかけてくださると私たちは信じています。キリストのお姿、その歩み、御言葉。それら一つひとつが私たちへの神の語りかけです。キリストの聖なる愛が私たちの道を示し、私たちを神の民として練り上げてくださると信じます。
「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになっている土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。」信仰によって、と聖書は書きます。アブラハムの旅は信仰による旅だった。それだけです。それ以外には何もないし、ほかには何も必要ない。人間として私たちが欲する保証も、安心や安全の確証も、アブラハムは持ちません。信仰によって神のご命令に従った。ここに、私たちに先立つ信仰者がいます。私たちも同じ旅路に生きています。

2025年2月1日土曜日

2025年2月1日の聖句

2月の聖句:
あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。(詩編16:11)

今日の聖句:
地の塵となっている眠る人々の中から、多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと、またある者はそしりと永遠のとがめへと。(ダニエル12:2)
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ14:9)

キリストは十字架にかけられて死に、陰府に降りました。「陰府」は、神に棄てられた者の行くべき場所です。十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とキリストが叫ばれたとき、そこに陰府の深い穴が開いていたのです。
しかしキリストは死者の中から復活させられました。神に棄てられた方、陰府の底に降りて行かれた方を神がご自分の栄光の座に引き上げられたのです。
神に棄てられたこのお方こそ、死んだ者の主です。神に復活させられたこのお方こそ、生きている者の主です。キリストという、主であるお方が私たちを生きているときにも死ぬときにも治めておられます。
聖書が告げるこの事実に対する恐れを、私たちは決して失ってはならないのだと思います。私たちは、神様のことをなめてはいないでしょうか?私たちの生きるのも死ぬのも支配しておられる方だと骨身に染みてわきまえているでしょうか?もしも神を恐れることを忘れてしまっているのだとしたら、キリストの十字架と復活にひれ伏す信仰を新たにして頂かなくてはならないのではないでしょうか。私たちの生も死も、偶然や私たちの思いやこの世の力関係など、その他この類いのものが支配しているのではない。キリストを私たちにくださった神が御支配くださり、いのちの道へと導いてくださっているのです。

2025年2月5日の聖句

(神の僕の言葉)私は打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。(イザヤ書50:6) (イエスの言葉)友のために命を捨てる者ほど、大きな愛をもつ者はいない。(ヨハネ15:13) 私は鞭で打たれたことはありませんが、厭...