2025年2月28日金曜日

2025年2月28日の聖句

(神よ、)あなたは人が私たちの頭の上を越え行くことをお許しになり、
私たちは火や水の中を歩みました。
しかしあなたは私たちを導き出して、
力を取り戻させてくださいました。(詩編66:12)
(パウロの手紙)(私たちは)迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。(2コリント4:9~10)

「私たちは火や水の中を歩みました。」火や水の中というのは、大変なことです。そうとしか表現できないような大変な苦しみの中に生きてきたのでしょう。しかも「人が私たちの頭の上を越え行く」と言っているのですから、その苦しみには人間が関わっています。誰かの加害によって自分が受けている苦しみ。まるで火に焼かれるように、水に沈められてしまうように。しかしそんな苦しみも、神様の手の中にあります。人が私の頭の上を越え行くことをお許しになったのは、神です。そうであるからこそ、神がこの苦しみの中から私たちを導き出し、力を取り戻させてくださる。火の中、水の中にあって、なお神を信頼しています。
パウロも言います。「私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。」主イエス・キリストは十字架にかけられました。このお方の死を、私もこの身に負っている。そのことに気付いたとき、私たちの死も苦しみも、その意味が変わる。十字架のキリストに連なるものとなる。「イエスの命がこの身に現れる」のです。私たちの救いがここにある。私たちはそう信じます。私たちの苦しみも救いも、すべては慈しみに満ちた神の御手にあります。

2025年2月26日水曜日

2025年2月26日の聖句

誰が主の霊を量り、助言者として主に教えたのか。(イザヤ40:13)
風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである。(ヨハネ3:8)

そうです。その通りです。誰が主の霊にお教えすることができるのか。一体誰が神様にアドバイスをして、知恵を授けることができるのか。誰にもできません。神よりも賢い者など、どこにもいないのです!
私たちはすぐに自分を神よりも賢い者であるかのようにうぬぼれます。ニコデモもそうでした。今日の新約の御言葉はニコデモというファリサイ派の人に主イエスがおっしゃった言葉です。いや、このニコデモという人は、主イエスに高慢に振る舞っていたわけではありません。むしろ、教えを請いに主イエスのところにやって来た人です。それでもやはり主イエスがおっしゃっていることの意味が分からなかった。それで、主イエスから「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われてしまった。ニコデモには分からなかったのです。神の霊の自由が。神の霊が私たちに命を与えるために自由に振る舞われるということが、ニコデモには分からなかった。
神様は自由なお方です。私たちは神様を自分の常識とか、前もっている知識とか、枠組みとかに当てはめて考えようとします。だから、神様がなさることが分からなくなってしまいます。今私たちに起きていることも、同じではないでしょうか。神様は私たちの群れに何をしようとしておられるのか?私たちには分かりません。しかし、私たちに理解できなくても、それは命を与える神の御業です。風が思いのままに吹くように、神の霊は自由に働いておられます。だから、霊から生まれた者もまた自由。自由に神に従い、神を信頼する。私たちは自由な神の子として、愛をもって互いに仕えることができるのです。

2025年2月25日火曜日

2025年2月25日の聖句

主こそ私の力、私の歌。私の救いとなってくださった。(詩編118:14)
あなたがたの中に苦しんでいる人があれば、祈りなさい。喜んでいる人があれば、賛美の歌を歌いなさい。(ヤコブ5:13)

苦しんでいるとき、私たちは一体どうしたら良いのか。「祈りなさい」と聖書は言います。喜んでいるときには?そんなときには「賛美の歌を歌いなさい」と語りかける。祈り、歌い、私たちは生きていく。
これを実践するのは、思ったよりも難しいところがあるように思います。「困った時の神頼み」という言葉があります。普段は神様の事なんて忘れているくせに、困ったときにだけ神様に頼って祈りはじめる。そんな姿を批判を込めて表す言葉です。しかしもっと困ったことは、「困ったときの神離れ」ということが私たちには起こる。こんな目に遭わせるような神なんて信じるに値しないと、神から離れてしまう。神を信頼すること、あるいは祈って助けを求めることなんて自分には必要ない、と神様を捨てる。
むしろ、本当に困ったときに頼ることのできる神、苦しみの日に祈ることのできる神がおられることはすてきなことなのではないでしょうか。祈りましょう。私たちの苦しみの日に。
そして、喜びの日には神を賛美して歌いましょう。喜びの中でも、私たちはしばしば神様のことを忘れます。喜びのあまりに神様のことなんて一つも考えなくなってしまう。しかし、私たちは神をあがめ、神を信じ、神様の御前に賛美の歌を献げたいと願います。
今日も、主イエス・キリストの恵みがあなたと共にありますように。

2025年2月24日月曜日

2025年2月24日の聖句

お前たちは鉢でぶどう酒を飲み、抜きん出て高価な香油を用いているが、自分たちの国が沈み行くことについて気にもかけない。(アモス6:6)
ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。(エフェソ5:18)

鉢からぶどう酒を飲むというのはどういう意味なのか。恐らく、ガバガバたくさん飲んだくれている、ということなのだと思います。酒に酔いしれて良い気持ちになって、自分の周りで一体何が起こっているのかを見ようともしない。抜きん出て高価な香油でおしゃれを楽しみ、その香りに夢中になっているが、自分たちが生きている国が沈んでいることを気にしていない。
これは、そのまま私たちに当てはまってしまいます。私たちの国も、どう考えても明らかに沈んでいます。地盤沈下が止まらない。私たちの国はあの陥没した道路と同じです。目に見えないところで水があふれ、地盤が脆弱になり、どこに穴が出現するか分かりません。子どもたちが大人になる時代に私たちの国は一体どうなっているのか。貧すれば鈍すると言いますが、経済的に貧しくなり、心もさもしい社会になってはいないでしょうか。
ところが、私たちはそういう社会の様相を知りながら見て見ぬ振りをしている、というのが今日の御言葉の指摘です。この社会に生きるたくさんの人の共通のプラットホームを守るために、皆が健やかにいきられるように、私たちキリスト者にもできることがあるはずだ、と今日の御言葉は訴えかけているのではないでしょうか。
新約では「御霊に満たされなさい」と言っています。神の霊に満たされる。私たちが信仰者でなければできない仕方で、この社会を支えるためにするべきことがある、ということであろうと思います。
私たちはキリストが宣言した神の国を知っています。共に生きるキリスト者の交わりに加えられています。私たちは「共に生きる」という価値を本当によく知っているのではないでしょうか。この世界は今それを欲しています。共に生きる場が必要です。家族共同体も地域共同体もいろいろなところで壊れています。その代替になっていた会社共同体も、共同体としての力は失われているように思います。しかし私たちは神の国という究極の共同体を知っています。他とは比べられない、キリストご自身の体です。共に生きる場を形成するために、神は私たちをこの世へ送り出しておられます。神の霊に満たされ、神の霊に力を頂いて、神の国に仕えるためにこの世界に遣わされているのです。

2025年2月23日日曜日

2025年2月23日の聖句

今週の聖句:
今日、あなたがたが神の声を聞くなら、心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:15)

今日の聖句:
(主の言葉)私は自分の家の周囲を見張るものとして自ら身を置く。(ゼカリヤ9:8)
イエスは起き上がり、風と荒波を叱りつけられた。すると静まり、凪になった。イエスは彼らに対して、「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と言われた。(ルカ8:24~25)

「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と主イエスは問うておられます。なんと厳しい言葉でしょうか。主イエスにそう問われて、一体何と答えられるでしょうか。これは主イエスと弟子たちが一緒に舟に乗ったときのことです。舟の中で主イエスは眠っておられます。ところが突風が吹き付けてきて彼らは水をかぶり、このままでは死んでしまうとイエスを起こした。主イエスは湖を鎮めてくださいましたが、弟子たちに問うたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのですか。」
私たちの信仰は、一体どこにあるでしょうか。私たちも弟子たちと同じではないでしょうか。平穏無事なときはよくても、ひとたび予期せぬ酷い目に遭えば「神も仏もない」と慌てふためいてしまう。私たちの信仰は一体どこにあるのでしょうか。
私たちには、嵐の中で主イエスが一体どこにおられるか分からなくなってしまうことがあります。神様の事なんて何も考えられなくなってしまうことがある。しかし、主イエスはこの舟の中におられます。私たちの教会の中にキリストはちゃんといてくださる。私たちの信仰は本当に情けなく、不確かで、申し開きもできないかもしれない。しかしキリストはこの舟の中にいてくださる。その事実が私たちを支えます。
だからこそ、キリストを信じましょう。今、私たちと共にいてくださるキリストを信じましょう。私たちの信仰はキリストにかかっています。キリストが共にいてくださるという約束にかかっているのです。

2025年2月22日土曜日

2025年2月22日の聖句

あなたは、ただ正義のみを追い求めなさい。そうすれば、あなたは命を得ることができる。(申命記16:20)
義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。(マタイ5:6)

正義が毀損されています。
それぞれ自分が考える「正義」の名の下に、他人を裁き、貶め、傷つけることが当然とされる世の中です。何か不祥事を起こした個人や企業などへのバッシングがやみません。不確実な情報を鵜呑みにした誹謗中傷が留まりません。本当は自分の快不快でしかないはずなのに、社会正義の名を騙って相手をやっつけるという事件がいろいろなところで起きています。
人間の営みは、昔からあまり変わらないのだと思います。ファリサイ的な営みはどんな時代にもあった。しかし今はそれがSNSなどによって一瞬にして拡散し、声が果てしなく大きく、影響力を持ってしまいます。正義が正義の名にもとるものになってしまったと、私は思っています。
「義に飢え渇く人々は、幸いである」と主イエスはおっしゃいました。主がおっしゃる「義」は、私たちが考えているものとは全然違います。神様との関わりが麗しいものであることです。造り主である神を私たちがあがめ、従うこと。それが「義」です。私たちは神の前に身をかがめるときに初めて義しく生き、考えることができる。義に飢え渇きましょう。神を畏れましょう。神の前にへりくだりましょう。
正義に混乱しているからといって、「正義なんて必要ない、それぞれ自分が良いと思ったことをすればいい」というのではありません。神を畏れる義が、今この世界に必要なのです。「あなたは、ただ正義のみを追い求めなさい。そうすれば、あなたは命を得ることができる。」

2025年2月21日金曜日

2025年2月21日の聖句

あなたの杖をもって、ご自分の民を牧してください。(ミカ7:14)
こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためです。(エフェソ4:11~12)

神様はご自分の羊の群れである私たちを牧するために、たくさんの働き人を整え、立て、必要な働きをさせてくださいました。
「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストの体を建て上げるためです。」
その働きによってキリストの体である教会を建て上げるために、たてられた人々はその分に応じて仕える。そうやって神の民が生み出されていきます。
教会は本当に不思議な場所です。いろいろな人がいます。何十年と信仰生活を営んできた人も、初めて教会を訪ねた人も、一緒に座ります。年齢も職業も、これまでの生きてきた歴史も、それぞれ違います。しかし私たちは一つの民とされ、ただ一人のキリストのお体にされている。そしてキリストのお体が立て上げられるためには、奉仕が必要です。
預言者、伝道者、牧師、教師といろいろな奉仕の名前が出てきます。それだけではないでしょう。お掃除も、受付も、花壇の整備も、会計処理も、お茶の準備も、何もかもです。そうやってキリストのお体が立て上げられていく。それは、神様ご自身の御業です。「キリストご自身が」私たちを一つの教会にしてくださいました。この地に立てられているキリストのお体を愛し、共に仕え、共に生きていきましょう。

2025年2月20日木曜日

2025年2月20日の聖句

主はご自分の民を裁き、僕らを憐れむ。(申命記32:36)
まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。(ルカ18:7)

神は私たちの叫びを必ず聞き、私たちのための裁きを行ってくださる。主イエス・キリストの約束の言葉です。
私たちには、「なぜですか?」と神様に訴え、問わねばならないときがあります。どうしてこのような不公正が許され、悪を行う人が大手を振っているのか。私たちには、どうしても分からないことがあるのではないでしょうか。特段、自分は絶対に正しいとか、自分こそが正義だと思っているわけではありません。それでも、「なぜ」と問わずにおれない。それが私たちの現実であると思います。
そんな時にこそ、主イエス・キリストの約束を信じましょう。神が裁きと憐れみを行ってくださることを信じ、神を待ち望みましょう。私たちの営みは、突き詰めればどこまでも不完全でしかないし、私たちには理解できないことはどこまでも残ります。そういうことについて、私たちには神様の答を待つこと以外、最終的にはないのだと思います。
「まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。」これは、主イエスさまの言葉です。主イエスこそ、ほかの誰よりも不条理な苦しみを負い、誰よりも不正義の攻撃に痛めつけられたお方です。このお方ご自身が神を信じ、神の裁きを待ち続けられました。
ですから、必ず神の憐れみが私たちにも見えてくる。そのことを信じて、神を待ち望みましょう。

2025年2月19日水曜日

2025年2月19日の聖句

もし、主が家を建てるのでなければ、それを建てる人々は空しく労苦することになる。(詩編127:1)
(シモンの言葉)「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかった。(ルカ5:5,6)

今日の御言葉を読むときに注意したいのは、シモンの漁はイエス様がおっしゃったとおりにしたから上手くいった、という話ではない、ということです。つまり、神様がおっしゃるとおりにすれば豊漁というご褒美がある、という話ではない。そこがまず大切だと思います。
シモンは一晩中、夜通し漁をして働きましたが何も捕れませんでした。もうこの時、すでに神さまの御手は働いていたのではないでしょうか。この夜の不漁がシモンの主イエスとの出会いの始まりになっていた。そして、主と出会い、お言葉を頂き、彼はそれに従った。そこで魚が捕れるという出来事を経験しました。そして、シモンが主イエスと出会って御言葉を聞いて新しい出来事を経験したとき、この夜の不漁の意味づけが変わったのではないかと思います。たった一匹の魚が捕れないときにも神の御手が働いてくださっていた。その事実に気付き、この夜の意味づけが変化したのではないでしょうか。
私たちの思いを超えて、神が働いてくださっています。私たちの理解できないことや失敗も、あるいは罪さえも用いて、神が私たちを通して御業を進めてくださっています。ですから、今日私たちも祈りの内に一日の仕事をし、神様に信頼して今日という一日に出て行きたいと願います。

2025年2月18日火曜日

2025年2月18日の聖句

こうして、あなたは知るようになる。
私が主であり、私を待ち望む者は恥を受けることがないと。(イザヤ49:23)
会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。(ルカ12:11~12)

「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれる」と書かれています。これらを現代の社会的立場に置き換えることはなかなかに難しいですが、役人や裁判官、警察や検察、あるいは職場の上司や社長、自分より強い立場にある取引先など、そのような相手と言っていいのではないかと思います。そのような人々の前に出て行かなくてはならず、しかも自分の信仰を弁明しなければならないとき・・・。そのようなとき、「何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配してはならない」と言うのです。
もう10年くらい前ですが、横浜地検の検事から教会に電話がかかってきたことがあります。○○さんという方はそちらの信者さんですか、という趣旨のことを尋ねられました。知らない名前だったので、知らないと言って電話は終わりました。一体どのような事件の捜査だったのか、今でも分かりません。もしもあのとき、私の知っている人の名前を尋ねられていたらどうしていたのだろう、と今でも考えてしまいます。
もちろん主イエスがおっしゃったのは捜査に協力するか否かという話ではありません。私たちよりも力ある者の前でいかにして信仰の証しをするのか、という話です。聖霊が言葉を下さるから安心して良いとおっしゃるのです。権力がある者は、恐ろしい存在です。いざというとき自分がどうなってしまうのか、考え始めると全然自信がありません。しかしそうやって心配しなくていい、聖霊が共にいてくださる。それがキリストの答えです。
信仰を拒む家族、分かってくれない友人など、いろいろな人が私たちの周りにいて、私たちはその人たちとも共に生きています。聖霊なる神様がご自身が、そういう関わりの中での言葉を下さる。これは本当に勇気になる約束ではないでしょうか。

2025年2月17日月曜日

2025年2月17日の聖句

主よ、私はあなたの真実と救いを語ります。私があなたの慈しみと誠を、大いなる会衆の前で隠し立てすることはありません。(詩編40:11)
(パウロの手紙)私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。(1テサロニケ2:2)

「あなたの真実と救い」。主なる神様が下さった、私たちのための真実と救い。それはイエス・キリストです。このお方こそ私たちのために貫かれた神の真実。このお方こそ私たちのための神の救い。キリストこそ、私たちのための神の福音そのものです。
「主よ、私はあなたの真実と救いを語ります」と言っています。キリストの福音を共に喜び、語り合い、神の慈しみと誠に耳を傾けて、私たちは一つの神の民にされます。キリストの福音によって、私たちに神の国がもたらされます。ですから、この詩編は「大いなる会衆の前で隠し立てすることはありません」と言います。私も、一人の牧師として「アーメン」と申します。神の福音が私たちキリストの教会の命です。
使徒パウロも言います。「私たちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中でもあなたがたに神の福音を語ったのでした。」私たちは、そのようにしてたくさんの人の口や生活を経て届けられた福音を、今、聞いています。この福音に生かされています。そして、私たち自身も同じようにキリストの証人として神様に立てられている。勇気を頂き、神に遣わされた使者として、今日も遣わされています。

2025年2月16日日曜日

2025年2月16日の聖句

今週の聖句:
私たちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえにあなたの前に嘆願を献げます。(ダニエル9:18b)

今日の聖句:
(主は)疲れた者に力を与え、勢いのない者に強さを加えられる。(イザヤ40:29)
(パウロの手紙)主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。(2コリント12:9)

疲れたことがない人は、一人もいないでしょう。勢いを失ったことのない人も誰一人としていないでしょう。ただ、この御言葉が言っているのは、ちょっと疲れてしまうときもあるとか、なかなか上手くいかなくて勢いが続かないとか、その程度のことではありません。もう何の勇気も気力もなく、上を見る力も残されていない。絶望。諦めるしかないが、諦める気力すらない。「虚脱」のときの話です。そんなときに主なる神様は私たちに力をくださいます。主は疲れた者に力を与えてくださる。勢いのない者に強さを加えてくださる。
使徒パウロは弱さを抱えて生きていた人でした。しかし、というよりもそうであるからこそ、神様により頼んで生きていました。自分ではどうすることもできない。神の恵みの力だけに頼って、神様の憐れみの中で生きている。「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。」これは、パウロの信仰告白です。自分に突き刺さる刺のような苦しみについて、どんなに神に取り去ってくださるように願ってもそうはならなかった。むしろ、その刺のささったままに神に従うように、神は私を招いておられる。神の恵みは私に十分与えられている。
神さまに依り頼み、神様の御前に生きていきましょう。主イエス・キリストの恵みがあなたを生かしてくださいます。

2025年2月15日土曜日

2025年2月15日の聖句

わが神よ、昼呼びかけても、あなたは答えてくださらず、夜も私は安らぎを見いだせないまま。(詩編22:3)
キリストは、人として生きておられたとき、深く嘆き、涙を流しながら、自分を死から救うことができる方に、祈りと願いとを献げ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブライ5:7)

主イエスさまは私たちと同じ人間になってくださいました。「私たちと同じ人間」ということの具体的な意味は、私たちと同じ弱い者になってくださった、ということです。私たちは試練に遭い、弱さを痛感し、助けを必要とします。肉体も心も、私たちは脆くて崩れやすい存在です。体は病気にもなるし、暑さ寒さに耐えることも辛く、少しずつ老いていくものです。心も同じで、ストレスは知らぬ間に積み重なるし、無理をすれば耐えられなくなってしまう。主イエスはそんな私たちの弱さをご自分に引き受けてくださいました。そのイエスを神は私たちのための救いと定めてくださったのです。
神の子キリストは、人として深く嘆かれました。涙を流されました。死を恐れました。この方ほど深く死を恐れた人は他にいません。死の意味を誰よりもご存じだったのは、人としてのキリストです。死は、単なる生命活動の終了ではない。滅びであり、神に棄てられることです。そういう絶望の中から、この方が祈りを捧げ、願いを献げ、神の御前に生きぬかれた。このお方の祈りを神は聞き入れてくださいました。
主イエス・キリストは私たちの弱さに同情することがおできになる方です。私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方です。私たちの叫びも呻きも、キリストが知り、耳を傾け、憶えていてくださいます。キリストが私たちの祈りを神に執り成してくださいます。キリストに私たちの望みがかかっているのです。

2025年2月14日金曜日

2025年2月14日の聖句

彼は人々から顔を背けられるほどに軽蔑された。そしてそれゆえ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ書53:3)
よく見よ、この人は人間そのものだ。(ヨハネ19:5)

今日の聖書は、どちらも、ドイツ語の聖書を日本語に翻訳したものだそうです。私たちになじみのある翻訳とは少し味わいが違いますが、とても興味深い翻訳であると思います。特に新約の御言葉ですが、これはポンテオ・ピラトが主イエスを指して言った言葉です。このとき、主イエスは裁判にかけられていました。ユダヤの指導者たちがイエスを十字架にかけるために訴えた。ところがピラトは、イエスを十字架にかけるような罪を見いだすことができなかった。それで、イエスを鞭で打って釈放しようとしました。イエスを鞭で打たせ、王の衣を着せて侮辱し、民衆の前に引き出して言った。「よく見よ、この人は人間そのものだ。」
そうです。このお方こそ、まことの人間そのものです。人々から裁かれ、何の罪もないのに責められた。しかも、何の罪も見いだせなかったという理由で鞭で打たれた。侮辱され、人々から責められ、屈辱をなめさせられた。そういう神でいらっしゃるこのお方こそ、人間そのものです。ピラトは、自分ではそうとは知らずにイエスを証しする証人になりました。
「彼は人々から顔を背けられるほどに軽蔑された。そしてそれゆえ、私たちも彼を尊ばなかった。」私たちは人間イエスを軽蔑しました。尊ぶことなく、このお方を捨てました。私たちが十字架にかけた人間イエスこそ、まことの神でいらっしゃるお方です。
キリストの御前に膝をかがめ、この方を礼拝しましょう。このお方をほめたたえましょう。私たちが十字架にかけた人間を、今こそ仰ぎましょう。

2025年2月13日木曜日

2025年2月13日の聖句

古くからの通り道に尋ねてみよ。「幸いの道はどこにあるのか」と。その道を歩み、あなたがたの魂に安らぎを見いだせ。(エレミヤ6:16)
私たちは、あなたがた一人一人が、同じ熱心さを示して、最後まで希望を持ち続けてくれるよう願っています。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束を受け継ぐ人たちに倣う者となるためです。(ヘブライ6:11~12)

「最後まで希望を持ち続けてくれるように願っています」と書かれています。ほんのひととき希望をもつということであれば、あまり難しくないかもしれません。ほんの一瞬、何らかの望みを抱くことならできるかもしれません。しかし、最後まで希望を持ち続けるというと、簡単なことではないと思います。私たちには途中で疲れてしまうことも、諦めてしまうことも、妥協してしまうことも、厭になってしまうことも、いくらでもあります。最後まで希望を持ち続ける・・・。途方もないような気持ちになります。
今日の旧約の御言葉は私たちに語りかけます。「古くからの通り道に尋ねてみよ。『幸いの道はどこにあるのか』と。その道を歩み、あなたがたの魂に安らぎを見いだせ。」幸いの道を探すなら、「古くからの通り道に尋ねてみよ」と言っています。面白い言葉だと思います。自分でどこに幸いの道があるかを探し出せとか、はやりの道や皆が通っている大通りというのではありません。「古くからの通り道」に尋ねるのです。
その古さは、代々の神の民が通ってきた信仰の道、という古さではないでしょうか。アブラハムが通った道であり、モーセとその民が通った道であり、ペトロやパウロが通った道です。主イエス・キリストという道と言っても良いと思います。そこに幸いの道がある、と聖書は訴えかけています。
そして、この幸いの道こそ、私たちの希望の道です。私たちが自分の中をいくら探し回っても、最後まで続く希望なんてありません。あるいは自分にとって何が得かとか、皆がどう振る舞っているかとか、そのようなところには最後まで続く希望はない。キリストという古くからの道、永遠の昔から神がお定めになった道にこそ私たちの幸いがある。まことの望みがある。これこそ、今日私たちが頂いている福音です。

2025年2月12日水曜日

2025年2月11日の聖句

弱い者に偏ってかばってはならない。強い者におもねってはならない。(レビ記19:15)
あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい。(ヤコブ2:1)

今日の旧約の御言葉に続いて、「同胞を正しく裁きなさい」と書かれています。聖書の知恵は本当にすごいと思います。このような言葉がすでに紀元前にあったのです。弱いからということで偏ってかばったり、強いからということでおもねってはならない。正しさを基準として判断しなければならない、というのです。
強い人におもねるというのはある意味分かりやすいですが、それだけではなく、弱い人を偏ってかばうという別の過ちがある、とも指摘しています。もしかしたら、今私たちの社会で起きているいろいろな混乱の根は、こういうところにあるのかもしれないとも思います。私たちはとかく人をカテゴリーに入れて判断しがちです。性別や年齢、生活水準、教育、人種、国籍、その他何でもそうです。「この人は女だから感情的だ」とか、「この人は男だから思いやりがかけている」とか、「最近の若い人は常識がない」とか「年寄りだから偉そうだ」とか、何でもです。しかしカテゴリーにしたがって人を判断し、ましてや優劣を付けることを「差別」と言います。意識的にも無意識的にも、そういう判断をしがちです。結局のところ私たちは人の外見に惑わされやすいし、それは私たちにとって宿痾のように避けがたいところがあるのだと思います。
ヤコブは「あなたがたは、人の外見に惑わされず、私たちの栄光の主、イエス・キリストに対する信仰に留まりなさい」と言います。私たちが人をこのように判断し、裁き、分類し、優劣を付けてしまうような愚かなことから解放される道は一体どこにあるのか。それはイエス・キリストへの信仰だ、と言うのです。キリストの栄光の前に身を低くし、主の前にへりくだることによってでしか、私たちは偏見や差別から解放されないのではないでしょうか。人間の判断や価値観は相対的で過ちの多いものです。どこまでも私たちは差別的であることから逃れられない。だからこそ、キリストの前にへりくだり、憐れみを求めて、隣人と出会う道に開かれていきたい、と願います。

2025年2月12日の聖句

小さな者から大きな者に至るまで皆、暴利を貪り、
預言者から司祭に至るまで皆、虚偽をなす。
彼らは、わが民の傷を安易に癒やして、「平和、平和」と言うが、平和などはない。(エレミヤ6:13~14)
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。(ローマ12:9)

本当に、心に突き刺さるような痛い言葉です。何よりも、わたしは一人の牧師としてそのことを考えないわけにはいきません。安易ではない癒やし、まことの平和。それは、私たちにただイエス・キリストの十字架と復活によって与えられました。ですから私たちはキリストのみもとにしかない癒やし、キリストにしか与えることができない平和によって救われました。それなのに、十字架にかけられたキリストではないところから安易に持って来たまがい物や、主イエスの復活とは似ても似つかない偽物を福音としてしまう誘惑にいつも晒されています。
「愛には偽りがあってはなりません」と書かれています。偽りのない愛は、キリスト以外にはありません。何度でも繰り返し、新しい思いをもって、キリストの前にへりくだらなければなりません。キリストの憐れみを願い求めます。

2025年2月10日月曜日

2025年2月10日の聖句

力と洞察は神と共にあり、惑う者も惑わす者も神のものである。(ヨブ記12:16)
神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。(1テモテ2:4)

ここのところ、あるテレビ局の醜聞で世間が沸き立っています。テレビからCMが引き上げられるという前代未聞の事態になりました。昭和天皇が亡くなった時と東日本大震災の時には全局でCMが自粛されていましたが、一局だけがこのような事態になるというのは、なかったことです。いろいろなテレビ番組で識者と呼ばれる人やコメンテーターがこの問題についての意見を述べています。耳に入るとうんざりしてしまいます。神を畏れることがない力と洞察は、人間を化け物にします。女性を食い物にしてきた大企業、ジャーナリズムの責任を普段から果たしていないために聞くべき事を聞けないでいる他社の記者、目立ちたいだけのネットメディアの罵声、いろいろな有象無象がいるし、わたしもどこかでそんな状況を楽しんでしまっているのかもしれません。神様はこういう事態をどういうお気持ちでご覧になっているのでしょうか。
「神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます。」神様はすべての人が救われることを望んでおられます。主イエス・キリストを信じ、キリストの救いをいただくと、私たちは真理を認識するようになる。この「真理」は、世の中の秘密を暴露するとか、世間の仕組みを知るとかではありません。もっと根本的な真理です。唯一の神がおられ、このお方がこの世界を造り、保ち、共に歩み、支配しておられる。そういうことではないでしょうか。私たちは神を畏れて生き、神を畏れて社会を形成しなければならない。ですから私たちの倫理の基準は、神への畏れです。神を畏れる者として、あなたは今日という日をどのように生きるのか。私たちは聖書からそのことを問われているのです。

2025年2月9日日曜日

2025年2月9日の聖句

今週の聖句:
来て、神の御業を仰げ、
人の子らになされた恐るべき御業を。(詩編65:5)

今日の聖句:
人の子よ、わたしがあなたに語る言葉をすべて心に受け入れ、耳で聞きなさい。(エゼキエル3:10)
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。(マタイ13:23)

神さまの御言葉、福音の言葉。ひとたび語られれば、必ず出来事を起こします。神が御言葉を語りかけてくださるなら、必ず新しいこと、すばらしいことが始まります。私たちはそれを信じて、神の御言葉を聞き、それに従う。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
私たちに主がお求めなのは、主が語りかけてくださった御言葉を聞き、それに従い、御言葉を生きることです。必ず素晴らしい実りがある、必ず思ってもみなかったほどの大きな収穫がある。キリストはそう約束してくださいます。
今日は主の日です。主イエス・キリストの御言葉に耳を傾けましょう。主に従う新しい一週間に旅立ちましょう。起きている時にも寝ている時にも、私たちは主に従うことができます。「主よ」とひと言お呼びして祈る時、主ご自身が私たちを新しくしてくださいます。キリストの福音の御言葉によって。キリストの御前に、私たちの新しい時を刻んでいきましょう。

2025年2月8日土曜日

2025年2月8日の聖句

恵みと憐れみに富む主は、ご自身の驚くべき数々の御業について記憶に留められた。(詩編111:4)
私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。(1コリント10:16)

今日の旧約は心に残るすてきな御言葉です。主なる神様は、ご自身の驚くべき数々の御業を憶えていてくださいます。ご自分の恵みと慈しみをお忘れになることなく、それを貫いてくださる。ありがたいことです。神様は、決して「そんなことあったっけ?」とはおっしゃいません。私たちのためにこれまで示してきてくださった慈しみについて「記憶にない」とはおっしゃらないのです。
ですから、私たちも神様がしてくださったことを記憶に留め、何度も思い返し、神の恵みの御業をほめたたえます。今日の新約は聖餐の式文の中で読んでいる御言葉です。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。」私たちは聖餐を祝う度にキリストの血と交わります。キリストのお体と交わります。あのパンを食べ、あの杯から飲む度に、私たちはキリストの血と肉と一つになる神秘にあずかります。
私たちは本当に忘れっぽいですから、神様の恵みをいつも心に刻みつけることがなかなかできません。良い時は良いのですが、ちょっと厭なことや悪いことが起こると、すぐに神の恵みを忘れてしまいます。しかし神はいつでもキリストの肉を裂き、血を流して、私たちのために与え尽くしてくださっている。神ご自身がそのことを憶えていてくださいます。ですから私たちも神の恵みを記憶に留めるようにと、キリストの食卓に招いてくださっているのです。

2025年2月7日金曜日

2025年2月7日の聖句

神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め、
わたしの魂はあなたを渇き求めます。(詩編63:2)
渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。(黙示録22:17)

私たちの魂が渇いていることを、聖書は知っています。私たち以上に知っています。冬場はとても寒いので、喉の渇きを自覚しにくいです。しかし乾燥していますし、実は気付かないところで渇いている。しっかり水分を補給することが大事なようです。増して魂の渇きは自覚しにくい。私たちの気付かぬところで私たちの魂がカラカラに干からびてしまいます。
そうであるからこそ、神様は私たちにこのような詩編の祈りの言葉をプレゼントしてくださったのでしょう。私たちがこの言葉を自分自身の祈りとするために。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。」
私たちの渇きは、神を捜し求めることによってでしか満たされません。キリストの下さる生ける泉の水によってでしか、私たちの渇きは本当には癒やされない。私たちの周りには渇きをごまかす清涼飲料水のような安易な癒やしがたくさんあります。一時の憂さを晴らすことはできても、本当のところ、神以外の何ものにも癒やすことなんてできないのです。
主イエス・キリストが私たちを呼んでくださっています。「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。」ありがたい言葉です。キリストの招きに応えて、命の水をいただくためにキリストの御許に共に参りましょう。

2025年2月6日木曜日

2025年2月6日の聖句

(主の言葉)「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。」(創世記8:21)
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3:17)

今日の旧約聖書の御言葉はノアの箱舟の出来事の最後に主なる神様がおっしゃった御言葉です。「人のゆえに地を呪うことはもう二度としない。人が心に計ることは、幼い時から悪いからだ。」人が心に計ることは悪いことばかり。しかも、大人になって悪くなったというのではなく、幼い時から悪いことに染まりきっている。だから、人のゆえに地を呪うことはもうしない。つまり、洪水をもって滅ぼすことはしない。ここでの「洪水」は死や滅びの象徴です。人々を滅ぼし尽くしてしまうことはもう二度となさらない、と神はご自身に誓われたのです。その理由は人が心に計ることが幼い頃から悪いことばかりだから、というのです。
主なる神様はその御心によって、御子イエス様を私たちに与えてくださいました。御子が私たちの世に遣われたのは、私たちが少しは見所があるからとか、ノアの時代に比べてちょっとは改善したからではありません。ノアの時代から今に至るまで、どうしようもなく駄目で、何のよいところもなく、これから善くなる兆しもないからです。このままでは私たちが自滅し、滅びるしかないからです。そんな私たちの世を神が愛してくださって、御子を遣わしてくださいました。しかも、私たちを裁くためではなく、救うために。ここに愛があります。私たちのところへ遣わしてくださった御子に神の限りない愛があるのです。この愛は、あなたのための限りない愛です。

2025年2月5日水曜日

2025年2月5日の聖句

(神の僕の言葉)私は打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。辱めと唾から私は顔を隠さなかった。(イザヤ書50:6)
(イエスの言葉)友のために命を捨てる者ほど、大きな愛をもつ者はいない。(ヨハネ15:13)

私は鞭で打たれたことはありませんが、厭な目に遭ったり侮辱されたりしたことは人並みにはあります。しかし、今日の旧約の御言葉が伝える神の僕は、単に厭な目に遭ったというのではありません。「私は打とうとする者には背中を差し出し、ひげを抜こうとする者には頬を差し出した。」打とうとする者に自分の背中を差し出した。髭を抜こうとする者に頬を差し出した。意図せず侮辱されたとか、無理強いされて厭な目に遭わされたとか、抵抗したのに力で負かされたというのではありません。背中を差し出し、頬を向けた。「辱めと唾から私は顔を隠さなかった。」屈辱や人々の憎しみを前に、自らそこに進み出、それを敢えて享受した、というのです。驚くべき言葉です。
主イエス・キリストがおっしゃる「友のために命を捨てる」というのは、そういうことです。たまたま人の犠牲になったというのではない。巡り合わせが悪く身代わりになってしまった、というのではないのです。主イエス・キリストは御自らそこに進み出、私たちを愛し、しかも愛の極みを貫いてくださって、私たちのために命を捨ててくださいました。キリストの苦しみは、私たちへの愛のための苦しみです。
今日私たちが生きるこの命は、キリストの差し出してくださった命によって与えられたものです。私たちはキリストの究極の愛によって今日も生かされています。辱めと唾を私たちのために顔を隠さずにお受けくださったお方こそ、私たちの誉れです。

2025年2月4日火曜日

2025年2月4日の聖句

私の言葉は火のようではないかーー主の仰せ。
また、岩を打ち砕く槌のようではないか。(エレミヤ23:29)
神の言葉は生きていて、力があり、いかなる諸刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。(ヘブライ4:12)

関節と骨髄を切り離すまでに刺し通す。すごい切れ味です。鋭い切れ味の諸刃の剣のように、神の言葉は私たちの思いや考えを切り分ける。なまくらな刃ではそういうわけにいきません。手入れしていない包丁では肉を切ることもままならない。しかし神の言葉は関節と骨髄ですら切り離す切れ味だといいます。魂と霊も心の思いや考えを腑分けし、見分けることができる。神の言葉を聞くとき、私たちは神様ご自身に問われるのです。
神の言葉は、火のように私たちを裁きます。岩を打ち砕く槌のように私たちを砕きます。神の言葉は、私たちの心の中から湧き上がってきたり私たちの願望が生み出した言葉ではないからです。私たちとは異質な言葉、聖なる言葉だからです。
聖書を読んでいても、よく分からないことがあります。何でこんなことが書いてあるのか?ちょっとおかしいんじゃないか?例えば、この前の日曜日には、おとめマリアが身ごもって男の子を産むと天使が告げたというところをご一緒に読みました。おとめが身ごもるなんて、科学的に考えれば全くあり得ないことです。しかし私たちの常識ではあり得ないところで神様の御業が始まっています。神の子でいらっしゃるお方が一人のおとめからお生まれになった。一人の人間になって私たちのところに来てくださった。聖書を読んで異質に感じるところには必ず宝が埋まっています。神さまの御言葉であり、神様がなさることですから、私たちに異質であるのは当然のことです。神は御言葉によって私たちを裁くことによって、私たちが想像もしなかった恵みの世界へ私たちを連れ出してくださるのです。
御言葉に聞きましょう。聖なるお方の聖なる御言葉に耳を傾けましょう。異質な言葉の世界、聖なる言葉の世界に、神は今日あなたを連れ出してくださっているのです。

2025年2月3日月曜日

2025年2月3日の聖句

御手が私たちの上にあって、神は私たちを救いだしてくださった。(エズラ8:31)
(パウロの手紙)このような迫害に私は耐え、そのすべてから主は私を助け出してくださったのです。(テモテ二3:11)

今日の新約の御言葉は「このような迫害」と始まっています。「このような」というのは、どのような迫害なのでしょうか。そう思って直前の言葉を読んでみると、こう書かれています。「アンティオキアやイコニオン、リストラで私に降りかかった迫害や苦難・・・。」つまり、パウロは「このような迫害」と言っていますが、具体的にどのような迫害を受け、どんなに酷い目に遭ったのかということについては書いてないのです。ちょっと不思議だと思います。私だったら、どんな苦労をしたのか細かく書いて、相手の気をひこうとすると思います。しかし、パウロはそのようなことを書かない。
なぜでしょう。手紙の宛先になっているテモテがパウロの事情をよく知っていたからとも考えられます。しかしそれだけではないと思います。パウロの興味は、ちょっと違うところにあるのではないでしょうか。「このような迫害に私は耐え、そのすべてから主は私を助け出してくださったのです。」パウロは自分が耐えた迫害がどんなに厳しく辛いものだったのかということよりも、主がそこから私を助け出してくださったということに私たちの目を向けさせようとしているのではないでしょうか。神が私を助け、働いてくださった!
「御手が私たちの上にあって、神は私たちを救いだしてくださった。」パウロも、この言葉に「アーメン」と応えるでしょう。私たちも同じです。私たちも神の助けによって今日生きています。私たちを御心に留めてくださり、私たちを救うために今日も生きて働いてくださっている神に、栄光と誉れがありますように!

2025年2月2日日曜日

2025年2月2日の聖句

今週の聖句:
あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。(イザヤ60:2)

今日の聖句:
イスラエルの人々は主の命によって進み、主の命によって宿営した。(民数記9:18)
信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになっている土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。(ヘブライ11:8)

私たちは神の民です。この世という荒野を旅する神の民。ですから私たちは進むのにも主のご命令に従い、宿営するにも主のご命令に従います。主が私たちを導いてくださる。そのことを信じ、主のご命令に従ってこの世界で生きていきます。
主のご命令。主は主イエス・キリストを通して語りかけてくださると私たちは信じています。キリストのお姿、その歩み、御言葉。それら一つひとつが私たちへの神の語りかけです。キリストの聖なる愛が私たちの道を示し、私たちを神の民として練り上げてくださると信じます。
「信仰によって、アブラハムは、自分が受け継ぐことになっている土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました。」信仰によって、と聖書は書きます。アブラハムの旅は信仰による旅だった。それだけです。それ以外には何もないし、ほかには何も必要ない。人間として私たちが欲する保証も、安心や安全の確証も、アブラハムは持ちません。信仰によって神のご命令に従った。ここに、私たちに先立つ信仰者がいます。私たちも同じ旅路に生きています。

2025年2月1日土曜日

2025年2月1日の聖句

2月の聖句:
あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。(詩編16:11)

今日の聖句:
地の塵となっている眠る人々の中から、多くの者が目覚める。ある者は永遠の命へと、またある者はそしりと永遠のとがめへと。(ダニエル12:2)
キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。(ローマ14:9)

キリストは十字架にかけられて死に、陰府に降りました。「陰府」は、神に棄てられた者の行くべき場所です。十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」とキリストが叫ばれたとき、そこに陰府の深い穴が開いていたのです。
しかしキリストは死者の中から復活させられました。神に棄てられた方、陰府の底に降りて行かれた方を神がご自分の栄光の座に引き上げられたのです。
神に棄てられたこのお方こそ、死んだ者の主です。神に復活させられたこのお方こそ、生きている者の主です。キリストという、主であるお方が私たちを生きているときにも死ぬときにも治めておられます。
聖書が告げるこの事実に対する恐れを、私たちは決して失ってはならないのだと思います。私たちは、神様のことをなめてはいないでしょうか?私たちの生きるのも死ぬのも支配しておられる方だと骨身に染みてわきまえているでしょうか?もしも神を恐れることを忘れてしまっているのだとしたら、キリストの十字架と復活にひれ伏す信仰を新たにして頂かなくてはならないのではないでしょうか。私たちの生も死も、偶然や私たちの思いやこの世の力関係など、その他この類いのものが支配しているのではない。キリストを私たちにくださった神が御支配くださり、いのちの道へと導いてくださっているのです。

2025年4月17日の聖句

しかし、私は常にあなたと共にある。 あなたは右の手を捕らえてくださる。(詩編73:23) (イエスの祈り)「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~4...