2025年11月30日日曜日

2025年11月30日の聖句

今週の聖句:
見よ、あなたの王があなたに到来する。義なる方にして救う方が。(ゼカリヤ9:9b)

今日の聖句:
もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからであるーー主の仰せ。(エレミヤ31:34)
しかし、祭司長たちや律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、また、境内で子どもたちが叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた』とあるのを、あながたはまだ読んだことがないのか。」(マタイ21:15~16)

祭司長や律法学者たちは怒っています。この怒りはやがて主イエスを十字架につけるところにまで至ってしまう。その怒りに任せて「子どもたちが何と言っているか、聞こえるか」と主に詰問します。子どもたちが「ダビデの子にホサナ」と言って主イエスを喜んでいたからです。
しかし大人の怒りも、偉いおじさんの叱責も、子どもたちの口を閉ざしてしまうことはできませんでした。主イエスさまへの賛美はもはや押しとどめることができない。主イエス・キリストの御業と御言葉がこの世界で証しされているからです。福音が宣べ伝えられ、神の国の到来が宣言されているからです。
月に二度ほど、厚木の保育園の礼拝のお手伝いに伺っています。子どもたちが讃美歌を歌います。お祈りをします。イエス様のお話を喜んで聞いています。ここでも「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美の歌を整えられた」という神さまの御業が起こっています。
私たちも、幼子の声に耳を傾けましょう。小さな子どもが賛美するイエス様のすばらしさを、乳飲み子が力の限りに求めている愛の御神を、私たちも賛美し、求め、この方に祈りましょう。
今日から待降節です。この新しい日々に祝福がありますように。

2025年11月29日の聖句

あなたの庭で過ごす一日は、私の選んだ千日にもまさる。(詩編84:11)
イエスは両親に言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」(ルカ2:49)

私たちの願いは、主の家に住み、主の庭に憩うことです。私たちはその日を目指して、この世の旅路を続けています。
今日の新約の御言葉は、主イエスさまの12歳の時の出来事です。今の日本の感覚で考えると12歳はまだ子どもですが、当時のユダヤでは、昔の日本でいう元服の年齢だったようです。何よりも神を礼拝する者として一人前になる。ですので、両親は12歳になった息子を連れて、特別な思いを持って過越祭に上ったのだと思います。ところがその帰り道で両親は主イエスを見失ってしまった。三日間も探し、ようやく神殿にいるところを見つけてマリアはたしなめました。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」私も人の親としてマリアの気持ちはよく分かります。ところが主イエスは全く違うことをおっしゃいました。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」
マリアが「私もお父さんも」といったのに対し、主イエスは「自分の父の家にいる」とお答えになった。主イエスは神を父と呼んでおられる。そして、マリアとヨセフはこのとき、主イエスが神の子でいらっしゃることを見失っていたのでしょう。自分の息子としか見られなくなっていた。そのズレが指摘される出来事でした。
神の子でいらっしゃる、という主イエスの事実。これを主イエスはただご自分だけの者とはなさいませんでした。私たちをも神の子として迎えてくださいます。私たちも神を父と呼んで神の家に帰り、神の庭で憩う幸いに招いてくださっている。私たちの人間的な情を超えたお方が、私たちのための神の子として私たちのところに来てくださったのです。

2025年11月28日金曜日

2025年11月28日の聖句

私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続くーー主の仰せ。(イザヤ66:22)
ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:49)

真の王でいらっしゃるお方!私たちはそういうお方でいらっしゃる神の子イエスを信じ、崇めています。私たちは主イエスを「キリスト」とお呼びしていますが、この「キリスト」の一番大事な意味は「王」です。イエスこそ、私たちの王。私たちはそう信じています。
23日土曜日は、教会の暦では「王であるキリスト」の主日でした。待降節の始まる一週間前の日曜日をそのように読んでいます。「イエスこそ王」という私たちの信仰を新たにし、イエスの御支配を信じる信仰を覚える主日です。
「私の造る新しい天と新しい地が、私の前にいつまでも続くように、あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続くーー主の仰せ。」
この御言葉は主イエス・キリストが成就してくださいました。イエスのお名前こそ、いつまでも続きます。その御支配が変わることはない。ところが、私たちの周りには王様のような顔をしたものがたくさんあります。権力やお金を持っている人もそうかもしれません。しかしそれだけではないと思います。社会システムも私たちを支配する。「常識」と私たちが思い込んでいるものも私たちを支配する。人の目や評判を気にする私たちの心は、もしかしたらこの世の王をどこかに祭りあげているかもしれない。そのようなことを考えていくと、私たちを支配する王的なものはそこかしこにあるのではないか。
私たちも、ナタナエルと一緒に主イエスに向かって告白しましょう。「あなたは神の子、あなたこそ真の王」と。私たちの今日一日が、王であるキリストに「御国を来たらせたまえ」と祈るものでありますように。

2025年11月27日木曜日

2025年11月27日の聖句

(神の言葉)あなたが苦難の中で叫ぶと、私はあなたを助け出した。(詩編81:8)
ペトロは風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえた。(マタイ14:30~31)

真夜中のガリラヤ湖。舟に乗っていたのは弟子たちだけです。主イエスは一人、祈るために山に登っておられました。弟子たちの舟はまだ陸から離れていたのに、逆風のために悩まされていました。すると夜が明けるころ、主イエスが湖の上を歩いて弟子たちの乗る舟まで来てくださったのです。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」そう言ってくださる主イエスの声が響きます。
するとペトロはよほど嬉しかったのでしょう。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください」と願いました。主は「来なさい」と言ってくださった。ところがペトロは周りで吹き荒れる風を見て怖くなった。するとみるみるうちに水に呑み込まれて沈んでしまった・・・。
私はここを読むといつも思います。マタイは、何度も教会でこの話をしたに違いない。それを聞いた人々は、今ここにいる私たちの話としてこれを聞いたに違いない。あのとき、主イエスは山に登って舟には乗っておられませんでした。それはちょうど主イエスが天に昇られ、今ここにいてくださらない、という状況に重なります。主がおられない舟を風が襲い、逆風のために進めなくなっている。それは、世の迫害や困難のためにあえいでいる教会の状況そのものです。しかし、夜明けの光のように復活した主イエスが舟、つまり教会に来てくださっている。その光を頼りに、風の吹きすさぶ水の上へ私たちは歩み出していく。ペトロのように。しかし、やはり風を見れば怖くなるし、信仰が揺らいでしまうこともあるでしょう。「主よ、助けてください!」そう叫ぶ私たちに主は手を伸ばして掴んでくださいます。そしておっしゃるのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」
ですから、主を信じましょう。どんなに私たちに吹き付ける逆風が強くても、このお方の歩みを留めることはできません。私たちはしっかりと主に目を向け、このお方とその御言葉を信じましょう。「あなたが苦難の中で叫ぶと、私はあなたを助け出した」と告げてくださるお方を。私たちが信じるのは「私だ、恐れることはない」というキリストの言葉です。不信仰に余地を残してはならないのです。

2025年11月26日水曜日

2025年11月26日の聖句

主よ、あなたははるか昔の驚くべき計画を忠実に、誠実に成し遂げられた。(イザヤ25:1)
約束してくださったのは真実な方なのですから、告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう。(ヘブライ10:23)

約束してくださったのは真実な方!
なんとすばらしい御言葉なのでしょう。「アーメン」とお答えしたいです。アーメン、あなたこそ真実なお方!考えてみれば、そもそも「アーメン」という言葉自体が「真実」という意味です。私たちが口にする「アーメン」がすでにキリストの真実に支えられています。私たちの内をどんなに探しても、神さまに差し出すことのできる真実なんて見つかりません。偽りやいい加減さ、そのようなものばかりで埋もれてしまう。ところがそんな私たちの隣に真実でいつづけてくださるお方が来てくださいました。「約束してくださったのは真実な方なのですから・・・」。このお方の真実で大きな手が、私の小さな「アーメン」を守ってくださいます。
「主よ、あなたははるか昔の驚くべき計画を忠実に、誠実に成し遂げられた。」かつて神がアブラハムやダビデたちに告げてくださった救いのご計画。私たちには途方もない神さまの御業。神はご自分の真実にかけて、誠実に成し遂げてくださいます。主イエス・キリストに現された神の救いを私たちは仰ぎます。キリストが私たちをご自分の真実によって救ってくださる。このお方を信じて、祈りを献げる一日を過ごしたいと願います。

2025年11月25日火曜日

2025年11月25日の聖句

主は私のためにすべてを成し遂げてくださる。(詩編138:8)
イエスが完全な者とされた今、ご自分に従うすべての人々にとって、永遠の救いの源となられました。(ヘブライ5:9)

主は私のためにすべてを成し遂げてくださる、と聖書は言います。どのようなことをも成し遂げてくださる神さまの御力を、神の全能と言い表します。神さまは私たちを救うためであればどのようなことでもしてくださいます。
今日の新約の御言葉ですが、前のところから見てみると、このようなことが書かれています。キリストは神の御子でいらっしゃる。そうであるにも拘わらず、多くの苦しみをお受けになった。それによって主は従順を学ばれ、完全な者になられた。そうであるからこそ、ご自分に従順な者の救いの源となられた。
神はご自分の全能の力を、どのようなことでも成し遂げてくださる御力を、従順になられるということによって発揮してくださいました。神の子キリストが私たちのためにへりくだることによって全能の力を現してくださいました。驚くべきことです。従順やへりくだりと全能というのは、普通であれば結びつきません。ところがキリストはまさにそのようにして私たちを救うための力を現してくださったのです。
私たちがこの救いをお受けするために、私たちもまた従順でありたい。キリストの御前にへりくだり、素直にキリストの力をいただくことによって初めて拓かれる救いの道を歩みたい。そのように願います。主イエス・キリストの憐れみにすがり、キリストに救って頂くしかない私であることを誇りたいと願います。

2025年11月24日月曜日

2025年11月24日の聖句

(ネブカドネツァル王の言葉)「いと高き神が私になさったしるしと奇跡を知らせることは、私の喜びである。」(ダニエル3:32)
(イエスの言葉)「私に逆らわない者は、私たちの味方なのである。」(マルコ9:40)

ネブカドネツァルはバビロンの王です。つまり、神の民ユダを攻め滅ぼし、人々を遠い東のバビロンへ捕囚として連れ去った仇中の仇のような人物です。その人が言うのです。「いと高き神が私になさったしるしと奇跡を知らせることは、私の喜びである。」ここにどれだけの信仰があるのか、どういう内実があるのか。私たちには分かりません。この人は、実際には高さ2.7メートルにも及ぶ自分の金の像を造り、人々にそれを拝ませた人物です。ところが同時に、この人はダニエルという一人の信仰者を信頼し、ダニエルが信じる神を畏れていました。私たちの周りにも、案外、こういう人はいるのではないか、とも思います。
主イエス・キリストはおっしゃいます。「私に逆らわない者は、私たちの味方なのである。」ここで注目すべきは、「私に」逆らわない者は、「私たちの」味方なのであるとおっしゃっているところだと思います。最初の「私」は単数なので主イエスさま御自身ですが、次の「私たち」は複数ですから、弟子たちの群れのことを指していると言えると思います。主イエスに逆らわない者は、私たち=主の弟子たちの味方。ところが私たちの普通の感覚では逆で、私たちに逆らわない者は主イエスの味方だ、と思ってしまいがちです。ところが主は、そうではないと言われるのです。
先ほどのネブカドネツァルもそうだと思います。神の民から見れば極悪非道の異郷の王ですが、「いと高き神が私になさったしるしと奇跡を知らせることは、私の喜びである」と言っている言葉を神はお忘れにならないのでしょう。この王をも神はお用いになる。そうである以上、この人もまた「私たちの味方である」と主はおっしゃるのではないでしょうか。神さまの懐は私たちの想像以上に深く、広い。その事実は私たちの畏れを呼び起こします。

2025年11月23日日曜日

2025年11月23日の聖句

今週の聖句:
腰に帯を締め、灯をともしていなさい。(ルカ12:35)

今日の聖句:
私はあなたを諸国民の光とし、地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする。(イザヤ49:6)
一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアに向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである。(使徒16:9~10)

主イエス・キリストの福音を証しする者を、神さまは用いてくださいます。「私はあなたを諸国民の光とし、地の果てにまで、私の救いをもたらす者とする」との御言葉のとおりです。キリストの福音という永遠の光を証ししその救いを宣べ伝える者自身を、神が光として、また救いをもたらす者として用いてくださいます。
パウロが見たマケドニア人の幻は、福音伝道の重要な転換点になりました。マケドニア人、すなわちユダヤ人ではない異邦人もまたキリストの福音を必要としている。キリストの光を、救いを求めている。その事実を知り、パウロは海を渡って福音伝道に仕えました。その福音はやがて私たちのところへもたらされました。
私たちも同じように光を掲げる務めを託されています。キリストの救いの知らせを届けるために主があなたを必要としておられます。キリストの愛の光の証し人として、あなたが必要なのです。

2025年11月22日土曜日

2025年11月22日の聖句

主は言われる。私は慈しみ深く永遠に怒ったりしない。ただあなたの負い目を認めなさい。あなたの神である主に敵対し、負い目を背負ったことを。(エレミヤ3:12~13)
私たちの負い目をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。(マタイ6:12)

私たちにとって本当に難しいのは、「私たちの負い目をお赦しください」と祈ることです。「自分に負い目のある人を赦す」ことよりも、自分のために「赦してください」と祈ることの方がずっと難しいと思います。
もちろん、自分に負い目のある人、自分に罪を犯した人を赦すというのはたいへんなことです。ある人は自分が100デナリオン貸している仲間を赦せず、首を絞めて牢につなぎました。しかしこの人がなぜ赦せなかったのかと言えば、自分が1万タラントンの借金を作ったのにそれを返せず、しかも赦していただいたということを忘れていたからです。自分が赦されなければ生きられない惨めでダメな罪人なのだということを知り、そのことを覚えることは本当に難しいことです。
預言者エレミヤを通して、主なる神さまはおっしゃいます。「主は言われる。私は慈しみ深く永遠に怒ったりしない。ただあなたの負い目を認めなさい。あなたの神である主に敵対し、負い目を背負ったことを。」私たちが神に敵対してきたこと、深い負い目を負っていること。そのことを認めよ、と主なる神さまはおっしゃいます。ただそれだけを神は求めておられる。私たちが人をあげつらうのではなく、神さまの赦しと憐れみの中に立ち帰ることを。
神様の御前に、隣人の前にも、顔向けできず、罪深い私です。私たちがそのことを本当に骨身に染みて知ることができるのは、キリストの赦しの恵みの中だけです。キリストの憐れみの中で、私たちは自分の罪を初めて知ります。主イエス・キリストを求めます。キリストの憐れみを請います。私たちを生かしてくださるお方を慕います。

2025年11月21日金曜日

2025年11月21日の聖句

主なる神よ、あなたこそ神、あなたの御言葉は真実です。(サムエル下7:28)
私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。(ヨハネ8:31~32)

神さまは私たちに、ご自身の御言葉を与えてくださいました。私たちに語りかけてくださいました。私たちには神さまの御言葉がある。そして、それだけで十分です。
神学校を卒業して2年くらいのことでしょうか。同級だった仲間と久しぶりに会いました。いろいろなことを夜中まで語り合いました。苦労もあるし、喜びもある。自分の力不足も思い知らされる毎日。そんなことを語り合った末に、一人が言いました。「やっぱり、結局は御言葉。御言葉しかない。本当にそう思う。」
私たちは聖書が証しするイエス・キリストを信じて崇めます。聖書の御言葉によって、私たちはこのお方と出会います。他にどうやってキリストの愛を知ることができるでしょうか。私たちは聖書の御言葉によって神さまの救いの御業の果てしない広がりを知らされ、御言葉によって神さまの恵みの光を知り、その光に照らされて自分の罪深さを知らされ、それに倍する赦しの喜びを知ります。私たちは神さまの御言葉によって新しくされた喜びと、キリストに従う道を知ります。私たちには、御言葉です。それ以外にはないし、それで十分だと神さまはおっしゃるのです。
「私の言葉にとどまるならば、あなたがたは本当に私の弟子である。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」キリストの御言葉は私たちを自由にします。私たちが喜んで神のものとして生きられるように、私たちを神の愛の中に包み込みます。今日も御言葉に耳を傾けるあなたを、神が覚えていてくださいます。

2025年11月20日木曜日

2025年11月20日の聖句

神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。(ガラテヤ2:20)

今日の二つの御言葉は、私たちの命の起源と目的を語ります。そしてどちらも、神を信じる者としてこの命をどう捉えるのか、ということであると思います。
「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった。」この御言葉は、私たちの呼吸の起源に注目します。私たちは土の塵から造られたもの。土の塊です。ただの土くれに過ぎない私たちがどうして生きていて、どうして土の塊が生きをしているのかというと、それは神がご自分の命の息を人の鼻に吹き入れてくださったからだ、と言うのです。なんとすばらしい人間観であろうかと思います!私たちの生きている理由、私たちの命の根源は、神の命の息にある!すばらしい御言葉です。神さまの息が鼻に吹き入れられるということは、それだけ神さまが間近におられて、息が吹きかかるほどすぐ目の前にいてくださって、フーッと直接吹き入れてくださった。そういうことではないでしょうか。神さまが私の前にいてくださるということこそが私の命の「起源」なのです。
「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」神が私たちに関わってくださるといいうときに、その関わりの究極の形こそ、神の子イエスのご自身を献げる愛です。このお方が命を献げて神に従い、私を愛し抜いてくださった。そのお方が今や私の中に生きてくださり、私もこのお方によって生きる者としていただいた。そこに、今私が生きている理由がある。神の子の真実によって私は今生かされている。そのように言っています。パウロの筆は私の命の「これから」に向かっています。私たちは神の子がご自身の真実によって命を献げてくださったというその一点によって生かされている。これからの命のを神の御子に献げて生きる。そこに私の命の「目的」があるのです。

2025年11月19日水曜日

2025年11月19日の聖句

害悪を企む者に凶事があるように。彼らは力を持っているからである。(ミカ2:1)
イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」(マタイ20:25~26)

ミカは、ユダやイスラエルの国が崩壊へと向かって行く時代の預言者です。今日の箇所で告発しているのは、「害悪を企む者」と言われていますが、この人たちは「力を持っている」と指摘されています。王や高官などを始めとした社会の中で権力を持っている者たちの悪を告発しています。
この人たちは「朝の光の中でそれを行う」とミカは言います。闇夜に紛れて悪事に手を染めるというのではない。昼日中に堂々と不正を行い、弱者を踏みにじり、憎しみを振りまいている。自分の持っている何らかの力を自分の私利私欲のために利用したり、自分の鬱憤を晴らすために使ったり、わが身の立場や自分の得を守るために濫用したり。
この預言者の言葉を聞くと、人間の営みはいつの時代でもあまり変わらないのだ、と教えられます。
ところが主イエスはおっしゃいます。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。」私たちの企む害悪に従うのではなく、キリストのへりくだりや愛に従う道こそ、幸いの道です。害悪の道は凶事に通じていく。主イエスさまの御言葉の前にへりくだって生きたい、という願いを与えられます。

2025年11月18日の聖句

主は御もとに逃れる者すべての盾。(詩編18:31)
アブラハムは、望み得ないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。(ローマ4:18)

アブラハムが望み得ないのに信じたのは、主なる神さまの約束です。主なる神さまはアブラハムに、「私はあなたを多くの国民の父とした」と約束なさいましたが、その時にはまだ子どもがいませんでした。主なる神さまは「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。あなたの子孫はこのようになる」とまだ子どもがいないアブラハムにおっしゃいました。そして、アブラハムは主を信じました。「アブラハムは、望み得ないのに望みを抱いて信じ、その結果、多くの国民の父となりました。」主は約束したことを成就してくださいました。
「主は御もとに逃れる者すべての盾」と今日の旧約の御言葉は言います。御もとに私たちが逃れるとき、私たちが何も持たず、何の望みもなく、どこにも寄る辺がなくとも、主は私たちの盾になってくださいます。ご自分のもとに逃れる私たちを必ず守り、私たちに観顔を向けてくださいます。私たちはそのことを信じる。アブラハムのように、この現実に抗して主を信じ、主にこそ救いがあることを期待し、主の御手の中に帰って行きます。
主なる神さまを仰ぎましょう。私たちに御子イエス様をくださったお方を信じましょう。私たちの肉の民のゆえではなく、ご自分の御言葉への誠実のゆえに私たちを愛し、救い、私たちを忘れないでいてくださるお方を。
主イエス・キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2025年11月17日月曜日

2025年11月17日の聖句

主の契約を守る者にとって、主の道はすべて慈しみとまこと。(詩編25:10)
(イエスの言葉)私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。(マタイ5:11~12)

主を愛し、主を信じ、主の御言葉に従って生きるとき、世と衝突せざるを得ない。主イエスは私たちを信仰という新しい冒険へと招いておられます。それはこの世から見れば奇妙で、世界が選ぶのとは異なる道です。そうであれば、世から排除されるのはあり得ること。主に従ったから奇異な目で見られたからといって、それはいぶかしむべきことではないのだと思います。
例えば、聖書は「隣人の家を貪ってはならない」と言います。ところがこの世は貪りの心を原動力にして動いています。欲しがること、消費すること、うらやましく思うことが社会を豊かにする、と考えられています。
最近は人間の心の中にある憎しみの感情が隠されなくなりました。外国人、何かの失敗した人への罵りや、性別や世代の違いが憎しみを生み出している、と思います。聖書は「それでよい」「仕方がない」とは言いません。
私たちはこの世にあって、この世のものではなく生きていきます。「主の契約を守る者にとって、主の道はすべて慈しみとまこと」と言われているとおり、主との契約に従って、主の道を歩みます。そうであれば「私のために、人々があなたがたを罵り、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせる」のは、必然なのでしょう。そのようなとき、主は「あなたがたは幸いである」と言われます。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」とおっしゃいます。主に従い、迫害されるほどのものになったことを喜べ、と主は言われるのです。
今日、私たちはキリストに従う幸いの道へ招かれています。私たちの前には二つの道があります。命へ通じる道、幸いの道、キリストに従う道。そして、この世で「当たり前」とされている道。私たちは、どちらの道を選び、どちらを歩くのでしょうか。

2025年11月16日日曜日

2025年11月16日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされなければならない。(2コリント5:10a)

今日の聖句:
それでも、叫びを聞かされたとき、主は彼らの苦しみを顧み、彼らのために契約を思い起こされた。(詩編106:44~45)
ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、私の霊をお受けください」と言った。(使徒7:59)

今日の新約聖書にはステファノという人が登場していますが、この人はキリスト教会最初の殉教者です。そのステファノがまさに最期を迎えている。キリストを証しし、激しい怒りを買い、人々が石を投げつけている。まさにその時、ステファノは言いました。「主イエスよ、私の霊をお受けください」と。
ステファノは、自分に向けられた怒りや憎しみに、同じような感情を返しませんでした。自分が最期をこのような形で迎えたことを悟って絶望する、ということでもありませんでした。ステファノは天を見上げ、主イエス・キリストを見つめます。ただキリストだけに目を注いで、望みを抱き続けました。神さまは「それでも、叫びを聞かされたとき、主は彼らの苦しみを顧み、彼らのために契約を思い起こされた」というお方であることを目の当たりにし、そのことで確かにされたのです。
私たちの目はどこに向けられ、何を見つめているのか。一人の信仰者ステファノの姿から、そう問いかけられているように思います。

2025年11月15日土曜日

2025年11月15日の聖句

あなたの慈しみに満たされ、すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。(詩編90:14)
私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。(1テモテ1:5)

この詩編が祈るとおりの一日を、主が送らせてくださいますように。「あなたの慈しみに満たされ、すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように。」主なる神さまの慈しみに満たされた一日。なんと心躍るような言葉でしょう。私たちの「今日」に例えどのようなことがあっても、私たちはそこに神の慈しみが込められ、満ちていることを信じます。そんな今日という日も、そして明日も、「すべての日々を楽しみ、喜ぶことができますように」と言っている。楽しみ、喜ぶというのもまたすてきな言葉です。うっかりするとしかめっ面をして我慢していることが信仰深いあり方のような勘違いをしてしまいますが、そうではない。神が与えてくださった一日を存分に楽しんで、今日という日の喜びを味わうことこそ、神を信じる者にふさわしい、と言うのです。
今日の新約の御言葉はこのように言っています。「私のこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を目標としています。」ここに「命令」とあります。どうやら教会でおかしな教えを説いている者がいたようです。しかしそのようなことはするなと命じなさい、とテモテに命令している。そしてパウロのこの命令は、愛を目標としている。その愛は、清い心、正しい良心、偽りのない信仰の三つから出ている、と言っています。テモテと誤った教師たち、そしてパウロとの関係を想像してみると、たいへん緊迫した場面であったに違いない。ところがそういうときにパウロは愛を目標として言葉を語りました。「愛」は、神の慈しみから生まれるのでしょう。神が与えてくださったキリスト者としての歩みを本当に楽しむ心から生まれるのでしょう。そういう素朴とも言える喜びの心から私たちの教会生活が営まれること。そのことを大切にしたいと思います。主が私たちの間に立ってくださいますように、とパウロは願っているのではないでしょうか。

2025年11月14日金曜日

2025年11月14日の聖句

鷲がその雛を導き、その上を旋回するように、主は羽を広げてその民を選び取り、翼の上に載せられた。(申命記32:11)
(イエスの言葉)私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。(ヨハネ10:29)

大きく翼を広げて鷲が飛び、雛を導いている。主なる神さまはそうやって鷲が翼を広げるようにして私たちを覆って守り、導いてくださる。
なんてすばらしいイメージでしょう!主の翼の陰に私たちもおかれているのです。主が私たちのために私たちの上を旋回していてくださいます。
主イエスさまはおっしゃいます。「私に彼らを与えてくださった父は、すべてのものより偉大であり、誰も彼らを父の手から奪うことはできない。」父なる神様が私たちを主イエスさまにお与えになった。父御自身が私たちを主イエスさまにお託しになった。だから、主は私たちをいつでも守っていてくださる。主イエスから私たちを奪い取り、引き離すものはいない。主ご自身がそう約束してくださっています。
キリストの約束の確かさに私たちは委ねましょう。キリストの力強さに信頼しましょう。私たちが自分を見つめていると、確かさはなくなってしまいます。ですから私たちの上を旋回しておらえる主イエスを見上げて、主の翼の確かさを信頼していいのではないでしょうか。
神さまの祝福と恵みが今日もあなたにありますように。今日のあなたの歩みを主がその翼の陰においていてくださいますように。

2025年11月12日水曜日

2025年11月12日の聖句

裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きが神のものである以上、誰をも恐れてはならない。(申命記1:17)
しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と定められます。(ヤコブ2:9)

私たちが直接裁判に関わる機会はそうそうありません。しかし、人を見て何らかの評価をしたり、その言葉に耳を傾けたり傾けなかったりする事は日常生活を送っていればいくらでもあります。というよりも、私たちの毎日はそういうことの連続です。
「裁判において偏りがあってはならない。小さな者にも大きな者にも等しく耳を傾けなさい。裁きが神のものである以上、誰をも恐れてはならない。」
人を偏り見る(と書いて「偏見」と言いますが)こと、あるいは誰かの言葉には耳を傾けるけれども別の人の言葉には耳を貸さないこと、そのような事態に陥ってしまう根本的な原因は恐れだ、と言っています。私たちが誰かを恐れているからある人を重んじ、あるいは恐れる必要ないと判断するから相手を蔑ろにしてしまう。
このような場合の「恐れ」は、大抵、自分の損得を計算して起きます。誰を恐れ、誰を重んじるのが自分にとっていちばん得になるのかを瞬時に考えて、相手への態度を変えてしまう。自分にとって得になることがない相手であれば、わざわざ重んじてあげる必要がない、ということになる・・・。しかしそれは神の御前にある罪だ、と聖書は言います。
やはり、主イエスさまのなさったことに矛盾するということが核心であると思います。主イエスはご自分の損得を計算なさいませんでした。誰であっても愛し、重んじ、周縁に追いやられた人を「人」として大切になさいました。私もそのようにして愛していただいたのだから・・・それが私たちの人へのまなざしや態度の源泉になるはずではないか、と主は問いかけておられるのではないでしょうか。

2025年11月11日火曜日

2025年11月11日の聖句

恐れてはならない。おののいてはならない。(ヨシュア8:1)
イエスが二人の目に触れ、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われると、二人は目が見えるようになった。(マタイ9:29~30)

聖書を読んで知らされることの一つは、信仰と恐れは両立しない、ということです。神以外のものを恐れ、怖がっているとき、私たちの心から神への信仰が追い出されてしまいます。恐れは疑いを抱え込みます。
弟子たちが湖の上で突風に悩んでいたとき、主イエスが水の上を歩いて舟に近づいてこられました。弟子たちは幽霊だと思い込んで恐れた。主イエスは「私だ、恐れることはない」とおっしゃいます。「恐れるな、私を信じよ」ということではないでしょうか。私たちは、主イエスでさえも幽霊と思って恐れてしまうし、そうなるとこのお方を信頼することができなくなってしまいます。
聖書は言います。「イエスが二人の目に触れ、『あなたがたの信仰のとおりになれ』と言われると、二人は目が見えるようになった。」
今日の御言葉はこのように言っています。主イエスさまは私たちに触れてくださいます。この二人は目が見えませんでした。いちばん弱いところ、どうにもならないところ、恐れの源泉と思われるところに主ご自身が触れてくださり、私たちの恐れを取りさってくださいます。「あなたがたの信仰の通りになれ」と主ご自身が語りかけ、信仰を呼び覚ましてくださる。
主の御言葉に聞きましょう。「恐れてはならない。おののいてはならない。」そう語りかけ、私たちを生かしてくださる主の御言葉に力をいただきましょう。私たちは神の言葉によってこそ、他の何者も恐れることなくただキリストの真実だけを信じるものになることができるのです。

2025年11月9日日曜日

2025年11月9日の聖句

今週の聖句:
平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

今日の聖句:
あなたがたは気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の彫像も、自分のために造らないようにしなさい。(申命記4:23)
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造以来、被造物を通してはっきりと認められるからです。(ローマ1:20)

主が私たちと結んでくださった契約、すなわち神さまの愛に満ちた御心を忘れることのないように、と聖書は私たちに語りかけます。この世界を造り、私たちに命を与えてくださった神さま。私たちが生きるために必要なものをすべてこの世界に与えてくださった神さま。このお方の慈しみがこの世界に見えるはずだ、と言うのです。
ところが私たちはしばしばそれを見失います。足りないだとか不安だとか、もっと必要だと思い込んでしまう。貪欲の虜になってしまいます。「主が禁じられたいかなる形の彫像」というのは、そんな私たちの貪欲が生み出すのだと思います。彫像は、神の慈しみを私たちが見失ったところに生まれる。
主なる神さまの契約、私たちに向けてくださったご慈愛に立ち帰るときにこそ、私たちは偶像崇拝から解放されるのではないでしょうか。私たちが貪欲から自由になる場、それは神の愛の御手の中ではないでしょうか。

2025年11月7日金曜日

2025年11月7日の聖句

あなたを尋ね求める人すべてが、あなたによって喜び楽しみますように。(詩編40:17)
主の名によって来られる王に祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。(ルカ19:38)

主なる神さまのお名前で私たちのところへ来てくださった真の王、イエス・キリスト。私たちはこのお方を喜び、ほめたたえて礼拝します。「主の名によって来られる王に祝福があるように。天には平和、いと高き所には栄光があるように。」主イエスさまを喜んで迎えた人々と私たちも心を合わせて、王でいらっしゃるお方を今日新しい思いでお迎えしましょう。
このお方にこそ平和と栄光がありますように。それが私たちの願いです。私たちの祈りは「御名を崇めさせたまえ」です。キリストを賛美し、キリストが私たちと父なる神様とを、そして隣人とを平和にしてくださったことを信じ、キリストの平和に生かしてください、と祈ります。
「あなたを尋ね求める人すべてが、あなたによって喜び楽しみますように。」この「喜び楽しむ」という言葉が本当にすてきな言葉だと思います。私たちは神さまをほめたたえ、神さまを礼拝することを喜び、楽しむ。神を喜ぶこと、神を楽しむことが私たちには許されている。「楽しむ」というとなんだか不遜な感じもしますが、聖書はとても大胆です。神を楽しんでよい。神を賛美、ほめたたえ、礼拝を献げる大きな喜びに神さまが招いてくださっているのです。

2025年11月6日木曜日

2025年11月6日の聖句

私は、自らの名のために、怒りを遅らせ、自らの誉れのために、これを押さえてあなたを絶ち滅ぼさなかった。(イザヤ48:9)
(ヨセフへの天使の言葉)マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)

「自らの名のために」と主なる神さまはおっしゃいます。主は、御自らのお名前のために、「怒りを遅らせ、自らの誉れのために、これを押さえてあなたを絶ち滅ぼさなかった」。私たちに理由があるから、私たちに見所があるから、ではありません。私たちの側に理由を探しても、どこにも見つからない。私たちに神に愛していただける理由などはない。しかし、神様ご自身のお名前のゆえに、つまり神ご自身の側の理由によって、神はわたしたちに怒ることなく、滅ぼさず、救ってくださいました。
神さまはそのお名前を「イエス」と名乗ってくださいます。イエス、このお名前は「主は救い」という意味です。このお方がイエスと名付けられるのは、「この子は自分の民を罪から救うから」と言われています。私たちをご自分の民としてくださり、私たちを罪から救ってくださる。私たちのためのひとり子なる神、その名は「イエス」。
イエスというお名前のゆえに、私たちは救われる。私たちも罪から救われる。このお方の側に理由があるからです。私たちのゆえではない。どこをどう見渡しても罪しか見つからず、真っ暗闇でしかない私たちにイエスという光が射し、私たちを救ってくださる神ご自身の憐れみのために、私たちも神の民とされ、キリストの教会の一員にしていただいた。この神の愛の中にあなたも今日迎えられているのです。

2025年11月5日水曜日

2025年11月5日の聖句

私たちは自らの道を探し、調べて、主のもとへ帰ろう。(哀歌3:40)
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストに日には純粋で責められるところのない者となりますように。(フィリピ1:9~10)

「愛」というと、私たちはうっかりすると温かさや優しさといった「気持ちの問題」と考えてしまうことがあります。もちろんそれはとても大切ですが、今日の聖書の御言葉によると、少なくともそれだけではないことを教えられます。
「あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。」
深い知識とあらゆる洞察が愛を豊かにする、とパウロは言います。相手を知ること、相手をよく見ること、そして相手の喜びや悲しみを想像し、もっと知ろうと願い努めること。そういうことが愛するということには不可欠だ、と言っています。
そのように考えると、キリストこそ最大の愛のお方だということに改めて気付きます。キリストは私たちと同じ一人の人間になり、私たちの弱さをご自身のこととして負ってくださいました。神から捨てられたキリストがご存じでない絶望はないのです。
今日の旧約の御言葉は「私たちは自らの道を探し、調べて、主のもとへ帰ろう」と言っています。主なる神さまへの洞察、主なる神さまに向かう愛に満ちた想像力。しかし、そんな私たちの小さな愛よりも先に、主ご自身が私たちを知り、深い洞察をもって愛してくださいました。そうであるからこそ私たちも主を知り、愛し、隣人を愛するための想像力に満ちた愛を求めて、歩みたいと願います。

2025年11月4日火曜日

2025年11月4日の聖句

主の前を私は歩む、生ける者の地で。(詩編116:9)
あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。(ローマ6:11)

キリスト・イエスは私たちのために死んでくださいました。しかも私たちが罪人であり、弱く、不敬虔であるときに、キリストが私たちのために死んでくださいました。このお方が十字架にかけられて死なれたとき私たちも一緒に死んだのだ、と聖書は私たちに告げます。だから、今私たちが生きているのは、ただ神に対する信仰によって生きているということに他ならない。「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。」洗礼を受けて生きるというのはそういうことです。
洗礼のとき、頭に水がかけられます。もともとは水に沈めていたようです。今でもそのようにして洗礼を授ける教会もあります。頭に水をかけるというのは全身が水に沈められることの象徴です。水に沈められた私たちは、一度水の中で溺れ死んでいる。古い私は死んだ。ところが困ったことに「古い私」はとても泳ぐのが上手です。罪の私はなかなか死んでくれない。せっかく洗礼を授けられ、新しい私にしていただいたはずなのに、古い私がいつでも顔をのぞかせている。途方に暮れます。
私たちを新しくしてくださるというのは、神さまの約束に属していることです。だから私たちはそれを信じて待ち望むだけです。キリストは古く、しぶとく、そのくせ弱くて不敬虔な私のために、もう既に死んでくださった。その事実を信じ、このお方が私を神に対して生かしてくださることを受け入れて、神の御前に生きていきたい、と願います。
キリストに栄光があり、あなたの今日一日の歩みに祝福がありますように。

2025年11月3日月曜日

2025年11月3日の聖句

見よ、今も天に私の証人がいる。私のために証言してくれる方が高い所にいる。(ヨブ16:19)
私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。(ヘブライ4:14)

ヘブライ人への手紙は著者は、今となっては著者が分からない手紙です。もともとは実際に語られたいくつかの説教が手紙の形式でまとめられたものではないか、と推測されているようです。説教者の名前としてはパウロの手紙に名前が出て来るアポロという人物が候補に挙げられているとか。真相は分かりませんが。ただ、そのような想像をするのは楽しいことです。当時の教会の息づかいが聞こえてきます。
ヘブライ人への手紙がこのようにまとめられた事情は謎ですが、この説教を最初に聞いた人々が苦難の中にあったことは強く推測されます。今日の御言葉では「信仰の告白をしっかり保とうではありませんか」と勧められています。信仰の告白が保たれなくなりかねない状況にあった、ということであると思います。
私たちはそういう意味での迫害に遭っているわけではありません。キリスト者であるからといって命を取られるということは、今の日本であれば基本的にはありません。しかしそうだからといって、ヘブライ人への手紙が証しする真理が私たちに関係ないということはありえません。私たちもまた、信仰の告白をしっかり保つ戦いのさなかにいるのではないでしょうか。例えば人間関係で、例えば親子や夫婦の間で、例えば仕事のことで。他にもいろいろな場面で何を第一にし、何を選び取り、あるいは選ばないのかというときに、キリストへの信仰はどれだけ実質的な意味を持っているのか。それは私たちに対する一つの問いであると思います。私たちは、どう生きているのでしょうか。
神の子イエスがいる。ヘブライ人への手紙はその事実に目を向けよう、と語りかけています。このお方がいて私たちの祭司として執り成しの祈りを献げてくださっている。だからこそ、私たちは信仰の告白をしっかりと保つことができる。そう断言します。
主イエスさまを仰ぎ、このお方から励ましをいただいて、主の道を歩んでいきたいと改めて思います。キリストを信じる者として歩ませてください、と祈ります。

2025年11月2日日曜日

2025年11月2日の聖句

今週の聖句:
何が善で主は何を求めておられるか。公正と慈しみを愛し
行って、謙遜に神と共に歩むことである。(ミカ6:8)

今日の聖句:
多くの国民が主に連なり、私の民となる。(ゼカリヤ2:15)
神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。(黙示録21:3)

神は、私たちをご自分に連なる神の民としてくださる。私たちは神の国に生きる神の民。それが、教会に生きる私たちです。教会は、今ここに来ている神の国の始まりです。神はここで公正と慈しみが行われ、神の御前に謙遜に歩むことを求めておられる、と私たちは信じています。
この世界はそうなってはいないし、私たちの現実も神さまの御心とはかけ離れていると言わないわけにはいきません。教会も疵無しというわけにはいかない。しかし、それでもなお私たちは信じます。キリストはご自分の和解の御業を私たちの間に現実のものとしてくださったことを。キリストが私たちに手を伸ばし、私たちを互いに結びつけてくださったことを。
「多くの国民が主に連なり、私の民となる」と主は言われます。多くの国民、です。今教会に通っている私たちだけではない。主が呼び集めておられる多くの人々を主は御心に留めておられる。そのことを信じて、主と隣人を愛する私にならせてください、と祈ります。

2025年11月1日土曜日

2025年11月1日の聖句

11月の聖句:
(神の言葉)私は失われたものを捜し求め、散らされたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病めるものを力づける。(エゼキエル34:16)

今日の聖句:
私はあなたのどの戒めに目を留めても、恥じ入ることはありません。(詩編119:6)
(イエスの言葉)良い地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。(ルカ8:15)

主イエスが私たちに繰り返し求めておられるのは、私たちが御言葉をただ聞いただけで終わらせるのではなく、それを守り、従うことです。
これは種を蒔く人の譬え話ですが、ここで主は、蒔かれた御言葉の種を悪魔に奪い取られるのでもなく、しばらく信じても試練に遭ったら落伍してしまうのでもなく、人生の重い患いや富や快楽に塞がれて実を結ばないということでもないあり方を求めておられます。私たちが「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」ように、と。
こういう話を聞くと、自分の思いとしてはすぐに「無理です」と言いたくなってしまいます。しかし主イエスからしてみれば、私たちに無理難題を押しつけているということは一切ないのではないかと思います。イエス様はそんな意地悪な方ではありませんから。あなたも私の言葉をよく聞き、これを守り、忍耐することができるはずだとおっしゃっているのではないでしょうか。
これは、私たちへの主イエスさまからの約束です。必ず御言葉の種はすばらしい実を結ぶ。そう私たちに約束してくださり、私たちがこれからは喜んで主に従うことができるように、主ご自身が招いてくださっているのではないでしょうか。

2025年12月16日の聖句

神に対してただ静かであれ、私の魂よ。なぜなら神は私の希望だからである。(詩編62:6) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望んでいます。(テトス2:13) 「神に対してただ静かであれ、私の魂よ。」私たちもこの言葉を...