2016年3月21日月曜日

ヨハネによる福音書13:21-30

1.
主イエスは心を騒がせて、おっしゃった。
主のお心が騒いだという言葉に、私の心もまた騒がないわけにはいかない。主がその心を騒がせたのは、弟子たちの足を洗ったすぐ後のことだ。しかも、私がしたように、お前たちも互いにしなさいと、私を模範にしなさいとおっしゃったすぐ後のことだ。心を騒がせないわけにはいかない。ならなら、ここで主が言わなければならないことは、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」というお言葉であったのだから。
主はどんな思いでこの言葉を口にされたのであろうか。どんなに、胸の張り裂ける思いでいらしたのだろうか。主は「ご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のだ。そして、彼らの足を洗ってくださった。その内の一人が、主イエスを裏切ろうとしている。そのことを主ご自身が誰よりも早く悟られて、ご自分の口からそのことを告げなければならなかったのだ。何と言うことであろうか。
そして、同時に心を痛めないわけにいかないのは、弟子たちの致命的な鈍感さである。「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』」とおっしゃって、イスカリオテのユダにパン切れを浸してお与えになった。弟子たちは、それを見ても、悟らない。「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。」主の御心を覚者は、だれ一人としていなかった。だれも主の悲しみ、裏切られる辛さ、寂しさ、心の避ける思い、心騒ぐ主の御心を知る者はいなかったのである。

2.
ユダ自身もそうである。
「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』」とおっしゃりながら、ユダにお与えになった。ユダはパン切れを受け取った。その時、サタンが彼の中に入ったのである。主がパン切れをユダに渡さなければよかったのだろうか?そうではなかろう。ユダは、自ら選んで主の手からパン切れを受け取ったのである。そう、あのとき、鈍かった弟子たちの中で、恐らくユダだけが分かっていたのだ。主が何をおっしゃっているのかを。自分がしようとしていることを主がご存知なのだと、ユダだけが知ったのだ。だから、ユダには、あの時パンを受け取らないということもできた。しかし、彼はそうしなかった。パンを受け取った。その心にサタンが入った。自ら主を捨てることを選んだ心にサタンが住んだのだ。

「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出ていった。夜であった。」
聖書はそう伝える。これは「夕食のときであった」と2節に既に記されていた。わざわざ、ここで言葉を重ねるようにして「夜であった」という。恐らく、これは単に時間を書き留めておいたわけではない。ユダが出ていった場所は、夜だった。夜そのものだった。暗闇の中だった。世の光、イエス・キリストの光を避けるようにして、ユダは外に出て行ったのだ。

ユダの記事を読むと、心を痛めないわけにはいかない。これは私の物語と言わないで済む者は、恐らくいないのではないか。
はっきりと主のお言葉の意味が分かっていながら、あのパン切れを受け取ることを選択してしまう。そうやって「しようとしていること(27)」をしているつもりで、でも、実はサタンに心を奪われているに過ぎない。それは、私の物語。悲しみつつ、そう告白せざるを得ない。

3.
主が、その御心を騒がせておられる。
実は、この「騒ぐ」という言葉は、ヨハネによる福音書の中で、あるメッセージを秘めた言葉なのではないかと思っている。主の心が騒いだ、という意味で使われているのは、11:33、12:27、そして今日の箇所である。
11:33はラザロが死に、姉であるマリアが「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣き、他の者たちも泣いているのをご覧になって、心に憤りを覚え、「興奮」なさった。イエスは涙をも流して折られる。
ぬ12:27では、主はこう言われる。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」「この時」とは、十字架のときである。キリストは十字架にかけられるご自分の時を迎え、心を騒がせた。

これら三つの箇所には、共通点がある。どれも、十字架と深い関わりがあるのだ。
ヨハネによる福音書を読むと、ラザロの復活が大きな契機になって、そこから一気になだれ込むようにして主は十字架にかけられる。あのとき騒いだ主の心は、十字架への決意を含むものであったとさえ言いうる。
第12章の関わりは明らかである。主はそれを避けさせてくださいと父なる神に祈ることなく、ご自分の時をお引き受けになったのである。
そして、今日の箇所。ユダの裏切りによってイエスは捕らえられ、十字架にかけられることとなった。この上なく愛するご自分の弟子の裏切りによって。

しかし、この福音書の重大な場面でこの「騒ぐ」という動詞が使われている箇所はここだけではないのだ。14:1と27に登場している。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
どちらも、主が弟子たちにおっしゃった言葉だ。そして、どちらも、「騒がせるな」と命じておられる。心を騒がせるのではなく、主を信じるのだ。主が与えてくださる平和を信じるのだ。怯えてはならない。

そう。私たちには、心を騒がせないわけにはいかない出来事がいくらでも起こるのだ。私たちには、怯えてしまう出来事が次から次へとに起こるのだ。介護、看病、愛する者の死、仕事、進路、社会のこと、お隣さんのこと、夫婦仲、子どもの教育、成長、・・・。数えればきりがない。しかし、怯えてはならない。主はそう命じられた。なぜか。主は私たちに平和を下さった。どうやって?だれよりも深く、ご自分の心を騒がせながらも十字架への道を受け入れて、そのためにご自分の弟子の裏切りをも受け入れて、それでもなおその弟子を愛して、足まで洗って、そうやって愛して愛し抜いて、十字架にかけられた。私たちの心が騒いでしまうことのないように。だから、もう大丈夫。安心しよう。神が下さる平安をもって生きよう。 

2016年3月20日日曜日

ヨハネによる福音書12:12〜19「小さな王たちが跋扈する時代に」

昨日のサタデーパレットで主イエスが十字架の上でご自分を十字架につけた者たちを見つめながら祈られた言葉の話をしました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」主はそう祈られました。それを聞いた小学3年生の子が言いました。「優しいじゃん!」そうです。私たちが信じる神、イエス様は優しいお方です。柔和な方です。子ろばに乗って私たちのところへいらっしゃいます。私たちを征服するために軍馬に乗って来るのではないのです。今日、優しさを求める全ての人を神は招いてくださっています。世の巷にあふれかえっている言葉は、赦しの言葉ではなくて裁きの言葉です。断罪したり、怒ったりする言葉です。関係を断ち切ってしまう言葉ばかりが耳に飛び込んできます。そして、つい、本当はそんなことしたくないのに、同じような言葉が自分の口からもでてきてしまいます。それに気づくと自己嫌悪に陥ります。それは、まるで小さな王様にでもなってしまったかのようです。主イエスはロバに乗って私たちのところへ来てくださる王様です。イエス様が王として来られたのは、私たちが王様のままでは、私たちがどうしたって救われようがないからです▼イエスと一緒にエルサレムまで旅をしてきた群衆がいました。彼らはベタニヤ村でイエスがラザロという若者を生きかえらせた奇跡を目撃して、ここまで付いてきたのです。そして、エルサレムでなつめやしの枝を振ってイエスをお迎えしたのは、ちょうど祭りのために上京してきていた巡礼者が、その話を聞いたからでした。彼らは皆巡礼者です。巡礼者が死者の中からの甦りといういのちの福音を耳にして、イエスを王としてお迎えしていたのです。死というのは、単なる生命活動の停止ではないのではないでしょうか。それは、関わりの死です。愛の絆の死です。死を迎えた本人だけではなくて、その人を愛する者にとっても、その人を喪うことで自分の何かが死んでしまいます。死はそういう出来事です。今日、伝道師任職式があります。伊能悠貴教職志願者が伝道師になります。伝道師になるというのは、説教者になるということです。小さな王たちの大きな声しか聞こえないようなこの世界の中で、キリストのいのちの福音を宣べ伝える巡礼者の一人になることです。私がかつて仕えていた教会で出会ったMさんは、まだ60歳くらいの時に多発性骨髄腫が見つかり、非常に進行が早く、見つかって短い期間で最期を迎えられました。ご家族はいのちが長くないことを告げるときに激しく動揺するのではないかと心配しました。しかし、Mさんはおっしゃった。自分は若い頃に洗礼を受けて、たくさんの説教者が語る福音の言葉を聞き続けてきた。ここで動揺しては、それが無になってしまうではないか、と。伝道師が生まれるというのは、このようないのちの福音を語る巡礼者が新しく生まれるということに他なりません▼聖書に登場する巡礼者は、しかし、ほんの数日後にはイエスを見捨て、それどころかイエスを十字架につけろと叫びます。それでは、彼らの言葉は空しいものに過ぎなかったのでしょうか。そうではないと私は信じます。神は、私たちのことを私たち以上によく知った上で、それでも私たちを信じてくださいます。なぜなら、この方、私たちの王の優しさは死にも罪にも打ち勝つ優しさだからです。この方があなたの神。全てをバラバラにするこの世界に生きるあなたの神はこの方です。

2016年3月17日木曜日

詩編第10篇「神が顧みてくださるから」

神に逆らう傲慢な者は貪欲で、自分の欲望を誇る。彼らは高慢で、何事においても神を無視する。神に従う人は貧しい。そうならざるを得ない。「立ち上がってください、主よ」と祈り、主が必ずご覧になり、顧みてくださることを願う。主こそ王、とこの貪欲な世界で信じる。貧しい者は幸いである、と言われた主イエスの御言葉がここに響く。「神の国はあなたがたのものである。」真の王があなたを救ってくださる。それを信じよと主は言われる。

2016年3月10日木曜日

詩編第9篇「主以外の救いを持たぬ乏しき者であろう」

主の正しい裁きを求めて訴える切実な祈りの言葉である。我らも共に祈ろう。「憐れんでください、主よ。死の門から私を引き上げてくださる方よ。」本気で神を信じより頼んでいるから、苦しんでいるのだ。世に溢れる他の助けを求めないから。しかし、こうして求める者を神は必ず救ってくださる。「あなたこそいける神の子キリストです」と告白する教会に陰府の門に対抗する天の鍵を授けてくださった方は、ほめ歌(12節)をも授けてくださる。

2016年3月6日日曜日

ローマの信徒への手紙第5章1から11節「我らを欺かない希望」

東日本大震災から5年が経とうとしています。私は4月に荒浜に立ち、言葉を失いました。あの時、震災と原発事故の意味が繰り返し問われました。しかし、私は何といったら良いのか分かりませんでした。8月のことです。私に説教の指導をしてくださっている加藤常昭先生が、それは人としてはもしかしたら誠実なのかもしれないが、牧師としては不誠実だと指摘されました。今こそ語るべき福音の言葉があるはずだ、と。迂闊でした。あの日から今日に至るまで、被災地で福音を宣教し続けたキリスト者達がいます。彼らは福音の言葉を語り続けました。もちろん、牧師だけではありません。多くのキリスト者が隣人に耳を傾け、また、語り続けてきました。神を信じて。試練を受けている今こそ、恵みの時なのだと信じて▼竹森満佐一牧師は今日の聖書の言葉は、これを書いたパウロが自分の信仰をぶっつけるようにして語っている、と言いました。その通りです。「神との間に平和を得ている。」それは単なる知識では意味がなくて、苦しんでいる時にどのような意味を持ちうるのか、ということが一番大切です。あの震災の時、多くの人が今私たちの社会は危機にさらされていると考えたと思います。多くの人が未曾有の災害だと言いました。しかし、僅か1年前にハイチでも大震災が起こり、その時は31万人の人が犠牲になりました。スマトラ沖での震災も記憶に新しいことです。あの時のわたしたちの感覚に表れた言葉にならない思いは、もしかしたら、今でも解決していないのではないかと思います。あの時の絆ブームでは問題の根はいやされなかったのです。6節に「わたしたちがまだ弱かったころ」とあります。この「弱い」には「病気」という意味もあるそうです。わたしたちは病気になってしまっている。人の痛みへの鈍感さやおそろしいほどの忘れっぽさ。ただ弱いからと言うだけでは済まされない。それは、はっきり言えば罪です。しかし、その罪のためにキリストは死んでくださいました。私は神の敵なのに。キリストが死んでくださったのは「罪人であったとき」です。見込みもなく、良いところもない、反省もしない私のために、キリストは死んでくださいました▼だから、神との間にわたしたちは平和を得ています。先日荒瀬牧彦先生に教えていただいたのですが、最近ハイチにカンバーランド長老教会が生まれたのだそうです。今このニュースを聞くのは、私たち日本の教会への神の憐れみであると思います。彼の地には私たちと同じ神との平和を喜んでいる信仰の仲間がいるのです。神との平和に生きる者は苦難をも誇りとします。この「誇る」は口語訳聖書では「喜ぶ」と訳されていました。苦難を喜んでいる。やせ我慢でも強がりでもありません。苦しんでいるとき、私たちは自分を喜んだり誇ったりすることはできない。神を望むしかなくなってしまいます。他にはないから。だから苦難を喜ぶと言える。そして、神がこんなに罪深い私のためにキリストをくださったから、苦しんでいても神の恵みを信じて、耐えることができます。この忍耐が生む練達とは、悲しみや喜びに無感動になるのではなく、却って本当に悲しみ、喜べるようになることです。その人は傷つきます。しかし、その涙を神にだけ向けます。だから、希望を知っている。この希望は私たちを欺くことがないのです。深く傷つき病んでいる世界に福音を届けるために、私たちは今日神を礼拝しているのです。

2016年3月5日土曜日

ヨハネによる福音書6:16-21 「命の言葉を聞き続けよ」

主イエスが「わたしだ」と言って、舟に近づいてくださいます。「わたしだ」で通じ合える信頼関係を、主は弟子たちと持っておられたのでしょう。今朝(2011年3月13日)は急遽、説教テキストを変更しました。この「わたしだ」という御言葉に聞き入りたいからです。地震の後、訪問と電話で安否を確認して回りました。無事な姿を見、電話の声を聞いて、どんなに嬉しかったことでしょう。何よりも、私たちは知っているのです。主イエスご自身が、近づいてきてくださっているのです▼このとき、弟子たちはガリラヤ湖にいました。距離を測ると、ちょうど湖のど真ん中です。強い風、湖は荒れ、小さな舟を襲います。しかも夜です。何と人間の力の無力なことか。しかも、そこに主イエスがおられませんでした。どうして、最も主の助けを必要とするこのときに、主イエスはいてくださらなかったのでしょうか。何でこのような嵐がわたしたちを襲うのか。主イエスはわたしたちをお見捨てになったのか。ここはガリラヤ湖です。弟子たちの中でペトロを初めとする数人はこの湖で漁師として生きてきました。しかし、今、そのような経験も何の役にも立ちません。どうして神はこのようなことをするのか。私たちはそう考えてしまうのです▼しかし、聖書は私たちの目を違うところへ向かわせます。イエスが湖の上を歩いてこちらへと来られるのです。イエスは凪のときに来られたのではありません。順風満帆のときに来たのではありません。小さな舟が真っ暗闇の中、大風と波に飲み込まれそうになったときに来てくださったのです。しかし、弟子たちはそれを見て恐れました。湖の上を歩いてくるなどというあり得ない出来事に恐れたのでしょうか。それもあるかもしれません。それ以上に、弟子たちは決定的なことを見失っていたのです。「わたしだ。」という主イエスの言葉は「わたしは神である」という意味でヨハネが使う言葉です。わたしはお前の神だと言ってこの沈みそうな舟に近づいてくださる方がおられる。弟子たちはそのことを見失っていたのでしょう。この方が「わたしだ。恐れることはない」と言われるのです。このようなときだからこそ、命を得させる神の言葉を聴き続けましょう。望みを拓く命の御言葉を。

(これは2011年3月13日主日礼拝での説教です。)

2016年3月2日水曜日

詩編第8篇「もう、讃美するしかないのです」

詩編作者は満天の星を仰いで、月や星を配置された神の指の業を思う。主の御名の力強さは全地に満ち、天に威光が輝く。それを幼子、乳飲み子がたたえる。それは、決して一般論ではない。知識に過ぎないのでもない。偉大な主が、このわたしを御心に留めてくださる。神に僅かに劣るもの、しかしなお栄光と威光を持つものとしてわたしを造ってくださった。何と畏れ多いことか。言葉を失う。ただただ、全地に満ちる主の御名を讃美する。

2026年9月12日の聖句

あなた自身くれぐれも気をつけ、注意を払い、目で見たことを忘れないようにしなさい。(申命記4:9) マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18) 今日の御言葉を聞いて、自分は一体何を見てい...