2019年2月6日水曜日

2019年2月6日(出エジプト記12)

今日の通読箇所:マタイによる福音書26:47-75、出エジプト記12、詩編42-43

出エジプト記12;
ついに、イスラエルの人々はエジプトを後にします。そのために、主なる神様が大いなる御業を行われました。「その夜、私はエジプトの地に行き巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に裁きを行う。私は主である(12節)」。
そのために、イスラエルの人々は準備をしました。家族ごとに欠陥のない一歳の小羊を屠り、「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」。そして、その小羊の肉は焼いて食べます。煮てはいけません。「それを食べる時は、腰に帯を締め、足にサンダルを履き、手に杖を持って、急いで食べなさい。これが主の過越である(11節)」。そして、鴨居と柱に塗った血は主が「その血を見て、あなたがたのいる家を過ぎ越す(13節)」ためのしるしとなります。イスラエルの人々は、爾来、この出来事を記念して毎年過越祭を祝ってきました。
主イエスが十字架にかけられたのは、この過越祭の時でした。その日、過越のための犠牲の小羊が屠られ、血が流されるように、主イエスの血が流されました。その血をご覧になって、神が私たちを過ぎ越し、災いを下さないと決断してくださったのです。
この過越のよるために、主は、特別な計らいをしてくださいました。「その夜、主は、彼らをエジプトの地から導き出すために、夜通し見張りをされた(42節)」。私たちが迎えたこの新しい朝のためにも、主が夜通しの番をしてくださいました。主が与えてくださった朝、私たちはキリストの犠牲の血によって与えられた命を生きているのです。

2019年2月5日火曜日

2019年2月5日(出エジプト記9〜11)

今日の通読箇所:マタイによる福音書26:31-46、出エジプト記9-11、詩編41

出エジプト記9-11;
主なる神様がエジプトに下された10の災いのうちの最初の九つは、三つ一組になっています。①血の災い、蛙の災い、ぶよの災い。②あぶの災い、疫病の災い、腫れ物の災い。③雹の災い、ばったの災い、暗闇の災い。そして、最後の初子の災いは、最初の九つとは少し区別される、最後の決定的なものとして位置づけられているようです。
それぞれの冒頭に同じモチーフが繰り返されています。「明日の朝、ファラオのところに行きなさい(7:15)」。「朝早く起き、ファラオの前に進み出なさい(8:16)」。「朝早く起き、ファラオの前に進み出て言いなさい(9:13)」。朝、ファラオのところへ行くということが三度繰り返されています。
ただ、漫然と三回一組を繰り返すのではなく、少しずつ話が進展していきます。特に②からです。「私は、この民をあなたの民と区別して贖う(8:19)」「主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜を区別する(9:4)」「雹はまた、野のすべての草を打ち、野のすべての木を砕いた。ただし、イスラエルの人々がいるゴシェンの地には、雹は降らなかった(9:26)」などです。これらの災いの一つのテーマは、区別です。エジプト人とヘブライ人が神様に区別されている。ヘブライ人だけひいきされているのです。10番目の初子の災いではなおはっきりします。「こうして、あなたがたは主がエジプト人とイスラエル人を区別されることを知るであろう(11:7)」。
神様が人間を区別し、ひいきするなんて、およそ神様らしくない振る舞いのように感じてしまいます。しかし、聖書の神様は、驚くべきことに、そうなさるのです。私たちが心に留めたいのは、ここでひいきされ、特別に愛されているのは、エジプトの国で追い使われ、虐げられていた者たちだった、ということです。神様は孤児や寡婦、貧しい者、病人を特に心にかけ、ひいきしてでも愛される方。それは、主イエスの歩みを思えば、よく分かること・・・。このような神様のお姿は、私たちへの一つの問いなのではないでしょうか。

2019年2月4日月曜日

2019年2月4日(出エジプト記7〜8)

今日の通読箇所:マタイによる福音書26:1-30、出エジプト記7-8、詩編40

出エジプト記7-8;
主なる神様の手によって、エジプトに10の災いがもたらされます。今朝の箇所には四つ登場しました。災いが起きるたびに、結局ファラオが心をかたくなにして、モーセの言うことを聞き入れなかったと繰り返されています。しかも、それが神様の働きなのだと言っています。「私はファラオの心をかたくなにするので、私がしるしと奇跡をエジプトの地で重ねても、ファラオはあなたがたの言うことを聞かない(7:3)」。ちょっと、ショックな言葉です。モーセやヘブライ人たちにしてみれば、すぐにファラオが聞き入れてくれて、気持ちよく送り出してくれたらどんなにいいでしょう。私たちも、似たようなことを経験しないでしょうか。どうして、神様はそのようなことをなさるのでしょう
「私がエジプトの上に手を伸ばし、イスラエルの人々を彼らの中から導き出したとき、エジプト人は私が主であることを知るようになる(15:5)」。モーセやヘブライ人たちから見て、ことがうまくいかず、相手の心がかたくなで、説得に耳を傾けてくれないとき、実はそれは私たちを救うための神様の御業の中に置かれており、しかもそれによって神様の御名が明らかになるプロセスなのです。「エジプト人は私が主であることを知るようになる。」最初、ファラオは言いました。「主とは何者か」と。この「主」は神様のお名前を表す言葉です。主とは何者か、どこの馬の骨か、どうして私が従わねばならないのか。それは、ファラオだけではなく、私たちのつぶやきです。どうして聖書が言うような愛に、柔和に生きなければならないのか?イエスとは、私の人生にとって何者か?どれほどのものか?そんな不遜な私たちにご自分の尊いお名前を教え、神様の御許に連れ戻すために、神様は働いてくださっているのです。
今日一日、神様のお名前による祝福が、豊かにあなたにありますように。

2019年2月3日日曜日

ヨハネによる福音書4:1-26「もう、渇くことはない!」


 これは、一人の女の、主イエスとの出会いの物語です。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と最後にイエスがおっしゃいます。メシア、救い主、それは私だと言われます。一人の女が主イエスに、救い主に出会った。いや、正確に言うならば、主イエスが彼女と出会ってくださったと言うべきかもしれません。長い探求の果てにようやくたどり着いた境地だとか、修行の末に開いた悟りだとかではないのです。主イエスが彼女を探して、見つけて、出会ってくださいました。この物語の始まりは、こうです。「(イエスは)ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。」普通、ユダヤ人は、どんなに遠回りをしてでもサマリアを迂回します。ユダヤ人はサマリア人と決して交際しません。しかし、イエスは「サマリアを通らねばならなかった」。なぜか?彼女を探すためです。彼女と出会うためです。この一人の渇ききった女と出会い、彼女に命の水を飲ませるためです。
 聖書を読んですぐに分かることは、彼女がかなり渇いていたようだということです。彼女には五人の夫がいましたが、今連れ添っているのは夫ではありません。恐らく、そういう境遇があってのことでしょう、彼女は一番熱い正午に水汲みという重労働をしています。朝夕の涼しい時間に井戸に来て、井戸端の人々の目にさらされることを避けたのだと思われます。渇いていたのです。この話は、明らかに「渇き」が一つのテーマです。主イエスが汲む物を持たずに井戸で休んでいたとき、一人の女がやってきた。イエスは「飲ませてください」と頼みます。彼女はサマリア人なので、ユダヤ人にそのようなことを言われたことについて訝しく思います。しかし、イエスは構わずに言われます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことだろう。」イエスは生きた水を、永遠の命にいたる水を与えよう、と言われます。抗してみてみると、井戸は彼女の今の象徴だと思います。この昼日中の暑い時間に、人目を避けて、同棲相手のために思い水を汲みに来ました。しかし、この水をいくら飲んでも、この水による生活をどんなに重ねても、またすぐに渇くのです。この渇きを、私たちも知っているのです。私たちが生きている世界は、成果至上主義的であったり、行きすぎた個人主義(孤立主義)によって共同体が壊れていたり、そうかと思えばこの世界の混乱に目をつぶる現実逃避に身を委ねたりしています。しかし、そうしたところで渇きは満たされないのです。
 そんな世界で、イエス・キリストは私たちを探して、見つけ出し、私たちに出会ってくださいます。そして「わたしを信じなさい」と言われます。サマリアの女は、思わず、礼拝の話を始めました。神さまを礼拝するときに、私たちの渇きがいやされるからです。「私たちは人間として、欠乏感に迫られて礼拝することを知っている。私たちは自分自身では満ち足りることが出来ないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって感性と充足を経験するのである。礼拝するとは、人間が人間になることである。(『礼拝指針』)」キリストが下さる命の水を飲む場所、それが礼拝です。

2019年2月3日(出エジプト記5〜6)

今日の通読箇所:マタイによる福音書25:31〜46、出エジプト記5〜6、詩編39

出エジプト記5〜6;
神様に命じられたとおり、モーセとアロンはファラオの下へ行って言います。「イスラエルの神、主はこう言われる。『私の民をさらせ、私のために荒れ野で祭りを行わせなさい』(5:1)」。しかし、これに対し、ファラオは言います。「主とは何者か。私がその声に聞き従い、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らないし、イスラエルを去らせはしない。(2節)」要するに、主という神はどこの馬の骨か、ということです。
この反応は、イスラエルの人々も、大して変わりません。モーセの説得にかえって反発したファラオは、イスラエル人の苦役を重くします。すると、人々はモーセに苦情を訴えます。「主があなた方をご覧になって裁かれますように。あなたがたはファラオやその家臣に私たちの立場を悪くするように仕向け、私たちを殺す剣を彼らの手に渡してしまったのです(21節)」。彼らは主なる神様は知り、信じていましたが、モーセのせいで立場が悪くなったことに怒り、モーセはどこの馬の骨かと怒ったのです
私たちが神様を信じてしたことで、却って事態が悪くなってしまうことは、ままあります。その恨みは神様に向けられたり、私たち自身に向けられたりします。そういうときに、私たちは、神様の名をかたって勝手に自分がしたのではないか、自分の勝手な思い込みなのではないかと反省することは大切です。しかし、主イエス・キリストがしてくださったように隣人を愛し、自分の十字架を負うための労苦を恐れてはならないこともまた真実です。どこの馬の骨とも分からない私たちですが、この方こそまことの神、私たちを救ってくださるキリストの父。その確信は決して失わずに、キリストが示してくださった愛の道を進みたい。そう願います。

2019年2月2日土曜日

2019年2月2日(出エジプト記3〜4)

今日の通読箇所:マタイによる福音書25:1-30、出エジプト記3~4、詩編38

出エジプト記3~4;
モーセは神の山ホレブで、神様と出会いました。神様は「モーセ、モーセ」と彼を呼び、それだけではなくご自身のお名前を、モーセに教えてくださいます。モーセと生を呼び合う関係になろうと願ってくださったのです。
名前というのは、他のものと区別するために使うものです。私は他の家の人間ではないので宮井という名前であり、宮井の中でも他のものと異なることのしるしとして岳彦という名前です。白くて砂のような形状の調味料の中でも、塩化ナトリウムを主成分として腐敗を防止したりしょっぱい味をつけたりすることのできるものを「塩」と呼びます。塩と呼べば、似た形状の他の調味料である砂糖とは区別されます。名前というのは、社会の中で他と区別し、何なのかを識別するために使うものです。
そう考えると、神様に名前は必要なのでしょうか?もしも並んで他の神々がいるのなら、他の神ではないこの神という名前が必要です。しかし、他の神などないのなら、名前は必要ないことになります。そして、私たちは、この神に並ぶものはないと信じています。
しかし、神様はご自分の名前を私たちに名乗ってくださいます。それ自体、すでに、神様の大いなるへりくだりです。では、いかなるお名前なのか?「私はいる、というものである。(3:13)」不思議な名です。さらに、「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主(15節)」とあります。「私はいる」、そして「主」、これが神様のお名前です。
「私はいる」というのは、新共同訳では「私はある」と訳されていましたが、変わりました。「ある」というのは、物に使う存在の動詞です。「いる」は、人などの、生きたものに使います。そういうことで、訳を変更したのかもしれません。神様は哲学的な概念とか、大いなる自然の驚異のようなものではなく、私たちと共にいて、私たちと名前を呼び合う関係になりたいと願っていてくださるお方です。今、私たちはこのお方のことを「主イエス・キリストの父」と知らされ、そうお呼びすることが許されています。

2019年2月1日金曜日

2019年2月1日(出エジプト記1〜2)

今日の通読箇所:マタイによる福音書24:29-51、出エジプト記1~2、詩編37

出エジプト記1~2;
ヨセフの時代から時間が経ち、新しい時代のエジプト王は増えゆくヘブライ人を恐れ、彼らを奴隷にする政策を執りました。物語がとても豊かな箇所ですので、ぜひ聖書本文を読んでからこのメッセージを読んで頂ければと思います。
たくさんの登場人物が出てきますが、恐れ(畏れ)にまつわるイメージで見ていくことができると思います。ヘブライ人が増えすぎ、ファラオは恐れています。その言葉を聞いて、エジプト人たちも同様だったのでしょう。だから、彼らはヘブライ人たちを奴隷としてこき使いました。あるいは、大人になったモーセです。同胞が打たれているのを見て、加害者を殺してしまいました。誰も見ていなかったはずでしたが、翌日別のヘブライ人の同胞に言われてしまった。「あのエジプト人を殺したように、私を殺そうというのか」と。それを聞いて、「モーセは恐れ、きっとのあのことが知られているのだと思った(2:14)」。ファラオやエジプト人の恐れは、まさに、現代社会を覆い尽くしてしまっている恐れであるように思います。難民・移民のために自分たちの権利が侵害され、彼らの方が得をしているという根拠が曖昧な脅威感のための恐れと、そこから生まれる憎しみです。モーセの恐れ、自分の隠したはずの憎しみや暴力的な言動が知られているのではないかという恐れです
ところが、ここには別の畏れもあります。ファラオからヘブライ人の男児を殺せと命じられた助産婦です。「助産婦たちは神を畏れていたので、エジプトの王が命じたとおりにはせず、生まれた男の子を生かしておいた(1:17)」。あるいは、モーセの姉です。川に浮かぶ弟の籠を見守り、それを見つけたファラオの娘の前に進み出た彼女は、ファラオを恐れてはいなかったのでしょう。
助産婦たちがファラオを恐れなかったのは、神を畏れていたからです。私たちは、何を恐れているのでしょうか。本当に畏れるべき方を畏れているのでしょうか。

2026年7月29日の聖句

昼も夜も、わたしは涙を食物とする。 人は日夜私に言う 「あなたの神はどこにいるのか」と。(詩編42:4) (パウロの言葉)私が投獄されているのはキリストのためであると、兵営全体と、その他のすべての人に知れ渡り、主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄された...