2019年5月5日日曜日

コリントの信徒への手紙一第12章12から31節a「あなたがたはキリストの体」


 水曜日に教会員のIさんの葬儀を行いました。ご家族の他に、友の会でのIさんのご友人が大勢来てくださいました。そして、教会の仲間たちと葬儀ができたことは、慰め深いことでした。大切な人を喪ったとき、その人を愛する者たちにとってのアイデンティティの危機が訪れます。この死の悲しみを乗り越えることができるのか?それで、社葬や学校葬をいたします。教会員の死は、やはり教会にとっての危機です。私たちの葬儀は、いつでも教会葬です。それは復活の信仰に生きる者としての証しの業でもあります。愛する一人の姉妹との別れは教会にとっての大きな慰めです。そして、復活の福音を信じる者として、それはよりよき生へと通じる通路、天の国への凱旋です。そう信じる仲間たちとIさんを葬ることが許されたのですから、慰め深いことです。そこでは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」という御言葉が、現実のものとなっていたと思います。それは、神の奇跡です。
 パウロは、教会を体に譬えました。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」教会がキリストの体といったとき、そこでは何が言い表されているのか。「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」体には手があり足があり、目があり耳があります。口は指ではないし、踵は鼻ではありません。しかし、それらはバラバラではなく、全体として一つの体を形づくります。体になっていなければ、手にも足にも、そうである意味が失われてしまいます。一つの体には多くの部分があり、多くの部分が一つの体をつくっている。キリストの場合も同様だ、と言うのです。
 教会は体というのは、ある意味ではよく分かるたとえです。たしかに、教会にはいろいろな人がいて、いろいろな事をしている。しかも、全体として一つになっている。実は、こういう体のたとえ事態はパウロのオリジナルものではなかったようです。当時、支配者がその集団を体にたとえながら全体をまとめ上げていた。ところがパウロの言葉はそれと似ているようだが違うところがある。「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」パウロは、その当時知られていた体のイメージを用いながら、それを換骨奪胎します。他の場合では上に立つ者が自分の支配を正当化するために体のイメージで集団をまとめ上げていた。ところが教会はそうではない。体の中の弱い部分が却って必要なのだと言います。それはキリスト御自身が、弱い部分を尊ばれる方だからです。「一つの部部が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」私たちの実態は、弱い部分を尊ぶどころか、足手纏いだと言って軽んじ、お荷物だと考えてしまうようなところにあります。弱い部分を包摂し、積極的に尊敬して愛することは、自分の実態を考えてみると、理想ではあっても現実にそうなっているとは言えません。私が今回コリントの使徒への手紙一の連続講解説教に取り組んで本当にすばらしいと思ったのは、パウロがこの手紙を十字架の言葉から始めていることです。私たちが一つの体として生きられるのは、私たちが愛に満ちた者だからではない。この罪人を許す十字架のキリストがおられるからなのです。

2019年5月5日(士師記1〜2)

今日の通読箇所:ルカによる福音書9:37~62、士師記1~2、詩編133~134

士師記1~2;
イスラエルの人々は約束の地にいよいよ攻め上り、与えられた地を実際に手に入れました。しかし、その場面で繰り返し報告されているのは、彼らが不徹底であったことです。「ベニヤミンの一族は、エルサレムに住むエブス人を追い出さなかったので、エブス人はベニヤミンの一族と共にエルサレムに住み続け、今日に至っている(1:21)」。同じ趣旨のことがいろいろな部族について書かれています。ただし、例外もありました。「モーセが告げたとおり、カレブにはヘブロンが与えられ、彼はそこからアナク人の三つの氏族を追い出した(1:20)」。ヨシュアと共にカナンの地を偵察し、断然神が言われるとおりに攻め上るべきだと訴えたカレブ。彼は、主の命令に忠実でした。与えられた地からアナク人を追い出した。しかし、他の部族のほとんどは、神様の言葉に従うことに不徹底でした。
その結果、どうなったのか?「私はあなたがたをエジプトから導き上り、あなたがたの先祖に誓われた地に入らせ、こう告げた。『私はあなたがたとの契約を決して破らない。だから、あなたがたはこの住民と決して契約を結んではならない。彼らの祭壇は壊さなければならない。』しかし、あなたがたは私の声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。それゆえ、私は告げる。『私もまた、あなたがたの前から彼らを追い払わない。彼らはあなたがたにとって落とし穴となり、彼らの神々はあなたがたにとって罠となるだろう』」(2:1~3)。そして、この後の士師記はこの言葉のとおり、彼らが神様に従わなかったことが罠となり、イスラエルは坂道を転げ落ちるようにして神様から離れ、背き、他の神々に従うようになり、その結果自分たちの災いを増していく有様が描かれていきます。士師記は、イスラエルの転落の歴史を赤裸々に語ります。
そんなイスラエルに、神様は士師という指導者を与えてくださいました。「彼らが圧迫し抑圧する者たちを前に呻き苦しむのを、主が憐れまれたからである(2:18)」。それで少しよくなるが、またすぐに神様から離れてしまう・・・。それを繰り返し、次第に悪化してしまうことになります。ですから、士師記を読むと、私たち人間のどうしようもない神様に背く罪の姿が暴露されており、悲しく、つらい思いになります。ここに描かれているのが、他ならない自分の姿だからです。しかしだからこそ士師記は大事です。私たちが生きるべき指針を示しているからです。私たちを求めていてくださる神様の悲痛な呼び声、それが士師記であると思います。

2019年5月4日土曜日

2019年5月4日(ヨシュア記23〜24)

今日の通読箇所:ルカによる福音書9:1~36、ヨシュア記23~24、詩編132

ヨシュア記23~24;
「今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖が、ユーフラテス川の向こうやエジプトで仕えていた神々を取り除き、主に仕えなさい。もし、主に仕えることがあなたがたの気に入らないのなら、ユーフラテス川の向こうにいた先祖が仕えていた神々でも、今あなた方が住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを今日、選ぶがよい。しかし、私と私の家は主に仕える(14~16節)」
死を迎えようとしているヨシュアの、最後の説教です。ヨシュアは、人々にユーフラテス川の向こうに住んでいたアブラハムから話を始めます。アブラハム、イサク、ヤコブ。そしてモーセ。神がこれまで自分たちに何をしてきてくださったのか、自分たちの原点はどこにあるのかに気づかせます。それは、神が生かしてくださり、神の憐れみで生きてきた、ということです。
そして、その最後に冒頭に掲げた言葉を継げました。「今こそ、あなたがたは主を畏れ、真心と真実をもって主に仕えなさい」。それがいやなら、どこぞの神々のもとにでも行けばいい、とまで言います。もちろん、どちらでもいいから気に入る方を選べというのではなく、主なる神に仕えよ、という力強い勧告です。
私たちは、今、誰に仕えているのでしょう。誰を私の神と信じ仕えているのでしょう。私たちの信仰の急所は、キリスト告白です。イエスに向かって「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し、この方を信じ、仕えることこそ、私たちの信仰です。これから先、あなたは誰を信じ、誰に仕えますか?私と私の家は、主に仕えます。

2019年5月3日金曜日

2019年5月3日(ヨシュア記22)

今日の通読箇所:ルカによる福音書8:40~56、ヨシュア記22、詩編130~131

ヨシュア記22;
ヨルダン川西岸での戦いを終えて、ガド、ルベン、マナセの半数がヨルダン川東岸の自分たちの領地に帰っていきます。彼らは先に東岸で自分たちの割り当てを得ていましたが、他の仲間たちを見捨てずに、共に最後まで戦って、義務を果たして自分たちの地へ帰って行ったのです。
ところが、ここで事件が起きました。彼らがヨルダン川沿いのゲリロトという場所に自分たちの祭壇を造ったらしい。これは申命記第12章などでも明確に禁じられている、重大な違反でした。「あなたは自分のよいと思う場所で、焼き尽くすいけにえを献げないように気をつけなさい。ただ、主があなたの一つの部族の中に選ばれる場所で、焼き尽くすいけにえを献げ、私が命じることをすべて行いなさい(申12:13,14)」。
そこで、西岸に住む諸部族はすぐにそこへ行って、彼らのしたことを問い詰めます。あなたたちがしていることは、私たちの親たちが荒れ野でしてきた過ちを繰り返しているようなものだ、と。
これに対して東岸組は、これはいけにえを献げるための祭壇ではない、と言います。自分たちの孫子の世代になったとき、ヨルダン川東岸という遠い場所にいる自分たちが忘れ去られ、イスラエルの中でのけ者にされてしまうかもしれない。そうならたないための記念碑として、孫子に語り伝えるためのレプリカだ、と言うのです。「焼き尽くすいけにえを献げるためでなく、会食のいけにえを献げるためでもありません。私たちとあなたがたとの間の証拠なのです(28節)」。
これを読んで、私は、イスラエルの結び目は、ただ同じ神を信じていると言うことだけなのだと改めて思いました。そこが蔑ろになってしまったら、絆は消え、お互いの主張がぶつかり合うしかなくなってしまいます。神を信じ、神が下さったものを感謝して受け、神にしたがっていく。お互いにそれを求めた結果が、今回の出来事だったのでしょう。教会でも、やはり同じだと思います。私たちの結び目も、ただ神を信じていると言うことだけです。だからお互いの立場からそのことを大切にして行くべき道を定めていく。時には互いにそれがぶつかり合って話し合いも必要になります。しかし、神に従うという点でお互いを信頼し合えれば、大丈夫です。神を信じ、相手を信頼する。そんな結び目が、私たちにも与えられています。

2019年5月2日木曜日

2019年5月2日(ヨシュア記20〜21)

今日の通読箇所:ルカによる福音書8:22~39、ヨシュア記20~21、詩編128~129

ヨシュア記20~21;
土地の分配が、いよいよ最後になりました。レビ族に土地が与えられます。他の部族とは違う与えられた方です。レビ族は神様に仕えることを使命として託されましたので、他の部族のような領地は持ちません。その代わりに全国に散らばっていくつかの町とその周囲の放牧地を与えられ、そこに住むのです。各部族はくじで決められたいくつかの町を提供しました。他の諸部族のように農業をするのではなく、神に仕えることが仕事です。彼らは神へのささげ物の一部をもらうことで生活したのです。
そんなレビ人の町のうちの六つは、逃れの町と呼ばれる特別な町に定められました。故意ではなく過って人を殺してしまった者が血の復讐を逃れるための場所です。その町の中にいる限り、復讐は禁じられているのです。そしてその時の大祭司が死ぬと、恩赦を受けることができる、というものです。
レビ族という存在がイスラエルの中にいることで、自分たちは一体何者なのかを知ったのではないかと思います。ただただ神に仕えることを使命とする者が、全国各地の自分たちの身近にいるのです。しかも、レビの町の中のレビの町とも言える逃れの町の存在は、自分たちの処罰感情や怒り、復讐してやらないと決して済まないという強い憎しみに「待った」をかけます。感情としては赦せないけれど、それでも神様が赦しを求めておられることを、逃れの町があることで身をもって知るのです。
主イエスは、私たちに祈りを教えてくださいました。「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と私たちも祈ります。自分がされたことをじっと見つめているときには、自分に過ちをして人を赦すことはなかなかできません。ただ、自分も神様にたたただ赦して頂いただけだと知るときにだけ、私たちにも人を赦すことができるのではないでしょうか。私たちの生きているこの世界には、十字架が立っているのです。逃れの町があったように。十字架が立っていて、私たちはただそこに逃れることができる。神の憐れみの下にしか、罪深い私たちが生きうる場所はないのです。

2019年5月1日水曜日

詩編第150編「主を賛美せよ!」


詩編は神への祈りであり、神をたたえる賛美の歌だ。150編の詩編が私たちの元に届けられている。その最後は高らかな賛美である。恐らく、神殿の礼拝で、聖歌隊が声高らかに歌っていたのではないか。礼拝者も共に歌ったのではないか。どのようなメロディなのか、今では知る由もない。しかし、私たちも同じように歌う讃美の心は共有している。どこであっても、大いなる御業のゆえに声を尽くし楽器をならし、神を賛美する。あなたも招かれている。

2019年5月1日(ヨシュア記19)

今日の通読箇所:ルカによる福音書8:1~21、ヨシュア記19、詩編126~127

ヨシュア記19;
すべての部族への土地の分配が終わりました。
「以上が、祭司エルアザル、ヌンの子ヨシュア、親族の頭たちが、イスラエル人の諸部族のために、シロの会見の幕屋の入り口で、主の前において、くじで相続させた土地である。こうして彼らは土地の割り当てを終えた」(51節)。
土地の分配はくじで決められました。旧約聖書を見ると、しばしばくじで大切なことを決めるています。このときの神様の御心を尋ね求めるためのプロセスだったのでしょう。誰か意見の強い人の意向による支配だとか、有力者のご機嫌を伺う忖度だとかいう「人の支配」を退けて「神の支配」を確立するための方法だったのだろうと思います。
今は教会で大切な意志決定のためにくじを引くということはほとんどありません。今は代表者を選んで意志の決定を委ね、その人たちは時間をかけて丁寧に話し合い、神様の御心を尋ねて祈りながら教会の意志を決めていきます。今、神様は教会に聖霊を与えておられ、構成員それぞれに少しずつ御心を示し、それが話し合われることによって神様のご意志の総体が明らかになっていくと信じているからです。ですので、小会の牧師や長老が神の御心から外れた決定をしないように、へりくだって神様のご意志を求めていかれるように、祈ってください。私たちの教会が神に支配された教会であるように。

さて、ヨシュア記の土地分配では、ダン族が最後でした。ところが「ダンの一族の領土は彼らのものにはならず、ダンの一族は北上し、レシェムと戦ってこれを占領し、剣にかけて討ち、そこを所有地として住み着いた(47節)」。実はその土地はダン族に分配された後ペリシテ人に奪われてしまったのです。ダン族はこの後不遇な道をたどっていきます。次の士師記の後半にも再び彼らのエピソードが登場しますので、記憶のフックにかけておいて頂ければと思います。

2026年6月16日の聖句

主を畏れるところには強い信頼が生まれる。(箴言14:26) 神から生まれた人は誰も罪を犯しません。(1ヨハネ5:18) 今日の新約の御言葉を聞くと、私たちは脳内で勝手に変換してしまうのではないでしょうか。「罪を犯した人は神から生まれた人ではありません」「罪を犯す私は神...