2024年1月7日日曜日

2024年1月7日の聖句

今週の聖句:
神の霊によって動かされる者は神の子である。(ローマ8:14)

今日の聖句:
恐れてはならない。しっかり立って、今日、主があなたがたのためにどんな救いをなされるのかを見なさい。(出エジプト記14:13)
(パウロの言葉)わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。(使徒26:29)

今日の使徒言行録は、パウロがユダヤの王の前で述べた言葉です。東方の博士たちと会ったヘロデ王のひ孫に当たる人物のようです。父親は、十字架を前にした主イエスを尋問した人物です。つまり、使徒パウロにしてみれば恐ろしい王で、圧倒的な脅威であったに違いないと思います。
ところがパウロは全く臆せずにこの王の前で堂々とキリストの福音を証言し始めました。驚いた王は言います。「僅かな言葉で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」それにパウロが応える。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」
堂々たる言葉です。あなたにも私と同じようになってほしい。私のようにキリストと出会い、キリストに捕らえられ、キリストのものとして生きてほしい。パウロはそう断言する。本来であれば不倶戴天の仇とも言えるような、かつ自分の生殺与奪の権をもつような人物を前にして。パウロはキリスト証言に生きた。
どのようなときにも、私たちの伝道の言葉はこれなのだと思います。「あなたにも私と同じようになってほしい。」そう言われると、私たちは思ってしまいます。そんな大それたこと、私にはとても言えない・・・。確かに自分のことばかりを見ていると、そう言わざるを得ないかも知れません。しかしパウロはキリストだけを見つめていました。キリストが私にしてくださったことだけを。この私のところにもキリストが来てくださった。あなたのところにも!さあ、私と同じようにこのお方を信じてください。パウロは、ただそう言い続けた。「私とあなたを救ってくださる神の御業を、あなたも仰いでください。」そう証言するところに、私たちの伝道が始まるのです。

2024年1月6日土曜日

2024年1月6日の聖句

主を畏れる人とは誰か。
主はその人に選ぶべき道を示す。(詩編25:12)
それから、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国へ帰って行った。(マタイ2:12)

東方の博士たちへの神さまの言葉です。「ヘロデのところへ帰るな。」ユダヤにお生まれになった新しい王を拝むためにやって来た博士たち。そもそも、彼らはなぜ遠い外国からわざわざやって来たのでしょうか。遠い西の、弱小国ユダヤの王なんて、彼らに何の関係があったのでしょうか?
彼らは占星術の学者たちでした。恐らく、東方の国では高官であったのだと思います。古代の社会ではこれから先についての予測が一切立ちません。来年の天候も、外国との関係も、あるいは自分の国で内乱やクーデターが起きないかも、今以上に予測が立たない。そこで占星術を初めとした占いによって未来を知ろうとした。日本でも、卑弥呼のような人もシャーマンの一種だったのではないかと言われているようです。それと似ていると言えるのかも知れません。博士たちは星を見ながら、自分たちの国の行く末を占っていた。そんなあるとき、通常とは異なる星の輝きを見出したのです。
その星はユダヤに新しい王がお生まれになる徴だと彼らは知った。そうだとすると、彼らがわざわざ砂漠を越えて旅をしてきた理由も見えてきます。新しい王の誕生によってユダヤが不安定になるかも知れない。あるいは、星にその徴が見えるほどの王であれば、将来自分たちの脅威になるかも知れない。そう考えて、その王がどういう人物なのかを見定めに来た、と推測することができるのではないでしょうか。
エルサレムへ行き、ヘロデと会い、ヘロデに遣わされてベツレヘムへ向かった博士たち。彼らは東方で見た星の導きで、主イエスさまと出会いました。想像していたのとは違う王でした。彼らはへりくだってこの新しい王を拝みました。彼らはメシア・まことの王と出会ったのです。そんな彼らを考えると、神がおっしゃったとおりに別の道を通って帰るというのは必然であったのだと思います。もう、彼らはヘロデのところには行かない。彼らの当初の占いの目的はもはや必要なくなった。もっと根本的な救いをもたらすお方と出会ったから。キリストとの出会いは私たちの道を新しくします。主は、ご自身を畏れる者に、その選ぶ道をお示しになります。私たちの行くべき道は主が示してくださる。どのようなときにも、私たちはキリストをあがめるため、キリストの前にへりくだるための道へと導かれているのです。

2024年1月5日金曜日

2024年1月5日の聖句

主に願い求め、万軍の主を尋ね求めるために出かけよう。私たちもあなたがたと共に行きたいのだ。(ゼカリヤ8:21)
リディアは家族全員と共に洗礼を受けた。それから「もし私が本当に主を信じているとご納得いただけたらなら、私の家に来てください。お泊まりいただきたいのです」と行って懇願した。(使徒16:15)

主なる神さまを信じる私たちの信仰の営みは、個人的なものではありません。独りぼっちの信仰者に、私たちはなることができない。「私たちもあなたがたと共に行きたいのだ」と書かれているとおり、私たちは主なる神さまを求めて共に歩みます。主を求める歩みは単独行ではない。共なる歩みです。
もちろん、一人っきりで祈る時間があるし、一人になることができなければ共に生きることはできないでしょう。一人での祈りの時間には、どんなに親しい人であっても立ち入ることのできない厳しさがあります。神様の御前に一人でいる、屹立した祈りの時。しかしその一人の祈りをもって、私たちは共に神の御前に生きる。神を求める旅路を共に歩んでいくのです。
フィリピの町に住んでいた紫布を扱う商人であるリディアは、その町に来たパウロと出会い、彼の口から主イエス・キリストの福音を聞きました。リディアも家族も信仰に導かれたとき、彼女はパウロを自分の家に招じました。リディアはパウロと共に生きはじめた。パウロの伝道の働きにリディアも参与しだしました。
私たちは、教会という共同体で共に生きることを通して、具体的な仕方で信仰の道を知り、経験します。共に生きることなしの「信仰」は、信仰の名の毀損です。共に生き、共にキリストのお体を立て上げる中で、私たちは神を信じる恵みを知り、喜びを知り、またそのためのキリストの苦労にあずかる。そこに私たちのための神の祝福があります。

2024年1月4日木曜日

2024年1月4日の聖句

諸国の民はあなたの光に向かって進み、王たちはあなたの上に差し昇る輝きに向かって歩む。(イザヤ60:3)
この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らし、小羊が都の明かりだからである。諸国の民は、都の光の中を歩く。(黙示録21:23~24)

神が準備してくださる都、私たちの天の故郷。歴史が完成してやがて到来する神の都には、太陽も月もない。朝には輝くが夕べには沈んでしまう太陽や、夜に光っていても昼には見えなくなってしまう月。そのような不完全な光ではない。主ご自身がこの都の光です。「小羊が都の明かり」だと聖書は言います。救いの完成は、影も移ろいもない完全な光の到来です。私たちのための光がやって来る。
「諸国の民はあなたの光に向かって進み、王たちはあなたの上に差し昇る輝きに向かって歩む。」聖書が描く救いのスケールは、本当に大きいです。私の個人的な心の安寧には留まりません。私のコンプレックスからの解放や、私の不全感の解消、私の敗北の埋め合わせ、私の罪悪感の解決。そのようなことも結果としては含まれるでしょう。しかし最も大事なことは、小羊イエスご自身が光でいてくださる都の到来。その都に、そして都を照らす光に、私たちも諸国の民も進み行く。この世界のための救いの完成。完全な救い。私たちすべてのものを照らす平和の光の到来。聖書が描く救いの絵は本当に壮大で、私たちの想像を遙かに超えます。
私たちは呻いています。今も地震のため、戦争のため、寝る場所にすら不安を抱え、辛いところに追いやられている人々がたくさんいます。私たちも、祈ります。すべての人のための救いを、すべての人を救う神の都を、主よ、早く来たらせてください。私たちの光でいてくださる小羊イエスの愛と憐れみを、この地にお与えください。主よ、私たちのこの世界を救ってください。そう祈るために、今私たちはキリスト者として召されたのです。

2024年1月3日水曜日

2024年1月3日の聖句

(バラムの言葉)「たとえバラクが、彼の家を満たすほどの銀と金を私にくれようとも、主の言葉に逆らうことはできません。」(民数記22:18)
人に従うより、神に従うべきです。(使徒5:29)

バラクというのは、モアブ人の王の名です。イスラエルの人々を脅威に感じたバラク王は、バラムという預言者にイスラエルの人々を呪うようにと命じました。バラムは主なる神さまを信じていたわけではありません。異教の預言者です。最初バラムはバラク王の要求どおりにイスラエルを呪おうとしましたが失敗し、主なる神さまが彼らを守っていることを知るに至りました。バラムはバラク王に、イスラエルを呪うのは諦めようと進言します。ところがバラク王は諦めようとはしない。それで、バラムは言いました。「たとえバラクが、彼の家を満たすほどの銀と金を私にくれようとも、主の言葉に逆らうことはできません。」
私たちは誰に従って生きているでしょうか。力あるものか、世間の目か、自分のしたいことか、なんとなくの行きがかりか。聖書は言います。「人に従うより、神に従うべきです。」私たちは、神に従っているでしょうか?
第二次世界大戦の時、ドイツの多くの教会はナチの支配に従いました。そんな中で信仰に踏みとどまった人々、告白教会と呼ばれる人々がバルメン宣言という信仰告白を生み出しました。その第二の命題でこのように告白しています。「イエス・キリストは、われわれすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、われわれの全生活に対する神の力ある要求である。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放を与えられる。」主イエス・キリストご自身が私たちのための自由であり、また、私たちが従うべき神の要求です。キリストに示された神の真理に、私たちは仕える。そこに私たちの自由への道がある。
私たちはこの世の権力や欲望、消費主義や世間の目に従うために造られたのではありません。主イエス・キリストに示された神の愛と、そこにある神の力ある、そして慰めに満ちた要求に従うために命を与えられたのです。キリストに、従いましょう。

2024年1月2日火曜日

2024年1月2日の聖句

喜んで私はあなたにいけにえを献げ、御名に感謝します。その御名が慰めに満ちているからです。(詩編54:8)
そこへ一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れた。(マルコ12:42)

「御名」とあります。神さまのお名前、という意味です。私たちの信じる神様はお名前を持つお方です。これは改めて考えてみるととても興味深い事実です。神さまがただお一人の方であるならば、神は神であって名前は必要ないはずです。単に「私は神」とおっしゃれば、それで十分なはず。ところが神さまは御自分のお名前を私たちに名乗ってくださる。旧約聖書の中に神さまのお名前を現す言葉が出て来ると、そこは「主」と翻訳する伝統があります。神は私たちに向かって「私は主」と御自分のお名前を名乗ってくださるお方です。御自分のお名前を名乗るというのは、私たちとの人格的な関係を結びたいと望んでいてくださるということです。だからこそ、神さまの主というお名前は私たちの慰めに他ならない。
それだけではありません。主というお名前の意味を学者たちが研究すると、どうやら、「私はあなたと共にいる」という神さまのお約束がその起源であると考えられるようです。神さまは私たちに主というお名前を名乗ってくださり、そのお名前は、主は共にいてくださるいう約束そのものに他ならない。主。そのお名前のなんと慰めに満ちていることでしょう。
だからこそ、「喜んで私はあなたにいけにえを献げ、御名に感謝します」と告白をする。私たちにとって神を礼拝することは喜びです。喜んで主の御前にあってこのお方を賛美し、あがめます。あの貧しいやもめが自分の持つレプトン銅貨をお献げしたのと同じように、私たちも喜んで自分に与えられたものを主に献げます。主の恵みによって、私も生かして頂いているから。主イエス・キリストの恵みと祝福によって、私も生かされているからです。

2024年1月1日月曜日

2024年1月1日の聖句

2024年の聖句:
何事も愛をもって行いなさい。(1コリント16:14)

1月の聖句:
新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコ2:22)

今日の聖句:
気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない。心を弱くしてはならない。(イザヤ7:4)
(イエスの言葉)「主の霊が私に臨んだ。主の恵みの年を告げるために、主が私に油を注ぎ、私を遣わされたからである。」この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。(ルカ4:18,19,21)

主イエス・キリストが宣言なさいます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」主の恵みの年が来た、と主イエスはおっしゃいます。今、ここに、神の福音が実現した!主イエスの高らかな福音の言葉によって、2024年が始まりました。キリストのおられるところ、キリストが御言葉を語られるところ、それがどこであっても、あるいはどのような時であっても、必ず神の福音は出来事となります。私たちはキリストの言葉によって、神ご自身と出会う。主イエス・キリストの語り出す福音の言葉が、私たちを神の御前に連れ出すのです。
だから、私たちは恐れません。どのようなときにも心を弱くすることがありません。キリストの祝福と恵みはいつも私を追ってくるし、私を支配するのは恐れや不安ではなく、キリストの恵みの言葉であるからです。
心静かに、この新しい時を刻みましょう。この先私たちに何が待ち受けているのかは誰にも分からない。しかし、それが例え何ものであっても、例えどのようなものが私たちの行く先にあったとしても、何者も私たちを神の愛から引き離すことはできないからです。キリストが宣言した福音の中に、私たちの新し時は包み込まれています。何事も、愛をもって行いましょう。主イエス・キリストの父であるお方が、私たちを見ていてくださいます。

2026年10月27日の聖句

神よ、立ち上がり、地を裁いてください。 あなたはすべての国民をご自分のものとされます。(詩編82:8) (ペトロの言葉)神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どの民族の人であっても、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。(使徒10:3...