2024年12月21日土曜日

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3)
(マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44)

エリサベトは既に老齢でしたが、主なる神さまの御業に与って夫との間に子どもを身ごもりました。そこに、親戚のマリアという若い娘がやって来ました。マリアもまた主なる神さまの聖霊の力によって胎に子を宿していました。マリアのお腹に宿っている子は、すべての人の主。神の子イエス。マリアのお腹にいる子こそ、エリサベトや彼女のお腹にいる子どもの主であり、神でいらっしゃるお方です。
だから、エリサベトは言います。「私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。」これは、主との出会いの喜びです。主が訪れてくださること、主が私のところにも来てくださること、それはいつでも私たちの喜びです。私たちが主の日に神を礼拝するとき、私たちは主が私たちの所へ来てくださっていることを知ります。私たちが日ごとの祈りに打ち込むとき、私たちは主がこの私のところにも来てくださっていることを知ります。私たちは主をお迎えし、主と共に生きることを許されています。
「私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。」私たちも歌いましょう。喜んで神を賛美しましょう。マリアとその胎の子がエリサベトのところへ来たように、キリストは私たちのところにも来てくださっています。今、あなたのところにもキリストが!この祝福の中で、今日の私たちは生きていきます。

2024年12月20日金曜日

2024年12月20日の聖句

イスラエルは主によって救われる。それは永遠の救い。あなたがたは代々とこしえに恥じ入ることも辱められることもない。(イザヤ45:17)
(ヨセフへの天使の言葉)マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(マタイ1:21)

今日の旧約には「あなたがたは代々とこしえに恥じ入ることも辱められることもない」と書いてあります。ここに「恥じ入る」とか「辱められる」などと書かれていることがとても心に残りました。私たちが恥を受けることを、神さまは取るに足らないこととはおっしゃらない。私たちが辱めから解放されるということと救われるということとはとても深く結びついている、ということであるのだと思います。神さまは本当に深く私たちの心に寄り添ってくださるお方です。
ところで、今日の新約はヨセフが聞いた天使の言葉です。ヨセフはこれからマリアが産む子どもを「イエス」と名付けるように言いました。この子は自分の民を罪から救うから。「イエス」という名は「主は救い」という意味です。私たちを罪から救ってくださるお方として、マリアから生まれる幼子はイエスと名付けられます。
考えてみれば、私たちは自分の罪のために自分で自分を辱めているのかもしれません。自分で自分を損ない、自分自身が自分にとっての恥になってしまっているのかもしれません。罪という私たちの現実は、私たちの存在に深く食い込みます。私たちの生そのものが自分の罪による辱めに遭っている。イエスという神の子は、私たちを罪の恥から救ってくださる。
私たちは罪から救われなければ、もうどうしようもありません。私たちの問題の根は罪です。イエスという救い主のお名前を呼び、この方を求めて、私たちは生きていきます。

2024年12月19日木曜日

2024年12月19日の聖句

(ヨセフへのヤコブの言葉)出かけて行って、兄さんたちは無事か、羊の群れは無事かを見てきてくれ。(創世記37:14)
互いに愛と善行に励むように心がけなさい。(ヘブライ10:24)

私たちが互いのための愛と善行に励むよう心がけることができたら、なんと素晴らしいことでしょうか。そういう共同体は、私たちにとっての喜びです。
しかし、現実はどうでしょう。父ヤコブは息子のヨセフに言いました。「出かけて行って、兄さんたちは無事か、羊の群れは無事かを見てきてくれ。」ところが実際にヨセフが兄たちのところに行ってみると、もともと兄たちの恨みと妬みを買っていたヨセフは殺されそうになりました。聖書は本当に深く私たちの現実を捉えています。互いに愛と善行に励むべく生きている私たちの現実は、それとはほど遠い。愛でも善行でもない現実の中で私たちは呻いています。
それでは、聖書が「互いに愛と善行に励むように心がけなさい」と言っているのは、絵空事に過ぎないのでしょうか。そうではないのです。この御言葉の少し前にこのように書いてあります。「私たちには神の家を治める偉大な祭司がおられるのですから、心は清められ、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。」偉大な祭司というのは、主イエスさまのことです。ご自身の血をもって私たちをきよめてくださった偉大な祭司イエスがおられる!このお方がいて、私たちを清くしてくださった。その事実抜きに私たちが愛や善行に励みうるなどということはありえません。私たちはイエスに新しくして頂いて、罪から解放されている。御言葉はそのように語りかけます。
私たちの現実にのめり込むよりも、聖書が語りかける御言葉を信じてみませんか?私たちに起こっている神の出来事を証言する聖書の御言葉をこそ、信じてみませんか?

2024年12月18日水曜日

2024年12月17日の聖句

(主の言葉)恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。(創世記15:1)
こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。(ヘブライ6:15)

「恐れるな。」神さまは私たちに語りかけてくださいます。「恐れるな!」
しかも、もったいないことに私たちの名前を呼びながら言ってくださいます。「恐れるな、アブラムよ。」アブラムと神がお呼びになったところに、私たちの名前を入れて聞くことが許されているのではないでしょうか。「恐れるな、○○よ!」神は今日、あなたにそう語りかけてくださっています。
アブラムのこのときの恐れは非常に具体的です。跡継ぎになる息子がいない、ということです。ですから、まだこのとき、アブラムにとっては「あなたの受ける報いは非常に大きい」という言葉は空しく響いていました。どんなに神が私に報いてくださったとしても、それを受け継ぐのは家令でしかない。自分の子どもにその後を継がせることができない。今から何千年も前の話です。現代とは社会の状況が全然違います。アブラムにとって、跡継ぎがいないというのは本当に大変なことでした。
アブラムの一番の恐れ、一番悩んでいたこと、そのことに向かって神の言葉が投げかけられます。「天を見上げて、星を数えることができるなら、数えてみなさい。」「あなたの子孫はこのようになる。」神がそうおっしゃった言葉をアブラムは信じました。主はそれを神の義とお認めになった。「こうして、アブラハムは忍耐の末に、約束のものを得ました。」
信じましょう、私たちも。神は私たちの名を呼んで「恐れるな」と言ってくださっています。私たちの一番の恐れ、最も大きな不安、そこに向かって御言葉をくださいます。主イエス・キリストを下さいます。私たちの弱きところに、神の福音が響いています。ですから、神を信じましょう。

2024年12月17日の聖句

裁きは義に帰り、心のまっすぐな者は皆、それに従う。(詩編94:15)
(イエスの言葉)神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。(ルカ18:7~8)

「昼も夜も叫び求める選ばれた人たち。」正義や公正が適わず、弱者が捨て置かれ、力のない者が軽んじられる。神が選び、愛しておられる者たちがそのような中で神に叫び求める声を、神は決して聞き逃すことがない。神は必ず速やかな裁きを行ってくださる。主イエス・キリストはそうおっしゃいます。
しかし、私たちの社会は、そのような裁きを少しも恐れていません。神がご覧になっていること、神が裁き主でいらっしゃること、神が正義と公正を愛しておられることなど、何一つ顧みようとしない。私たちの社会を作っている原理は、神の目など少しも気にかけてはいません。
キリストは、それでよいとはおっしゃいません。それが現実だとはおっしゃらないのです。神はその叫びを放っておくようなことはなさらず、必ず裁いてくださる。私たちにはその裁きの時がいつ訪れるのか分かりません。しかし、私たちは神の裁きに従います。それこそ人間らしい生き方であると信じています。
主イエス・キリストのように生きたいと心から願います。罪人や徴税人と飲んだりくったりしていると揶揄されたお方。この方は彼らの友になってくださいました。病人や悪霊に憑かれた人と共に生き、癒やしてくださったお方。私も、キリストに似た者になりたい。そう願います。神がそのような私に、新しくしてくださいますように。

2024年12月16日の聖句

砦の大岩となり、絶えず入ることができるようにしてください。
あなたは私を救うよう命じてくださいました。(詩編71:3)
イエスはひれ伏して、祈って言われた。「わが父よ、私の望むようにではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)

パレスチナには岩山が多く、その陰や穴が身を隠すための絶好の場所になったのだそうです。照りつける太陽から身を守るために、あるいは攻めてくる敵から身を隠すために、砦に入り、大岩の陰に隠れる。神ご自身に、そのように私を守る砦になってください、と祈り求めています。
私たちの生活には砦や岩はないかもしれませんが、私たちにもよく分かります。私たちも、神に守っていただかなくてはならないことが山のようにある。この私という存在そのものが、神を求め、寄る辺を求めるものです。私たちは、私たちを救ってくださる神を信じ、神の約束を信頼し、今日という日を生きています。
私たちにまことの信仰をお見せくださったイエス・キリストご自身こそ、全身全霊を持って神にたより、ただ神だけを避けどころとして生きたお方です。このお方は十字架を前にして祈りました。「わが父よ、私の望むようにではなく、御心のままに。」ご自分の願いが叶うこと、ご自分の今の満足に適うこと、安心安全に生きられることを、主イエスはお求めにはなりませんでした。神の御心がなること、神の願っておられることが実現すること、それこそが最善とお考えになっている。そして、この主イエスの祈りこそ、本当に神を砦とする信仰です。私の願いの通りではなく、神の御心がなりますように。そこに私たちの救いがあるのです。ここに私たちの本当の平安があるのです。

2024年12月16日月曜日

2024年12月15日の聖句

今週の聖句:
主の道を備えよ。
身よ、主は力を帯びて来られる。(イザヤ40:3,10)

今日の聖句:
「これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ」という偽りの言葉を信頼してはならない。あなたがたは本当にあなたがたの道と行いを改めなさい。(エレミヤ7:4~5)
イスラエルの神である主はほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖う。我らは恐れなく主に仕える。生涯、主の御前に清く正しく。(ルカ1:68,74,75)

「主の神殿」は、イスラエルの民にとっては信仰の要でした。ここで神を礼拝しました。ここで祈りました。神がご自分の御名をこの場所に置き、この所で献げる礼拝を御心に留めてくださると信じて、心を込めて礼拝していました。
ところが、時にその礼拝は形骸化し、心のこもったものではなくなってしまった。時に、その礼拝は形だけのものとなり、人々が本当に崇めているのは別の価値になってしまった。それでもなお神殿は残り、これさえあれば自分たちは大丈夫と思い込んでいた。そういう民の堕落を神は厳しく指摘しておられます。「『これは主の神殿、主の神殿、主の神殿だ』という偽りの言葉を信頼してはならない。あなたがたは本当にあなたがたの道と行いを改めなさい。」私たちが本当に自分の生き方を改め、神に従うことを神は求めておられます。神は立派な神殿や、人が評価してくれるような見栄えのするものを求めておられるのではなく、私たちが心から神を愛し、主を信じて従うことを求めておられるのです。
神さまは私たちをご自分のものとしてくださいました。「主はその民を訪れて、これを贖う。」この「贖う」というのは、買い取るということです。奴隷であった私たちを買い戻すようにして、神が私をご自身のものとしてくださる。だから、私たちは神のものらしく生きます。そこに私らしく生きる道がある、と信じています。

2024年12月14日の聖句

なぜ、主の言葉を侮り、私の意に背くことをしたのか。(サムエル下12:9)
私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。(ローマ7:24~25)

今日の旧約聖書は、ダビデがウリヤという家臣の部下から、彼の妻バト・シェバを奪い取ったときに語られた言葉です。ダビデは午睡から醒めて散歩をしていたとき、水浴びをしているバト・シェバを見て恋に落ち、自分の家臣の妻であることを知りながら床を共にしました。その後いろいろなことがありましたが、結局、ダビデはウリヤをわざと戦地で危険なところに放置し、戦死させました。ダビデが殺したのです。聖書は「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」と伝えています。
現代は、自分の欲望に正直であることがよしとされる社会だと思います。自分のしたいことを我慢せずにすることが人間らしい生き方だと受け止められています。倫理や道徳などは表面的な建て前であって、その裏にある本音こそが人間味ある生き方だ、と多くの人が考えているのではないでしょうか。
その意味では、ダビデは自分の欲望に正直でした。そして、王としてできることをした結果、邪魔者のウリヤを始末することさえできました。ところが、そういう振る舞いを神は悪とご覧になった。神はダビデの振る舞いを罪とお定めになった。それこそが私たちにとって大事なことです。
使徒パウロは罪に捕らわれた自分を惨めだといいます。そう、私たちは惨めなのです。人間らしく生きていると思い込みながら、私たちは人間らしさを失い、神に造られたものとしての尊さを自ら踏みにじっています。私たちは、惨めです。この惨めな私たちを一体誰が救ってくれるのか?
ただ主イエス・キリストだけが私たちを救ってくださる。それ以外にはない。ただこのお方だけに私たちの救いはかかっている。聖書は私たちにそう語りかけます。

2024年12月13日金曜日

2024年12月13日の聖句

モーセは顔を隠した。神を見るのを恐れたからである。(出エジプト記3:6)
イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。「立ち上がりなさい。恐れることはない。」彼らが目を上げてみると、イエスの他には誰もいなかった。(マタイ17:7~8)

今日の新約聖書の御言葉は、ある高い山での出来事を伝える話の最後の部分です。ある高い山で主イエスのお姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。そして、モーセとエリヤが現れて主イエスと語り合っていた。光り輝く主イエスを見て、弟子たちは恐れたのです。
主イエスの神の子としてのご栄光がこのように輝いていた、ということでしょう。モーセとエリヤは旧約聖書を代表する人物です。旧約聖書が預言する神の子としてのイエスの栄光が輝いている。そういう出来事です。
弟子たちがそのような主イエスのお姿を見て恐れたというのは、当然のことです。イエスが神ご自身でいらっしゃる、そのお姿を垣間見たのです。もしかしたら、私たちが忘れてしまっている恐れなのかもしれません。私たちの愛する主イエスは神ご自身。聖なるお方。光に包まれたお方を私たちは信じ、礼拝している。
しかしこの神の子は、どこか遠いところ、御簾の向こうにいて私たちとは関わりを持たないお方ではありません。「イエスは近寄り、彼らに手を触れて言われた。『立ち上がりなさい。恐れることはない。』」主イエスの方から私たちの所に来てくださって、私たちに手を触れてくださる。だからこそ、クリスマスの出来事が起こったのです。
クリスマスはまことの神でいらっしゃるお方が来てくださった日です。神さまが私たちの間に宿ってくださった日です。恐れをもって「恐れるな」と語りかけてくださるお方を礼拝しましょう。

2024年12月12日木曜日

2024年12月11日の聖句

(神は)低い者を高く上げ、嘆く者を引き上げて救う。(ヨブ5:11)
神は強い者を恥じ入らせるために、世の弱い者を選ばれました。(1コリント1:27)

主イエスがお生まれになったとき、側に来たのは羊飼いであり、東方の博士たちでした。羊飼いは当時のユダヤ社会では最底辺にいた人々のようです。貧しく、律法を守ることもできず、町の外で暮らしていた人々。差別された人たち。そして、東方の博士たち。新共同訳は「占星術の学者」と翻訳していました。訳は変わりましたが、まず間違いなく星占いを生業としていた人々と考えられます。現代の占い師とは違い、占いをして国の命運を見極めていた彼らは国の権力者です。昔の日本でいえば陰陽師のような存在に近いと思います。しかし外国では身分が高い者であっても、ユダヤでは占いは忌み嫌われていました。聖書が禁じていたからです。生まれたばかりの主イエスを訪れたのは、カースト最下層の羊飼いであり、ユダヤ社会にとっては受け入れがたい外国の占い師でした。
神は、低い者を高く上げてくださる方です。嘆く者を引き上げてく救ってくださるお方です。羊飼いや東方の博士が最初のクリスマスの訪問客だった。それは、私たちがどんなにこの社会の中で無意味であろうとも、あるいはつまはじきにされるものであろうとも、主イエスは私たちに会いたいと願っていてくださる、ということです。私たちのすべての者のところへキリストが来てくださったということです。
ですから、私たちはキリストにお目にかかるために、何よりも先ずへりくだらなければならないのだと思います。キリストの光に照らされて、何者でもない自分に気付かせて頂く。神の前に立ち得ない罪深い者であることを教えていただく。しかし、そのような私をキリストが招いてくださっている。それが、クリスマスの出来事がもたらす驚きなのです。

2024年12月11日水曜日

2024年12月10日の聖句

正しき者の望みは喜びとなる。(箴言10:28)
主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。(ルカ12:36)

良い言葉です。励まされる言葉です。「正しき者の望みは喜びとなる。」私たちの知っている一番の「正しき者」、それは主イエス・キリストではないでしょうか。正しき人イエス・キリストの望みこそ、私たちの喜び!心の晴れるような言葉です。
だからこそ、私たちは主イエス・キリストが再び私たちの所へ来てくださるのを待ち望みます。「主人が婚礼から帰って来て戸を叩いたら、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」私たちは、私たちのご主人様でいらっしゃるイエス・キリストが帰ってこられるのを待つ僕です。この正しいお方の抱いておられる望みを私たちの喜びとして、今、私たちはキリストをお待ちしています。
今、私たちは待降節、アドベントの季節を過ごしています。「待つ」ことを改めて重んじる季節です。主イエスさまがお生まれになったクリスマスを待つということであり、同時に、再び私たちの所へ来てくださると約束して天に昇って行かれたキリストを待つ、ということでもあります。待降節、それは私たちがキリストを待つ、という信仰を新たにする日々です。
今日も、祈りつつ過ごしましょう。祈りこそ、私たちの一番の「待つ」ということです。信じ、祈り、私たちはキリストをお待ちします。ここに望みがある。キリストこそ、私たちの望みを開く神さまなのです。

2024年12月9日月曜日

2024年12月9日の聖句

あなたのもとに逃れるすべての者が喜びますように。(詩編5:12)
(パウロの手紙)あらゆる場合に自分を神に仕える者として推薦しているのです。貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています。(2コリント6:4,10)

パウロは主イエス・キリストの使徒として生き、人間的にはいろいろなものを失いました。ユダヤ人社会での立場や名誉もそうです。キリストに従うことがなければ牢獄に捕らわれることもなかったでしょうし、鞭で打たれることも、難船することもなかったでしょう。パウロはキリストのためにあらゆるものを失いました。そのパウロが言うのです。「(私は)貧しいようでいて、多くの人を富ませ、何も持たないようでいて、すべてのものを所有しています」と。
私たち人間の基準で言えば、パウロは間違いなく貧しいです。しかしそのパウロが実は多くの人を富ませている。もちろん、金持ちになる御利益を得させているという意味ではありません。多くの人がパウロの証言するキリストの福音を信じ、神の前に富む者になっている。
あるいは、パウロは何も持っていない。ところがそのパウロの語る言葉を聞いてキリストと出会った人々はすべてものを所有するようになっている。主イエス・キリストを信じ、神が必要な物をすべて与えてくださっていることを知り、すべてを与えられた王のように自由にふるまうことができる。キリスト者として自由にされた。パウロの語る福音の言葉が自由にしたのです。
「あなたのもとに逃れるすべての者が喜びますように。」ある信仰者がそのように言います。神の御許に逃れる。それは、パウロのように生きるということです。パウロの証言する福音を信じるということです。貧しくても、何も持たなくても、神が私を生かしてくださっていることを知り、それを信じる。そこに私たちの豊かに生きうる道があるのです。

2024年12月7日土曜日

2024年12月7日の聖句

主は(カインに)言われた。「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」(創世記4:10)
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。(1テモテ1:15)

ブラッド・ダイヤモンドという映画があります。血塗られたダイヤモンド。日本を含む先進国で流通しているダイヤモンドは、実は産出国のたくさんの犠牲の上に採掘され、出回っているという現状を告発する映画です。そういう貴金属に限らず、私たちの生活は知らないところで他人に犠牲を強いているものなのかもしれません。食料にしても、衣類にしても、私たちが安く手に入れることができているのは、もしかしたらどこかの誰かが不当に安い賃金で働いているからなのかもしれません。
「何ということをしたのか。あなたの弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。」私たちの弟や妹であるべき人々の血が、土の中から叫んでいる。神に向かって叫んでいる。神はその声を決して聞き漏らすことがありません。
私たちは本当に罪深い存在です。生きているだけで他人の犠牲を強いているし、私たちは多くの時間そういうことに対して無関心で無頓着です。一体どうしてそんな私たちが生きていて良いのでしょうか。私たちは、ただキリストにある神の赦しに頼り、神に救って頂く以外に道がないのではないでしょうか。
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。」これは使徒パウロの言葉です。キリストの救いを信じ、そして自分こそ救われなければ生きられない罪人の先頭にいる、最大の罪人に他ならない。これは、パウロの本当に実感のこもった言葉。そして、私たち自身の言葉です。主よ、憐れんでください。私たちはひたすら、そう祈る。そして、少しでも愛の人として、そして日毎に悔い改める人として生かしてください、と願うものです。

2024年12月6日金曜日

2024年12月6日の聖句

ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたにできないことは何一つありません。(エレミヤ32:17)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

この世界とそこに満ちるすべてのもの、見えるものも見えないものもお造りになったお方には、何でもおできになります。神はどんなことだってすることがおできになる。
神はその全能の力を、私たちを救うために奮ってくださいました。罪と死と悪の力に支配され、押し潰され、自ら罪と悪の虜になって死んでいた私たちを救うために、神はご自身の全能の力を見せてくださったのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
神は、ご自分の独り子をお与えになるという仕方で私たちへの愛を示してくださいました。神は独り子を十字架にかけるということによって、私たちを罪と死と悪の力から解放してくださいました。神には何でもおできになる。私たちを愛し、極みまで愛し抜き、私たちのために独り子をお与えになることさえも神はなさる。ここに神の全能が現されたのです。
主イエス・キリストを見つめましょう。聖書が私たちに証しするキリストのお姿を、何度でも心に刻み、そのお姿を思い起こしましょう。ここに神の御心が見えてきます。神の御力が現れています。私たちへの愛そのものでいらっしゃるキリストをこそ私たちは信じ、私たちを決して滅ぼさない神の情熱的な思いを私たちは喜びとするのです。

2024年12月5日木曜日

2024年12月5日の聖句

真実と平和を愛せよ。(ゼカリヤ8:19)
あらゆる人知を超えた神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう。(フィリピ4:7)

私の心と考えとを、神が守ってくださる。しかも、「あらゆる人知を超えた神の平和」が守ってくださる、と言います。他では決して聞くことのできない福音の宣言ではないでしょうか!
私のうちには、本当にどうしようもないような思いばかりが詰まっています。人にはとてもお見せできないし、自分でも省みたくない。私の心や考えは本当に何の価値もないもの、あっても仕方ないしあるだけ害悪の方が多いものです。ところが驚くことに。そんな私の心や考えを、キリスト・イエスにあって神が守ってくださるのです。
神の平和、それはイエス・キリストによって打ち立てられた神の平和です。主イエス・キリストを和解のささげ物としてくださった。十字架にかけられてながされたこのお方の血によって、神が私たちとの間に平和を打ち立ててくださった。あらゆる人知を超えた神の平和です。私たちには作ることのできない平和を、神ご自身が確かにしてくださいました。この平和の出来事、福音の出来事が、私の心と考えとをキリストにあって守り、そして新しくしてくださるのです。
「真実と平和を愛せよ」と今日の旧約は言います。このような心と考えとを私たちが抱くのは、キリストの平和が私たちの思いを支配してくださるからです。主イエス・キリストを崇め、キリストの愛の中、私たちは生かされているのです。

2024年12月4日水曜日

2024年12月4日の聖句

私の戒めに耳を傾けさえすれば、あなたの平和は川のようになり、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。(イザヤ48:18)
義の実は、平和をもたらす人たちによって平和のうちに蒔かれます。(ヤコブ3:18)

正義は、私たちを取り囲む現実においてはしばしば矛盾します。私たちの正義はあまりにも小さくて独り善がりなので、自分の正義を振りかざすと平和ではなくなってしまいます。もしも平和が相手を制圧することであったり、小さな声を押し潰すことであるなら、私たちの信じる正義という旗印が平和をもたらすのかもしれません。しかし、弱い声をかき消すことが平和とはとても言えません。そうではなく愛と憐れみに基づく平和を実現しようと思うと、私たちの小さな正義はとても厄介なものになってしまいます。
そんな私たちの現実に対して、神さまはおっしゃいます。「私の戒めに耳を傾けさえすれば、あなたの平和は川のようになり、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。」神ご自身の戒めに耳を傾けよとおっしゃいます。私たちの握りしめる自分の正義や自分の小さな義ではなく、神の戒めに立ち帰れとおっしゃるのです。
神の戒めは私たちの描く平和や正義を打ち破ります。私たちの言う平和は、もしかしたら相手にとっては平和ではないかもしれない。私たちのこだわる正義は、自分だけの正義でしかないのかもしれない。しかし神の戒めはそうではない。主イエス・キリストにおいて実現された神の戒め。それは私たちをどこまでも愛し抜く神の御心そのものです。ここに私たちを生かす平和がある。この平和をもたらすことによって、義の実が結ばれる。そのように言うのです。
主イエス・キリスト。この究極の平和の御言葉に、へりくだって耳を傾けましょう。

2024年12月3日火曜日

2024年12月3日の聖句

(サウルへのサムエルへの言葉)主の霊があなたに激しく降り、彼らと一緒に預言して、あなたは別人のようになります。(サムエル上10:6)
この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。(ローマ8:16)

主なる神さまの霊、聖霊。神様ご自身である聖霊が私たちを神の子としてくださり、また、その事実を証ししてくださる、と聖書は言います。神の霊が私たちに「父よ」という祈りの言葉を与え、私たちに信仰を与え、私たちに神を求める心を与えてくださる。主の霊が働くところに神が共にいてくださる。
「主の霊があなたに激しく降り、彼らと一緒に預言して、あなたは別人のようになります。」これは、サウル王へのサムエルの言葉です。サウル王はあまりに神に従いきったとは言うことのできない人物でした。神さまの言葉よりも人の評価を気にしてしまいましたし、自分のあり方を咎めるサムエルのような人物の言葉に耳を傾けることも難しいようなところがありました。言い訳をすることに熱心でした。
しかしそんなサウル王にも、神の霊がくださります。サウルもまた神の子にして頂いている。神の子ども、それは何かができるとか、立派な信仰者であるとか、そういう私たちのあり方を基準としているのではなく、神の憐れみと私たちを求めてくださる愛とによっているのです。神はサウルにも、そして私たちにも、ご自分の霊を送ってくださっています。私たちも神の子にして頂いている!
今日、この日を、神の子どもとして生きていきましょう。「父よ」と神に祈り、神を呼び求めて生きていきましょう。そこに私たちのための神の祝福があるのですから。

2024年12月2日月曜日

2024年12月2日の聖句

主をどこまでも信頼せよ。主こそとこしえの岩。(イザヤ26:4)
(イエスの言葉)私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。(ルカ6:47~48)

今は、自分の基盤をどこに据えたら良いのかよく分からなくなっている時代なのではないかと思います。私たちの確かな土台は一体どこにあるのでしょうか?現代日本社会は経済的にも不安定で脆弱ですし、民主主義も誤作動を起こしているし、そもそもそういうものの前提であるはずの人間の感情的な能力も明らかに低下しています。私たちはいつの間にか自分のことしか考えられなくなり、もっともらしくて言説に振り回されている。自分の不安を覆い隠すために強そうなものや多くの人が言っていることに、深い考えもなしに自分の身を委ねてしまってはいないだろうか。例えそれが聞くに堪えない憎しみを撒き散らすような言葉であっても。今は、確かな土台を喪失した時代なのかもしれません。
主イエス・キリストは、ご自身の御言葉を聞いて従うことにこそ私たちの土台があるとおっしゃいます。「私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。」キリストの言葉をただ聞くだけではなく、従う。それはしんどいことです。私たちは悲しいほどに罪人です。キリストの言葉に従うことは正直言って簡単ではない。しかしそれは固い岩盤に穴をうがって土台を据えているのと同じだ、と主はおっしゃいます。それでこそ家はしっかり立つ。それは、キリストの言葉という土台が絶対に確かだからです。
私たちの岩である神を信頼しましょう。そしてこのお方に従いましょう。私たちは悲しいほどに罪人です。しかしキリストは無限に憐れみ深い赦しの神でいてくださいます。だからこの方を信頼し、この方の御許に立ち帰り、そして新しくこの方に従いましょう。ここに私たちがこの世界で確かな者として生きる秘訣があるのです。

2024年12月1日日曜日

2024年12月1日の聖句

12月の聖句:
起きよ、光を放て。あなたの光が来て主の栄光があなたの上に昇ったのだから。(イザヤ60:1)

今週の聖句:
見よ、あなたの王があなたのところに来る。(ゼカリヤ9:9b)

今日の聖句:
私の道が確かでありますように。あなたの掟を守るために。(詩編119:5)
(洗礼者ヨハネの言葉)悔い改めよ。天の国は近づいた。(マタイ3:2)

今日から待降節、アドベントです。教会の暦では、その季節に応じた色が決まっています。アドベントの色は紫。紫は悔い改めを象徴する色です。そういう今日、私たちに与えられた御言葉は「悔い改めよ」です。主イエス・キリストを待ち望む私たちの心は悔い改めに他ならない。キリストという恵みの光に照らされ、私たちは神の御前に悔い改めて生きていきます。
今週の聖句では「見よ、あなたの王があなたのところに来る」とあります。主イエス・キリスト。この方こそ私たちの王。このお方が私たちの所へ来てくださる。アドベントは、キリストを「待つ」ということを大切にします。私たちは主が私たちの真の王として、私たちの所へ再び来てくださるのを待ち望みます。この世界がどんなに死や悪の力に覆われていても、そこに灯された命の光をお迎えするために、私たちは祈ってクリスマスに向かいます。主イエス・キリストの御前にある祈りの日々を、今、確かなものとしたいと願います。

2024年12月21日の聖句

私の魂は生ける神に向かって、身も心も喜び歌います。(詩編84:3) (マリアへのエリサベトの言葉)私の主のお母様が、私のところに来てくださるとは、何ということでしょう。あなたの挨拶のお声を私が耳にしたとき、胎内の子が喜び踊りました。(ルカ1:43~44) エリサベトは既に老齢でし...