2018年6月17日日曜日

マタイによる福音書第25章1から13節「さあ迎えよう、花婿を」

526日に日本中会の役員リーダー研修会が行われました。渋沢教会の大井啓太郎牧師が、渋沢教会の今の取り組みを報告してくださいました。渋沢教会は、地域の特性や牧師のパーソナリティなどを捉えて、今、高齢の方への伝道に力を注いでおられるそうです。それが教会全体に共有された使命感になっているという様子が、牧師だけでなく長老からも報告されました。私たちは、どのようにして神さまに託された使命に生きるのか、考えないわけにはいきません。そのひとつである子どもへの取り組みの一環のサタデーパレットを昨日は行いました。近所の子どもたち、教会を知らない子どもたちに、主イエス様のことを知ってほしい、神さまを信じる喜びを味わってほしいと心から願います。今朝の主イエスの譬え話は、結婚式のパーティの話です。結婚式。それは喜びそのものです。10人のおとめは、恐らく花嫁の友人でしょう。当時、花嫁の家から花婿の家へ、花婿と一緒に向かっていくとき、花嫁の友人らがともし火もって行列を作り、同道していったのだそうです。喜びの宴に向かって行く。婚宴のような天の国の喜びに仕えるのが、私たちの使命です。ただ、この譬えはかなりぎくりとする話です。10人のおとめの内の5人は賢くてともし火と一緒に油も準備していましたが、残り5人は愚かで、油の準備を怠っていました。考えられないことです。油がなければともし火はしっかり燃えません。花婿の到着が遅くなり、彼女たちは眠ってしまいます。夜半に、花婿が来たと起こされた。そこで、愚かな者の愚かさが露呈する。ともし火をつけても油がないので、すぐに消えてしまう。賢いおとめに頼みます。「油を分けてください。」しかし、断られてしまった。油を買いにいった。しかしそうこうしているうちに花婿は到着して、一行は出発し、愚かなおとめたちはおいて行かれた。もう、彼らは花婿の家に入って、愚かなおとめたちが来たときには戸が閉められてしまっていた。「ご主人様、ご主人様、開けてください。」しかし、花婿は「わたしはお前たちを知らない」と言いました。異様なほど、厳しい話です。この話、明らかに花婿は主イエスご自身のことです。どうしてこんなに厳しいのでしょう。花婿も、賢いおとめも。失敗をゆるす寛容な愛を示す方がイエス様らしいのに…。しかし、この異様とも映る厳しさは、主イエスの真剣さだと思います。26:2まで読むと明らかになりますが、この話を主がなさったのは、十字架にかけられる二日前のことでした。イエスはご自分の十字架の死を前にして、抜き差しならぬ真剣さを持って私たちにおっしゃるのです。愚かにならず、賢くなってほしい、と。主の死を前にして、私たちの死も生も、私たちが生きるべき使命についても、真剣に考えてほしい、と。油の準備。それは、婚宴に行く喜びではないでしょうか。花婿イエスへの愛ではないでしょうか。私たちは、たとえ遅れているように見えても、必ず来てくださるイエスを待っています。主イエスが来てくださるから、私たちは愛の労苦に生きることができます。私たちがしていることが例え報われなくても、イエスが来てくださるから、この方を信じて喜んで生きることができます。私たちを、天の国の結婚披露宴に迎えてくださる方だからです。私たちの使命は、この天の国の福音を喜んで、主イエスを待ち望んでいる希望に生きるところで、果たすことができるのです。

2018年6月14日木曜日

詩編第119編49から56節「夜、主の御名を唱える」

「主よ、夜ともなれば御名を唱え、あなたの律法を守ります。」忙しくて、祈ることを忘れてしまう。昼間の人間関係の傷が痛くて、聖書を開けなくなってしまう。しかし、そんなときこそ、私たちは祈りを必要としている。夜、寝る前に、神さまの御前に出て行きたい。そして、主の祈りを祈ろう。今日出会った人の顔を思い出しながら。その人のために、主の祈りを祈ろう。そうやって、私たちはキリストの愛の掟に生き始めることができる。

2018年6月10日日曜日

マルコによる福音書第3章20から35節「家族になろうよ」

最近少し忙しい日が続いていたので、主イエスさまの様子に慰められました。「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。」押し寄せる群衆。主イエスは、彼らのために食べる暇もないほどに働いておられました。病を癒やしたり、汚れた霊に取りつかれた人がいるならその悪霊を追い出したりして、人々の魂を救うためです。しかし、それに待ったをかける者がいた。主イエスの身内です。人々が「あの男は気が変になっている」と言っている。その噂を気にして、イエスを取り押さえに来た。気が変になっているという言葉は、エクシステーミという言葉、英語のエクスタシーの語源になった言葉です。恍惚になって、我を忘れる。もともとは「外に立つ」という字で書きます。イエスがおかしくなって自分が誰なのかわからなくなっている、と思った。身内という、主イエスに一番近い人なのに…、いや、そうだからこそと言うべきなのかもしれません。昔から知っていた親戚のイエス、小さなころから知っていたはずのイエスが、違うもののようになっている。彼らが想定していたイエス像が裏切られたのです。そして、それが私たちの信仰生活の経験なのです。自分の他の中にあって、自分で処理できるイエス信仰。苦しくてイエスを信じたのに期待を裏切られた、祈ったのに全然聞かれない。信仰が裏切られる他経験を誰もがする。そこで躓く。こんな神さまは神さまらしくない、エクシステーミ、あるべき神さまの、神さまらしい振る舞いの外に立っている。そして、更にその問いが先鋭化しているのが、エルサレムからやってきた律法学者たちの言葉です。「あの男はベルゼブルに取りつかれている。」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している。」イエスの振る舞いを、神さまのお働きとして認めない、と言うのです。この時、イエスは何をなさって折られたのか。病を癒やし、汚れた霊に取りつかれた人を癒していました。つまり、悪霊と戦っておられました。悪霊なんて言われると、現代人の私たちには遠い神話のような話なのでしょうか?わたしも悪霊を信じてなんかいません。しかし、悪霊の働きを知っています。私たちは、悪霊の働きとしか言いようのない出来事に遭遇します。ナチの存在などもその一つかも知れません。しかし他人事ではない。今、私たちの社会を覆う時代の精神は、怒りだったり憎しみだったりします。本屋に言ってもヘイトクライムに満ちているようなところがあります。社会が異様に意地悪になっています。どうして、社会全体がこんなにも負のエネルギーみたいなものに突き動かされているのでしょうか…。わたしはそういうところに人間の力を超えた悪魔的な力を感じます。27節に、少し不思議な主イエスの譬え話があります。ここで言う「強い人」は悪霊のことでしょう。家財道具は私たちのことです。イエスは悪霊から私たちを取り戻すために戦っていてくださる。どうやって?「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。」赦しの福音によって、です。憎しみや怒りやヘイトに、イエスは赦しの福音で戦っておられます。食事をする暇もないほどに。そうやって私たちを獲得して、ご自分の家族にするために。イエスの家族。それが教会です。ある人が教会は神が獲得した橋頭堡だと言っています。イエスはこの神の家を前線基地にして、赦しの福音によって、戦っておられるのです。

2018年6月7日木曜日

詩編第119編41から48節「慈しみと救い」

「主よ、あなたの慈しみと救いが、仰せのとおり、わたしを訪れますように。」わたしが、神の慈しみと救いを獲得すべきどこかに行かなければならないのではない。慈しみと救いの方が、わたしのところへ来てくれる。神の慈しみ、神の救い。それは、キリストに他ならない。私たちのところへ来てくださった神の慈しみそのものであり、救いそのもの。神は、私たちの祈りに、祈り以上の答えをもって答えてくださったのだ。神は誉むべきかな。

2018年6月3日日曜日

ルカによる福音書第2章13から17節「あなたの席もここにあります」

私たちの礼拝のプログラムは、招きの言葉から始まります。去年から、前奏の前に招きの言葉として聖書の一節を読むことにしました。神さまが、私たちを礼拝に招いてくださっています。他ならぬ神さまが招いてくださったので、私たちはここにやってきました。教会をギリシア語ではエクレーシアと言います。「呼び出された者たち」という意味の言葉です。私たちは、神さまに呼ばれて一つの教会・エクレーシアになり、一緒に心を合わせて神さまを礼拝しています。聖書に登場するのは、キリストに呼ばれた者たちです。今朝登場しているレビという男もその一人でした。彼は徴税人でした。16節を見ると、「罪人や徴税人」とひとくくりにされています。納税者にとって、税を集める仕事は憎たらしく見えるものであるかもしれません。しかし、それだけではない。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていましたので、税金はローマに吸い取られていました。敵国の犬のように見なされていたのかも知れない。それにローマは当時徴税の権利を属国の市民に売ったそうです。一般的に言って、徴税人らはその権利を手に入れて徴税人になると、帝国の威を借りて不正な取り立てをした。レビもそうだったのかも知れません。そう考えていくと、レビがイエスさまから「わたしに従いなさい」と言われたときにすぐに立ち上がってイエスに従ったわけが分かってくるような気がします。きっと、町の人から嫌われていただろうし、友達がいなかったのだろうし、仕事に疲れていたんじゃないか…。しかし、聖書は、そういうレビの気持ちとか、どうしてイエスに従ったのかとか、そういうことを何も説明しようとしません。ただ、イエスが、収税所に座っていたレビをご覧になって、言われたのです。「わたしに従いなさい」と。それで、レビは立ち上がってイエスに従いました。他ならぬイエスが呼んでくださったから。レビはただそれだけの理由でイエスに従いました。それが最も大切なことなのです。私たちにも、自分とイエスさまとの出会いの物語があります。イエスが呼んでくださった、わたしの物語があります。キリストと出会って、信じて従うに至る、劇的な体験をした人もいるかもしれません。何もそういう者がなくて、立派な話を聞いてさみしくなった人もいるかもしれません。あるいは、どうして教会にいる人たちは神さまを信じられるのか、と不思議に思っている人もいるかもしれません。私たちにはいろいろな物語がある。でも、本当に大切なことは一つです。イエス・キリストが、わたしを呼んでくださったから。教会は、キリストに呼ばれた者たちの集まりです。レビは、イエスに呼んで頂いたらすぐに徴税人や罪人と呼ばれている仲間たちと、イエスを家に招待して食事をしました。イエスに呼ばれた者たちの食卓です。教会の原型です。ドイツの家庭では、こんな祈りの言葉が伝えられているそうです。「主イエスよ、来てください。私たちのお客になってください。そして、あなたが与えてくださったものをここで祝福してくださいますように。アーメン。」すてきな祈りです。私たちも祈りたい祈りの言葉です。わたしを呼んでくださったイエスが、この食卓に一緒についてくださいますように。そうやって、私たちは一つになります。この食卓には、あなたの席もあります。私たちは抱えているものはそれぞれですが、キリストが呼んでくださいました。だから、今朝、ここにいるのです。

2018年5月31日木曜日

詩編第119編33から40節「わたしのまなざしを」

「不当な利益にではなく、あなたの定めに心を傾けるようにしてください。」本当に、そうだと思う。わたしの目はすぐに損得に向いてしまう。不当であろうが何だろうが、少しでも利益があると思われるものに、目が吸い寄せられてしまう。主を畏れ、主の定め、主イエスの御言葉に心を傾けたい。礼拝の時に罪を悔い改め、聖書を聞くための聖霊の照らしを求める祈りをする。そのように祈らなければ、わたしの目が主に向くことはないのだ。

2018年5月27日日曜日

ヨハネによる福音書第2章1から11節「栄光の杯」

今日は「信徒クロス礼拝」という新しい企画をしています。日本中会の中でも特に近隣の教会との新しい出来事が始まっています。私たちはそれぞれ、日曜日は各自の教会で礼拝を献げていますが、カンバーランド長老教会は、全体が一つの教会です。ですので、姉妹教会は、別の場所で礼拝していても一つの教会です。それがこうして具体的にお互いの顔を見ることのできる交わりにあずかることが許されているというのは、素晴らしい出来事です。教会の交わりは、場所を越えるだけではありません。私たちがこうして神さまを礼拝するとき、神さまの御もとへ既に帰って行かれた仲間たちと共に礼拝を献げています。先週は教会員の葬儀がありました。葬儀のときに家族によって彼女の人生が紹介されました。5歳の時に関東大震災に被災し、香港で終戦を迎え、数か月間収容所にいました。引き上げてきてから、故郷の東京に戻り、生きてこられました。たいへんな時代です。夫の方が長い信仰生活を送ってこられた。彼女もやがて洗礼を受け、キリスト者として生きた方です。私たちは、愛する者と、キリストにあって一つになることが許されています。主の食卓を囲むことで、パンと杯にあずかることで、私たちは一つです。主イエスはガリラヤのカナで最初のしるしを行って、その栄光を現された、それはぶどう酒を巡る出来事でした。ここで既に、聖餐の準備が始まっているということもできると思います。旧約聖書にこのような言葉があります。「万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。主はこの山で、死を永久に滅ぼしてくださる。(イザヤ書25:6-8)」主イエスがガリラヤのカナで水をぶどう酒に変える奇跡をなさった、それは「しるし」だと言います。何のしるしか?神さまが、私たちを神の国での祝宴にあずからせる、というしるしです。聖餐卓を囲んで私たちがいま献げている礼拝は、この宴に連なっているから、私たちは時も場所も越えて神さまの前で一つです。でも、正直に言って私はこの話を読んで戸惑いを覚えます。主イエスの言葉に、です。もともと、イエスさまも列席していた結婚式での出来事でした。徒事の婚宴は一週間近くも続いたそうです。途中で、ぶどう酒がなくなってしまった。それで、イエスの母マリアがイエスさまに言います。「ぶどう酒がなくなりました。」それに対して、主イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と答えました。ちょっとビックリするような言葉です。あまりにも冷たいんじゃないだろうか…。考えてみると、これは私たちの祈りの経験そのものではないでしょうか。神さまを信じて祈っているのに、神さまは冷酷ではないか。どうして、今、祈りを聞いてくださらないのか。あるいは、その後イエスさまがなさったことも不可解です。大量の水を甕に満たすようにお命じになります。言われた方にしてみれば、意味不明だったにちがいない。時にしても方法にしても、主イエスは、私たちの想定とはぜんぜん違うことをなさることがある。戸惑うし、信じることに疲れてしまうことだってある。マリアは、自分のタイミングとも方法とも違うことを言う主イエスに従いました。イエスさまのなさることに開かれたこの在り方が、祈る者の姿なのだと気づきました。本当に大切なことは、神が今何をしておられるのか、そして私たちはそれに従うのか、と問われています。

2026年9月14日の聖句

その日が来るーー主の仰せ。 私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。(エレミヤ書31:31) (ペトロの言葉)この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださるものなら誰にでも...