2025年12月31日水曜日

2025年12月31日の聖句

主はあなたの地境に平和を造り出す。(詩編147:14)
平和を造る人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)

地境は、古今東西を問わず、常に争いの種です。自分のためにそれを少しでも広くしようと誰もがする。今年も終わらなかった戦争も地境の争いです。大きなものが小さなものに侵蝕し、蝕んできました。文字通りの土地の問題だけではありません。少しでも自分に有利にしようとすること、自分の領分を広げようとすること、自分の方がより豊かになろうとすること、そういう私たちの性行の悪さが諍いを生んでしまっています。世界でも、私たちの身の回りでも、同じなのだと思います。
「主はあなたの地境に平和を造り出す」と御言葉は言います。地境に平和を造り出すというのは、まさに神業です。私たちは自分の立場から見た正義しか考えられませんから、相手との利害は衝突するし、よかれと思ったことでも立場を変えてみれば悪でしかない。私たちの浅はかな知恵はなかなか平和を造り出すことができない。そういう現実をこれでもかと見せつけられた一年でもあったように思います。神さまが生み出してくださる平和に期待し、待ち望み、平和を来たらせてくださいと祈ります。
しかし同時に、神さまが棚からぼた餅を落としてくださるのを待っていれば良いというわけではない。「平和を造る人々は、幸いである」と主は言われます。平和を造る幸いに私たちを招いておられます。主は私たちの罪深さや浅はかさ、さもしさ浅ましさをよくご存じでいらっしゃりながら、それでもなお私たちがキリストの平和を実現することを望んでおられる。私たちはへりくだってキリストの平和の使者としてこの世で仕えるのです。

2025年12月30日火曜日

2025年12月30日の聖句

主はモーセに言われた。「あなたの言ったそのことも行う。あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」(出エジプト記33:17)
神の堅固な土台は揺るぎません。そこには、こう刻まれています。「主はご自分の者たちを知っておられる。」(2テモテ2:19)

主はモーセに言われます。「私は名指しであなたを選んだ」と。名指し、と主は言われます。凄い言葉です。主なる神さま、この世界をお造りになったお方が名指しで選び、名を呼んでくださっている。これは一人モーセだけの話ではなく私たちのことでもあります。神はあなたを名指しで選び、あなたの名を呼んでくださっています。「あなたは私の目に適う」と語りかけてくださいます。
主に名を呼ばれた者として、主の御前に歩んでいきましょう。主イエスさまがあなたと共に歩んでくださいます。祈りつつ、今日の日の業に仕えましょう。お皿を洗うときにも、お花に水をあげるときにも、大掃除をするときにも、家族や友と語り合うときにも、私たちの名を呼んでくださる主をお呼びし、主に向かい、祈りつつ今日の日を生きていきましょう。
神の堅固な土台は揺るぎません。そこには、こう刻まれています。「主はご自分の者たちを知っておられる。」
主が私たちを知っていてくださり、名指しで呼んでくださっているという事実が神の堅固な土台に刻まれている。この事実は揺るがない。今日、主はあなたをご自身の御業のために用いようとしておられます。

2025年12月29日月曜日

2025年12月29日の聖句

主よ、あなただけは遠く離れないでください。
私の力の源よ、急いで助けに来てください。(詩編22:20)
主の力が働いて、イエスは病気を癒やしておられた。(ルカ5:17)

「主よ、あなただけは遠く離れないでください。」これが私たちの祈りです。他の誰が遠くても、他に誰一人いてくれなくても、ただ主だけは私から離れないでください。あなただけは私の側にいてください。「私の力の源よ、急いで助けに来てください。」主が私の力。私は主が下さる力を頂いて、強くなることができる。雄々しく生きることができる。主が必ず私を助け出してくださる。これが私たちの確信です。
主イエス・キリストは私たちの間を歩いておられます。主は私たちを助けてくださいます。「主の力が働いて、イエスは病気を癒やしておられた。」主イエスは、神の御力に溢れた癒やしの御業や福音伝道による私たちのための救いの御業を今も続けていてくださいます。私たちを通して、です。キリスト者である私たちの手を通して、私たちの足を通して、主はご自身の御業を今も続けてくださっているのです。
私たちは愚直に主を信頼して、主の御力に依り頼んで、福音を伝道しましょう。キリストの良い知らせを隣人に届けましょう。そこにキリストのご意志があります。私たちに福音を届けてくれたたくさんの人たちも、そういう思いを込めて私たちにバトンを託したのではないでしょうか。キリストのこのすばらしい愛を、キリストの美しい力を、私たちは信じ、このお方に従って福音に仕えていくのです。

2025年12月28日日曜日

2025年12月28日の聖句

今週の聖句:
私たちは栄光を見た。父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14b)

今日の聖句:
見よ、兄弟が共に住むことは何という幸せ、何という麗しさ。
主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。(詩編133:1,3)
いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。(ルカ2:14)

主イエスがお生まれになった夜、天使たちは「地には平和、御心に適う人にあれ」歌いました。平和と言っています。主イエスがお生まれになった時代を世界史でひもとくと「ローマの平和」と呼ばれています。ローマ帝国の圧倒的な力によって周辺諸国との紛争は押さえられ、国内の内乱もとても少なく、安定した時代であったようです。
しかしその内実はどうでしょうか。主イエスがお生まれになったときには人口調査があったと伝えられています。権力者が租税するために、人々は移動を強いられました。名もなき若夫婦はそのために旅をしなければならず、旅先で出産することになりました。この小さな家族のための場所はベツレヘムにはありませんでした。大きな「ローマの平和」の陰に隠れるようにして、実は平和ではない人がいたのです。しかしこれはローマが特別に悪いというよりも、人間のすることの限界であるようにも思います。どういう国が作った平和であろうとも、人間の平和にはこういう限界があるのかもしれません。
神さまが作ってくださる平和はそれとは違っています。乳飲み子が飼い葉桶に寝かされるところに生まれる平和です。やがてその人が力なく十字架にかけられるところに打ち立てられる平和です。キリストの平和はこの世の国が作る平和ではありません。
地には平和、御心に適う人にあれ。この言葉の実現は、もう一つの賛美と一緒にでないと実現しないのでしょう。「いと高きところには栄光、神にあれ。」神の栄光が輝き、私たち人間が神の御前に膝をかがめてこのお方を礼拝するとき、十字架のキリストを見上げて拝むとき、そこにこそ真の平和が実現するのです。

2025年12月27日土曜日

2025年12月27日の聖句

わが主よ、私はあなたの力によって進みます。
主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。(詩編71:16)
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(1コリント1:24)

「ひたすらあなたの正義だけを」と言っています。主なる神さまの正義とは、いかなる正義なのでしょうか。
今日の新約聖書にはこのように書かれています。「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」この手紙はコリント教会に宛てられたものです。コリントはギリシアの大きな都市。その教会にはギリシア人もいましたし、ユダヤ人もいました。ユダヤ人はギリシア人から見れば移民で、異なる文化を持ち込んだ人々であり、よそ者です。ユダヤ人から見れば、主なる神さまを信じる信仰はユダヤ人のものであり、ギリシア人は自分たちの信仰にとってはよそ者です。ところが、パウロは言います。ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、関係ない。私は神に召された者にとっては神の力であり、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのだ、と。
私たちの正義はしばしば線を引き、区別をします。国籍や人種や文化などでもそうですし、学歴や収入や暮らしぶりなどでもそうかもしれない。ありとあらゆる区別の線が引かれ、そこから偏見や差別が生まれ、それぞれが自分の線の中でしか通用しない小さな正義を信じ込んでいる。しかし、神さまの正義は私たちの正義とはずいぶん性格が異なっています。私たちが常識として思い込んでいる線引きよりもはるかに大きく、広く、包容力のある正義です。
キリストこそ正義。私たちのためにご自身を献げ、愛し抜いてくださった方こそが神の正義。私たちはキリストによって神の御心を知るのです。

2025年12月26日金曜日

2025年12月26日の聖句

主の諭しはまっすぐで
目を光り輝かせる。(詩編19:9)
最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使のかのように見えた。(使徒6:15)

ステファノはキリスト教会の最初の殉教者です。最高法院という当時のユダヤの権力者たちの集まりに引かれていったときにも、彼は怯えたり恐れたりすることなく、かといって相手を馬鹿にしたり無視したりするのでもなかった。「最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使のかのように見えた。」
ステファノの目は、いつでも主イエス・キリストに向かっていました。彼はこの後、怒った人々に石で打たれて死ぬことになります。その時にも、ステファノは「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言います。主イエスに目が向いていたからこそ、どのようなときにも天使のような顔で生きることができたのでしょう。
「主イエスに目を向ける」というのは、どういうことか。それについて今日の旧約の御言葉はこのように言います。「主の諭しはまっすぐで、目を光り輝かせる。」主の諭し。すなわち、聖書の御言葉こそが私たちの目を光り輝かせる。私たちは聖書の言葉に耳を傾け、御言葉に従うことによってキリストを仰ぎます。この御言葉こそが私たちの目に輝きを与えてくださることを信じて、私たちは聞き従います。
私を私らしくしてくださるのは聖書の御言葉に他ならない。そのことへの信頼をもって、御言葉に耳を傾けましょう。

2025年12月25日木曜日

2025年12月25日の聖句

主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。
私たちは立ち帰りたいのです。
私たちの日々を新たにし
昔のようにしてください。(哀歌5:21)
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11)

今日の旧約の御言葉は哀歌ですが、私は後半二行にとても惹かれます。
「私たちの日々を新たにし
昔のようにしてください。」
「新たにしてください」と言いながら「昔のように」と言っている。「新た」と「昔」は意味としては正反対です。しかし、哀歌の祈りを献げた人物にとっては一つにつながっている。なぜでしょうか。
その答は前半にあります。「主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。私たちは立ち帰りたいのです。」昔、私たちが主の御許にいたように、今そこへ立ち帰らせてください。かつてのように主の御側にいさせてください。これこそ私の新たな日々。主の恵みが新しくされる日々。そう言っているのではないでしょうか。
神さまが私たちの御側に来てくださった。これこそ、本当の意味で私たちを新しくする事実です。主のみ側こそ、私たちの本来いるべき場所です。「今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」このクリスマスの恵みこそが本当に私が私らしく生きられる場。そこに主は私たちを招くために、私たちのところへ来てくださった。
主は、あなたを御許へ招いておられます。それどころか、御自らあなたのところへ赴いてくださいます。あなたが本来生きるべき主の御側にあなたを引き寄せるために。新しい神の恵みを携えて、今あなたのところへ来てくださっているのです。

2025年12月24日水曜日

2025年12月24日の聖句

正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。(詩編89:15)
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

私たちの間に宿った神の言葉。父の独り子であり、栄光に輝いているお方。恵みと真理に満ちたお方。クリスマスに私たちがその御降誕を祝う、イエス・キリストです。この「宿る」という言葉には、直訳すると「幕屋を張る」という意味があります。ちょうど荒れ野の40年間の旅の時、民の中心に神の幕屋があったように、今私たちの真ん中に主ご自身が幕屋を張って宿っていてくださる。主イエスさまは私たちの旅路を共に進んでくださっています。民が昼は火の柱、夜は雲の柱によって導かれたように、私たちはキリストの栄光に照らされて進む。つまり、キリストに現された神の御心に従います。それは主がしてくださったように互いに足を洗い合うということです。
今日の旧約はこのように言っています。「正義と公正は王座の礎。慈しみとまことはあなたの前を進みます。」主は、ご自身の王座の礎を正義と公正によって据えておられます。この「公正」は、正しいけれど冷たい正しさということではありません。神さまの愛の御心に適う意味での公正です。神の正義と公正は、独り子イエスをお与えになったクリスマスの夜に十全と現されました。慈しみとまことをもって私たちの間を進んでくださるイエスをこそ私たちは仰ぎ、このお方に示された神の御心が天におけるように地にもおこなわれますように、と祈ります。

2025年12月23日火曜日

2025年12月23日の聖句

この地のすべての民よ、安心せよ、と主は言われる。
そして働け。なぜなら私はあなたがたと共にいるからだ。(ハガイ2:4)
惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。(2コリント9:6)

愛の業を惜しむな、と聖書は私たちに語りかけます。僅かにしか蒔かなければ刈り取りもまた僅かでしかない。たくさん愛する人は、さらに多く愛することができるようになる。多くの愛の実りがある。豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。
さらに、今日の旧約ではこのように言われています。
「この地のすべての民よ、安心せよ、と主は言われる。そして働け。なぜなら私はあなたがたと共にいるからだ。」
私たちは主を信頼し安心して働いてよい、と主は言われます。自分の働きの成果や効果、働く意味、そのようなものは全部神さまにお任せしてよい。自分で満足できるかを確認したり、ちゃんとしているかを過剰に確かめたりしなくてもよいのです。そういうことは神さまが全部知っていてくださるし、神さまの御心の中で最善にしてくださるでしょう。
仕事には、毎日の生活の糧を得るという大切な意味があります。しかしそれだけではなく、神に与えられたものを用い、神の恵みの管理者として、他者への愛の実践として仕える、という意味もあるのだと思います。愛することにおいてケチにならず、隣人が自分の働きによって喜ぶことを尊んで、今日私に与えられた仕事にいそしみたい。そして私のすることなすことをそのように用いてくださるのは神さまの憐れみだということに信頼をして、今日するべきことに仕えていきたいです。

2025年12月22日月曜日

2025年12月22日の聖句

災いだ、自分のものでないものを増し加える者は。
いつまで続けるのか。(ハバクク2:6)
(イエスの言葉)ごく小さな事に忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。(ルカ16:10)

主イエスはたくさんの譬え話を話してくださいました。それはとても分かりやすいとも言えますが、見方を変えると不可解な点もたくさんあります。例えば、野に残された99匹の羊とか、家にいた兄息子とか。そんな不可解な話の中でもある意味最高峰とさえ言えるのではないかと思われるのが、今日の話です。ここで主イエスは、金持ちの財産の管理をしていたある管理人の話をなさいます。この人は実は主人の財産を無駄づかいしており、そのことが発覚してしまった。会計報告を出すように要求される。このままでは不正が明るみに出て、仕事を失ってしまう。そこで、管理人は主人に借金している人を呼び出し、証文を書き換えさせて借金を勝手に減免した。今のうちに恩を売って、仕事を失ったときに面倒を見てもらうためです。そして、主イエスはおっしゃいます。「主人は、この不正な管理人の賢いやり方を褒めた。」かなり不可解で奇妙な話です。主イエスは不正を勧めておられるのでしょうか?
「ごく小さな事に忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」主イエスはこの譬え話の最後にいたってそのようにおっしゃいます。ここで主がおっしゃる「小さな事」というのは、不正な富のことです。不正な富に忠実でなければ、誰も真実なものを任せない、と言われるのです。
私たちが持っているものは、実はどれも自分のものではないのかもしれません。それはただ神から与っているだけであって、それを管理しているに過ぎないのかもしれない。そうだとしたら、神から任されたもの、自分のものではないものに忠実でなければ話にならないというのは、私たちの生きる上でのすべてのものに対する言葉なのかもしれません。私たちの手に今あるものをどのように用い、私たちは生きていくのか。少し立ち止まって考えてみるというのは、意味のあることではないでしょうか。

2025年12月21日日曜日

2025年12月21日の聖句

今週の聖句:
主にあっていつも喜びなさい。もう一度言います、喜びなさい。(フィリピ4:4,5b)

今日の聖句:
これらはすべて私の手が造ったもの
これらはすべて私のものであるーー主の仰せ。
私が目を注ぐのは苦しむ人、霊の打ち砕かれた人
私の言葉におののく人。(イザヤ66:2)
しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。(テトス3:4~5)

すべてを造り、すべてを治めておられる方が言われます。「私が目を注ぐのは苦しむ人、霊の打ち砕かれた人、私の言葉におののく人。」私たちにはたくさんの悲しみがあるし、神さまに呻き、神さまを求めています。主は、あなたのその声に耳を傾けていてくださいます。主はあなたを憶えていてくださいます。主の御前で地べたに這いつくばるような、顔を上げることもできない惨めな私にそれでもなお御目を向けてくださり、私を救ってくださるのは、憐れみ深い主なる神さまだけです。
主イエス・キリストを私たちは待ち望んでいます。アドベントも四回目の日曜日となり、主イエスさまを求める私たちの祈りもここまで重ねることが許されました。主の御顔の光を、どうか私たちにもお向けください。そう祈るとき、すでに私も神の光の中にいたことに気付かされます。主はご自分の憐れみに応じて私たちを扱ってくださいます。「しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。」キリストの救いを、憐れみを請い求め、クリスマスへの道を上りましょう。

2025年12月20日土曜日

2025年12月20日の聖句

ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた。(創世記50:21)
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。(エフェソ4:32)

聖書が私たちの人間関係の基礎におくのは、赦しです。互いに赦し合うことがなければ私たちが共に生きることはできない。それが聖書の深い知恵です。
赦し赦されることは、私たちにとってどうしてこんなにも難しいのでしょう。赦すことにも、赦されることにも、どうしようもなく自我が邪魔をします。小さくてつまらないようなプライドなのに、後生大事にしてしまって「赦し合う」ということとはほど遠い。そんな自分の姿はひどい醜態だと思います。しかし、自分の実態が「赦し」とはほど遠いのは、紛れもない事実です。
聖書は言います。「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」キリストが赦してくださった、キリストにおいて神が赦してくださった。この事実以外から始めることはできないのでしょう。キリストにただ赦されただけ。それ以外の何ものでもない。その事実が私の骨身に染みますように。
今日の旧約はヨセフという人の姿が報告されています。「ヨセフは兄弟を慰め、優しく語りかけた」。この人は子どもの頃は鼻持ちならない嫌なやつでした。そのために兄たちに殺されかけ、結局エジプトに連れて行かれて奴隷になります。更には冤罪で牢獄に閉じ込められ、ひょんな事から大臣になり・・・というようなことを経て、何十年も経って自分を殺そうとした兄たちに再会する。その時、ヨセフは兄弟の情とか自分にも悪いことがあったというお互い様の精神とか、そういうことには寄りかかりませんでした。神が私をエジプトにお送りになったのだ、という神さまの御業に目を注ぎました。そこから赦しが生まれた。私たちが自分たちの関係の次元で物事を考えているときには、何も進まないのだと思います。神は私たちにどう関わっていてくださるのか。その目には見えない事実に注目するとき、新しい道が開けるのではないでしょうか。

2025年12月19日金曜日

2025年12月19日の聖句

私たちの神のような岩はほかにはありません。(サムエル上2:2)
主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。(エフェソ6:10)

神は岩のように固く、しっかりと私たちを支え、守ってくださるお方です。「私たちの神のような岩はほかにはありません。」私はここで「私たちの神」と言っていることが心に残りました。「私たちの神」です。「一般的に言って神なる存在であれば」、と言っているのではありません。私の神でいてくださり、私たちの神でいてくださるお方。このお方のような岩は他にいない。このお方のように私たちを確かに守り、確かな私たちの支えでいてくださるお方を、他のどこに捜そうか。このお方以外にはいないではないか!
今日の新約の御言葉も心に残る言葉です。「主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。」主の力は、大いなる力です。ギリギリなんとかなるとか、もしかしたら助けてもらえるかもしれないとか、そのようなあやふやで頼りないことを言っているのではありません。私たちの神、確かな大岩でいらっしゃるこのお方の力は、大いなる力。絶対に確か。どのようなときにもこのお方の強さが私たちの味方でいてくださる。そういう主イエス・キリストがあなたと共にいてくださる、と聖書は私たちに語りかけます。
ですからこのお方と共に歩む今日一日に祝福がありますように。神の御力があなたを支え、守ってくださいますように。キリストの愛があなたを覆い尽くしてくださいますように。

2025年12月18日木曜日

2025年12月18日の聖句

あなたがたの道と行いを改めよ。そうすれば、私はあなたがたをこの場所に住まわせる。(エレミヤ7:3)
こういうわけで、あながたは力を尽くして、信仰には徳を、徳には知識を、知識には節制を、節制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬遠には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。(2ペトロ1:5~7)

今日の新約聖書は、「信仰」ということから始まっています。この「信仰」はもう少しキチンと翻訳すると「あなたがたの信仰」と書かれています。ほかの誰でもなく、私たちが信じている信仰。それには「徳」が加えられなければならない。徳は、信仰よりもずっと一般的な響きがする言葉です。社会の中でも誰もが立派と認めるようなあり方という語感があります。そのような「徳」に「知識」が加えられる。自分自身のこと、相手のこと、社会のこと。様々なことをわきまえ、よく知っていることが求められています。そしてそのような「知識」には「節制」が必要だ、と言います。欲望に基づく知識ではなく、節制に向かう知識。「節制」に「忍耐」が求められるというのは、よく分かる気がします。しかもその「忍耐」は神様の御前に膝をかがめて崇め、へりくだってこのお方に祈る「敬虔」に裏打ちされた忍耐です。ただし、「敬虔」は「兄弟愛」がなければ、空しいものになってしまいます。独善的な、敬虔の名による自己満足になってしまう。兄弟愛が欠かせない。そして「兄弟愛」は、神から頂いた「愛」によって完成されます。
「あなたがたの信仰」という言葉から始まって「愛」にまで至るこれらのものは、どれも、神が私たちに与えてくださる賜物です。私たちの心がけや力によって成し遂げるべき努力目標ではなく、神さまが私たちの内に結んでくださる実りです。
神さまに自分の場所を明け渡し、私の内に始めてくださる御業を受け入れるとき、「あなたがたの道と行いを改めよ。そうすれば、私はあなたがたをこの場所に住まわせる」という御言葉が実現するのではないでしょうか。

2025年12月17日水曜日

2025年12月17日の聖句

災いあれ、悪を善と言い、善を悪と言う者には。
彼らは、闇を光とし、光を闇とする。(イザヤ5:20)
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ12:21)

「悪を善と言い、善を悪と言う」とありますが、現代社会でごく一般的に起きていることのように思います。善悪の基準が非常にいい加減で、物事の善し悪しの判別ができなくなってしまっている時代のように思います。社会的な立場も地位もある人が堂々と嘘をついていたり、大きな声で憎しみをまき散らすような人が大きな顔をしたりすることも珍しくありません。いや、それは今の時代だけの話ではないのかもしれない。人間の歴史は、そういうことの繰り返しなのかもしれません。だからこそ、預言者は言わないわけにはいかなかったのでしょう。「災いあれ、悪を善と言い、善を悪と言う者には。彼らは、闇を光とし、光を闇とする。」
聖書は言います。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」悪で悪に対抗することが「現実的」と言われます。善にこだわるのはバカだと考えられたり、善を志す人は却って空気の読めない迷惑な人と言われたりする世の中です。しかし聖書は善をもって悪に打ち勝つことを教えます。
この時の「善」というのは、当然、独り善がりなものではないはずです。聖書の語り口を考えるならば、愛に足る善ということであるに違いないと思います。それはキリストが私たちに示してくださった善であるはずです。そうであるならばなおのこと、善をもって生きるならばキリストのように迫害されるのが当然なのかもしれません。
私たちはどう生きるのでしょうか。独り善がりでもなく、迎合的でもなく、神に従い、キリストがしてくださったように生きるには、一体どうしたら良いのでしょうか。それはただ聖霊なる神様に日ごとに新しくして頂き、キリストのものとして生かして頂くということでしかないのだと思います。主よ、私をあなたのものとしてください。そう祈り、今日の日を歩んでいきたいと願います。

2025年12月16日火曜日

2025年12月16日の聖句

神に対してただ静かであれ、私の魂よ。なぜなら神は私の希望だからである。(詩編62:6)
また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望んでいます。(テトス2:13)

「神に対してただ静かであれ、私の魂よ。」私たちもこの言葉を自分自身に対して語りかけましょう。「神に対してただ静かであれ、私の魂よ。」
神さまに対して「なぜですか」と問い、「まだですか」と糾す気持ちで過ごす毎日であるかもしれません。神さまはそんな私たちの祈りを聞いてくださるお方です。憐れみ深く、私たちの訴えに耳を傾けてくださるお方です。私たちはそう信じて祈る。ただ、その訴えの先には主の御前での沈黙がある、ということも真実であると思います。この沈黙は諦めの沈黙ではありません。絶望して言葉を失っているのではない。神こそ私の希望と信じ、問いや訴えの中でなお神を深く信頼するからこそ覚える沈黙です。「神に対してただ静かであれ、私の魂よ。なぜなら神は私の希望だからです。」
今日の新約の御言葉にはこのようにあります。「また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望んでいます。」"私たちの希望"の具体的な内容がここにはっきりと書かれています。主イエス・キリストが栄光のお姿で私たちのところに再び来てくださる。ここにこそ私たちの希望がある。キリストが来てくださって毎日の悩みや痛みや悲しみをすべて神さまの前で救ってくださる。このお方を待ち望むから、ここに希望があることを信じているから、私たちは神の前に静かになることができるのです。

2025年12月15日月曜日

2025年12月15日の聖句

彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。(イザヤ53:5)
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

神は私たちに御子を与えてくださいました。あまりにも大きなその事実を祝うクリスマスを迎えようとしています。主イエス・キリストは私たちの間に一人の女からお生まれになり、私たち人間の一人になってくださいました。神の子でいらっしゃるお方が人になられた。そして、それだけではなく、主イエスは十字架の死に至るまでへりくだり、従順を貫かれました。神さまはそこまで徹底して御子を私たちのために与えてくださいました。
「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」
これは、私たちキリスト者の確信です。神は御子を私たちに与えてくださったお方。ご自分の独り子を私たちと同じ人間になさり、十字架にまでかけられることをお許しになった。そこまで徹底して御子を与えてくださったお方は、御子と一緒にその他のすべてのものを私たちに与えてくださらないはずはない!
ですから、私たちのあらゆる不満やつぶやき、「足りない」と言い続ける貪欲には居場所がないということなのだと思います。どうしたって私の中にはそういう心が根を下ろしてどっかりと居座ってしまっています。そのことに気付く度に、主イエスを見上げます。「彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。」十字架にかけられたこのお方を仰ぎ、このお方を愛し、生きていきたい。私たちの願いはその一事に尽きます。

2025年12月14日日曜日

2025年12月14日の聖句

今週の聖句:
主の道を備えよ。見よ、主は力を帯びて来られる。(イザヤ書40:3,10)

今日の聖句:
主よ、あなたに呼びかけます。わが大岩よ、沈黙しないでください。(詩編28:1)
(百人隊長によるイエスへの願い)ただ一言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒やされます。(ルカ7:7)

異邦人であるこの百人隊長の僕が病気で死にかけていました。この人はユダヤ人からとても信頼されていたようです。ユダヤ人の長老たちがこの人に代わって主イエスのところへ来て、百人隊長の僕を癒やしてくださるようにお願いしました。すると主は一緒に来てくださった。主が来てくださっていることを知った百人隊長は友人たちを送って言わせます。「主よ、ご足労には及びません。私はあなたをわが家にお迎えできるような物ではありません。ただ一言おっしゃってください。そうすれば私の僕は癒やされます。」主イエスはこの人の信仰をとてもお喜びになりました。
この百人隊長は、主イエスの御言葉の力、その権威を信じていました。主がひと言おっしゃってくだされば必ず救いの出来事が起こる。そのことを確信しています。私たちも同じキリストの御言葉に耳を傾け、このお方の恵みの言葉によって生かされています。
私たちにとって大切なことはただ一つです。神の言葉。キリストの言葉。それは「主よ、あなたに呼びかけます。わが大岩よ、沈黙しないでください」と旧約の時代を生きた信仰者が祈っているとおりです。神が御言葉を語り、私に語りかけてくだされば私は生きられる。神さまが語りかけてくださる一つひとつの言葉によって、私たちは神の恵みの中に招かれ、そこで立つことができるのです。だから、今日もひたすら、一筋の心でキリストの言葉を待ち望みましょう。

2025年12月13日土曜日

2025年12月13日の聖句

見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日がーー主の仰せ。(エレミヤ31:38)
また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人と共にある」。(黙示録21:2~3)

前597年にユダ国はバビロンという国に破れ、神殿や王宮の財宝、国の要人が連れ去られてしまうという事件が起きてしまいました。第一回バビロン捕囚と呼ばれています。そしてその10年後の前587年にはエルサレムの都が陥落し、神殿も破壊され、ユダ国は滅亡しました。この時にもたくさんの人がバビロンへ強制連行された。こちらは第二回バビロン捕囚と言います。
今日の旧約の御言葉は、恐らく第一回バビロン捕囚と第二回バビロン捕囚の間に語られたものです。周囲には崩壊と危機があった。ところが当時ユダ国内にいたエレミヤ以外の預言者は、捕囚はほんの数年で終わるという楽観的で、人々に受けの良い言葉ばかりを語っていました。エレミヤはそのような楽観論に与せず、しかしいたずらに不安をあおるのでもなく、神に「語れ」と命じられたことだけに徹しました。「見よ、その日が来る。この都が主のために再建される日が」と、主は仰せになっている。エレミヤは神の言葉だけに立ちます。
このエレミヤの言葉は、エレミヤ自身も思ってもみなかったほどに大きなスケールでやがて完全な成就を迎えます。「また私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために装った花嫁のように支度を整え、神のもとを出て、天から降ってくるのを見た。そして、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にある』」。
神ご自身が私たちと共にいてくださる。新しいエルサレムの都が私たちのところに来る。神が私たちと共に住んでくださる。この時を目指して、私たちも生きています。エレミヤの時代も、現代も、それぞれに課題は多く、厳しい時代です。この時代の中で私たちはただ神のみを見上げ、主の民として生きていくのです。

2025年12月12日の聖句

ああ、あなたが天を引き破って降臨してくださるのであれば。(イザヤ63:19)
(天使のマリアへの言葉)「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」(ルカ1:31~32)

天を引き破って、神ご自身が降りてきてくだされば!
天というのは神がおられる領域という意味でもありますが、それだけではなく神ご自身を婉曲的に示す表現でもあります。神がご自身を引き破って私たちのところに来てくださる。それは造られた世界のすべてが揺れ動くような出来事です。
「あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。」
そうして来てくださった主イエス・キリスト。このお方は私たちのところへ来てくださった神ご自身です。神は実際にご自分を引き破って私たちのところにまで降りてきてくださいました。神ご自身でいらっしゃる方が一人の人間の子どもになられたのです。
神さまは私たちを救うために、天のかなたから手を伸ばすという方法をお選びにはなりませんでした。私たちのところにまでご自分を引き裂いて降りてきてくださった。いと高き神の子を私たちの間に与えてくださった。私たちが神のところに上ったのではなく、神が私たちのところに来てくださったのです。
私たちがちょっとはマシになって神さまに近づくのではありません。私たちがもっと信仰深くなって神さまをお迎えできるに足るようになるのではありません。神さまから相変わらず遠く、神さまを知ろうともしない私たちのところへ神がご自身を引き裂いて来てくださったのです。私たちは、ただただ後からそのことを知らされるだけなのです。

2025年12月11日木曜日

2025年12月11日の聖句

私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。(エレミヤ31:3)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(ヨハネ3:16)

神さまの愛は私たちにはあまりにも広く、長く、高く、深くて、想像が及びません。「私はとこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ。」とこしえの愛、と神さまは言われます。私たちは「とこしえの愛」を知りません。私たちの愛はどんなに純粋でも限りがあるし、そもそも私たちはとこしえに生きられる存在ではない。しかし神さまの愛はとこしえです。私たちは神さまの愛にすっぽりと包み込まれている。
そのことを思うと「愛」という同じ言葉で神さまの愛と私たちの愛とを言い表してよいのだろうか、とさえ思います。あまりにも質が違う。私の持っているものはあまりに身勝手で、損得ばかりが先に立ち、「愛」という言葉をあてるのがはばかれるようなものでしかない。愛と言いながら愛でも何でもないという私の現実は、罪という言葉で言わねばならない現実であるのかもしれません。
しかしそうであるからこそ、神さまはとこしえの愛で私たちを愛して下さっているのではないでしょうか。神さまは、ご自分のとこしえの愛を最上の仕方で現してくださいました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」これほどの愛は他には絶対に存在しません。神であるお方が、造られたものに過ぎない私たちのために独り子を与えてくださったのです。私たちにあるものは愛と呼ぶことのできないつまらないものでしかないけれど、それでもなお神は私を永遠の愛で愛し、独り子を与え、私をご自分のものとしてくださった。私にあるのはその事実だけ。それでよい。それだけでよいのです。

2025年12月10日水曜日

2025年12月10日の聖句

主なる神よ、あなたはまことに大いなる方。私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。(サムエル下7:22)
私はアルファでありオメガ、最初の者にして最後の者、初めであり終わりである。(黙示録22:13)

すべてのものには初めがあって、終わりがあります。この宇宙全体の初めは、ビッグバンでしょうか。それでは、終わりは?こちらにもいくつかの説があるようです。初めや終わりがどのようなものであったとしても、それもまた神の御手の中にあると私たちは信じています。
しかし、もっと私たちにとって身近で重要なのは、この私自身の始まりと終わりだと思います。私は私自身の力で命を始めることはできないし、終わりも自分で決めることはできません。それは神さまの御手の中にある。私たちにとっては「死」も謎に包まれた闇ですが、それだけではなく、生まれる前のことも謎です。私も、それどころか父も母もまだ生まれていなかったとき。私はどこにも存在していない。父母未生以前の闇もまた恐るべきもの。しかし、そのすべてを神が治めておられます。
「主なる神よ、あなたはまことに大いなる方。私たちの知るかぎり、あなたのような方はなく、あなたのほかに神はありません。」
へりくだって、このお方を畏れ、敬うということこそが私たちの人間らしい姿なのだと改めて思わされます。人間としての分を知り、限られた命の有り難さに感謝し、与えられた者に満足すること。そういう人間らしさを取り戻したい。そのように思わされています。

2025年12月9日火曜日

2025年12月9日の聖句

あなたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。(イザヤ46:4)
本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。(1テモテ5:3)

今日の旧約聖書の御言葉は、偶像礼拝について書かれている文脈に出てきます。「あなたがたは私を誰に似せ、誰と等しくしようとするのか。私を誰と比較し、似せようとするのか。」そして、金や銀で細工師に神を造らせて、それにひれ伏し、拝んでいる。そして「彼らはそれを肩に乗せ、背負っていき、しかるべき場所に据える。」つまり、人間が造り、背負って運び、それにひれ伏すのが偶像、ということになると思います。
ところがまことの神さまはそうではない。「あなたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」神が私たちを造ってくださった。神が私たちを背負い、担ってくださる。人間が造ったものは神ではない。人間が背負うことができるようなものは神ではない。私たちは神さまの背に担って頂いて、生かされています。
そうであるからこそ、私たちはお互いの重荷を担い合い、共に生きるために愛をもって互いを尊重します。「本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。」神が私たちを背負ってくださっているのですから、私たちも互いを担い合うのです。

2025年12月8日月曜日

2025年12月8日の聖句

あなたはあなたの神に立ち帰れ。慈しみと公正を重んじ、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:7)
(パウロの手紙)「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(1テモテ1:15~16)

パウロはたくさんの手紙を書き、新約聖書に収められています。パウロが比較的若い頃に書いたと考えられているコリントの信徒への手紙一に、このような言葉があります。「私は神の迫害を迫害したのですから、使徒たちの中ではもっとも小さなものであり・・・」(1コリント15:9)。そして、もっと後に書かれたと考えられているエフェソの信徒への手紙にはこのようにあります。「この恵みは、すべての聖なる者たちのうちで最も小さなものである私に与えられました(エフェソ3:8)」。そして、テモテへの手紙はパウロの晩年に近い時期に書かれたと考えられています。今日の箇所にはこうありました。「私は、その罪人の頭です。」
このように見ていくと、年を経る毎にパウロの罪の自覚が深まっていたことが分かります。使徒たちの中で、すべての聖なる者たち(つまり、キリスト者たち)の中で、いやそれどころか、ありとあらゆるすべての罪人たちの頭に他ならない。私は救いようのない、とんでもない罪人。パウロは年を取る中でそういう自覚を深めていきました。
とんでもない、救いようのない罪人。そんな私を救ってくださるのは、ただイエス・キリストだけです。キリストの限りない寛容が私を救ってくださった。罪人を救うために世に来てくださったキリストが、こんなとんでもない罪人の頭である私までも救ってくださった。
私たちにはただキリストがいてくださるだけです。他には何もない。そして、他の何も必要ない。このお方におすがりするだけ。それが私の命。パウロの告白が私たちに響きます。

2025年12月7日日曜日

2025年12月7日の聖句

今週の聖句:
身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いが近づいているからだ。(ルカ21:28)

今日の聖句:
主はうずくまる人を立ち上がらせる。(詩編146:8)
よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。(ヨハネ16:20)

私たちが泣き悲しみ、苦しみにさいなまれるとき。誰にでも訪れるそのようなときに私たちは思い起こすことができます。「主はうずくまる人を立ち上がらせる。」神さまは悲しむ者を慰め、力をなくしてうずくまる人を再び立ち上がらせてくださる。私たちは御言葉に従って、そのことを信じています。
ただ、主イエスがおっしゃっているのは、単に「何かしらの悲しみ」と言うことには尽きないのだと思います。「よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。」この泣き悲しみは、主イエスを信じるからこそ味わう泣き悲しみではないかと思います。主イエスさまを信じるからこそ知る悲しみがあるのではないでしょうか。
神さまは、私たちに愛を込めて命を与え、この世界をよい世界として造ってくださいました。それなのに、どうして私たちは自分自身やこの世界を毀損し、自分よりも弱い相手を見つけてはその尊厳を踏みにじってしまうのでしょう。どうして私たちは、こんなにも私たちを愛してくださっている神を蔑ろにしてしまうのでしょう。私たち自身であるこの世界の罪は、悲しみの現実です。しかし、そんな世界の有り様は、この世界にとっては喜びでしかない。
神は、悲しむ者を慰め、うずくまるものを立たせてくださいます。だから私たちは神の憐れみを求めます。神を仰ぎます。主イエス・キリストの愛におすがりするのです。

2025年12月6日土曜日

2025年12月6日の聖句

どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください。(詩編118:25)
聖霊は告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。(使徒13:2~3)

「どうか主よ、救ってください。どうか主よ、栄えをもたらしてください。」この祈り、あるいは呻き、叫びの声は、私たちすべての者の声であると思います。この求めを本当は自分も抱いているということをまだ知らない、あるいは自覚したことのない人は多いと思います。しかし、例え自分でも知らなかったとしても、私たちは神によって造られ、神のかたちに造られましたから、私たちには神に満たして頂くのでなければ埋めることのできないものがあるのではないでしょうか。
ところが一体どうやって神を求めたら良いのか、どのようにしてこの渇きへの癒やしを願ったら良いのか。聖霊なる神様は、そのためにバルナバとサウロを遣わすように、最初の教会に告げておられます。彼らがまだ主を知らない地へ行って、そこで福音を宣言するように、と命じておられます。
ローマの信徒への手紙にこのように書いてあります。「信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣げ伝える人がいなくて、どうして聞くことができるでしょう。」そして、これに続けて旧約の御言葉を引用して言います。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える者の足は」。この足は、バルナバの足でありサウロの足であり、私たちの足です。神は私たちの足をもお用いになって、救いを求める魂のところへ遣わし、キリストの福音という良い知らせを伝えるものとなさるのです。あなたのその足を、主がご入り用なのです。

2025年12月5日金曜日

2025年12月5日の聖句

主よ、慈しみを私たちに示し、救いを与えてください。(詩編85:8)
救いはユダヤ人から来る。(ヨハネ4:22)

「救いはユダヤ人から来る」と聖書にあるとおり、神のお遣わしになったメシアはユダヤ人としてお生まれになり、ユダヤ人たちを中心に福音が告げ知らされ、ユダヤ人たちに聖霊が降って最初の教会が生まれました。神の福音は特定の人々に告げられ、特定の時と場を舞台としてこの世界に現されました。そしてそのようにして宣べ伝えられたナザレのイエスこそ、この世界のすべての人の救い主です。福音は海を越えて、異邦人である私たちのところにももたらされました。
「主よ、慈しみを私たちに示し、救いを与えてください。」私たちも同じように祈ります。神の慈しみによって私たちも生かされ、主の与えてくださる救いによって私たちも望みをいただいています。ユダヤ人に示された神の慈しみは、すべての人のための福音です。「地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される」と主がアブラムにおっしゃったとおりです。
神さまがこのようにして、特定の人々をお選びになり、歴史の具体的な出来事の中で働いてこられたという事実はとても大事です。神さまの救いの歴史は、この世界の歴史とは関係のないフワフワと宙に浮いたおとぎ話ではありません。(だから聖書の話には「歴史的背景」も大事なのです!)そうであるからこそ、「今・ここ」という具体的な時と場所に生きる私のための救いでもある。主イエスは私たちの歴史に来られた神の子。私たちと同じ一人の人間になってくださった救い主。この歴史的な事実を、今日改めて覚えたいと思います。

2025年12月4日木曜日

2025年12月4日の聖句

律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。(申命記31:13)
父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。(エフェソ6:4)

私にとっては非常に耳の痛い御言葉です。「父親たち、子どもを怒らせず、主のしつけと諭しによって育てなさい。」最初からいきなり躓いてしまいます。「子どもを怒らせず・・・」。言葉もありません。
子育ては本当に難しいです。最初の子どものときには、こちらにも何の経験もないし、初めて親になったばかりで、どうすることもできない。二人目の子どものときは、上の子もいて何も考えることもできません。三人目の子どもは上に二人もいるし、気力も体力も保たないし、どうすることもできない。きっと、何人目であってもいくらでも言い訳は生まれてくるはずです。
親はちっぽけな存在です。「理想の子育て」からはほど遠いのが現実です。せめて子どもを一人の人格として受け入れ、尊重し、信頼したい。ところがそれすらも難しく、いらぬことばかり言ったりしたりしてしまいます。
自分を指針にしたり、世間のはやりを頼りにしていても、きっとダメなのでしょう。聖書はちゃんと確かな指針を示しています。「律法を知らない子どもたちが、またこれを聞きかつ学び、あなたがたの神である主をいつでも畏れるようになるべきです。」聖書の御言葉を指針とし、神である主を畏れる者として生きられるように。主を愛し、主に仕え、主と共に生きられるように。
ところがまた難しいのは、私には神さまを言い訳にして自分の思いを押しつけることさえできてしまう、ということです。信仰という名前のすてきなかぶり物をかぶれてしまうのです、子どもに対しても。だからこそ、日ごとにそんな自分の罪を悔い改め、へりくだるものでありたい。自分がまず主を畏れて。キリストがこの子と自分の間にも立っていてくださることを願いつつ、再び子どもと出会いたいです。

2025年12月3日水曜日

2025年12月3日の聖句

(モーセの言葉)「主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいる。」(民数記11:29)
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。(使徒1:8)

モーセと共にエジプトを脱出した神の民。迫り来るエジプトの軍隊から逃れるために神が海の中に道を通してくださり、食べ物がなく飢え死にすると嘆けば神が天からマナというパンを与えてくださいました。神は飲み水も与え、彼らが生きるために必要なものを一つひとつ備えてくださった。ところが、民の不平は留まりません。今度はマナだけではなく野菜や魚も食べたいと不満が噴出しました。
モーセは神に訴えます。「私一人ではこの民すべてを負うことはできません。私は重すぎます。」これに対し、神は二つの答を与えてくださいました。一つは民にすさまじい数のうずらを来たらせ、肉を食べさせた。そしてもう一つは、民の長老の中の70人にモーセの上にある霊の一部を分け与えられた。すると、長老たちはたちまち預言者のようになった。それを見たモーセの従者ヨシュアは言います。「わが主君、モーセよ。彼らを止めさせてください。」ヨシュアは嫉妬しました。このままでは長老たちはモーセなど必要ないと勘違いしてしまうかもしれない。ただモーセからだけ神の言葉を聞けば良い。ヨシュアはそう考えたのでしょう。ところがモーセは若きヨシュアを諭しました。「あなたは私のために妬みを起こしているのか。私はむしろ、主の民すべてが預言者になり、主がご自身の霊を彼らの上に与えてくださればよいと望んでいる。」
ヨシュアの気持ちは分かります。しかし、神さまのことを独占したいというのは恐るべき欲望。罪深い思いです。モーセはそれに囚われず、誰もが神の言葉を聞き、語ることができることを望みました。
神さまは私たちすべてのものにご自分の聖霊を与えてくださっています。私たちは誰もが祈ることができるし、御言葉を聞きます。神は私たち一人ひとりに、聖書を通して語りかけてくださっています。この神の霊を謙遜な思いでいただき、神の御前にあって隣人を立て上げる言葉を語るものでありたい、と願います。神は出エジプトの民のように私たちの貪欲から出た思いさえも見捨てることなく、私たちをご自分の憐れみの中で生かしてくださいます。そうであるからこそ、私たちは聖書を通して語る神さまの御言葉にしっかりと耳を傾け、キリストを仰いで生きていきたいのです。私たち一人ひとりに語りかけるキリストの言葉に耳を傾け、そのために互いを励まし合いましょう。

2025年12月2日火曜日

2025年12月2日の聖句

私を立ち帰らせてください。私は立ち帰りたいのです。あなたこそ私の神、主だからです。(エレミヤ31:8)
パウロは言った。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、私たちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そこにあるすべてのものを造られた方です。」(使徒14:15)

改革者マルティン・ルターは言いました。「悔い改めよ」とお教えになった主イエスは、私たちの全生涯が悔い改めであることをお望みになったのだ、と。この悔い改めは、人生のいつかどこかで一回劇的な悔い改め体験をする、というような意味ではありません。日ごとに神の御前にへりくだり、毎日悔い改めて生きる、ということです。主は、私たちの全生涯が日ごとの悔い改めであることをお望みになったのです。
「私を立ち帰らせてください。私は立ち帰りたいのです。あなたこそ私の神、主だからです。」
あなたこそ私の神、主だからです。そのように言っています。あなたがほかの誰でもなく、まさにあなた様でいらっしゃるから。だから私はあなたの御許に立ち帰りたい。あなたの慈しみに、あなたの憐れみに、私の救いはある。あなただけに私の帰るべき場所がある。主よ、私をあなたに立ち帰らせてください。私たちの信仰の大先輩であるこの預言者は、そう祈っています。
私たちの願望や貪欲が生み出す偶像を捨てましょう。私たちをいつの間にか支配するたくさんの偶像に別れを告げましょう。そして、今日新たな思いで悔い改め、神の御もとに立ち返りましょう。

2025年12月1日月曜日

2025年12月1日の聖句

12月の聖句:
(神の言葉)しかし、わが名を畏れるあなたがたには義の太陽が昇る。その翼には癒やしがある。(マラキ3:20)

今日の聖句:
あなたの光とまことを遣わしてください。それらは私を導き、あなたの住まいに伴ってくれるでしょう。(詩編43:3)
シメオンは言った。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの栄光です。」(ルカ2:29~32)

シメオンは生まれたばかりの主イエスと神殿で出会いました。そして言ったのです。「主よ、今こそあなたはお言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」シメオンは、このお方と出会うことこそが私の人生の目的だった、と知ったのではないでしょうか。このお方に出会い、今こそ私は安らかに去ることができる。死ぬ準備ができた。主との出会いはそういう出来事です。
このシメオンの言葉は讃美歌になりました。教会の一つの伝統では、聖餐のときに歌う讃美歌として覚えられてきました。主のお体と血潮に与る私たちは、今、安らかに去ることができます。私たちは神様の御前でそう告白し、平安の中にいます。私たちを照らしてくださる神さまの平和の光の中にいる。私たちはキリストのもの。神さまの御許に生きる者。キリストの光の中、昇る義の太陽に照らされて、私たちの新しい一日が始まる。私たちはそう信じています。

2026年1月15日の聖句

さあ来て主に向かい、喜び歌おう。 私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。(詩編95:1) あらゆる国々の民が来て あなたの前にひれ伏すでしょう。 あなたの正しい裁きが 明らかにされたからです。(黙示録15:4) 私たちと同じプロテスタント教会の伝統に生きる教会の中でも例えばメソジ...