2025年5月31日土曜日

2025年5月31日の聖句

恵みに富み、貸し与える人は良い人。
その人は公正に事を行う。(詩編112:5)
善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために良い土台を築き上げるように。(1テモテ6:18~19)

ケチであってはいけない、と聖書は私たちに語りかけます。「貸し与える人は良い人」です。隣人のために自分の懐を痛め、見返りを当てにせずに貸すこと。善を行い、良い行いに富み、物惜しみせず、喜んで分け与えること。その幸いを私たちに語りかけます。
そう生きられたら良いなと本当に思います。しかし同時に、自分はそう生きられていないとも思います。気前の良い人は何人も思い浮かびます。何でも人に与えて生きている人。見返りを受ける事なんて全然考えてもいない人。ところが自分の実態はどうなのか・・・と考えると、少し苦しい気持ちになります。
どうしてなのでしょうか。どうして自分はケチなのか。もしかしたら、「自分」ということへのこだわりが強すぎるのかもしれません。あるいは、自分の手に何もないということへの不安が大きすぎるのかもしれません。神が与え、神が生かしてくださっていることを単純明快な心で信頼するということが欠けているのかもしれません。
しかし、神様ご自身はケチではありません。気前の良い方です。こんな私にさえ、必要なものを与えてくださいます。日々生かしてくださっている神の恵みを信頼し、神様に心からより頼んで生きる。そんな私でありたい、と本当に願います。キリストが私を新しくしてくださり、愛し、与え、分け合う喜びに生かしてくださいますように。

2025年5月30日金曜日

2025年5月30日の聖句

あなたの御名を愛する者が、あなたを喜び歌いますように。(詩編5:12)
しかし使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた。(使徒5:41~42)

主イエス・キリストへの愛が、使徒たちを喜びの人に変えました。かつて主が十字架に掛けられるとき、彼らは逃げてしまいました。シモン・ペトロは三度繰り返してイエスを知らないと否認しました。その人たちが今やイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ、というのです。あまりの変貌に驚いてしまいます。
主イエス・キリストへの愛。これではないでしょうか。キリストへの愛が彼らをこのような者にしたのです。そして、使徒たちのそのような主への愛は、主イエスさまからの愛によって育まれ、確かにされました。キリストが私たちをご自分への愛の人に変えてくださいます。キリストの愛が私たちを新しくしてくださいます。
「あなたの御名を愛する者が、あなたを喜び歌いますように。」私たちは御言葉に導かれて、主への愛の歌を歌います。キリストを愛し、賛美の歌を口ずさみます。キリストの愛が私たちの口に新しい歌を授けてくださいます。
今日、私たちも喜んでキリストを賛美しましょう。キリストの愛の出来事は私たちにも起こります。そのことを信じ、神の愛の確かさだけによりかかって、私たちも今日生きていきましょう。

2025年5月29日木曜日

2025年5月29日の聖句

(主の言葉)私が地に平和を与えるので、あなたがたは脅かされることなく憩う。(レビ記26:6)
イエスは言った。「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」(ルカ11:20)

イースターから40日目の今日は「主の昇天」の記念日です。死人の中から甦った主イエスが、その40日目に天に昇られた。その出来事を記念し、私たちは歩みを新たにします。
主なる神様はおっしゃいます。「私が地に平和を与えるので、あなたがたは脅かされることなく憩う。」私たちはキリストが約束してくださる平和のうちに、この世界へと派遣されています。神が私たちをそれぞれの場所へと遣わしておられます。キリストの平和の使者として、主イエス・キリストに示された神の愛の証人として、私たちはこの世界へでていきます。キリストが私たちの間で宣言なさった神の国の福音を私たちも携えて、この世界に届けるために、キリストが私たちを遣わしておられるのです。
「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来たのだ。」主イエスがおっしゃいます。キリストが悪霊を追い出し、人間を罪と悪から自由にする御業。それは神ご自身の力によるもの。キリストが来られ、罪の赦しが宣言され、悪霊と戦い、これに打ち勝たれた。ここに神の国が始まっている。神の国が来ている。私たちもその出来事の当事者です。
神の平和のうちに出て行きましょう。キリストの平和を携え、悪に打ち勝たれたキリストの力を信じ、今日も出発しましょう。

2025年5月28日水曜日

2025年5月28日の聖句

終わりの日に、国は国に向かって剣を上げず
もはや戦いを学ぶことはない。(イザヤ2:2,4)
すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。(ヘブライ12:14)

私たちの生きているこの世界は、本当に深く傷ついています。時代そのものが病気になっていると思います。憎しみが渦巻いているし、本当に深く分断されています。ガザやウクライナの民衆に対する攻撃が終わりません。ミャンマーでの軍事政権の支配下での地震の被害もありました。民の痛みのどんなに深いことでしょうか。
「終わりの日に、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。」預言者イザヤはそのように語りました。イザヤが生きた時代も、やはり戦争で傷ついていましたし、権力者は他国との軍事同盟や大国の傘に入ることの方が神を信じるよりも現実的だと考えていました。現代と全く同じです。しかしそういう時代に逆らうようにして言うのです。「終わりの日に、国は国に向かって剣を上げず、もはや戦いを学ぶことはない。」神を信じ、神が必ず平和をもたらしてくださると信じ、その幻に生き続けた。この一人の信仰者であり預言者である人物の言葉は、今も私たちの間に響き続けます。
私たちはこの時代にあって、時代がどうであろうとも神を信じ、神に従います。平和を築きます。聖なる生活、すなわち神のものとして生きる生活を形づくります。「すべての人と共に平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、誰も主を見ることはできません。」その人は主を見る。聖書はそう約束する。主イエスさまを私たちは仰ぎ、この世界にあって平和を追い求める。平和という理想を捨てません。平和を作り出す人として生きたい、と私たちは願います。主がそのような私にしてください、と今日も祈りつつ新しい一日に歩み出します。

2025年5月27日火曜日

2025年5月27日の聖句

我らの神のほかに誰が大岩であろうか。(詩編18:32)
(パウロの手紙)私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りとすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。これからも救ってくださる違いないと、私たちは神に望みを置いています。(2コリント1:9~10)

パウロが「私たちとしては死の宣告を受けた思いでした」と言っていますが、ただならぬ言葉です。どうしてそのようなことを言っているのか。これに先立つ8節で、パウロはこのように言います。「きょうだいたち、私たちがアジアで遭った苦難について、ぜひ知っておいてほしい。私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い」と言っているのに続いて、今日の御言葉に至ります。「私たちは、耐えられないほどひどく圧迫されて生きる望みさえ失い、私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。」
迫害によって蒙った耐えられないほどの苦難。生きる望みを失った。しかし、そのようなとき、パウロは自分を頼りにはしなかった。自分を奮い立たせたり、根性で乗り切ろうとしたり、それは無理だと言って諦めたり。そのようなことをしなかった。神を頼りとしました。しかも、「死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」と言っています。
キリストの復活の信仰が、パウロ自身の苦難の中で意味を持ったのです。キリストを死者の中から甦らせた神は私をもこの苦難から救ってくださる。パウロはそのことを信じていました。神は私をお見捨てにならない。パウロは神に望みを置いていました。キリストが十字架の上で死に、復活したという事実こそ、私の望みを確かなものとする保証に他ならない。私たちの前に立つ一人の信仰者が、私たちにそう証しします。

2025年5月26日月曜日

2025年5月26日の聖句

武力によらず、権力によらず
わが霊によるーー万軍の主は言われる。(ゼカリヤ4:6)
天使はマリアに言った。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1:35)

おとめマリアから生まれたイエスさまは、いと高き神の霊、聖霊によって宿った子どもです。このお方はただ神の力だけによって肉を取り、私たちと同じ人間になられました。一人の人間でいらっしゃるこのお方は、聖霊と共にある神の子、神ご自身です。
今日の旧約にはこのように書かれています。「武力によらず、権力によらず、わが霊によるーー万軍の主は言われる。」主イエスさまの力の源は武力ではないし、権力でもない。ただ神の霊の力です。この世の力ではなく神の力によって歩まれました。
神の力は、私たちの間で弱さとして発揮されました。神ご自身でいらっしゃるお方が、私たちと同じ肉をお取りになったこと。私たちと同じ弱い体をお持ちになったこと。鞭打たれ、十字架に掛けられ、死なれたこと。そのような弱さの中で、神の霊の力が現されました。私たちの信じる神の子は、私たちのために弱くなってくださいました。
神様は、ご自分の「神らしさ」をへりくだることによって示してくださいました。神は私たちのところにまで降りてこられ、私たちの間でいちばん低いところに降ってくださいました。私たちのいるべき場所は、このお方がいらっしゃるところです。キリストの低さに驚き、キリストのいらっしゃるところにおらせてくださいと私たちは祈ります。今日、私はどこに生きるのか?そのことを問いつつ、歩んでいきたいと願います。

2025年5月25日日曜日

2025年5月25日の聖句

今週の聖句:
神をたたえよ。
神は私の祈りを退けず
慈しみを拒まれませんでした。(詩編66:20)

今日の聖句:
あなたは、貧しい兄弟に対して心を閉ざし、手をこまねいていてはならない。(申命記15:7)
私のきょうだいたち、「私には信仰がある」と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。(ヤコブ2:14)

神様が私たちに求めておられるのは、御言葉に聞いて、従うこと。ただ聞くだけ、あるいは聞き流してしまうことを神様はよしとなさらない。今日の御言葉はそのように語りかけています。
私たちは神の愛を信じ、どのような私であっても神が私に先んじて愛してくださっていることに信頼しています。しかし他方で貧しい人に心を閉ざし、手をこまねいているならば、神の愛は私たちにとっていかなる意味を持つのでしょうか。行いが伴わない信仰は何の役にも立たない、と聖書は言います。
耳が痛い言葉です。自分の実際の姿を考えると、胸がキリキリと痛むような言葉です。しかし、聞かなかったことにはできない。私たちを愛し、私たちを愛の人として生かす神の愛が私たちを包み込んでいるから。神の限りない慈しみの中で私も新しくなることができる。御言葉はそう約束します。

2025年5月23日金曜日

2025年5月23日の聖句

私は地の果てから呼び集める。その中には目の見えない人も足の不自由な人も身ごもった女も、臨月の女も共にいる。大いなる集団がここへ帰って来る。(エレミヤ31:8)
すると、家の主人は怒って、僕に言った。「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」(ルカ14:21)

神の国について、主イエスが語り聞かせてくださった譬え話です。主人が盛大な宴会を催そうと、大勢の人を招待していました。ところがいざ宴会が始まることを伝えると、招かれていた人たちはいろいろな言い訳をしてちっとも宴席に来ようとしません。それで主人は怒って言います。「急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」命じられた僕は主人が言うとおりにした。そんな話です。
もともと招かれていた人は、まさに招かれるべきと誰もが思う人たちのことです。神の民ユダヤの人々であり、聖書の先生たちや立派な生き方をしていると思われていた人たち。そして新たに招かれた「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」は、当時の感覚からすると、神様の祝福から遠い人々、と見なされていた人たちです。
私たちが神に招かれたときにすることは、ただ一つです。他のものを後回しにして、神の招きに応えること。これだけです。私たちの中には一つもふさわしさなんてない。ただ神が招いてくださったということ、それだけがすべてです。そしてそれは、もともと招かれいた人も後から招かれた人も同じです。神は招いてくださっている。それに応えるか否か。それだけです。応えましょう、神に。私たちのところにまで来てくださったキリストに応えましょう。それだけが私たちのすべてです。

2025年5月22日木曜日

2025年5月22日の聖句

主よ、虐げられた人が辱められることのないようにしてください。(詩編74:21)
カナン人の女はイエスの前にひれ伏し「主よ、私をお助けください」と言った。イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。(マタイ15:25~28)

主イエスはおっしゃいます。「女よ、あなたの信仰は立派だ。」主イエスのお喜びが伝わってくる言葉です。
最初、主は「主よ、お助けください」と願うこの人を退けておられます。「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない。」この「子ども」はユダヤ人のこと、「小犬」は異邦人のことを意味しています。「犬」は私たちにとってはかわいくて愛すべき動物ですが、ユダヤ人にとってはそうではありません。律法によって汚れた動物に分類されます。「小犬」と誰かを呼ぶなら、2000年前のユダヤの文脈では「あなたは祝福の外」という意味になります。主イエスの苦しい気持ちが伝わってきます。主イエスは神の民であるユダヤ人のところへ行き、熱心に信仰の道を説きました。ところが全然耳を傾けてくれない。誰も悔い改めて神の御許に帰ろうとしない。「私にはしなければならないことがあるのだ、まず、失われているユダヤの子どもたちのところに行かなくちゃならないのだ」という、主の悲痛な言葉です。
ところがこの女のユーモアとも言える言葉が主イエスの苦しみを癒やしました。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」その通りです、私は小犬です。神の祝福の外にいる人間です。あなたの前に堂々と立つことはできません、何かをお願いできるような者でもありません。しかし、そんな小犬も食卓から落ちるパン屑を頂くではありませんか。そのパン屑をください。主イエスはこの信仰をお喜びになったのです。
私たちは堂々と神様に祈ることのできるような者ではありません。神様から遠く隔たった、祝福の遙かかなたにいるような者です。主よ、憐れんでください。あなたの食卓のパン屑にあずからせてください。私たちは神さまに対して自分の権利を主張するのではなく、私たちはただ憐れみを願うだけ。そこに私たちの信仰が始まります。

2025年5月21日水曜日

2025年5月21日の聖句

シオンよ、恐れるな
力を落としてはならない。
主はあなたがたのただ中におられ、
あなたに救いをもたらす勇者である。(ゼファニヤ3:16~17)
疑いを抱く人たちを憐れみなさい。(ユダ22)

どんなに恐るべき災いがあり、困難の中にあろうとも、神様が私たちに語りかけてくださいます。「シオンよ、恐れるな。力を落としてはならない。主はあなたがたのただ中におられ、あなたに救いをもたらす勇者である。」主ご自身が私たちの中にいてくださいます。主が私たちのための勇者となってくださって、私たちのために罪と悪と死の力と戦ってくださる。これを信じよ、と聖書は言います。
しかし、神様は憐れみ深いお方です。私たちの不信仰の罪を誰よりもよく知り、私たちを励ましてくださいます。「疑いを抱く人たちを憐れみなさい。」主は私たちにそうおっしゃいます。
この言葉は本当にすごい言葉だと思います。「疑いを抱く人」を前にしたときの私たちのありがちな反応は、二つだと思います。一方では、疑いを抱く人を裁いてしまう。そこには憐れみがありません。他方では「こんなことがあっては疑っても仕方ないよ」、と一見すると憐れみと同情をよせたかのような言葉を口にする。しかしそれは神様の憐れみを遠くに眺めているだけで、結局その人が疑いの中で神様から遠ざかることを「仕方がない」と見放すことになりかねません。
ところが聖書は言うのです。「疑いを抱く人たちを憐れみなさい。」憐れむというのは、裁くことでもなあなあにすることでもありません。隣人が疑いの中で悲しみや怒りや憎しみに沈み込んでいる。その場所に一緒に潜り込む。しかしどん底から神様を仰ぐ。これこそ陰府に降ったキリストが私たちのためにしてくださったことです。
疑いを抱く人の隣に行き、祈れないその人のために静かに祈りましょう。その人に代わって信じ続けましょう。押しつけるのではなく、しかし諦めるのでもなく、忍耐して信じ続けましょう。必ず、再び共にキリストの御顔を仰いで満ち足りる日が来る。その日を信じ続けましょう。

2025年5月20日火曜日

2025年5月20日の聖句

主は言われる。「私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。見よ、私はあなたを癒やす。」(列王記下20:5)
王の役人は「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。(ヨハネ4:49~51)

主イエスがカファルナウムで出会った王の役人。この人の息子が病気で死にかかっていました。主イエスのもとへ助けを求めに来た。主はこの役人に、信じることをお求めになりました。しるしを見たからではなく、何かの証拠が示されたからではなく、ただキリストの言葉を信じることをお求めになりました。この人は「帰りなさい。あなたの息子は生きている」という主イエスのお言葉を聞き、これを信じて家に帰りました。すると、主イエスがおっしゃったとおり、この子どもが生きていることを知ったのです。
主イエス・キリストは私たちのために救いの御言葉を語り続けてくださっています。助けてください、救ってくださいという私たちの祈りを聞き、憐れんで御言葉を語り続けてくださっています。この言葉を、私たちは信じましょう。キリストの言葉を、キリストが語ってくださったという事実のゆえに、私たちも信じましょう。
今日の旧約にこのように書かれています。「私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。見よ、私はあなたを癒やす。」神様は私たちの祈りを聞いてくださる方です。私たちの涙を憶えてくださる方です。この神の愛と憐れみを信頼し、キリストの言葉を信じて、私たちの新しい一日を始めていきたい、と願います。

2025年5月19日月曜日

2025年5月19日の聖句

私たちは何を行うべきか分かりませんが、私たちの目はあなたを見つめるのみです。(歴代誌下20:12)
イエスは七十二人の弟子たちに言われた。「どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」。(ルカ10:2,5)

主イエスが私たちを遣わしておられます。この世界に平和を告げるように、キリストが私たちを遣わしておられます。イエスは七十二人の弟子たちに言われた。「どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」。どんな家に入っても、どこに行っても、私たちは平和の言葉を託されている。平和をもたらすことをキリストに委ねられています。
私たちが出会う人は、誰もが私たちを歓迎してくれる人というわけではありません。厭な顔をされたり、厭な言葉を浴びせられたり、悲しい気持ちになることもあります。しかしキリストはどんな家でも、その家のための平和を宣言するようにおっしゃいました。私たちに委ねられているのは平和の言葉であって、呪いや悪い言葉ではない。争いや諍いを生む言葉ではない。
今日の旧約にはこのように書かれています。「私たちは何を行うべきか分かりませんが、私たちの目はあなたを見つめるのみです。」平和の言葉と言われても、そのようなことは現実的には無理だと私たちは簡単に考えてしまう。しかし、そんな私たちも、ただただ主イエスさまを見つめます。キリストが私に何をしてくださったのか、主が私をどのようにお取り扱いくださったのか。その事実が私たちの言葉を整え、私たちを生きるべき道を導いてくださいます。

2025年5月18日日曜日

2025年5月18日の聖句

今週の聖句:
新しい歌を主に歌え。
まことに主は奇しき業を成し遂げられた。(詩編98:1)

今日の聖句:
主は知っておられる、人の思いを
その空しいことを。(詩編94:11)
誰も自分を欺いてはなりません。あなたがたの誰かが自分はこの世で知恵ある者だと考えているなら、知恵ある者となるために愚かな者となりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。(1コリント3:18~19)

人の思いの空しいことを、主は知っておられる。御言葉はそのように語りかけます。そうです。人の思いは空しい。人は愚かです。一般的な「人」とか、どこかの誰かとか、そのようなことでは済まない。この私の思いの愚かさ、空しさが、私はとても悲しい。
しかし、それも主が知っておられる私の思いの空しさとは違うのだと思います。主は、もっともっと私のことを知っておられます。私自身よりも、もっと深く。主は私のことを全部知っておられ、隠されたところはなく、私がどんなに空しい思いの虜になっているのかも知り尽くしておられる。その上で、私を見捨てないでいてくださる。
神の知恵は、一人の人間になられたイエスとその十字架の死という弱さと愚かさの中に示されました。神の愚かさは人間の賢さよりも賢い。神の弱さは人間の強さよりも強い。だから、イエス・キリストという究極のかたちで現された神の知恵を、本当に心から信頼し、神により頼みたいと願います。主イエス・キリストの憐れみを求めます。

2025年5月17日土曜日

2025年5月17日の聖句

主の慈しみは、主を畏れる者にとこしえまであり、その義は契約を守る者の子らに及ぶ。(詩編103:17~18)
あなたは忍耐についての私の言葉を守った。だから、地上に住む人々を試すために全世界に迫り来る試練の時に、私もあなたを守ろう。(黙示録3:10)

今日の新約聖書はヨハネの黙示録ですが、今日私たちに与えられている箇所は、ヨハネが幻の内に目にし、また耳にした主イエスの言葉です。主イエスがおっしゃいます。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。」忍耐の話を主イエスはなさっている。
私は、正直に言ってあまり忍耐の価値を考えなくなっていると思います。大変な思いをしている人には簡単に「無理しなくて良いよ」と言ってしまいます。あまり考えもせずに「そんなに頑張らなくて良いよ」と言ったり、言わなくても心の中では思ったりしてしまいます。そして、それが優しさであるかのように思い込もうとしている。
ところが主イエスはそうおっしゃっていないようです。「あなたは忍耐についての私の言葉を守った。」主イエスは忍耐を褒めてくださいます。忍耐を重んじておられる。私たちが忍耐してキリストへの信仰を貫くことを、主イエスは喜んでくださいます。
キリストにあって忍耐する人には「地上に住む人々を試すために全世界に迫り来る試練の時に、私もあなたを守ろう」と言ってくださいます。忍耐する人は、何かが起こったときにただ厭なことがあるというのではなく、信仰の試練として同じ事柄を捉える。そうであるならば、必ずそこにはキリストの守りがあると信じることができる。なぜなら、今日の旧約の御言葉が語るとおり、「主の慈しみは、主を畏れる者にとこしえまであり、その義は契約を守る者の子らに及ぶ」からです。キリストの慈しみが私を支えてくださる。この約束が私たちの忍耐を生み出します。

2025年5月16日金曜日

2025年5月16日の聖句

ヤコブの家から御顔を隠されていても、主に望みをかける。(イザヤ8:17)
けれども彼らは神によって選ばれた民、イスラエルです。神の子らであるという特権は彼らのものです。神はその栄光を彼らに啓示されました。神は繰り返し彼らと契約を結ばれました。神は彼らに律法と、神をあがめるための犠牲の礼拝の秩序を与えました。神は彼らに来たるべき救いを約束されました。(ローマ9:4)

今日の旧約聖書の御言葉は、聖書協会共同訳が掲げられています。同じところをフランシスコ会訳ではこのように翻訳しています。「私は主を待ち望む。ヤコブの家からみ顔を隠しておられる方を。私は主に望みをかける。」こちらもとても良い翻訳だと思います。主がヤコブの家から御顔を隠しておられる。しかしそれでもなお主に望みをかけている。御顔を隠しておられる主に望みをかけている。
それは、神の約束があるからです。神が契約を結んでくださったからです。「神は繰り返し彼らと契約を結ばれました」と書いてあります。繰り返し、です。イスラエルの民が何度罪に罪を重ね、どうしようもなく、改善の兆しがなく、どんなに駄目であっても、神は彼らを見放されませんでした。「来たるべき救いがある」と約束してくださいました。
ですから、神の御顔が見えなくなるのは、いっときのこと。そう信じることができる。神は私たちをお見捨てにはならない。そう信じることが許されている。これは、私たちのことです。私たちは主イエス・キリストという神の究極の契約を見せていただきました。このお方に示された神の愛を私たちは知らされました。このお方にあって、私たちは神に望みをかけるのです。

2025年5月15日木曜日

2025年5月15日の聖句

神よ、砕かれ悔いる心を
あなたは侮りません。(詩編51:19)
(イエスの言葉)徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人の私を憐れんでください」。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人である。(ルカ18:13~14)

「義とされて家に帰った」というこの人は、徴税人でした。
聖書を読み慣れると、徴税人に対してとても好いイメージが湧いてくると思います。一所懸命に木に登ってイエス様を見ようとしたザアカイ。主イエスと一緒に食事をした徴税人の仲間たち。しかし、私たちが抱いている徴税人に対するイメージは、恐らく、2000年前にユダヤに生きていた人たちの抱いていた徴税人に対するイメージとはかなり違っていると思います。徴税人、それはそのまま「罪人」と同義の言葉でした。神様の約束によって支えられてきたユダヤの国と愛すべき同胞を裏切り、庶民の生活を食い物にして金を巻き上げ、嘘をつき、虎の威を借りる厭な狐。今の私たちのイメージで言えば、反社会勢力とか、匿名流動型犯罪集団とか、そういうものに近いと思います。
しかし、どんな悪人であっても、どんなにひどい罪人であっても、神には新しくすることがおできになります。神は、その人を聖徒とすることがおできになります。この徴税人は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』。」神は、この一人の罪人を憐れんでくださるお方です。人からどんなに「見込みなし」と思われても、皆が「どうしようもないクズ」と見なしていても、キリストはそのようにはご覧にならない。そうであるからこそ、私でさえも救われたのです。
「神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。」この言葉は、まことに真実なのです。

2025年5月14日水曜日

2025年5月14日の聖句

暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも、そこでも、あなたの手は私を導き、右の手は私を離さない。(詩編139:9~10)
パウロは言った。「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」(使徒27:23~24)

パウロはイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そのために彼は投獄され、鞭で打たれ、迫害されました。それでも止めませんでした。再び逮捕されたとき、彼は、自分がローマの市民権を持っていることを主張し、皇帝に上訴しました。遂にキリストに仕える伝道者が時の世界支配者と見なされていたローマ皇帝の前に出て、福音の道を語ることになったのです。驚くべきことです。
ところが、パウロを乗せた船は途中でひどい暴風に遭い、難破してしまいました。助かる見込みは全くなく、船はただただ漂うことしかできない。みんな絶望しました。そんな中で囚人パウロが同じ船に乗っていた人々に言ったのです。「私が仕え、礼拝している神からの天使が、昨夜私のそばに立って、こう言いました。『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」パウロは捕らえられていても、護送されているときにも、迫害され鞭で打たれるときにも、それでも神の手が自分を導き、神の右の手が自分を離さないことを知っていました。
どのようなときにも、どこにいても。主イエス・キリストの父である神は私たちを離すことがありません。神の手によって私たちは立つことができる。望みを抱くことができる。今日も、この神があなたと共におられます。

2025年5月13日火曜日

2025年5月13日の聖句

私はあなたの仰せを喜びます。
多くの戦利品を見つけた者のように。(詩編119:162)
天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。(マタイ13:44)

ある人が畑を耕しました。他人の畑です。そこを耕すようにと雇われていたのでしょう。地面の中に何かが埋まっていることに気付く。なんと土の中には宝があった。この人はその宝を隠しておいて、有り金全部をはたいてその畑を買おうとする。ところが手持ちのお金では足りなかった。それなら持ち物全部を売り払って金を作って、その畑を手に入れるに違いない。
面白い譬え話です。この人が畑を手に入れるために必死なのは、そこで見つけた宝が素晴らしいからです。どんなことをしてでも、他の物を全部手放してでも手に入れたい。そう思わせる宝を見つけたからです。
これは天の国のたとえです。主イエスは、天の国はあなたたちにとってそういうものであるはずだ、とおっしゃいます。他のすべてを手放してでもそれを得たいと思うほどの尊い価値がある。他では代替できない素晴らしい輝きがある。そんな宝、それがキリストがもたらしてくださった天の国です。「私はあなたの仰せを喜びます。多くの戦利品を見つけた者のように」と旧約の信仰者が言ったとおりです。
キリストのくださったものの輝き、その尊さに、もう一度私たちの目を向けましょう。キリストがご自分の命を差し出して私たちに与えられた宝です。主イエスの命が勝ち取った戦利品です。

2025年5月12日月曜日

2025年5月12日の聖句

心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされるーー主の仰せ。(エレミヤ29:13~14)
すると、十二年間も出血が止まらない女が近寄って来て、後ろからイエスの衣の裾に触れた。「この方の衣に触れさえすれば治していただける」と思ったからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」(マタイ9:20~22)

主イエス・キリストが言ってくださいます。「元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」この女の人は、12年間も病に苦しめられてきました。婦人病です。旧約の律法によって「汚れ」と分類される病気です。町の生活でも差別に晒されていたと思います。礼拝にも出席できませんでした。神様に対しても、人に対しても、本当に孤独だったと思います。しかし彼女は主イエスの衣に向かって手を伸ばしました。「この方の衣に触れさえすれば治していただける。」ただそれだけです。
主は言われます。「心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる。」この御言葉の通り、心を尽くして主を尋ね求める一人の女が主を見いだしました。「元気を出しなさい」という主イエスの御言葉を頂きました。「あなたの信仰があなたを治した」と告げてくださる主イエスの御言葉を聞きました。
あなたは、今心を尽くして主を尋ね求めていますか?主イエス・キリストに祈っていますか?この祈りを聞き、耳を傾けてくださることを信じて、心を尽くして主を求めましょう。主イエスさまの御言葉を聞くために。主イエスは律法のタブーさえも恐れずにあの女に応えてくださいました。同じお方があなたの祈りも聞いてくださるのです。

2025年5月11日日曜日

2025年5月11日の聖句

今週の聖句:
誰でもキリストにあるなら、新しくされた者、古きは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2コリント5:17)

今日の聖句:
あなたは盗んではならない。(出エジプト20:15)
盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。(エフェソ4::28)

今週の聖句として与えられている御言葉は、とても印象深いものです。「誰でもキリストにあるなら、新しくされた者、古きは過ぎ去り、新しいものが生じた。」聖書は「誰でも」と言っています。ということは、この私でさえも、と言ってよいことになります。キリストにあるなら、もうすっかり新しくなってしまっている。古いものではなくなっている。新しいものとして神が生み出してくださっている。キリストにある新しい出来事を、私のこと、私たちのこととして聖書は語りだします。
新しいもの。それは今日の聖句からすると、盗まずに生きるものになる、ということであると思います。人から盗むのではなく、自分で働く。明らかに刑法で裁かれる窃盗罪よりももっと広い視野で事柄を捉えています。それは「盗むな」ということからさらに突っ込んで、「必要としている人に分け与えることができるようになりなさい」と言っていることからも明らかです。盗まなければいい、という話ではない。必要を覚えている隣人に与えることこそ、盗まずに生きる生活、新しい人としての生活だ、と言います。
人の労力や善意、やさしさ・・・。私たちは、気付かぬうちにいろいろな事につけ込んで人から盗みます。しかしそれを主イエスはお喜びにはならない。相手の自由を重んじ、相手の必要のために与える人になることを主は願っておられる。「相手の必要」です。自分があげたいものではない。主が私たちを招く新しい生き方に、私たちも足を踏み入れてみませんか?

2025年5月10日土曜日

2025年5月10日の聖句

私は近くにいる神なのかー主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。(エレミヤ23:23)
三時にイエスは大声で叫ばれた「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)

今日の御言葉は、私たちの信仰的な甘えを厳しく裁きます。「私は近くにいる神なのかー主の仰せ。遠くにいる神ではないのか。」私たちは本当に簡単に思ってしまいます。神様はいつでも側にいてくださる優しい神様、と。確かに、神様はお優しい方でしょう。愛に満ちたお方でしょう。しかしそれは聖なる愛です。神が愛に富んでおられるということと、私たちがなれなれしくするということとは別問題です。
遠くにいる神。私は、本当に簡単に「神はいつも一緒にいてくださる」と言ってしまいます。そこには畏れがありません。神を神として、聖なるお方として畏れ敬い、神様らしく接するということをすぐに忘れてしまいます。それは、とても罪深いことです。
主イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。罪人が立つべき遠さです。神の子であるこの方ほど神から遠く離れたところに降って行かれたお方は他にはいません。キリストこそ、神から最も遠いところにおられるお方です。陰府のどん底です。だから、神から最も遠いところで、私たちは神と出会う。私に代わって罪の裁きをお受けになった方を通して、私たちは神と出会う。
神を畏れ、このお方の前にへりくだってあがめましょう。神を礼拝し、神をあがめる幸いに立ち帰りましょう。ここに私たちの生きる道がある。私たちはそのことを素直に信じてよいのです。

2025年5月9日金曜日

2025年5月9日の聖句

あなたの同胞は、「主の道は公正ではない」と言っている。しかし彼らの道こそ公正ではない。(エゼキエル33:17)
神に不正があるのか。決してそうではない。(ローマ9:14)

どこに基準を置くかによって何が不正に見えるのかが変わります。私たちの側に基準を据えれば、神のなさることが不正に見える。神はどうしてこんなにひどいことをするのか、と・・・。私たちはどうしても自分の感覚を物差しにして神様を裁いてしまいます。「主の道は公正ではない。」
そんな私たちにとって、「しかし彼らの道こそ公正ではない」という神さまの御言葉は、天動説が地動説にひっくり返ってしまうほどの大逆転です。公正ではないのは神の道ではなく、私の道の方。「私」という人間が曲がった物差しなのであって、公正を図る基準になり得ていなかった・・・。
神様の正しさの物差しは、主イエス・キリストとして私たちに示されました。キリストに示された神の愛にこそ、神様の公正さがあますところなく現れています。私たちの目には不条理に映ることや、意味の分からない出来事もたくさん起こります。分からないことは分からないと認めていいのだと思います。無理に分かった振りをする必要もありません。しかし、それでも、キリストにあってすべてのことは永遠の祝福へと向かっていると私たちには信じることができる。キリストに示された神の愛を、神ご自身が裏切ることは絶対にない。私はそのことを確信しています。私たちの目には今のことしか見えませんが、神様の永遠のまなざしはすべてのことを見ておられる。永遠の愛であるお方に、私たちの思う「公正」を明け渡し、神のなさることを信じてみませんか?

2025年5月8日木曜日

2025年5月8日の聖句

主はあなたがたに契約を告げ、あなたがたに行うよう命じられた。それが十戒である。主はその言葉を二枚の石の板に記された。(申命記4:13)
(イエスの言葉)私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。(マタイ5:17)

ナチス・ドイツの時代に生きたキリスト教会は、その殆どが「ドイツ的キリスト者」と嘯いてナチの支配に屈してしまいました。しかしほんのごく少数の教会がナチに屈せずに信仰の道を守り通した。その教会がバルメン宣言と呼ばれる信仰告白を残しています。その第二条項にこのように告白されています。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しを告げる神の慰めである。それと同じように、同じ真剣さをもって、イエス・キリストは、またわれわれの生活のすべてに向けられる、神の力ある要求である。」
キリストという罪の赦しの福音は、同時に私たちを神の国の民として生かす神からの要求でもある。私たちは神に従い、神のものとしてこの世界で生きていきます。新しい生き方をキリストにあって私たちは求められている。
今日の聖書の御言葉を読んで、バルメン宣言のこの告白を思い起こしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」キリストは私たちに神の律法に従って生きることを求めておられます。私たちは、キリストを信じて新しくなります。新しい私になる。それは「キリストの弟子として生きる私」です。
バルメン宣言では先ほどの言葉に続いてこのように告白します。「イエス・キリストを通じて、われわれに起こるのは。この世が神を無視しつつわれわれに強いる束縛から解き放たれ、神が造られたものに対する自由で、感謝に満ちた奉仕へと向かわせて頂く喜びである。」キリストに従う道は、罪の束縛から解放される自由な喜びの生活。私たちもこの自由な喜びに生かされるために、律法という指針を頂いています。

2025年5月7日水曜日

2025年5月6日の聖句

主はヨブに答えられた。「私が地の基を据え、海に向かって告げたとき、あなたはどこにいたのか。『ここまで来てもよいが、超えてはならない。あなたの高ぶる波はここで止められる』」と。(ヨブ記38:4,11)
イエスは起き上がって風と湖とをお叱りになった。人々は驚いて、「一体、この方はどういう人なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。(マタイ8:26~27)

ガリラヤ湖を進む小さな舟。風と波とに襲われ、どうすることもできません。私たちキリスト教会の姿そのものです。私たちに襲いかかるいろいろな困難や苦しみを前に、私たちにできることはただ一つです。キリストはこの風や湖よりも大いなるお方、権威あるお方という事実を信じることです。「一体、この方はどういう人なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。
弟子たちは主イエスを信じ切ることができませんでした。これは私たちの物語です。不信仰に心を奪われてしまう私たち。主イエスよりもこの世に吹く風や波の方が強いと信じ込んでしまう私たち。主イエスはそういう私たちの不信仰を吹き飛ばすようにして御言葉を語ります。「イエスは起き上がって風と湖とをお叱りになった!」
神様は、この世界をお造りになったお方です。私たちの思いを遙かに超えたところで神ご自身が力を振るっておられる。地の基を据え、海の範囲を決めることのできるお方が私たちを御心に留めてくださって、私たちの髪の毛の一本までも数えていてくださいます。このお方の力によって今日の私も生かされているという事実を今信じましょう。

2025年5月6日火曜日

2025年5月6日の聖句

遠くにいる者よ、私のなしたことを聞け。
近くにいる者よ、私の力を聞け。(イザヤ33:13)
イエスはマルタに言った。「もし信じるなら、神の栄光を見られると言ったではないか」と言われた。(ヨハネ11:40)

「もし信じるなら」と主イエスはマルタに語りかけます。
この時マルタは兄弟ラザロを亡くしたばかりでした。悲しみに暮れて、主イエスに泣きすがって「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。愛する弟を亡くしたマルタに、主イエスはおっしゃいます。「もし信じるなら」と。
主イエスが私たちに今求めているのは、信じることです。主イエスを信じる。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は、決してし宇事はない。このことを信じるか」と主イエスは私たちに問いかけます。あなたは、主イエスを信じますか?
これまで、無数のキリスト者たちがこのイエスの言葉を信じ、そして地上の命を終えていきました。この御言葉の中で家族を看取ってきました。イエスこそ復活であり、命であるという福音の知らせの中で、永遠の命を信じて、命を神の御手に委ねたのです。あなたは、イエスを信じますか?
神様はおっしゃいます。「私のなしたことを聞け」、「私の力を聞け」。主なる神様の御業に耳を傾け、キリストを十字架に上げた神の御業を信じましょう。キリストこそ私たちの命、私たちの救いです。

2025年5月5日月曜日

2025年5月5日の聖句

主はとこしえに拒まれることはない。
たとえ苦しみを与えても、豊かな慈しみによって憐れんでくださる。(哀歌3:31~32)
ザカリアは書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。(ルカ1:63~64)

主の慈しみと憐れみこそ、私たちの救いです。「主はとこしえに拒まれることはない。たとえ苦しみを与えても、豊かな慈しみによって憐れんでくださる。」例え私たちに苦しみが襲ってくるときにも、神様はとこしえに私たちを拒むことはなさいません。私たちの苦しみは一時のものに過ぎない。私たちは主イエスさまにあってそう信じます。
今日の新約の御言葉は祭司ザカリアの話です。洗礼者ヨハネの父となったザカリアですが、妻の懐妊を告げる天使の言葉を信じることができませんでした。彼はそのために息子が生まれるまでの間、口がきけなくなりました。
やがて息子が生まれたとき、ザカリアは息子を天使に言われたとおりにヨハネと名付けました。するとたちまちものが言えるようになったザカリアは、最初に何を話し始めたのかと言えば、「神をほめたたえた」というのです。何ヶ月も口をきけなくなり、そこから解放されたザカリアの最初の言葉は、神をたたえる言葉でした。
「主はとこしえに拒まれることはない。たとえ苦しみを与えても、豊かな慈しみによって憐れんでくださる。」主の慈しみと憐れみをたたえて、私たちも神を賛美します。私たちは神を賛美することで、今この時を生きていきます。

2025年5月4日日曜日

2025年5月4日の聖句

今週の聖句:
私は良い羊飼いである。羊は私の声を聞き分け、従う。(ヨハネ10:11a,27~28a)

今日の聖句:
主は私の力、私の賛美、私の救いとなられた。(出エジプト記15:2)
(マリアの言葉)主は御腕をもって力を振るい、思い上がる者を追い散らしました。(ルカ1:51)

主の御腕が振るわれるとき、思い上がる者が追い散らされる。母マリアの賛歌です。主イエスが胎に宿ったとき、マリアはこの言葉を口に上らせました。
「主は御腕をもって力を振るい」と言いますが、実際に起きている出来事は小さな赤ちゃんが一人の女性に宿っている、ということです。それがどんなに奇跡的な仕方であり、マリアにとって驚くべきことであったとしても、周りから見れば平凡な妊娠にしか見えません。多少スキャンダラスに見えるかもしれませんが、噂はいつか忘れられます。そのお方がやがて生まれ、生き、なさったことはどうでしょう。貧しい人や罪人と呼ばれている人の友になられました。病気の人を癒やし、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出しました。一人ひとりにとっては大きな事ですが、それ自体は世界史に残るような大事件には見えません。最後には、たくさんの人から罵声を浴びせられながら十字架の上で磔にされました。一人の犯罪人と呼ばれました。
「主は御腕をもって力を振るい」というその力は、私たちの目から見ると非力で、頼りなく、小さなものです。しかしここに確かに神の御力が働いている。このお方は復活し、天に上げられ、神の右におられます。十字架に掛けられた方こそまことの神の子。その事実は私たちの思い上がりを打ち砕き、傲慢な者を追い散らします。
キリストの前にへりくだりましょう。小さくなられた神のこの前に身を低くしましょう。この方こそ私たちの力、私たちの賛美、私たちの救いです。

2025年5月3日土曜日

2025年5月3日の聖句

主よ、貪欲ではなく、あなたの証しに私の心を傾けさせてください。(詩編119:36)
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教える際には、高潔で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、私たちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。(テトス2:7~8)

「あなたの証し」。すなわち、神様の御言葉のことでしょう。聖書が語りかける御言葉、キリストの言葉、福音のことです。私たちはキリストの言葉にこそ心を傾けて生きていきたいと願っています。キリストの言葉に従い、福音の言葉に生きていきたいと願っています。ところが、それとは別のものが心を誘い、私たちの思いを奪い取っています。今日の旧約の御言葉は、その正体を「貪欲」と指摘しています。貪欲が私の心を盗み取って、私が主の証しに傾いて生きることを邪魔している。この指摘は鋭い、と思います。
貪欲は本当に恐ろしい力を持っています。私たちを呑み込んでしまう。現代社会のシステムは、私たちの貪欲をくすぐります。貪欲が社会を動かしています。消費や所有が社会の原動力になっている。消費できることが豊かさとされ、他人の所有を羨むことで社会が動いていきます。ところが、聖書にしてみれば、それは貪欲に他ならない。そして、偶像礼拝の正体は貪欲です。私たちの欲望がまるで神のような顔をしている。
今日の新約の御言葉は、健全な言葉と良い行いを求めます。キリストの言葉に従って生きることを私たちに求める。キリストは、私たちのためにすべてを捨ててくださった方です。神の子でいらっしゃる方が降ってきて、枕するところもなく生きてくださいました。私たちは誰に従うのでしょうか。自分の欲望なのか。それとも、私たちのためにすべてを手放した神の子なのか。私たちの健全さは、キリストのもとにあります。

2025年5月2日金曜日

2025年5月2日の聖句

(主の言葉)(私は)あなたを見放すことなく、あなたを見捨てることもない。(ヨシュア1:5)
すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。(マタイ3:16)

今日の旧約の御言葉は、ヨシュアに語りかけた神さまの御言葉です。ヨシュアはモーセのあとを引き継いで、エジプトを脱出して荒れ野の旅をした民のリーダーになりました。これからいよいよその地へ入っていく、という時です。なんと重い責任でしょう。なんと大変な務めでしょう。人間的に考えれば、とても耐えられるものではありません。そんなヨシュアを支えたのは、「あなたを見放すことなく、あなたを見捨てることもない」と言ってくださる主なる神様だけです。神が共にいてくださる。その事実がヨシュアを支えたのです。
主イエスご自身が、それによって歩まれたお方です。「すると、天が開け、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。」神の霊がご自分の上に降って来られた。神の霊が共にいてくださり、主イエスをいつも支えておられた。その事実によって、主イエスは歩んでおられます。父と聖霊とがいつも共におられる。その事実が主イエスをその使命に生かしておられたのです。
増して私たちは、この事実以外の一体何を寄る辺とすればよいのでしょうか。そして、私たちもこの神の力強い約束の下に生きることが許されています。主イエス・キリストの恵みと祝福が、聖霊によって今日もあなたと共にありますように。

2025年5月1日木曜日

2025年5月1日の聖句

5月の聖句:
主よ、私はあなたを呼び求めます。火が荒れ野の牧草地を焼き尽くし、炎が野の木々をすべてなめ尽くしたのです。野の獣でさえあなたをあえぎ求めます。川床の水は涸れてしまったからです。(ヨエル1:19~20)

今日の聖句:
その御業はすべて真実であり、その道は正しく、高ぶって歩む者は低くされる。(ダニエル4:34)
イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マルコ15:39)

5月の聖句として与えられている御言葉は、非常に厳しい神の裁きを語る箇所です。火に牧草地が焼き尽くされ、炎に木々がなめ尽くされてしまう。戦争による災禍のことでしょうか。しかし単なる災いではなく、私たち人間の罪が招く災いです。
今日の新約聖書の御言葉は、主イエスが十字架の上で死なれたお姿を見た百人隊長が「まことに、この人は神の子だった」と口にしたところです。預言者ヨエルが目の当たりにした裁きよりもずっと深刻な裁きをお受けになった主イエス・キリスト。十字架に掛けられ、神に棄てられて死なれた。まさにそのお姿を目の当たりにした異邦人の隊長が「この人は神の子」と言わないわけにはいかなかったのです。
私たちの信じる神の子は、神に裁かれたお方です。私に代わって、私のために裁かれたお方。神の御業は真実です。私たちは十字架につけられたキリストが私に変わって裁かれたことで救われた。その事実を畏れをもって受け止め、へりくだって祈りの道を歩みたい、と願います。

2025年11月30日の聖句

今週の聖句: 見よ、あなたの王があなたに到来する。義なる方にして救う方が。(ゼカリヤ9:9b) 今日の聖句: もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからであるーー主の仰せ。(エレミヤ31:34) ...